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16.所有権の在り処(3)

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 今朝もセラフィムに洗浄と寸止めを食らった。
 おまけにAを羽交い絞めにする役の男が、妬まし気な粘ついた視線を送ってくるのに辟易させられた。変わってくれるというなら、どうぞ変わってくれと声を荒げたいくらいだ。

 二度寝するつもりで毛布に包まったが、どうにも下半身に意識が集中して眠れない。下半身に手を伸ばすと、洗浄を済ませたばかりの冷たい金属の感触がする。貞操帯の上から扱くように手を動かす。当然だが、虚しさだけが募るだけだった。
 自分の身体の一部なのに、自分の好きにできない。窮屈だ。不自由だ。不自由は屈辱だ。

「射精したいィ……!」

 ぐねぐねと寝床で身もだえしていても、救いの手は差し伸べられない。

 Aは諦めて起き出し、段ボール箱に貼ってある紙にバツを付けた。解禁日までの残り日数を心の拠り所にしなくては、とてもやっていられなかった。
 信じたくない事実だが、まだバツはふたつしか付いていない。

 何でもいいから身体を動かして、下半身のことを忘れなければならない。Aは備品置き場のドアを開ける。事務所に行ってレスターに出された宿題を済ませてしまおう。



 開店一時間前。Aがフロアの床にモップを掛けていると、クレハドールが出勤してきた。彼はいつも純白の高級車に、運転手付きでやってくる。

「おはようございます、A。
 昨日は楽しかったですね! これ、ちょっとしたお礼です。お揃いですよ」

 クレハドールはご機嫌で何か包みを差し出してきた。
 彼がご機嫌である理由はともかく、Aはそれを奪うようにして受け取った。見習いのくせに、運転手付きで職場に来る阿呆だ。期待するなという方が無理だろう。

「はあ?」

 中から出てきたのは、昨日、土産物屋で買ったボールペンだった。コンドームのチャームが付いている頭の悪いやつだ。

「俺は、ピアスとかカフスとか腕時計をお揃いにしたいんだけど?
 特にそのピアス」

 Aはクレハドールの頭の先からつま先まで眺めまわす。お揃いというだけあってウエストコートの胸ポケットにはペンがささっていたが、気の毒になるほど場違いだった。きっとシャツのボタンひとつでペンが五十本は買えるだろう。

「ひどいな、昨日の時点で気づいて下さいよ。せっかくマスターに貰ったピアスなのに。
 良いじゃないですか、ペンをお揃いなんて学生以来です」

 クレハドールは嫌味でもなんでもなく、本気で嬉しがっているらしい。金銭感覚がマヒすると、こんな狂人が出来上がってしまうようだ。

 その時、Eが店に入ってきた。
 彼は真っ直ぐにクレハドールとAに向かって歩いてくると、腰に手を当てる。背の高いクレハドールでも、Eには見下ろされる側になる。

「お前ら、昨日、後をつけてただろう」
「えっ、」

 Aは身体を震わせた。バレていたのか。声色に怒気が混じっている。Eのマジのやつだった。
 恐々と隣のクレハドールを窺うと、彼はご機嫌を少しも損ねていなかった。

「はい。一部始終見てました。
 でも偶然ですよ。Aにレッドライト地区を案内してもらってただけです。まだここに不慣れなので、スリとか恐喝、恐いですもん。
 ねえ、A」
「……えーと、」

 Aは言い淀んだ。クレハドールの言い分がEに通るわけがない。下手すれば、彼のプレイルームにある拷問具を一通り味わう羽目になる。痛いのも苦しいのもごめんだ。
 謝ってしまった方が良いのは自明だった。しかし。

 Domは自分の所有物が反抗すると、大抵は気分を害する。前の店では、客のDomがSubに怒鳴り散らしていたくらいだ。
 しかも、それを他人に見られていたとなると、Domがどれほど所有物に当たり散らして、受けた屈辱を回復させようとするのか想像もできない。
 さすがにEがそんな無様をするとは思わないが、万が一、Nになにかあったら──。
 Nの首を絞める両手が、脳内で再生される。

 答えられないAに、Eの視線が鋭さを増す。顔を背けたいが、それすら許さない力がある。ツ、と冷たい汗が背筋を伝った。
 クレハドールが小さく噴き出す。

「やだなあ。余裕なさ過ぎじゃないですか。そんなに苛々してたら、Nにも呆れられますよ」
「この際だから言っておく。Nに近づくな」

 Eがクレハドールの胸倉を掴んだ。彼のつま先が辛うじて、床に付いているくらいまで持ち上げられている。

「どうしてですか。彼、首輪してないですよね」
「!」

 Aは震えあがった。ここで首輪のことを持ち出すなんて、自殺願望でもあるのではないだろうか。
 視界の隅で何かが動いた。
 クレハドールの指が微かに震えている。Glareでの威嚇を受けているのだろう。それでもまだクレハドールは挑発的に笑みを保っている。

