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最低最悪の朝を迎えた。
時刻は午前四時半を指している。
ヴォルテール店内に時計はない。従業員も腕時計を付けて出勤してきても、客の前に出るときには外すようになっている。客に滞在時間を意識させないためだ。
だからAが睨みつけているのは厨房の掛け時計ということになる。
薄暗がりの店内に比べると、厨房はえらく眩しかった。まず床も壁も白い。調理台も大きな冷蔵庫も、鍋もカトラリーの一本一本さえ銀色に磨き上げられている。
ここで外科手術も行えそうな、徹底した衛生管理ぶりだ。
「はい。これを口に入れて」
作業台で頬杖をついていたAに、ヴィクトルが輪切りのバナナととホットミルクを差し出した。
「……欲しくない」
Aは貧乏ゆすりしながら目を背けた。
腹が減っていないわけがなかった。最後に口にしたのは、昨日の夜、ヴィクトルからもらったドラッグ入りのアブサンの炭酸割りだけだ。それより前となると昼のパニーニということになる。
シェフが焼いてくれる、表面のパリっとしたパニーニを思い出して、それでも唾液の一滴すら湧いてこない。
いつもなら質素極まりない食事に不満を爆発させただろう。しかし、食欲が刺激されないどころか、怒りさえ沸いて来ない。
人間は常に感情を生み出す生き物だ。それが正か負かはともかく、虚無という感情を抱いてなお、そこには虚しさと名付けられた感情がある。
今のAは虚無すら抜き取られた残骸だった。
本当なら毎日、怒ったり不平不満をまき散らしたりビビったりしながら、少しずつ消費していく筈の感情を、ドラッグによって短期間で出し尽くしてしまったイメージに近い。
それなのに理由のない焦燥感だけが、Aの心を置き去りにして身体を突き動かしている。貧乏ゆすりが止まらないのはそのせいだ。
「ダメダメ。
はい、あーん」
ヴィクトルが輪切りにしたバナナの一枚をフォークに刺し、目の前にかざした。
食べるまで解放してもらえないのだろう。
Aは機械的に口を開き、咀嚼した。粘土を噛んでいるようだった。
「ドラッグの後はカリウムを多めに摂ってね。それから温かいもの。トイレに行きたくなったら、副交感神経が働き出した証拠だからとりあえず安心。
はい、もうひと口」
欲しくないと言っているのにバナナを押し込まれ、知らず知らずのうちに貧乏ゆすりが強くなる。おまけに動いてもいないのに、頭皮に汗が滲んできて髪がベタベタする。歯ぎしりのせいで、歯が磨り減ってしまいそうだ。
「しんどい……」
「抜け際はキツいよね。
今夜は眠れないだろうから、明日は休みにしておくよ」
結局、Aはバナナを半分しか食べられなかった。ホットミルクの方は飲み切ってしまうまで席を立つことを許されなかったので、最後の方は冷えてしまったがどうにか空にした。
Aは従業員控え室の長椅子に運ばれた。
何気なく首に手をやると、ヴィクトルの噛み痕にガーゼが張られていた。首の骨を折られた音を聞いたと思ったが、幻聴だったらしい。
長椅子に横たわり、時々、頭を掻きむしっているうちに、セラフィムが貞操帯の管理に来た。
彼はAを見るなり「つまんなーい」と唇を尖らせた。
Aから貞操帯を取り外し、洗浄を済ませて控え室に戻ってくると、Aのペニスを温かいタオルで拭った。元の通りに貞操帯に鍵をかけて帰っていった。
去り際、スマートフォンで何かの指示を出しているようだった。聞いたことのない、きびきびした声色だった。
ペニスへの刺激はAになにももたらさなかった。
何もかもが知覚できた昨夜とは、まるで別世界だった。
昼近くになって、レスターがやってきた。
レスターはリカーキャビネットからマッカランを取り出すと、タンブラーに注いだ。
それから彼は、Aのまぶたを親指と人差し指でこじ開けた。
「これでも見ていなさい」。差し出されたのは、クリスタルだった。
右端は透明だが、左端が白濁している。一緒に差し出された虫眼鏡で覗き込むと、グラデーションの部分にレースのような、雪の結晶のようなものが見えた。その一枚一枚が堆積して、クリスタルを白濁させているらしかった。一握りの石の中に、話にしか聞いたことのない雪国が閉じ込められていた。Aは結晶に見入った。
