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39.娼婦の贅沢(2)

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 キスを受けながら、Aはそっとシュゼーの頬に触れた。シャープな顎のラインから耳へと指先を滑らせる。爪がピアスにぶつかり硬い金属の感触を伝えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。指先でピアスを探り当てながら、途中で数え損ねてしまった。

「ん、……ふ、」

 ちゅっ、と音を発てて下唇を吸われ、胸がざわめく。
 夢中になってキスを受け止めているうち、舌が滑り込んできた。Aもぎこちなく舌を絡ませる。
 次第にキスが深くなり、

「っ、」

 Aは慌ててシュゼーの胸に腕を突っ張って彼から離れた。さっきとは立場が逆になっている。
 とはいえまだ腰は抱かれたままだから、シュゼーの薄い唇が僅かに色づき濡れているのもつぶさに見て取れる。
 改めて頬が紅潮する。

「キ、キスでは終われなくなる、から、」

 これ以上はダメだ。
 Aは喘ぐように静止を掛けた。胸が早鐘を打っている。
 服の下のじっとりとした汗も、鼓動も、許容量をはるかに超えている。

 自分でもばかみたいに動揺していた。たしかにバックヴァージンではあるが、童貞ではない。ないのに、初めて女としたときよりも緊張していた。いや、緊張というより恐怖に近い。
 全てを明け渡してしまう恐怖であり、投げ出してしまっても良いと思えてしまう自分への恐怖でもあった。
 Subはいつもこんな気持ちでコマンドを受けているのだろうか。脳裏にそんなことが過ぎる。
 支配者に饗される供物の気分だ。
 だというのに、

「……A、」

 鼓膜を甘く震わせる囁く声と共に、きゅっ、と繋いだ手に力が籠る。
 露骨に続きをねだられている。
 うう、と咽喉が鳴った。

 セックスをしに来たのはAだし、彼が精神的に参っているのにつけ込んだのもAだ。でも今は、たかだかキスの先にビビっているし、もちろん笑えてなんかいない。
 それでも続きを求められたのは、他ならぬシュゼーがAに欲情しているからだ。さっきAを突き放したばかりの彼が。

 Aは息を飲んで自分を落ち着かせると、それまで距離を取るために突っ張っていた両手で彼の頬を包んだ。
 今日は両目ともヘーゼルの瞳をしていた。眼球とコンタクトレンズの境がないから、これがシュゼーの本来の色だ。
 それは彼の全裸を眼にするよりも、ずっと恥ずかしい気持ちにさせられた。性的魅力を感じている相手に裸を見られるのは羞恥を呼び起こすが、見せられるのもまた、自分の中の昏い欲望と向き合わされ、懊悩することになるからだ。

「……脱がせて、」

 とても真正面から見てられず、視線を彷徨わせた末に、Aは俯いた。短くした髪はまだ耳を隠すほど伸びていない。きっと彼から赤くなった耳が丸見えになっているだろう。

 服を脱がされている間、お互いに無口だった。
 辺りは静まり返り、物音は衣擦れしかないから、Aは自分の心臓の音が響きやしないかと不安で仕方がなかった。

 シュゼーが行為の最中はそうなるタイプなのかは分からないが、だからAには単純に口を利く余裕がなかった。肌が露わになっていくたびに重なる羞恥を誤魔化すため、どうでもいいことを話し続ければ良かったのかさえ、判断できない。
 ただ、彼に脱がされるのは二回目だというのに、一回目と変わらず全身が強ばった。何より診察という言い訳が無い。その言い訳があったときでさえ、Aは身体を火照らせて自慰行為に及んだのだ。
 その痕跡は全て洗い流してしまったから、シュゼーにバレる筈がない。けれど自分まで誤魔化せるわけではない。罪悪感と羞恥心が綯い交ぜになって、Aを余計に興奮させる。

「ここ、どうした?」

 ベルトを外し、トラウザーズと一緒に下着を落としたシュゼーが、尻のミミズ腫れに軽く触れた。
 Eから付けられたそれは、一週間以上経った今も、まだ赤く残っていた。さすがに熱は引いたが、断わりなしに触られると体が跳ねてしまう。

