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☆25.ウィップ・ヴァージン あるいは溺愛強化週間(6)

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 ぱちん。
 空疎な音が、コンクリートの室内に起こった。

 Aは眼を見開く。虚ろな目から、ぼたぼたと涙が零れた。
 尻を打たれた。赤子の足の裏でも叩くような弱さだった。痛みはなく、あまりにも軽すぎる打擲音だった。

「………………、ぅ、そ、」

 呆然自失する。
 頭のてっぺんから、何もかもが煙のように立ち昇り、消えていくようだ。
 限界まで高められた期待と渇望の結果が、こんなにものだなんて、認められるわけがない。

「──ぁ、ああああああ!」

 Aは咆哮した。

「いやだっ、こんな、打って! 打って! たりないっ」

 顔をくしゃくしゃにしながら、Aは悶えた。
 寸止めのように絶頂が眼に見えていながら、引き摺り下ろされていく虚しさの比ではなかった。とてつもない失望が、Aを正気から一番遠いところへ連れ去ってしまった。

「もっと強く! どうして!? 打って!! 早く!!」

 その時、ヒュッという風切り音と共に、鞭が当たった。

「ッッ────!!」

 耳をつんざく打擲音に、Aの身体は弾け、仰け反る。

 口が大きく開いたが、はくはくと開閉を繰り返すばかりだ。鞭打ちの衝撃は、悲鳴すら上げられないほど大きかった。
 遅れて痛みがやってきた。尻が灼けるように熱い。
 痛い。痛い。痛い。想像よりずっと、痛い。
 失望の洞を、痛みが満たしていく。

「~~~~~~っくぅぅ、」

 Aは待望の激痛を噛み締めた。
 これが欲しかったのだ。すぐに飲み込んでたまるか。味わい尽くして、しゃぶりつかなくては。

 ぶるっ、と尻の肉が蠢動する。

 きつく結んだ唇の端からねっとりとした唾液がしたたり落ち、コンクリートの床の色を変えた。
 長時間も吊られて、全身が鈍い疲れに支配されている中、鞭の痛みだけが鮮烈だ。身体に消えない記憶となって刻み込まれる。

 気が付くとAは射精していた。
 もう脚は疲れ切ってふらふらなのに、片足を高く上げていた。



 鞭でイかされてしまった。
 しばらく禁欲を強いられていたせいとはいえ、その事実はAの心に深い傷を作った。

「……まるで変態じゃないか」

 AはEの膝の上にうつ伏せになり、よよと泣き伏した。
 母親が子供を叱るときの、いわゆるお尻ぺんぺんの態勢で、ぶたれた尻にアイシングバッグを当てられている。鞭の熱はやけどの後のようにジワジワと引くことがない。

 Eが空いている方の手で、Aの髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。宥めるというよりは、ご褒美のつもりなのだろう。そもそもEはパーソナルスペースが広い。鞭打ちの後だからこそ、膝だって貸してくれるのだ。

「二度も打つつもりはなかったんだが、おねだりが可愛くてサービスさせられてしまったな。
 少しは自信がついたか?」
「分かるように説明してくれ……」

 声を張り上げるのもつらい。我を忘れて叫んでしまったせいで、咽喉に傷がついたらしい。あんな無様な姿が可愛いとは、人格破綻が過ぎるんじゃないだろうか。

 Eは上半身を倒した。Aに体重をかけない程度に覆いかぶさる角度だ。

 汗に濡れたせいで冷えたシャツが、スーツ越しにEの体温を移された。ほわりと背が温かくなる。
 左耳に彼の吐息が触れた。

「A、お前のオーダーだぞ。ちゃんと受け取れ。
 可愛かった、と言っている」

 びくっと全身が戦慄いた。
 アイシングバッグの中で氷が崩れる音がした。
 カーっと顔が熱くなってきた。そういえば、自分が「心をこめろ」と言ったのだった。
 今のは……絶対に、こもっていた。
 うつ伏せで良かったと思った。今ならEは真顔でないことくらい、声の熱で分かる。けれど、熱の灯った彼の眼を見てしまったら、多分、確実に好きになってしまう。

「……あ、わ、……あ、ありがとう、ございます、」

 狼狽えすぎたせいか、また口調が昔に戻った。
 またくしゃくしゃと髪が撫でられる。
 まったく阿呆みたいだが、鞭を我慢して良かったと思ってしまった。こんなにボロボロにさせられたというのに。

 なるほどこれが吊り橋効果とか、飴と鞭とかいうやつなのか。そんなどうでもいいことを考えなくては、嬉しくて妙なことまで口走ってしまいそうだ。

「よし。
 では、次の話をしよう」

 髪を撫でる手が解かれたので、Aは上半身を起こした。
 コンクリートの床に敷かれたラグに、ぺたりと座り込む。本来ならSubにおすわりKneelをさせるためのものだから、ひとりが座ればもうスペースはない。

「お前は、そのDomとヴォルテール、どちらを取る?」

 Eは足元のAを端に見て、長い脚を組んだ。

 どきりとした。恋人か仕事か、ここで問われるとは思いもしなかったのだ。言われてみれば店は大事な時期だ。レスターが知ったら何を言われるか、
 ……いや、レスターは知っている。ホテルのラウンジでセラフィムが『今の恰好、例の人に送ってみたらどう?』と、揶揄ったのを聞いていた。反対なら、あの場で釘を刺された筈だ。

 意図を測りかねるAに、Eは緩く首を振る。組んだ脚で頬杖をつき、Aの顔を覗き込んできた。

レッドライト売春地区生まれの悪いところだな。
 今のお前の状況は一般的にいって異常だ。
 昼の人間と風俗業の人間が恋人になることは、まあ、あるだろう。だが、従業員全員から好きにされているという状況は、昼の人間の倫理観とはマッチしない。
 DomがUsualを恋人に選ぶこともあるかもしれない。
 だが、他の、しかも複数人のDomの管理の手が入っている人間を選択肢に入れることは、ほぼ無い」

 子供に言い聞かせてやるような、優しくかみ砕いた説明だった。

 二の句が継げない。
 Aだって分かってはいるのだ。シュゼーの誤解を解かなくてはと思っていた。
 だが、実際に、言葉にすると即決できるわけがない。
 シュゼーか、ヴォルテールか。
 いつの間にシュゼーの存在がこれほど大きくなってしまったのか。

「気になる程度の関係なんだろう?
 どちらを選んでも身辺整理の時間は充分にある。慎重に決めることだ」

 Eは優しかった。
 Aが店を出ていけば、売春組合との繋がりは切れる。サロンの話も立ち消える筈だ。彼にとってはマイナスでしかない。
 なのに、言外にちゃんと自分で考えろと言っている。

「……分かった」
「よし」

 彼は僅かに眼を伏せた。口角が上げるわけでもない、Eの分かり難い笑みだ。

 Aは立ち上がってシャツの前を合わせる。
 立ち上がると、見上げていたEと視線の高低が逆転した。

「それで、次の話を聞きたいんだけど」

 迂闊なAと違ってEは慎重だ。自分のテリトリーに誘い込んだ以上、聞かれたくない話があると気付いている。

 Eは笑みを深くした。
 黒い瞳に、水銀の輝きが宿る。

「いいだろう。
 ここからが本題だ」
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