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53.戴冠式

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「なんでドクターはいないんだよお!?」

 無事に恐怖のヴェルナー邸から救出されたAは、ヴォルテールのフロアで大泣きしていた。監禁生活の疲れや、緊張感、安心感で何もかもがいっぱいいっぱいだった。

 随分と長いこと監禁されていたような気がしていたが、意外にも四日ほどしか経っていなかった。
 その上、負傷中のNや、Oですら救出劇に加わったというのに、シュゼーだけが来ていなかったという事実がAを打ちのめした。
 普通こういうドラマティックな展開では、恋人たちが互いを抱きすくめてハッピーエンドで幕が下りるものではないのか。

 おかげで、絶対に冷やかしてくるだろうから言わないでいた、恋人の正体がバレてしまった。
 ヴァイオレットとロベリアは、ヴィクトルにカクテルを作らせながら「あらあら」「まあまあ」と、楽しそうにカウンターバーから高望みの見物を決め込んでいる。

「今、一等区から向かってるそうですから、泣かないで下さいよ」
「そうだよ。一番の汚れ役を買って出てくれたんだから」

 アルミ製の松葉杖をついたクレハドールとセラフィムが両側からAを宥めてくる。足元にはOがお座りをし、心配そうに鼻をきゅんきゅん言わせている。つくづく空気の読める犬だ。

 混乱を極めたAにはボンヤリとした概要しか頭に浸透しなかった情報だが、シュゼーは水晶の会のえらい人からヴェルナーの住処を教えて貰う代わりに、今まで断っていた依頼を承諾したのだそうだ。
 ヴァイオレットとロベリアは、曰く「組合費分は仕事をするわよ」とのこと。もともと娼婦が性質の悪い男に拉致されることは、たまにあるのだ。

 結局、ヴェルナーは第三者の手に引き渡されることが決まった。ヴェルナーは代々の金持ちではなく、商才で成り上がったタイプなので、彼が居なくなるのもそれはそれで問題があるらしい。

 Aは目元が赤く腫れあがるまでこすり上げた。

 フロアのソファからは、キャバレー・ヴォルテールの全てが見渡せた。
 ヴィクトルはバーカウンターで洗い物をしているし、セラフィムはスツールに代わる奴隷一号に何やら指示を出している。

 EとNは服の下は包帯だらけのくせに、振り上げた拳の振り落とすところがないとばかりに不満顔だ。
 レスターはの後を追いかけ二階へ登っていくし、クレハドールは脚に怪我をしているくせに、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりと、ミツバチより忙しない。

 ……帰ってこれたのだ、という実感がじわじわと沁みてきた。
 止まりかけていた涙が、またしても次から次へと溢れてくる。自分でも呆れるくらい限りがない。

 恐かったのだ。すごく恐かった。
 人の腕を斬り落とすなんて、想像しただけで足が震える。
 しかしあの瞬間にヴァイオレットとロベリアが来なければ、確実に肉にノコギリを押し当てて引いていた。
 ヴェルナーの狂気に引きずり込まれるように、というよりはむしろ、Aの精神は凪いだ湖面のように奇妙に澄み渡っていたのだ。

「こっちへおいで」

 よく通る声が、フロア中に響いた。
 視界を遮る涙を拭って声の方へ向き直ると、踊り場に立派な椅子が置いてあった。はその斜め後ろに立っている。
 ほとんど黒の木材で肘掛けに獅子の刻印があって、長い背凭れは座った時に頭上に光背が輝いて見えるようなデザイン。一度も使われることのなかったプレイルームに置いてあったものだ。
 は真っ直ぐにAに視線を向けている。

 ぱちぱちと瞬きをして呆けるAに焦れたのか、レスターが足早に降りてきて腕を引っ張って立ち上がらせ、階段の方へ向けて背を押した。
 Aは戸惑い、何度も後ろを振り返りながら階段を登った。

