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50.捕らわれの姫君(2)

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 レスターはメモを見ながら、そこに記されている商品を棚から探し出した。人間でも食べられるというのが売りのペットフードは、最近のOのお気に入りらしい。

「これを」
「老犬用にした方が良いんじゃない?」

 犬のシルエットが描かれたパッケージを指さすと、荷物持ちについてきたヴィクトルが口を挟む。
 ふたりはOの身の回りのものを揃えるために、行きつけの店に来ていた。ペットも連れて入ることが出来るので、猫や小型犬を抱いている客も散見できる。
 レスターは少し悩んだ。確かにOの年齢を考えれば、ヴィクトルの指摘は正しい。

「……先生が泣いてしまいます」
「いいのいいの。
 ペットは飼い主より先に死ぬのが決まってるんだから。今から慣れさせておかないと、それこそ後追い自殺しかねない」

 ヴィクトルは隣に陳列されているパッケージを取り上げて、次のコーナーへと足を向ける。
 それを追いかけながら、レスターの内心は複雑だった。

 彼の主人は、地球が滅ぶ瞬間まで傲岸不遜にふんぞり返っているような男だが、飼い犬にはいっとう甘い。甘いを通り越して依存傾向すら見られる。
 だからレスターもその辺りには気を使っているのだが、一方のヴィクトルはまったく逆で、時にシビアですらある。定期的にOの死について諭し、子供を作らせることも視野にいれるよう、先生に説得を重ねている。

「それよりさあ、Aのことなんだけど。
 勘付いてるよね。たまにこう、探るような眼をする時がない?」
「打ち明けてもいいかもしれません。彼に不利益な点はないのだし、Eと懇意にしているくらいですから、飲み込んでくれますよ。
 運命が知人でもない限り」

 レッドライト地区生まれのAに、ロワッシィに出入りできる身分の知人などいる筈がない。
 レスターはそう高を括っている。

 運命を見つけたみたいな顔をしていた。それはクレハドールの供述だ。ポケットのフェーヴを見つけるなり、黒い鳥を「小夜啼鳥」と呼んだ、と。
 ただの黒い鳥ならAの言うようにカラスでもいい。パイの中から出てきたのなら、連想されるのはマザーグースの黒鶫だ。

 だが小夜啼鳥とは。この小鳥は褐色なのだ。
 黒い鳥を小夜啼鳥と呼ぶ人間。そこから当たりを付けていく算段だ。まるっきり見当外れでも構わない。
 先生は薔薇の下で生まれたような人なので、おそろしく秘密が多い。レスターは、そのすべてを把握していなければ我慢ならないのだ。

 スーツの内ポケットでスマホが震えた。
 画面に出ている文字を見て、レスターは驚いた。

 先生からだった。
 彼からの通話は珍しいことではない。
 むしろレスターの方から連絡を入れることを禁じられているくらいだ。そうしなければ「寂しいです」とか「お会いしたいです」とか、鬱陶しく湿ったメッセージを山ほど送り付けてしまうせいだ。

 その代わり、先生はどんな方法でそうしているのか分からないが、レスターの気が狂わんばかりになる寸前に、地球の裏側からでも連絡を寄越してきた。
 それは散々寸止めを食らってきた精神に、格別の快楽と安堵をもたらし、依存レベルを上げてきた。

 ──けれど、今はその特効薬が必要な場面ではない。

 逸る気持ちを宥めすかし、意識してゆっくりと口を開く。

「どうかされましたか」
『Aは今どこだ』
「出先ですので、少々お待ちいただけますか」

 思ってもみない質問だった。驚きの裏に落胆があった。
 レスターの目顔を受け、ヴィクトルがスマホを操作する。この時間ならヴォルテールにいても可笑しくない時間なのに、なかなか繋がらないようだ。
 ヴィクトルが諦めてセラフィムに掛け直すのを横目に、レスターは堪らず口を開いた。

「突然どうされたんです?」
『ランチの約束をしていたが、もう三時になる』

 胸がざわめいた。
 確認するまでもなく嫉妬だと分かった。

「…………初めて伺いました。
 どうやって彼と連絡を取ったのです?」
『言う必要があるか?』

 レスターは狼狽えた。厳しい声音だった。舌のピアスを意識するより先に、ぞわりと背筋が騒ぐ。
 先生から受けた調教は決して甘いものばかりではない。むしろ、砂漠の砂から探し出した一欠けらの黄金を頼りに慕ってきたと言っても良い。
 自分の身体を持って味わってきた、先生のGlareに心臓が竦む。

 ヴィクトルがスマホの画面を見せた。セラフィムとの通話内容だ。
 スツールを他人に譲ったのを怒って先に帰った、と入力されてある。

「そんな、」

 雑な仕事をしたセラフィムに、思わず歯噛みしてしまう。

「……昨夜Aと一緒にいた者と連絡が付きました。愛鳥会で別れて、帰りは別だったそうです。
 それから誰も顔を見ていません」
『すぐに探し出せ』

 返事を待たずに通話は切れた。
 状況を飲み込むため、少しの沈黙があった。無言になると、こめかみを伝う汗の冷たさが際立った。
 周囲は腕に抱かれた小型犬が吠えたり、買い物を楽しむ客の話声で賑わっているのに、レスターとヴィクトルの間だけが殺気を浴びせかけられたように緊張している。

