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☆24.ウィップ・ヴァージン あるいは溺愛強化週間(5)

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 ヴォルテールの二階で、最も恐ろしい部屋に来てしまった。
 コンクリートが打ちっぱなしの室内は、二階にありながら、監禁に適した地下室めいた陰鬱さに満ちている。
 天井の青白い蛍光灯に、網状の保護カバーが付いているのも意味深だ。あんなところにまで、何が飛ぶというのだろう。

「やだやだやだ、恐い、恐い」

 Aは完全に空気に飲まれて怯んだ。
 部屋の右を見ても、左を見ても、Aの日常に結び付くものが存在しない。まったくの異空間だ。

「お前の威勢の良さは買うが、長続きしないのをどうにかしろ」

 Eは滑車のハンドルを回した。滑車の鎖は天井からぶら下がるフックに繋がっており、そこからAの手枷に続いている。鎖がVの字を逆さまにした形で渡されているのだ。
 ハンドルが一回転するごとにフックの位置が上昇し、Aの全身は両手を上げた状態でIの字状に伸び、吊られていく。鎖の重い金属音が恐怖を煽る。
 今の自分の姿を鏡で見たら、肉屋の豚と変わらないだろうとAは思った。

 実際シャツ一枚を羽織っているだけで、下半身は肉を露出させられている。両手を高く上げているのでシャツの合わせは割れ、完全に隠れているのは背中だけという状態だ。

 素足のかかとが床から離れ、つま先立ちになったところで、Eはハンドルを回すのを止めた。彼はAの目の前に椅子を移動させると、ゆったりと腰を下ろして長く息を吐く。
 黒い革を張った、肉厚のリクライニングチェアだ。

 ヴォルテールのインテリアはアンティークで統一しているせいで、肘置きの裏側や脚の金属の反射光が眼に痛い。

「まず何から話そうか」

 Eは肘置きの上で、人差し指と中指で何かの仕草をする。なにか手慰みを探している感じだ。
 そういえば、Eはいつの頃からか煙草を吸うのを止めている。

「首輪。首輪の理由を知りたい」
「自分のことより優先順位が高いのか?」
「当たり前だ! 首輪がないから、クレハドールが妙なことをするんじゃないか、
 っ!」

 身を乗り出したせいで、つま先立ちのバランスが崩れた。手首の皮膚が手枷に擦れる。手枷の内側には柔らかい素材が使われていたが、吊られた状態では保護の意味を成さない。肩の角度だって鋭すぎる。

「首輪は、贈っていないというより、受け取ってもらえないという方が正確だ。
 ……嫌なことを言わせるな、お前は」

 Eの長い脚が膝の裏を蹴った。戯れのような力加減だったが、膝が折れ、また態勢が崩れる。

「ふざっ、」

 ギチッと右と左の枷を繋ぐ鎖が軋む。その感触が骨に響いた。

「協会への裏切り行為とでも思っているのか、あるいは今までのDomとしてのプライドが許さないのかは、俺にも分からん。
 いずれにしても無理強いはしたくない。
 安心したか?」
「ふーっ、ふーっ、」

 Aは半径一メートルの円の中を、振り子のように踊りまわった。板に磔にされているならともかく、鎖に繋がれているだけなのである程度は動けてしまう。その中途半端な自由がAをいっそう疲労させた。つま先立ちでは、動けば動くほど辛いのだ。

「返事をしろ」

 ようやく態勢が整ったと思った瞬間、今度は腿を蹴られた。Aはよろける。足の指が痺れ、踏ん張りがきかなかった。

「分かった! わかったから!」

 全体重の負荷で肩が外れてしまいそうだ。Aは咽喉を突き出して喚いた。

 不意に、足の裏が床に付いた。
 Eが滑車のハンドルを逆に回したらしい。

「っ、お、まえ、ほんっと、信じらん、ねえ……」

 息が弾む。腋窩を汗が幾筋も滴り落ちる感触があった。
 足元ばかりに注意がいって、聞き流すだけになってしまった。

 ……くそ。あの夜と同じパターンだ。
 Aは、売春組合の魔女たちに啖呵を切ったときのことを思い出した。後先考えずに行動しては、手痛いツケを支払う羽目になる。

「もういいだろ、外してくれよ、
  ッッ!!」

 Aの呼吸が整ったと見るや、また天井のフックが元の高さに戻った。身体がピンと伸び切り、張り詰める。膝が笑って今にも崩れ落ちてしまいそうだ。

「う……っ」
「褒めて欲しいんだろう?」
「こ、の状況、で、」

 泣きそうだった。吊られるだけならともかく、Eが滑車から離れ、ガラス張りの飾り棚の前に立ったからだ。

 飾り棚には、複数の鞭が商品のように並べられて保管されていた。
 彼は扉を開けると、Aの方に向き直った。

「欲しいのを選べ」

 一本鞭に編み込み鞭。バラ鞭に乗馬鞭、竹鞭まである。

 子供をケーキ屋に連れてきたんじゃねえぞ。
 Aは歯噛みしたが、黙ったままでは「全部欲しいのか」と言い出しかねない。

「……乗馬鞭」
「口上」

 Eが咎めた。

「…………っ、」

 口の中で舌がもつれた。何を言わなければいけないのかは分かっている。前の店でSubが客に向かって口にしていたからだ。だが、躊躇わずにはいられないほど、屈辱的な文句でもある。
 AはEを睨んだ。
 他の従業員だって、口上までは要求しなかった。

 彼は両腕を組んで待っている。きっと一時間でも二時間でも待ち続けるだろう。気まぐれや慈悲が期待できる相手ではない。

 足の震えが大きくなってきた。こちらの限界が先に来てしまう。
 Aは胸の裡でいくつもの悪態を噛み締めながら、口上を述べた。

「ご、ご主人様の、鞭のお楽しみに私の、わたしの、か、からだをお使いください……」

 こんなセリフはただのロールプレイで、マニュアルにすぎない。そう言い訳しなければ、到底口に出せなかった筈だ。

「まあ、いいだろう」

 Eは鷹揚に頷き、乗馬鞭を手にする。
 背の高い彼が目の前に立つと、Aの身体はすっぽりその影の中に飲み込まれてしまう。

 ぐ、と顎を鷲掴みにされ、上向かせられた。

 緊張で息が乱れる。胸が弾む。
 お互いの顔が近すぎるせいで、Aの吐息でEの前髪が揺れた。

「俺の眼に映るお前を見ろ。
 睨んでいるか? それとも怯えているか?」

 Aは逃げ出したくなりながらも爬虫類の眼を覗き込んだ。至近距離でワニと睨み合いをさせられている気分だった。いつ大口を開けて頭から齧られるか分かったものではない。実際、ヴィクトルには強かに噛まれているのだ。
 磨き上げられたガラスレンズのような眼に、Aの顔が映っていた。鞭の苦痛を想像し、引き攣っている。

 顎を掴む手に力が入り、無言のまま答えを促してくる。

「……や、やせ我慢してる、」
「そうだ。人一倍、恐がりで痛がりのくせに、逃げ出さずにいる。
 そういう態度を示されて、可愛く思わないDomはいない。サービスしてやっても良いと思える」

 Eが顎を解放し、ひたひたと手の甲で頬をノックした。

「っ、どうせ、痛いんだろ」

 Aは憎まれ口を叩いた。そうやって腹に力を入れていなければ、もはや脚に力を入れることなど出来なくなっている。
 肌に珠のような汗が浮き、全身が汗みずくだ。

「もちろん痛いに決まっている。Subだって泣き叫ぶ。お前Usualが思ってるようなアドバンテージなんか存在しない」

 言いながら、Eは壁に掛かっていたカーテンを開いた。
 そこに現れたのは壁一面の鏡だった。
 天井から吊り下げ垂れた惨めな男が鏡の向こうから、信じられないものを見る眼でAを射る。

「打つのは一度きりだ。よく味わえ。
 お前は大袈裟に喚き散らすし、痛がるから、打ち甲斐がある」

 EがAの背後に回った。

 尻たぶに鞭のチップが触れる。チップは狙いを付けるように、何度か位置を確認する。

「避けようとするなよ。狙いが外れて、下手すれば皮膚が裂ける」

 Eが乗馬鞭を振り上げるのを、鏡越しに見る。

「~~~~っ!!」

 いよいよだ。
 Aは咽喉を上下させた。
 足の指にギュッと力を籠める。
 なけなしの力を振り絞って、打たれるために姿勢を固定する。
 打たれるのは恐い。誤って脂肪の薄いところを打たれるのは、もっと恐い。

 Aは鞭で打たれたことがない。だからこそ余計に未知のものが恐いのだ。

「…………っ」

 ただでさえ高まった恐怖が、さらに先鋭化してきた。嫌な緊張感だ。パンパンに膨れ上がった風船に、ゆっくりと針が近づいていくのを見守ってる感じ。
 ブルブルと足の指の付け根が震えてきた。ふくらはぎも足首の腱も引き攣って、それに連動して重心が保てない。尻が左右に揺れてしまう。

 ──どうして打たない?
 もう十秒は経ったはずだ。

「っは、」

 はやく、と口走りそうになる。
 膝の裏から一筋の汗が流れるのが、やけに遅く感じられる。

「はーっ、はーっ、」

 足がよろける。手首がきりきりと締め上げられている。肩の関節だって悲鳴を上げている。限界だ。
 Aは鏡を凝視した。
 はやく、と鏡の中のEに縋る。

「はやく、はやく、どうしてっ、」

 立っていられない。緊張に耐えられない。あとどのぐらい、このままでいればいい?
 今すぐ鞭を振り下ろして、終わりにして欲しい。

「Eっっ」
「口上」
「~~~~っっ!」

 咽喉の奥が痛くなる。泣いてしまう寸前の痛みだ。
 もう眼から溢れてくるのが、涙なのか汗なのかも分からない。
 鏡の中のEも、背後に感じるEも、動く気配が全くない。彼はAの口で言わせるまで、ずっと待っているに違いない。

「うっ、……うってください、」

 情けない嗚咽が混じった。

「聞こえない」
「打ってください! おねがいですっ、おねがいですからっ」

 Aは半狂乱になって髪を振り乱した。懇願を繰り返すたび、全身が熱くなり、思考が鈍化する。
 頭上で鎖がガチャガチャとかまびすしい音を発てて、狂騒に拍車をかけていく。

「口を閉じろ」
「ッ──!」

 その命令は、雑音の影響をまるで受けていなかった。特別、声を荒げたわけでもないのに、ナイフの切れ味のように鋭くAの耳に届く。

 自分でも恐ろしくなるほどの期待感だった。これほどまで我慢させられた痛みだ。派手に炸裂するようなものに決まっている。
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