レスターは持ち込んだノートパソコンやスマートフォンを使って作業していたが、いつの間にか居なくなっていた。
Aの瞳孔が通常時にまで絞られると、興味がクリスタルから薄れた。また貧乏ゆすりが止められなくなってきた。汗と脂でべたついた髪が頬に触れるたびに、頭を掻きむしった。
Eが控え室に入ってきた。スマートフォンで何かを話している。
彼はいつも座っている長椅子がAに占領されているのを見るや、さっさと踵を返した。
そのまま帰ったのかと思っていたのに、Eはハンドタオルを持って戻ってきた。Aの血まみれの指をそっくり包み、手首の辺りで紐を堅結びにした。両手がミトンを嵌めたようになった。
それで、彼は本当に帰っていった。
夕方近くになってNがやってきた。
NはAの頭を膝に乗せることで自分の座るスペースを作ると、本を読み始めた。
「読んでよ」
長椅子に横たえられてから、初めてAは口を利いた。
NはまばたきをしてAを見ると、改めて視線を紙面に戻し、本を読み上げ始めた。難しく、つまらない内容だった。きっと文学とかいうやつなのだろう。いつものAならすぐに眠ってしまう。なのに今日はあくびのひとつも出てこない。
本を読んでいる途中、Nはスマートフォンが鳴ったので通話に出た。Aが聞いたことのない着信音だった。通話を終えると、Nはローテーブルにあった皿からドライフルーツを指先で摘まんでAの口に入れた。
ヴィクトルが前もって用意してくれたものだ。今までAは一切、手を付けていなかった。
Aが咀嚼し始めたのを見て、Nは控え室を出ていった。
ようやくAはもうひとつ食べても良いと思てきたので、別のフルーツに手を出した。というか、食べなければマズいという危機感が薄っすらと蘇ってきたのだ。
誰もいなくなった控え室は、やけに時間の進みが遅かった。眠ってやり過ごせたら一番良いのだが、少しも眠れる気がしない。
これから長い夜を、何もせずに過ごさなければならないのだろうか。そう思うと気が遠くなりそうだった。
かといって何をやって暇を潰せばいいのか、見当もつかない。
いつもラリって電話をかけまくってくるSubの気持ちがようやく分かったような気がする。控え室に来たDomたちはそれぞれが自分の電話を持っていた。個人的な話をする相手がいるのだ。
なんだか、途方もなく羨ましくなってきた。
貧乏ゆすりが激しくなってきた。
歯ぎしりが止まらない。
そうやってしばらく絨毯を虐待していたが、ついにしびれを切らせてしまった。
Aは控え室を出た。Eに手をタオルでぐるぐる巻きにされたので、ドアノブを回すのに苦心したが、両手を駆使してどうにか開けた。
裏口に通じる廊下を歩きがてら、事務所のドアから光が漏れているのに気が付いた。微かにレスターの声がする。まだ仕事中のようだ。
店から出ると月が出ていた。二月末の風がAを襲った。寒さは感じなかった。
「なんだ、お前。キメてんのか?」
シュゼーは突然やってきたAを見るなり、まぶたを開かせてペンライトで眼を覗き込んだ。
彼は問題ないと判断したようだった。明らかに表情から緊張が解けて消えた。ペンライトを白衣のポケットに仕舞い、
「ベッドに座れ。冷えてる」
そう言って、奥を指さした。
病院の蛍光灯を反射して耳のピアスがびかびかと光っていた。
今までAは、抑制剤の受け渡しを入り口から一番近い診察室で行っていたので、その奥のことを知らなかった。
診察室の奥にはベッドがふたつ並んでいた。カーテンで仕切られている。
Aはベッドの端に座った。
「飲め」
熱いホットココアを差し出される。有無を言わさない勢いだったので、つい受け取ってしまった。溶けかけのマシュマロが浮かんでいる。
Aの手はまだタオルで拘束されたままだったが、マグを持つ手が温かく、指先に血が巡っていくようだった。
嗅覚もようやく戻り始めたらしい。甘い匂いが肺を満たした。
シュゼーは壁に埋め込まれた棚から、スプレーを取ると、Aの髪に吹き付けた。全体を揉むようにして馴染ませると、タオルで拭きあげる。
