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夫が失踪して二週間経つ。
今までも家を空けることはよくあったので、失踪と断言するのは尚早だ。
ただ、クロゼットから主だった衣類が消えていること、通帳印鑑まで持ち出されたことが不安を助長する。
そんな時、きちんとした身なりの男性が訪ねてきた。
すらっと背の高い、鼻筋の通った美丈夫だ。
一目で解る仕立てのよいスーツを着ていた。
その美丈夫が、私に会いたい人が寄越した迎えだと云う。
「私に?
あの……」
「車を待たせていますから、どうぞ」
断りにくい雰囲気を生まれて初めて味わう。
きちんとした格好をしなくてはと、就職活動したときの黒いスーツを引っ張り出す。
急いで着るとスカートが緩くなっていてくるくる回った。
車、というのはタクシーだった。
なんとなく黒塗りの高級車を連想していた私は力が抜けた。
夫とは学生結婚だ。
若気の至りという、熱に浮かされた感じで盛り上がったまま入籍してしまった。
私は看護師になれたからいいけれど、彼の就職が一向に決まらず、前途多難の船出だった。
一年二年は夢中になって過ぎていったけれど、私の稼ぎだけで二人の生活を維持するのは難しく、彼も養われるだけなのは男の沽券に関わるらしく。
彼は段々荒れていった。
「着きました、どうぞ」
時代劇に出てきそうな日本家屋、門構え。
身体に緊張が走る。
……なんで私?
長い廊下は庭に面していて、障子硝子を開け放てば縁側になる。
池もある日本庭園が一望できた。
通された客間はい草の香りがした。
「羽生田とおるさんですね」
体格のいい頭の禿げ上がった和服の男が入ってきた。
高そうな腕時計をしている。
細い一重の目は、笑っているような睨んでいるような、どちらにも感じられた。
値踏みされているような視線に、身がすくむ。
男は私の正面に胡座をかいた。
私の名前を知っている。
ますます不安になる。
男は津田山正胤と名乗った。
「そんな警戒しないで。
あんたの旦那さん、良嗣さんね」
「?はい」
「結構な借財があるんですよ」
借財?
借金?
でもどうして。
「返済期限がちょうど三週間前。
で、あんた、奥さんが担保だったんですわ」
津田山が取り出した借用書には、確かに、妻のとおるを担保に、と記載されていた。
額面は私の年収を越えていた。
何に使ったのか恐ろしくて訊けない。
訊く相手もいないが。
条件をつけた債権者もどうかと思うが、サインした夫もいかれている。
確かに財産らしい財産はないし、頼れる実家もない。
だが、逃げるほど追い詰められる前に、なぜ私に相談してくれなかったのか、情けなくなる。
夫婦なのに。
金銭借用契約の相手の名前は津田山ではなかった。
私が疑問を感じて顔を上げると、津田山は借用書を破ろうとした。
私の目が見開かれる。
津田山は私の反応を面白そうに眺めた。
「これね、私が払ってきましたので、無効です」
「無効……?」
「無効、ではないか。
要するに肩代わりしたんですな、この借金を。
なので私が債権者ってことで」
「はあ」
ということは、今後この人に返済していかなくてはならないのか。
返済方法を相談しなくては。
夫は、この事実を知っているのだろうか。
「あの、夫に電話をしてもよろしいでしょうか。
このことを知らせなくては」
「構いませんが、繋がりますか?」
繋がらなかった。
携帯電話を解約したのか充電が切れたのか。
これでは今後のことを相談することもできない。
「で、今後の返済方法なんですが」
津田山が焦る私に言葉を紡ぐ。
私ひとりで決めるには勇気が要った。
だが、借金を放置できない。
私は居住まいを正した。
「何年かかるかわかりませんが、私の収入から返済していきたいと思います。
もうご存じかもしれませんが、私は隣町の病院に勤務していますので」
男は瞬きをした。
糸のような目なのに威圧感がある。
私は目を反らすまいと必死だ。
こんな邸宅に住んでいるのだ、経験値が違う。
「では、こうしましょう。
あなたが仕事を続けても構いませんが、こちらに住み込んでいただきたい」
「よ、夜逃げなんてしません」
「そうではなく。
こちらに住み込んで、私の世話をしてほしいのですよ。
私の指示命令には必ず従う。
その給金を返済と考えましょう」
「世話を……」
世話。
世話ってなんだろ。
「あ、家政婦ってことでしょうか」
津田山は目を丸くした。
細目でも驚くと丸くなるのか、と感心した。
それから楽しそうに、
「そうですな、家政婦、そんなようなもんですな」
と云った。
私を迎えに来た人が、紙とペンを持ってきた。
私の給料から月々一定の金額の返済と、津田山の世話をすることで出来高分での上乗せと記載されている。
「ええと、掃除と洗濯とお食事……」
私は思い付くまま指を折る。
津田山は「私の頼みもね」と言葉を添える。
「はい」
タバコ買ってこいとかそんなんかな。
そんなわけないか。
本業に影響がない範囲で、とお願いすると受け入れてくれた。
「では、今お住まいの部屋は引き払ってください。
鷲尾」
「は」
「手続きはこれに任せなさい」
私を迎えに来た人は鷲尾と名乗った。
私は困った。
住まいを引き払っては、夫が戻った時に困るだろう。
「私の方で人をやりましょう。
なに、すぐに見つかりますよ」
津田山は請け負った。
却って申し訳ない気がした。
池で鯉がぱしゃんと跳ねた。
今までも家を空けることはよくあったので、失踪と断言するのは尚早だ。
ただ、クロゼットから主だった衣類が消えていること、通帳印鑑まで持ち出されたことが不安を助長する。
そんな時、きちんとした身なりの男性が訪ねてきた。
すらっと背の高い、鼻筋の通った美丈夫だ。
一目で解る仕立てのよいスーツを着ていた。
その美丈夫が、私に会いたい人が寄越した迎えだと云う。
「私に?