 やせ我慢をするくらいならさっさと謝って欲しい。Aは切実に願った。見ているだけで肝が消える。

「あなた方、何をしているんですか!
 Glareをまき散らされたら、落ち着いて仕事ができないでしょう!」

 奥の方からレスターが足早にやってくる。
 半ば宙づり状態になっているクレハドールを見ても、彼は苛立ちを鎮火させないまま、声を荒げた。

「ドール! 説明しなさい!」

 AはEの視線を受け取った。
 ポケットに忍ばせてあったケースからピンを抜き、クレハドールの襟の内側にそれを刺した。抜け落ちないよう、ピンを表に返す。

 昔、似たような境遇のガキたちとスリをやっていたので、このくらい、まばたきの間にできる。注意がレスターに向かっているなら、なおのことだ。

 Aはしおらしい顔を作って、説教の仲間に入った。

「それはあなたが悪いです」

 説明を受けたレスターが、心底軽蔑したという視線でクレハドールを見た。

「人のものを欲しがった時点で、泥棒と同じです。
 付き添ってあげますから、日曜日は教会に行きましょう」
「そんなあ!」

 クレハドールは宙づりのまま哀れっぽい悲鳴を上げた。Eに睨まれてもああだったのに、よほど教会が嫌いらしい。
 彼ほどではないがAも教会には興味がない。子供だった頃にはパンやクッキーの施しを貰えたので、欠かさずお説教を聞きに行ったものだが。

「俺は、巻き込まれただけなんだけど」

 手を挙げて意見すると、レスターはブリッジを押し上げて眼鏡のフレームの位置を調整した。
 視線の端に、宙づりから解放されたクレハドールが座り込んでいるのが映る。

「まあいいでしょう。
 ですが書いて頂いたレビュー、あまりにもスペルミスが多いので、今から事務所へ来るように」

 Aは連行される途中、Eを盗み見る。
 彼は興味が失せてしまったかのように、従業員控え室の方へ足を向けていた。

 ピンは、昨夜、店を閉めてから彼に受け取ったものだ。あの時のEは明らかに人目を気にしていた。
 以前、クリニックの話がレスターに筒抜けになっていたのを危ぶみ、Aは自分が鍵を管理している備品置き場に招いた。

 小さな縦長のケースに、ピンが一本だけ。ピンと言っても針金よりずっと細いし、長さだって一センチもないだろう。少し視力の悪い者なら一瞬で見失いそうだ。
 当たり前だが、GPS発信機や盗聴器が仕込めるわけでもない。正真正銘、ただのピンだ。

 それをクレハドールの服に仕込め、と言われた。クリニックの件を持ち出されては、Aに断れるはずがない。毒針ではないかとAは怪しんだのだが、Eは否定した。

 昨夜の時点では何も聞かされていなかったが、Eが尾行に気づいていたということは、クレハドールへの牽制の意味があるのだろうか。
 あのか細く頼りないピン一本で……?

 Eは頭が良すぎて、Aには理解できないことをする。今回もその類だろう。
 それよりもNとのことが気掛かりだ。

「A、聞いてますか」
「えっ、あっ、はい、」

 Aは急に現実に引き戻された。いつの間にか、パソコンの前に座らされている。画面には例のSNSが表示されていた。

「私はヴォルテールの、レビューを書けと言いましたよね?」

 レスターが背後で殺気を滲ませている。
 嫌な懐かしさだった。

 教会で施しを受けるには、子供は聖書の書き取りをしなくてはならなかった。サボっていないか、写し間違いがないか、小鼻を膨らませた中年のシスターが背後から監視していたものだ。

「い、一応、考えがあるんだけど、聞く?」

 Aは身体を強ばらせながら、レスターを振り返る。
 Eみたいに、背後に拷問器具の存在を滲ませながら怒られるのは恐いが、今にもヒステリーを起しそうな中年女の怒り方もまた委縮させられる。

「伺いましょう」
「いきなり高級店のレビュー書いても、ウソっぽくないか?
 初めてレッドライト地区に遊びにきた観光客用に、治安状態をメインに、パブとか遊びやすい価格帯の店を紹介するだろ。で、コイツ遊び慣れてるなっていうのを利用者に認知させる。
 ある程度、レビュワーとして信用を得た辺りで、ヴォルテールを書く。
 その頃には、俺の文章力も上がってる、はず……」

 言いながら声が尻つぼみになっていく。レスターの表情が少しも柔らかくならないからだ。
 やはりダメだったか、とAは重い沈黙を誤魔化すために、両手の指をわきわきさせた。

 はーっ、と深い溜息がAの間延びした髪を払った。

「まあいいでしょう。
 一応、あなたなりに真面目に考えていたのは、分かりました。その点を評価します」

 今度はAが息を吐く番だった。
 胸を撫で下ろすAの目の前に、プリントアウトしたAのレビューが差し出された。ご丁寧に赤ペンで、スペルミスとか行を変えろとか指示がしてある。

 レスターと視線が合い、Aはしどけない笑い声を漏らした。それは残念な空気を残しつつ、フェードアウト気味に狭苦しい事務所に響いた。
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