髪のベタつきが収まった。水の要らないシャンプーだったようだ。
「普通は眠剤くらい用意しとくもんだぞ。
なんかの修行か?」
ベッドの真向いに座り、シュゼーが揶揄う。細く長い脚に、肘をついて頬杖をついている。
手のタオルはひとりでは結べない。Aの他に、誰かいたことを分かっているのだ。Aにドラッグを飲ませ、頭を掻きむしらないよう配慮した相手が。
シュゼーが恋人みたいな相手を想定しているのは、顔を見れば分かった。
「……あ、」
Aはどう言い訳をしようかと迷い、結局、何も思いつかなかった。単純に、ドラッグで空っぽになった頭が回らなかったのだ。
「ドクター、」
頭は回らないが、心がここで否定しなければと主張した。そんな相手ではないのだ、と。
戦慄く両手の中でマグの中身が波打つ。
それを取り落とさないよう、シュゼーの両手が添えられた。
「ゆっくりでいい」
おかしなことがおきた。
さっきまで尽きてしまっていた筈の感情が湧き出てきたのだ。
Aはしみじみとシュゼーの顔を眺めた。
瞳の色が左右で違っていた。茶と青で、シベリアンハスキーのようだ。最初に会った時からこんな瞳の色だっただろうか? それともカラーコンタクトレンズを入れているとか?
「ドクター、は、Dom?」
我ながら突拍子もない質問だった。
シュゼーも目を丸くしている。
それもその筈だ。第二次性を問うのは、家族よりも親密な関係でしか行われない行為だ。Domならともかく、Subと知れたら発言だけでなく存在すら軽く扱われてしまう。
この世界は男が権力を握っている。そして男はベッドで服従させた相手との関係を、実社会と切り離せないものだ。
厳ついリングを嵌めた指を組み直して、シュゼーは顎をしゃくった。
「全部飲んだら、答えてやってもいい」
Aはすっかりマシュマロが融けてしまったココアに口を付けた。食欲は回復の見込みを見せたとはいえ、減退したままだったので、ずいぶんと時間がかかってしまった。
自覚こそなかったが、シュゼーの言う通り、身体が冷えていたのだろう。甘い液体が体内のどこを通っていくのか、すっかり分かった。
Aは甘すぎるココアに咽喉を焼きながら、空になったマグの底をシュゼーに見せた。
彼はひとつ頷いて見せた。
「Domだ。
とはいっても、Dom性は低いらしい」
「らしいって何?」
「第二次性の研究はそんなに進んじゃいないってことだ。
横になれ。眠れなくてもいい」
シュゼーに肩を押されて、Aはベッドに身体を横たえた。ヴォルテールの控え室のような匂いはしない。消毒液と漂白剤が入り混じる匂いだ。
糊の効いたリネンを被されると、急に不安になった。
Aは咄嗟にシュゼーの袖口を捕まえる。
「ドクター、話をしてくれ。何でもいいから」
「眼を閉じていられるか?」
「うん、……うん」
彼はオッドアイでAを見ると、室内の電気を落として、椅子に座り直した。
Aは言われたまま、まぶたを閉じる。
「何年か前の論文で読んだんだが、DomがGlareを出している時の脳波を調べたら、Usualには見られない周波数が計測された」
「この周波数は命令波と呼ばれ、Dom性の基準とする医者もいるが、この説にはいくつか疑問が残る」
「まずDom性は第二次成長期に顕著化するが、命令波が活発化する時期とズレが生じる」
「ごく僅かだが、命令波を出現させる新生児の記録が残っている。 俺がこの論文に懐疑的な理由のひとつだ。支配欲というのは、自分と他人を認識して初めて生じるものだからだ」
「第二次性なんて今でも殆ど、本人の自己申告と医者の経験則によって診断されているわけだしな。うつ病とそう変わらん」
「Subの研究も似たようなものだ。抑制剤は脳の一部を鈍化させているだけにすぎない」
「希少種のSwitchとなると、更にサンプルを採るのが難しい」
────Aは、とろとろと煮崩れるようにして眠りに入った。夢うつつかというような、浅い眠りだった。
ほんの一瞬、夢を見た。
シュゼーが、Aの知らないSubを跪かせていた。
時刻は午前四時半を指している。