 全員がさっきまで好き勝手に喋っていたくせに、いつの間にかフロアは静まり返っている。
 踊り場まで登り切ると、彼はそっとAに耳打ちした。

「君が片腕を失くしていたら、私は魔術師になり損ねていた」
「……え、」

 Aは目を丸くして彼を見つめた。
 これまで記憶に留めておくことが出来なかった彼の菫色の瞳を、初めてAは認識できた。

 切れ長の瞳がやんわりと楽しそうに和む。まるで長いこと微笑むことを忘れていたかのような唇の端が、少しだけ固さをもって持ち上がった。

「ヴェルナーが言っていたよ。最後の瞬間、君は女神のように微笑んでいた、と。
 それから融資の申し出もだ。君の勝ちだな」

 あのイカれた男が?
 驚くAを落ち着かせるように、彼が両肩に手を掛ける。

「今の君は誰よりも優しい支配者だ。これからは君に相応しい名前を名乗りなさい。
 アーサー・・・・

 魔術師。アーサー。
 Nの本棚の中でも珍しく挿絵の入った本で、Aにも馴染みのある名前だ。

 頬が熱くなる。立派過ぎる名前は、似合わないと指を指されて笑われてしまいそうでイヤだった。ずっとそう思って商品名に甘んじてきた。
 本当にこの名前を名乗って良いのだろうか。

 Aは階下を振り返った。フロアの隅から隅を注意深く見回した。
 誰も、誰一人として笑っていない。
 いつもAを「子ネズミちゃん」としか呼ばない、ヴァイオレットとロベリアすら。
 教会のお祈りの前のように、厳かな雰囲気が漂っている。

 いつの間にか、カウンターの端の席にシュゼーが座っていた。脱いだ白衣を小脇に抱え、いかにも重労働を終えてきたばかりという風情だ。シュゼーは頬杖を付き、見守るようにAを、いや、アーサーを見ている。

 アーサーは導かれるようにして椅子に腰を下ろした。座り心地などまるで分らない。
 内心ではまだビクビクしていたが、ヴェルナーに指輪を嵌めてやったことを考えれば容易いもの、と己を鼓舞する。……それにきっと、誰かが笑ったとしても、他でもないが付けてくれた名前を決して手放すまいと誓った。

 俯かず、堂々と階下を見据えるアーサーを見て、は階下へと身体の向きを変えた。

「ロワッシィですら手を焼いていたヴェルナーを、Usualのアーサーは巧く手懐けた。調教師として彼は私たちより格上のドミナントだ。
 故に、」

 肘掛けに乗せた手に、ピリっと緊張の電流が走った。

「レスター、セラフィム、ヴィクトル、クレハドール。
 この瞬間からアーサーに従うように。当然この私も。
 いいね?」

 アーサーは身を固くして反応を待った。
 フロアはやはり、しん、と静まり返っている。
 クレハドールあたりが不満の声を上げるだろうと思っていたのに、それすら無い。
 信じがたいような気持ちで、斜め後ろに立つを見やると、彼は微かに頷いた。

「ご主人様、最初のオーダーをお申し付けください」

 きっと彼にこの言葉を言わせたのは、自分が初めてだろう。彼の声はいつも確信と自信に溢れていた。なのに、今のは明らかに唇に馴染んでいなかった。
 本当に自分がこの人の主人になるのだ。

 その事実がプレッシャーとなって襲い掛かってきた。だが、そこには確かに誇らしさもあった。ようやく自分はなりたい自分に成るための一歩を踏み出したのだ、という実感を、アーサーは噛み締める。
 アーサーは椅子から立ち上がり、階下を見下ろした。

「…………、」

 何かを言おう口を開いて、迷った。
 当然だ。
 専用の椅子が決まったくらいで、生まれ育ちがまったく改竄される筈がないし、いきなりのように振る舞えるわけがないのだ。

 アーサーは顔を緩ませる。
 しょうがないので、言い慣れたあの言葉を宣言した。

「それじゃ、店を開けようか」
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