20 / 55
20.マイ・フェア・レディ あるいは溺愛強化週間(1)
しおりを挟む
完全に誤解された。
丸一日を胡乱に過ごし、丸一日を睡眠薬による眠りでドラッグを抜いたAだったが、心は晴れなかった。
どうやら本格的にシュゼーは、Aに恋人がいるものと思っているらしかった。彼はまだラリってる時にこそ優しくしてくれたが、ドラッグが抜けたと見るや、
「他のDomのテリトリーに入り浸るの、ちょっとどうかと思うぞ」
と診療所からAを追い出してしまったのだ。
なんだか間男でもしたような気まずげな表情が、Aを慌てさせた。
弁解しようとしたのだがタイミング悪く、怪我をしたという男が運ばれてきて、狭い診療所は俄かに賑やかになった。
鼻先で閉められた診療所のドアを見つめ呆けながら、Aは立ち竦んでしまった。そもそもなぜ誤解を解かなければならないのか、という自問に対して答えがでなかったのだ。
Aは確かに、あのおよそ医者らしくない風貌の男に興味がある。興味はあるが、興味以上でも以下でもない筈だ。
ただ、誤解されたというショックを感じている自分が、ショックでならない。訳が分からないのだ。
「返事しろよ」
「イタッ!」
耳を引っ張られ、Aは我に返った。
目の前にはレスターとセラフィムが座っている。
吊り下げられたフライパンや、棚に整然と並べられた器具や調味料が、背景として全く似合っていない。
「……あ、ああ、」
「まだ薬が抜けてないんですか」
厭味ったらしくレスターが両腕を組んだ。彼はこういう仕草がえらく様になった。人を委縮させるコンテストがあったら一等賞間違いなしだろう。
視線を下ろすと、手にしたサンドイッチの具が皿に零れている。厨房に遅めの朝食を取りに来たのだった。ずいぶん物思いにふけってしまっていたようだ。
普段は厨房に出入りしないふたりがここにいるとなると、大事な用件なのだろう。すっかり聞き逃してしまった。
「ごめん、聞いてなかった、です。
すみません。申し訳ございません。挽回のチャンスを下さい」
Aは深々と頭を下げる。多少悪いとは思ってはいるのだが、過剰な謝罪の九割の理由は、この後、貞操帯の管理が控えているということだった。
「Good」
「従順なワンちゃんにもう一度説明して差し上げます。
一週間後、パトロン候補に会って頂きます」
突然の話にAは怯んだ。
売春組合の魔女たちに啖呵を切ってから、まだ一週間しか経っていないのだ。
「ヴァルプルギスの夜まで、まだ時間はあるだろ?! そんなに急がなくても」
「忙しい方なので、いつまで国内にいるか分かりません。もうアポを取ってしまいました。首を括ってください」
「腹だろ括るのは! てか、なんでお前いつも急なの!?」
「これだけ元気なら街に出られるね。
買い物に行こうよ」
その服じゃあね、というセラフィムの視線がAの上着に刺さる。
くそ。一応、新品なんだぞ。
Aは不満を漏らすのを防ぐために、サンドイッチのパンを口に押し込んだ。
そういうわけで、Aはレッドライト地区の外へ出た。生まれて初めてだった。
「キャア!!」
Aは女みたいな高い悲鳴を上げた。
足元に蹲る初老の男性に、股間を掴まれたのだ。思わず両手で股間を庇ってしまう。
初老の男性は、今までAが会ったこともないような、上品な紳士だった。とても人前でそんなことをするとは、予想だにしていなかった。相手がレッドライト地区に良くいる飲んだくれだったら、蹴り倒していただろうが、咄嗟に動けなかったのもそのせいだ。
長いメジャーを首から下げた初老の男性は、あくまでも物腰柔らかに笑みを浮かべた。
「失礼、驚かせてしまいました」
股間を掴んでおいてこの態度である。Aは恐怖した。
一時的に貞操帯を外した状態だったのも大きい。五日ぶりにセラフィム以外の人間に触られたのだ。布越しとはいえ、敏感になった息子が驚いてしまった。ヴィクトルにドラッグを盛られて脳でイった手応えはあったが、射精自体はしていないので精液が溜まっているのだ。
店内を見回していたセラフィムが、あくまでも抑えた早歩きでこちらへやってきた。
「コラ! フィッターに失礼だろう。
採寸もまともにさせられないのか、お前は」
彼は何故か、被害者のAを怒鳴りつけてくる。
「申し訳ない。フルオーダーは初めてでして」
レスターもフィッターにフォローを入れる始末だ。味方が誰もいない。
だからこんな上品そうな店に入るのはイヤだったんだ。
Aはテーラーの隅で、産まれたての子羊のように震えた。
パトロン候補に会うのにスーツが要るというので、レスターが贔屓にしているというテーラーに入った。
店内に飾られているスーツのジャケット、ショーケースのタイピンやカフス、引き戸付きの棚に仕舞われている何枚もの生地。全てが薄造りのガラス細工に思えた。少し触れでもしたら、取返しのつかないことがおきそうな気がしてならない。
「あなたって自分のテリトリーから出ると、借りてきた猫みたいになるんですね」
「小心者め」
ボロクソだ。
「うるせえ!