ヴォルテール店内に時計はない。従業員も腕時計を付けて出勤してきても、客の前に出るときには外すようになっている。客に滞在時間を意識させないためだ。
だからAが睨みつけているのは厨房の掛け時計ということになる。
薄暗がりの店内に比べると、厨房はえらく眩しかった。まず床も壁も白い。調理台も大きな冷蔵庫も、鍋もカトラリーの一本一本さえ銀色に磨き上げられている。
ここで外科手術も行えそうな、徹底した衛生管理ぶりだ。
「はい。これを口に入れて」
作業台で頬杖をついていたAに、ヴィクトルが輪切りのバナナととホットミルクを差し出した。
「……欲しくない」
Aは貧乏ゆすりしながら目を背けた。
腹が減っていないわけがなかった。最後に口にしたのは、昨日の夜、ヴィクトルからもらったドラッグ入りのアブサンの炭酸割りだけだ。それより前となると昼のパニーニということになる。
シェフが焼いてくれる、表面のパリっとしたパニーニを思い出して、それでも唾液の一滴すら湧いてこない。
いつもなら質素極まりない食事に不満を爆発させただろう。しかし、食欲が刺激されないどころか、怒りさえ沸いて来ない。
人間は常に感情を生み出す生き物だ。それが正か負かはともかく、虚無という感情を抱いてなお、そこには虚しさと名付けられた感情がある。
今のAは虚無すら抜き取られた残骸だった。
本当なら毎日、怒ったり不平不満をまき散らしたりビビったりしながら、少しずつ消費していく筈の感情を、ドラッグによって短期間で出し尽くしてしまったイメージに近い。
それなのに理由のない焦燥感だけが、Aの心を置き去りにして身体を突き動かしている。貧乏ゆすりが止まらないのはそのせいだ。
「ダメダメ。
はい、あーん」
ヴィクトルが輪切りにしたバナナの一枚をフォークに刺し、目の前にかざした。
食べるまで解放してもらえないのだろう。
Aは機械的に口を開き、咀嚼した。粘土を噛んでいるようだった。
「ドラッグの後はカリウムを多めに摂ってね。それから温かいもの。トイレに行きたくなったら、副交感神経が働き出した証拠だからとりあえず安心。
はい、もうひと口」
欲しくないと言っているのにバナナを押し込まれ、知らず知らずのうちに貧乏ゆすりが強くなる。おまけに動いてもいないのに、頭皮に汗が滲んできて髪がベタベタする。歯ぎしりのせいで、歯が磨り減ってしまいそうだ。
「しんどい……」
「抜け際はキツいよね。
今夜は眠れないだろうから、明日は休みにしておくよ」
結局、Aはバナナを半分しか食べられなかった。ホットミルクの方は飲み切ってしまうまで席を立つことを許されなかったので、最後の方は冷えてしまったがどうにか空にした。
Aは従業員控え室の長椅子に運ばれた。
何気なく首に手をやると、ヴィクトルの噛み痕にガーゼが張られていた。首の骨を折られた音を聞いたと思ったが、幻聴だったらしい。
長椅子に横たわり、時々、頭を掻きむしっているうちに、セラフィムが貞操帯の管理に来た。
彼はAを見るなり「つまんなーい」と唇を尖らせた。
Aから貞操帯を取り外し、洗浄を済ませて控え室に戻ってくると、Aのペニスを温かいタオルで拭った。元の通りに貞操帯に鍵をかけて帰っていった。
去り際、スマートフォンで何かの指示を出しているようだった。聞いたことのない、きびきびした声色だった。
ペニスへの刺激はAになにももたらさなかった。
何もかもが知覚できた昨夜とは、まるで別世界だった。
昼近くになって、レスターがやってきた。
レスターはリカーキャビネットからマッカランを取り出すと、タンブラーに注いだ。
それから彼は、Aのまぶたを親指と人差し指でこじ開けた。
「これでも見ていなさい」。差し出されたのは、クリスタルだった。
右端は透明だが、左端が白濁している。一緒に差し出された虫眼鏡で覗き込むと、グラデーションの部分にレースのような、雪の結晶のようなものが見えた。その一枚一枚が堆積して、クリスタルを白濁させているらしかった。一握りの石の中に、話にしか聞いたことのない雪国が閉じ込められていた。Aは結晶に見入った。
レスターは持ち込んだノートパソコンやスマートフォンを使って作業していたが、いつの間にか居なくなっていた。
Aの瞳孔が通常時にまで絞られると、興味がクリスタルから薄れた。また貧乏ゆすりが止められなくなってきた。汗と脂でべたついた髪が頬に触れるたびに、頭を掻きむしった。
Eが控え室に入ってきた。スマートフォンで何かを話している。
彼はいつも座っている長椅子がAに占領されているのを見るや、さっさと踵を返した。
そのまま帰ったのかと思っていたのに、Eはハンドタオルを持って戻ってきた。Aの血まみれの指をそっくり包み、手首の辺りで紐を堅結びにした。両手がミトンを嵌めたようになった。
それで、彼は本当に帰っていった。
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NはAの頭を膝に乗せることで自分の座るスペースを作ると、本を読み始めた。
「読んでよ」
長椅子に横たえられてから、初めてAは口を利いた。
NはまばたきをしてAを見ると、改めて視線を紙面に戻し、本を読み上げ始めた。難しく、つまらない内容だった。きっと文学とかいうやつなのだろう。いつものAならすぐに眠ってしまう。なのに今日はあくびのひとつも出てこない。
本を読んでいる途中、Nはスマートフォンが鳴ったので通話に出た。Aが聞いたことのない着信音だった。通話を終えると、Nはローテーブルにあった皿からドライフルーツを指先で摘まんでAの口に入れた。
ヴィクトルが前もって用意してくれたものだ。今までAは一切、手を付けていなかった。
Aが咀嚼し始めたのを見て、Nは控え室を出ていった。
ようやくAはもうひとつ食べても良いと思てきたので、別のフルーツに手を出した。というか、食べなければマズいという危機感が薄っすらと蘇ってきたのだ。
誰もいなくなった控え室は、やけに時間の進みが遅かった。眠ってやり過ごせたら一番良いのだが、少しも眠れる気がしない。
これから長い夜を、何もせずに過ごさなければならないのだろうか。そう思うと気が遠くなりそうだった。
かといって何をやって暇を潰せばいいのか、見当もつかない。
いつもラリって電話をかけまくってくるSubの気持ちがようやく分かったような気がする。控え室に来たDomたちはそれぞれが自分の電話を持っていた。個人的な話をする相手がいるのだ。
なんだか、途方もなく羨ましくなってきた。
貧乏ゆすりが激しくなってきた。
歯ぎしりが止まらない。
そうやってしばらく絨毯を虐待していたが、ついにしびれを切らせてしまった。
Aは控え室を出た。Eに手をタオルでぐるぐる巻きにされたので、ドアノブを回すのに苦心したが、両手を駆使してどうにか開けた。
裏口に通じる廊下を歩きがてら、事務所のドアから光が漏れているのに気が付いた。微かにレスターの声がする。まだ仕事中のようだ。
店から出ると月が出ていた。二月末の風がAを襲った。寒さは感じなかった。
「なんだ、お前。キメてんのか?」
シュゼーは突然やってきたAを見るなり、まぶたを開かせてペンライトで眼を覗き込んだ。
彼は問題ないと判断したようだった。明らかに表情から緊張が解けて消えた。ペンライトを白衣のポケットに仕舞い、
「ベッドに座れ。冷えてる」
そう言って、奥を指さした。
病院の蛍光灯を反射して耳のピアスがびかびかと光っていた。
今までAは、抑制剤の受け渡しを入り口から一番近い診察室で行っていたので、その奥のことを知らなかった。
診察室の奥にはベッドがふたつ並んでいた。カーテンで仕切られている。
Aはベッドの端に座った。
「飲め」
熱いホットココアを差し出される。有無を言わさない勢いだったので、つい受け取ってしまった。溶けかけのマシュマロが浮かんでいる。
Aの手はまだタオルで拘束されたままだったが、マグを持つ手が温かく、指先に血が巡っていくようだった。
嗅覚もようやく戻り始めたらしい。甘い匂いが肺を満たした。
シュゼーは壁に埋め込まれた棚から、スプレーを取ると、Aの髪に吹き付けた。全体を揉むようにして馴染ませると、タオルで拭きあげる。
髪のベタつきが収まった。水の要らないシャンプーだったようだ。
「普通は眠剤くらい用意しとくもんだぞ。