あの……」
「車を待たせていますから、どうぞ」
断りにくい雰囲気を生まれて初めて味わう。
きちんとした格好をしなくてはと、就職活動したときの黒いスーツを引っ張り出す。
急いで着るとスカートが緩くなっていてくるくる回った。
車、というのはタクシーだった。
なんとなく黒塗りの高級車を連想していた私は力が抜けた。
夫とは学生結婚だ。
若気の至りという、熱に浮かされた感じで盛り上がったまま入籍してしまった。
私は看護師になれたからいいけれど、彼の就職が一向に決まらず、前途多難の船出だった。
一年二年は夢中になって過ぎていったけれど、私の稼ぎだけで二人の生活を維持するのは難しく、彼も養われるだけなのは男の沽券に関わるらしく。
彼は段々荒れていった。
「着きました、どうぞ」
時代劇に出てきそうな日本家屋、門構え。
身体に緊張が走る。
……なんで私?
長い廊下は庭に面していて、障子硝子を開け放てば縁側になる。
池もある日本庭園が一望できた。
通された客間はい草の香りがした。
「羽生田とおるさんですね」
体格のいい頭の禿げ上がった和服の男が入ってきた。
高そうな腕時計をしている。
細い一重の目は、笑っているような睨んでいるような、どちらにも感じられた。
値踏みされているような視線に、身がすくむ。
男は私の正面に胡座をかいた。
私の名前を知っている。
ますます不安になる。
男は津田山正胤と名乗った。
「そんな警戒しないで。
あんたの旦那さん、良嗣さんね」
「?はい」
「結構な借財があるんですよ」
借財?
借金?
でもどうして。
「返済期限がちょうど三週間前。
で、あんた、奥さんが担保だったんですわ」
津田山が取り出した借用書には、確かに、妻のとおるを担保に、と記載されていた。
額面は私の年収を越えていた。
何に使ったのか恐ろしくて訊けない。
訊く相手もいないが。
条件をつけた債権者もどうかと思うが、サインした夫もいかれている。
確かに財産らしい財産はないし、頼れる実家もない。
だが、逃げるほど追い詰められる前に、なぜ私に相談してくれなかったのか、情けなくなる。
夫婦なのに。
金銭借用契約の相手の名前は津田山ではなかった。
私が疑問を感じて顔を上げると、津田山は借用書を破ろうとした。
私の目が見開かれる。
津田山は私の反応を面白そうに眺めた。
「これね、私が払ってきましたので、無効です」
「無効……?」
「無効、ではないか。
要するに肩代わりしたんですな、この借金を。
なので私が債権者ってことで」
「はあ」
ということは、今後この人に返済していかなくてはならないのか。
返済方法を相談しなくては。
夫は、この事実を知っているのだろうか。
「あの、夫に電話をしてもよろしいでしょうか。
このことを知らせなくては」
「構いませんが、繋がりますか?」
繋がらなかった。
携帯電話を解約したのか充電が切れたのか。
これでは今後のことを相談することもできない。
「で、今後の返済方法なんですが」
津田山が焦る私に言葉を紡ぐ。
私ひとりで決めるには勇気が要った。
だが、借金を放置できない。
私は居住まいを正した。
「何年かかるかわかりませんが、私の収入から返済していきたいと思います。
もうご存じかもしれませんが、私は隣町の病院に勤務していますので」
男は瞬きをした。
糸のような目なのに威圧感がある。
私は目を反らすまいと必死だ。
こんな邸宅に住んでいるのだ、経験値が違う。
「では、こうしましょう。
あなたが仕事を続けても構いませんが、こちらに住み込んでいただきたい」
「よ、夜逃げなんてしません」
「そうではなく。
こちらに住み込んで、私の世話をしてほしいのですよ。
私の指示命令には必ず従う。
その給金を返済と考えましょう」
「世話を……」
世話。
世話ってなんだろ。
「あ、家政婦ってことでしょうか」
津田山は目を丸くした。
細目でも驚くと丸くなるのか、と感心した。
それから楽しそうに、
「そうですな、家政婦、そんなようなもんですな」
と云った。
私を迎えに来た人が、紙とペンを持ってきた。
私の給料から月々一定の金額の返済と、津田山の世話をすることで出来高分での上乗せと記載されている。
「ええと、掃除と洗濯とお食事……」
私は思い付くまま指を折る。
津田山は「私の頼みもね」と言葉を添える。
「はい」
タバコ買ってこいとかそんなんかな。
そんなわけないか。
本業に影響がない範囲で、とお願いすると受け入れてくれた。
「では、今お住まいの部屋は引き払ってください。
鷲尾」
「は」
「手続きはこれに任せなさい」
私を迎えに来た人は鷲尾と名乗った。
私は困った。
住まいを引き払っては、夫が戻った時に困るだろう。
「私の方で人をやりましょう。
なに、すぐに見つかりますよ」
津田山は請け負った。
却って申し訳ない気がした。
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