「ご機嫌最悪だったね。
 ホテルにも連絡したけど帰ってないってさ。あと、いるとしたら例の恋人のところかな」

 さすがのヴィクトルも戦々恐々としている。

「それなら、先生との約束を反故にはしないと思いますが」
「愛鳥会でお持ち帰りされたとか?」
「……まさか」

 レスターの脳裏にだらしないAの顔が思い浮かぶ。恋人を持って一番楽しい時期だ。その可能性は低いだろう。それに、Aはあれでいて一途なのだ。

「念のため、セラフィムと招待客を再確認して貰えますか」

 指示を出しながらレスターはEに連絡を入れる。

『A? こっちには来ていないが』
「どこか行きそうな場所を知りませんか」
『いや、それ以前にスマホに出ないのがおかしい。あいつよっぽど嬉しかったのか、意味なく弄り回してたからな。
 こちらでも探してみよう』
「お願いします」

 Eの言うことはもっともだった。
 さっきの嫉妬など吹き飛ぶ、嫌な予感がしてきた。昨夜から誰も顔を見ていない。言葉にすると不安が増幅した。スミスがAを連れ去った時より性質が悪い。

『どうかしたのか?』
「!」

 レスターは思わず息を詰める。
 フシュッ、という空気が抜ける音と、自動ドアにしてはやけに重い扉が開く音の後、誰かの声がした。
 Eの他に誰かいる。Nの声ではない。レスターにはレッドライト地区に知人はいない。聞き覚えがある筈がないのだが、もしかしたら客の誰かだろうか?

 いいや、もっと前に聞いた声だ。
 靄のような集まりがじわじわと像を結び始めた。
 パチン、と脳内で光が閃く。

「ドクター?」

 隣のヴィクトルが身じろぎしたのが空気で分かった。

『…………ああ』

 スマホを受け取ったのだろう。妙な張り詰め方をした沈黙の後、ぶっきらぼうな返事がスマホを通じて耳に届いた。以前、会ったときと変わらない、どこか諦念にくれた声色だ。

 いつロワッシィから出てきたのか。どうしてAを知っているのか。Eと同じ第三エリアにいるのなら、やはり水晶の夕餉を囲む会絡みだろうか。
 思うことはあったがレスターはそれらを振り切った。今はAの行方が最優先だ。

「今度ぜひ一度お伺いしたいですね。先生のことで積もる話もありますし。
 それでは失礼」

 皮肉たっぷりに通話を切ろうとすると、ヴィクトルが手ぶりでそれを引き留め、乱暴にスマホを奪った。

「ドクター!
 エルンスト・クーノって知らない? 水晶の会にいたと思うんだけど」
『守秘義務がある』
「この状況でそう来る?
 じゃあ、まあ独り言を聞いててよ。Aの居場所のヒントになるかも」

 ヴィクトルの独り言を聞き流すレスターの左手側から、暗い表情の女性が店員に肩を抱かれながら歩いてきた。レスターに一枚の紙を渡して通り過ぎていく。一瞬だけ合った縋るような視線が他人事に思えず、溜息が出る。
 紙には居なくなった犬の写真と、目撃情報を求める旨が記されていた。
 レスターは女性の後ろ姿を見送る。

 居なくなったのは先生ではないのに、こんなに取り乱している自分が信じられなかった。



 通話を切ると、シュゼーは「まずいぞ」とEにスマホを返しながら言った。無機質な白い部屋には電子音こそ相応しい。感情の乗った肉声はひどく不似合いだった。

「ヴェルナー・ヘアーツとAは知り合いなのか?
 水晶の会にいる男だ」
「いや、知らないな。
 Nはどうだ?」

 水を向けられたNはベッドに横たわったまま、シュゼーを見た。話すだけでも辛いのだろう、眉根が寄っている。時おり、内臓の負荷のせいか咳き込んだ。

「その男かどうかは分からないが、水晶の会がらみなら、薬物中毒の変態と知り合いになったと話をしていた。
 Aが自分から知り合いの話をするのは珍しいから、記憶にとどめていた程度だが」
「何がどう変態なのかは言わなかったか?」

 シュゼーは早口にNを急かした。いつもなら絶対にしないことだ。
 Nも察したらしく、表情を険しくする。

「好きな相手の脚を欲しがっていたらしい」
「クソっ」

 シュゼー自身も金に困っていた時、そんな打診を受けたことがある。ロワッシィの子供たちの中に持病を持っていたのがひとりいて、薬代のためにどれだけ仕事を受けても右から左に出ていくばかりだった時期があった。

「両手足は無理でも、舌なら医者を続けられるよね?」

 あの時、痛みに喘ぐ子供のすぐ傍で、あの男はそうシュゼーに耳打ちしたのだ。
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