なんかの修行か?」
ベッドの真向いに座り、シュゼーが揶揄う。細く長い脚に、肘をついて頬杖をついている。
手のタオルはひとりでは結べない。Aの他に、誰かいたことを分かっているのだ。Aにドラッグを飲ませ、頭を掻きむしらないよう配慮した相手が。
シュゼーが恋人みたいな相手を想定しているのは、顔を見れば分かった。
「……あ、」
Aはどう言い訳をしようかと迷い、結局、何も思いつかなかった。単純に、ドラッグで空っぽになった頭が回らなかったのだ。
「ドクター、」
頭は回らないが、心がここで否定しなければと主張した。そんな相手ではないのだ、と。
戦慄く両手の中でマグの中身が波打つ。
それを取り落とさないよう、シュゼーの両手が添えられた。
「ゆっくりでいい」
おかしなことがおきた。
さっきまで尽きてしまっていた筈の感情が湧き出てきたのだ。
Aはしみじみとシュゼーの顔を眺めた。
瞳の色が左右で違っていた。茶と青で、シベリアンハスキーのようだ。最初に会った時からこんな瞳の色だっただろうか? それともカラーコンタクトレンズを入れているとか?
「ドクター、は、Dom?」
我ながら突拍子もない質問だった。
シュゼーも目を丸くしている。
それもその筈だ。第二次性を問うのは、家族よりも親密な関係でしか行われない行為だ。Domならともかく、Subと知れたら発言だけでなく存在すら軽く扱われてしまう。
この世界は男が権力を握っている。そして男はベッドで服従させた相手との関係を、実社会と切り離せないものだ。
厳ついリングを嵌めた指を組み直して、シュゼーは顎をしゃくった。
「全部飲んだら、答えてやってもいい」
Aはすっかりマシュマロが融けてしまったココアに口を付けた。食欲は回復の見込みを見せたとはいえ、減退したままだったので、ずいぶんと時間がかかってしまった。
自覚こそなかったが、シュゼーの言う通り、身体が冷えていたのだろう。甘い液体が体内のどこを通っていくのか、すっかり分かった。
Aは甘すぎるココアに咽喉を焼きながら、空になったマグの底をシュゼーに見せた。
彼はひとつ頷いて見せた。
「Domだ。
とはいっても、Dom性は低いらしい」
「らしいって何?」
「第二次性の研究はそんなに進んじゃいないってことだ。
横になれ。眠れなくてもいい」
シュゼーに肩を押されて、Aはベッドに身体を横たえた。ヴォルテールの控え室のような匂いはしない。消毒液と漂白剤が入り混じる匂いだ。
糊の効いたリネンを被されると、急に不安になった。
Aは咄嗟にシュゼーの袖口を捕まえる。
「ドクター、話をしてくれ。何でもいいから」
「眼を閉じていられるか?」
「うん、……うん」
彼はオッドアイでAを見ると、室内の電気を落として、椅子に座り直した。
Aは言われたまま、まぶたを閉じる。
「何年か前の論文で読んだんだが、DomがGlareを出している時の脳波を調べたら、Usualには見られない周波数が計測された」
「この周波数は命令波と呼ばれ、Dom性の基準とする医者もいるが、この説にはいくつか疑問が残る」
「まずDom性は第二次成長期に顕著化するが、命令波が活発化する時期とズレが生じる」
「ごく僅かだが、命令波を出現させる新生児の記録が残っている。 俺がこの論文に懐疑的な理由のひとつだ。支配欲というのは、自分と他人を認識して初めて生じるものだからだ」
「第二次性なんて今でも殆ど、本人の自己申告と医者の経験則によって診断されているわけだしな。うつ病とそう変わらん」
「Subの研究も似たようなものだ。抑制剤は脳の一部を鈍化させているだけにすぎない」
「希少種のSwitchとなると、更にサンプルを採るのが難しい」
────Aは、とろとろと煮崩れるようにして眠りに入った。夢うつつかというような、浅い眠りだった。
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シュゼーが、Aの知らないSubを跪かせていた。
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