大体、お前らの自信はどっからくるんだよ!」
Aは涙声で喚いた。罵声というより、小動物の必死の威嚇という態になってしまう。これまで海で生活していた魚が、いきなり陸に揚げられたようなものだ。即座に環境に適応できるわけがない。
それでなくても、道行く洒落た服装を纏った街の住人たちから、何か奇異なものを見るような視線を向けられて身の置き場がないのだ。
レッドライト地区では普通でも、一等区に出ればAはド底辺に位置する人間なのだった。
レスターとセラフィムは互いに顔を見合せる。
さすがに生れて初めて街に出た先で、必要な寸法を採るだけだったとはいえ、見知らぬ人間に股間に触られたAに同情の余地があると判決を下したらしかった。
「機嫌を直してください、A。
ほら、恐くありませんよ。なにかやらかしても、必要経費で落ちますから」
「とりあえず着替えなよ。人間、見た目で露骨に態度を変えるんだから。僕が似合うのを選んでやるって」
交互に猫撫で声でご機嫌を取ろうとしてくるが、Aの警戒心は解けない。
Aは試着室に立てこもり、セラフィムは説得に飽きてテーラーの人間と話を始めた。レスターだけが何やら奇妙な機嫌の良さで試着室のAに話しかけ続けている。
「!」
スっ、と試着室のカーテンの合わせ目から、紙幣が差し込まれた。
条件反射でAの目はゼロの数を数える。
「良い子で出てきたら差し上げますよ」
Aは猫のように飛びついた。
指が届こうかという寸でで、紙幣は引っ込み、Aは二枚組のカーテンを割るようにして試着室の外へ倒れ込んだ。
抱き止めたのは、試着室の前に椅子を置いて陣取っていたレスターだった。
「まったく理想的な浅はかさです。
あなたがせめて男爵家の嫡子であったなら、自立心や克己心など欠片も抱かせず、生涯お仕えしたでしょうに」
Aの耳には、レスターの陶酔した呟きは届かなかった。彼のピンと伸びた人差し指と薬指に挟まれた紙幣を奪い取ろうと、夢中になっていた。
細長いパッケージに詰められた液状おやつに無心で喰い付く猫と、気色悪いほどの執着を抱く飼い主。客観的に見ればそう見えてしまうだろう。
Aがもう少しだけ金銭に執着がなければ、顔を引き攣らせたセラフィムを初めて見ることができた筈だ。
丸一日を胡乱に過ごし、丸一日を睡眠薬による眠りでドラッグを抜いたAだったが、心は晴れなかった。
どうやら本格的にシュゼーは、Aに恋人がいるものと思っているらしかった。彼はまだラリってる時にこそ優しくしてくれたが、ドラッグが抜けたと見るや、
「他のDomのテリトリーに入り浸るの、ちょっとどうかと思うぞ」
と診療所からAを追い出してしまったのだ。
なんだか間男でもしたような気まずげな表情が、Aを慌てさせた。
弁解しようとしたのだがタイミング悪く、怪我をしたという男が運ばれてきて、狭い診療所は俄かに賑やかになった。
鼻先で閉められた診療所のドアを見つめ呆けながら、Aは立ち竦んでしまった。そもそもなぜ誤解を解かなければならないのか、という自問に対して答えがでなかったのだ。
Aは確かに、あのおよそ医者らしくない風貌の男に興味がある。興味はあるが、興味以上でも以下でもない筈だ。
ただ、誤解されたというショックを感じている自分が、ショックでならない。訳が分からないのだ。
「返事しろよ」
「イタッ!」
耳を引っ張られ、Aは我に返った。
目の前にはレスターとセラフィムが座っている。
吊り下げられたフライパンや、棚に整然と並べられた器具や調味料が、背景として全く似合っていない。
「……あ、ああ、」
「まだ薬が抜けてないんですか」
厭味ったらしくレスターが両腕を組んだ。彼はこういう仕草がえらく様になった。人を委縮させるコンテストがあったら一等賞間違いなしだろう。
視線を下ろすと、手にしたサンドイッチの具が皿に零れている。厨房に遅めの朝食を取りに来たのだった。ずいぶん物思いにふけってしまっていたようだ。
普段は厨房に出入りしないふたりがここにいるとなると、大事な用件なのだろう。すっかり聞き逃してしまった。
「ごめん、聞いてなかった、です。
すみません。申し訳ございません。挽回のチャンスを下さい」
Aは深々と頭を下げる。多少悪いとは思ってはいるのだが、過剰な謝罪の九割の理由は、この後、貞操帯の管理が控えているということだった。
「Good」
「従順なワンちゃんにもう一度説明して差し上げます。
一週間後、パトロン候補に会って頂きます」
突然の話にAは怯んだ。
売春組合の魔女たちに啖呵を切ってから、まだ一週間しか経っていないのだ。
「ヴァルプルギスの夜まで、まだ時間はあるだろ?! そんなに急がなくても」
「忙しい方なので、いつまで国内にいるか分かりません。もうアポを取ってしまいました。首を括ってください」