「鞭で打たれた。その、プレイで」

 Aは怒られるかと首を竦めたが、彼はそれ以上言わなかった。

 シャツ一枚を羽織っただけのAの首筋に唇を寄せてくる。首の皮膚の薄いところにシュゼーの吐息がかかり肌が湿る。ぬるりとした舌が顎の下から鎖骨まで味見をしていく。ただ舐めるだけでなく、軽く歯まで当てられた。

「はぁ……、」

 陶然と閉じた瞼が興奮に痙攣する。あつい息が漏れる。
 はしたないことに、はやくも体重を預けたくなってしまう。
 シュゼーの背に両手を回すと、思った通り、厚い筋肉の手ごたえが返ってきた。着痩せするタイプなのだろう。

「……ン、」

 大きな筋張った手のひらが胸を撫で、甘い声が漏れた。全身があわ立ち、期待に腰が動いてしまう。

「さっき、処女って言ったよな」

 急に何を、と思った瞬間、Aの腕はシュゼーの背中から引き離されて、代わりに首に回された。
 ふわりと身体が浮き上がる。

「えっ、」

 靴底が床から離れたので、Aは慌てて彼の首にしがみつく。

「え、えっ、」

 いわゆるお姫様抱っこでベッドに運ばれているということに気づき、Aは取り乱した。
 別に床でだって構わないのに、まるで大事なもののように扱われているようだ。彼がやけに丁寧に服を脱がせていったのも、Aを落ち着かない気分にさせていたのにまだ足りなかったらしい。
 ベッドに下ろされ、Aは思わずシーツに皺を作りながら後ずさる。

「どうした?」

 シュゼーもベッドに乗り上げた。獣が餌に喰い付く態勢だ。

「そんなに、気使わなくても、いいのに……」

 本当は照れくさいほど嬉しいのに、可愛くない言葉が出る。素直に嬉しがれば、彼だって気分良くセックスに臨めるだろうに。
 言った先から後悔し始めたAの唇に、シュゼーの人差し指が触れた。例の、関節と関節の間が長く、関節だけが骨ばって張り出した指だ。

「シィー」

 子供を寝かしつけるときの音量だったが、その本質は別のものに感じられた。指先以上に、その声には物を言わせない雰囲気が宿っている。鎮静剤のような、麻酔薬のような。強制的かつ遅効性のチルアウトだ。

 後頭部に頭を添えられたまま、ベッドに仰向けに横たえられた。それこそお姫様を扱うようなスマートな動作だった。
 Aは自分に圧し掛かる男を眼を細めて見上げる。
 シュゼーはいつもと変わらなかった。絵画の中の肖像画が表情を変えないように、静かにこちらを見つめている。天井の電灯が彼の輪郭を白く輝かせていた。
 一緒にコーヒーを飲んだ朝と同じだ。

「否定の言葉は聞きたくない。
 もし本当に嫌だと思ったら、俺をドクターと呼べ」

 Aは操られるようにして頷く。
 それが合図だったかのように、彼も白衣を脱いだ。白衣を脱ぐときの、僅かに俯いた際に覗いた首が、思いのほか華奢で白い。
 ヴォルテールのDomたちはどこかしら艶のある黒い雰囲気を纏っていたが、彼は全くの逆だった。いっそ漂白剤に浸されていたような、と言っても良い。

「あ、あの、」

 シュゼーの指が唇から離れたので、Aは息を弾ませながら胸の辺りで両手を握りしめる。力を入れ過ぎたせいか、指先が白くなってしまっている。
 らしくないことを言おうとしているのは分かっていた。
 風俗店で働いているし、SM紛いのことも日常的に行っている。今さら、と一笑に付される可能性は高い。
 けれど、これは一生に一度しか許されない嘆願なのだ。

「俺、ほんとに初めてだから、だからその、
 ……優しくして欲しい……」
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