「腹だろ括るのは! てか、なんでお前いつも急なの!?」
「これだけ元気なら街に出られるね。
買い物に行こうよ」
その服じゃあね、というセラフィムの視線がAの上着に刺さる。
くそ。一応、新品なんだぞ。
Aは不満を漏らすのを防ぐために、サンドイッチのパンを口に押し込んだ。
そういうわけで、Aはレッドライト地区の外へ出た。生まれて初めてだった。
「キャア!!」
Aは女みたいな高い悲鳴を上げた。
足元に蹲る初老の男性に、股間を掴まれたのだ。思わず両手で股間を庇ってしまう。
初老の男性は、今までAが会ったこともないような、上品な紳士だった。とても人前でそんなことをするとは、予想だにしていなかった。相手がレッドライト地区に良くいる飲んだくれだったら、蹴り倒していただろうが、咄嗟に動けなかったのもそのせいだ。
長いメジャーを首から下げた初老の男性は、あくまでも物腰柔らかに笑みを浮かべた。
「失礼、驚かせてしまいました」
股間を掴んでおいてこの態度である。Aは恐怖した。
一時的に貞操帯を外した状態だったのも大きい。五日ぶりにセラフィム以外の人間に触られたのだ。布越しとはいえ、敏感になった息子が驚いてしまった。ヴィクトルにドラッグを盛られて脳でイった手応えはあったが、射精自体はしていないので精液が溜まっているのだ。
店内を見回していたセラフィムが、あくまでも抑えた早歩きでこちらへやってきた。
「コラ! フィッターに失礼だろう。
採寸もまともにさせられないのか、お前は」
彼は何故か、被害者のAを怒鳴りつけてくる。
「申し訳ない。フルオーダーは初めてでして」
レスターもフィッターにフォローを入れる始末だ。味方が誰もいない。
だからこんな上品そうな店に入るのはイヤだったんだ。
Aはテーラーの隅で、産まれたての子羊のように震えた。
パトロン候補に会うのにスーツが要るというので、レスターが贔屓にしているというテーラーに入った。
店内に飾られているスーツのジャケット、ショーケースのタイピンやカフス、引き戸付きの棚に仕舞われている何枚もの生地。全てが薄造りのガラス細工に思えた。少し触れでもしたら、取返しのつかないことがおきそうな気がしてならない。
「あなたって自分のテリトリーから出ると、借りてきた猫みたいになるんですね」
「小心者め」
ボロクソだ。
「うるせえ!
大体、お前らの自信はどっからくるんだよ!」
Aは涙声で喚いた。罵声というより、小動物の必死の威嚇という態になってしまう。これまで海で生活していた魚が、いきなり陸に揚げられたようなものだ。即座に環境に適応できるわけがない。
それでなくても、道行く洒落た服装を纏った街の住人たちから、何か奇異なものを見るような視線を向けられて身の置き場がないのだ。
レッドライト地区では普通でも、一等区に出ればAはド底辺に位置する人間なのだった。
レスターとセラフィムは互いに顔を見合せる。
さすがに生れて初めて街に出た先で、必要な寸法を採るだけだったとはいえ、見知らぬ人間に股間に触られたAに同情の余地があると判決を下したらしかった。
「機嫌を直してください、A。
ほら、恐くありませんよ。なにかやらかしても、必要経費で落ちますから」
「とりあえず着替えなよ。人間、見た目で露骨に態度を変えるんだから。僕が似合うのを選んでやるって」
交互に猫撫で声でご機嫌を取ろうとしてくるが、Aの警戒心は解けない。
Aは試着室に立てこもり、セラフィムは説得に飽きてテーラーの人間と話を始めた。レスターだけが何やら奇妙な機嫌の良さで試着室のAに話しかけ続けている。
「!」
スっ、と試着室のカーテンの合わせ目から、紙幣が差し込まれた。
条件反射でAの目はゼロの数を数える。
「良い子で出てきたら差し上げますよ」
Aは猫のように飛びついた。
指が届こうかという寸でで、紙幣は引っ込み、Aは二枚組のカーテンを割るようにして試着室の外へ倒れ込んだ。
抱き止めたのは、試着室の前に椅子を置いて陣取っていたレスターだった。
「まったく理想的な浅はかさです。
あなたがせめて男爵家の嫡子であったなら、自立心や克己心など欠片も抱かせず、生涯お仕えしたでしょうに」
Aの耳には、レスターの陶酔した呟きは届かなかった。彼のピンと伸びた人差し指と薬指に挟まれた紙幣を奪い取ろうと、夢中になっていた。
細長いパッケージに詰められた液状おやつに無心で喰い付く猫と、気色悪いほどの執着を抱く飼い主。客観的に見ればそう見えてしまうだろう。
Aがもう少しだけ金銭に執着がなければ、顔を引き攣らせたセラフィムを初めて見ることができた筈だ。
1
お気に入りに追加
258
あなたにおすすめの小説

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる