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12.ワンちゃんと遊ぶだけのおしごと
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事務所に戻ると、レスターが不気味そうに椅子を引いた。タイピングをしていたせいか、いつもの手袋を外している。白い指で眼鏡のフレームの位置を整えた。
「なんだよ?」
「失礼。
何か良いことがあったようですね。顔に痣を作っているのに」
忘れていたが、昨夜、レスターに強かにぶたれたのだった。
Aはロッカーの内側の鏡を見た。たしかに喧嘩の後かという顔だ。ヤク中の相手もしたし、セラフィムにスタンガンを使われたので、悪相になっている。
この顔でシュゼーに会っていたらしい。野蛮な男のイメージを持たれただろう。
「まあいいですよ。
これをご存じですよね。……待ってください。上着を脱いでからこちらへ」
見た目のイメージ通りレスターは潔癖症だ。毛虫を目の前に突き出された女の子のように腰が引けている。
Aは上着を脱いで自分の椅子の背に引っ掛ける。
レスターのパソコンを覗き込むと、レッドライト地区にある風俗店を対象にしたレビューで賑わうSNSだった。ユーザーは地元民ではなく、観光客が大半なのだろう。盗難にあった等の報告も書かれていた。
「これがなんだ?」
「レビューを自作自演してください。もう少し、ヴォルテールの知名度を上げたいので」
「なんで俺が」
思わず唇を尖らせてしまう。
口にするのも憚れるが、従業員の中で一番、学がないのがAだ。レビューどころか、まともな文章すら書いたことがない。書く必要のない人生だった。
「疑問を持つことは許しません。
二、三日に一件のペースで構いません。投稿する前にチェックします。書けたら声を掛けてください。宜しいですね?」
この暴君がサポート業に従事していたとは信じられない。Aが社長なら即日、解雇するだろう。
靴の腹で灰色のパソコンデスクを蹴ろうとしたときだ。
ヴィクトルが珍しく事務所に顔を出した。
「Aー、
……ふたりとも何見てるの?」
ヴィクトルが背後から圧し掛かるようにパソコンを覗き込んだせいで、レスターとAはぎゅむっと圧縮された。
相変わらず自分の体格を分かっていない大型犬だ。
「へえ、こんなのがあるんだ。
おれのことはなんて書いてある? あ、星がいっぱい付いてる。ふうん」
「っヴィクトル、」
レスターが潰れた声で抗議する。細身の彼の腹に、デスクがめりこんでいるのだ。
「ごめんごめん。
Aを呼びにきたんだ。さっそくプログラムを始めよう」
Aはヴィクトルの背を追いかけ、二階のプレイルームへ上がった。
「着替えなくても良いのか?」
生地の薄いシャツを摘まみ上げて、Aは尋ねた。店ではいつも店長用の制服を着ている。グレーのシャツに黒のウエストコートだ。
ヴィクトルは歩みを止めないまま、首だけを捻ってAに笑いかける。
「大丈夫。プレイルームに入ったら、Aは店長じゃなくて見学客ね」
「おっかなねえなあ……」
「ワンちゃんを可愛がるだけの、簡単なお仕事さ。リラックスして」
ヴィクトルは小さな袋をAのズボンのポケットにねじ込むと、プレイルームのドアを開けた。
「やあ。ホワイト、お待たせ。
良い子でお留守番が出来てたかな?」
「……」
Aは面食らった。
そこには犬がいた。フワフワの毛皮で、耳やフサフサの尻尾もある。
ただ、サイズが異様にでかい。
人間が着ぐるみを纏って、顔はラテックス製のドッグマスクを被っているのだ。てっきり半裸の男が首輪をしているものと思っていたから、予想外すぎた。
マスクの眼の部分から、人間の眼がきょろきょろと動いて、ヴィクトルとAを見比べている。
着ぐるみ姿は毛皮補正もあって微笑ましいが、意思のある眼が覗いていると、妙に恐い。途端に生々しくなる。
ぬいぐるみのボタン製の目や、人形の樹脂製の目なら恐くない。犬や猫でもそう恐くはないだろう。人間の知性、感情の複雑さが眼を通して伝わってくるから恐いのだ。
否応にも自分がどう見られているか、挙動がどうジャッジされているのか、意識してしまう。
しかも目の前の犬は、犬の皮を被った人間だ。擬態をして姿を欺いている。
本能的に警戒心が呼び起されてしまうのだ。
戸惑いながら、Aは犬を撫でてやろうと手を伸ばした。
だが犬は「キャン」と鳴き声を上げると、ヴィクトルの背に隠れてしまった。鳴き声まで本物の犬のようだ。
「恐がりなんだ。
ホワイト、おれの友達と仲良くしてくれるかい」
ヴィクトルは膝を付くと、犬の首の下をカリカリと撫でる。
犬は従順にうっとりと咽喉元を晒している。やがてヴィクトルの手が離れると、Aの方へ四つん這いでやってきて、すり寄ってきた。
恐る恐る背を撫でると、ペロペロと犬が頬を舐めた。痣がある方の頬だ。
考えてみれば、可愛がられにきたのに、現れたのが顔に痣を作っている男では戸惑って当然だ。犬なりに、愛想を振りまいて機嫌を取ろうとしているのかもしれない。
「ホワイト、今日は一緒に遊ぼうな」
Aは全身を掻きまわすようにして、犬を撫でた。
犬は僅かに眼を細めた。少しだけAに気を許したことを雄弁に語ってくる。
表情の一部や言葉を制限されているので、意思を伝える手段はごく限られてしまう。これを的確に読めるかどうかで、良い飼い主かが決まるのは明白だ。
「ホワイト、首輪を取っておいで」
ヴィクトルからコマンドを使われ、ホワイトはすぐに隅の小物入れから首輪を取ってきた。
「Good Boy」
「ワン!」
ヴィクトルが片膝を付き、首輪の準備をしている間にも、犬の視線は彼から離れない。時折、せっつくように鼻づらをヴィクトルの手の甲に押し付けることすらした。
期待を込めて餌皿を注視する、本物の犬と変わらない。
「お座り、こっちを見て、そのまま」
お座りをして微動だにしない犬に、ヴィクトルが手際よく首輪を嵌めた。白い毛皮に映える、赤い首輪だ。そこから、今どき本物の犬にもしないだろう、鉄のチェーンがリードとして伸びている。
「Good Boy」
ヴィクトルが眼だけで、Aに合図してきた。
促されるまま犬の眼を見ると、さっきまでの恐さが薄れていた。夢見るように蕩けて、理性や知性に一枚膜がかかっているようだ。マスクの下で呼吸も荒くなっている。
じゃらっとわざと大きな音を発てて、リードを上に引っ張って息苦しくしてやると、さらに膜が一枚増える。
これがプレイ中のSubという生き物なのか。
あまりしげしげ見つめると、犬が夢から醒めてしまうかもしれない。
Aはヴィクトルに合図を送り返す。
「付け」
ヴィクトルが自分の太ももを叩き、リードを持って歩き始めた。コマンドを受けた犬もペースを合わせる。プレイルームの四隅に沿って、飼い主と犬は短い散歩を始めた。
始めは良かったのだが、ヴィクトルは背が高いから歩幅も広くなる。ネイティブの四つん這いではない犬は、それに必死で付いていく。殆ど駆け足だ。二周してAのところで止まった時には、心配になるくらい息を荒げていた。
「水を持ってこようか?」
尋ねると、ヴィクトルはそれをきっぱりと跳ね退けた。
「ダメ。
それはおれがやる」
「ッ!」
そういうと彼は奥へ水を取りに行った。
怯んだAは、心臓に手を当てて押さえた。妙な動きをしている。
ヴィクトルは明らかにAを牽制していた。全身で犬の所有権を主張していた。Domの執着心をまともに食らったのは、初めてではないだろうか。
AにはGlareが効かない筈なのに、あの迫力。良かれと思って申し出たのに。Domの所有物には、絶対に手を出すまい。Aは心に誓った。
「よしよし、頑張ったな。ホワイト、えらいぞ」
まだ呼吸の整わない犬の頭を撫でてやると、犬はさらに眼を蕩けさせた。
「えらい、えらい」
抱きかかえるようにして全身を撫でまわしてやる。くんにゃりと犬の身体が夏場のあめ玉のように融けていく。
AはUsualだ。Domのような力はない。それなのに分かり易すぎるほどに犬は反応を返してくる。不思議な感覚だった。
Aは娼婦のつまらない息子で、なんの権力も持たずに生きてきた。Aが死んだとしても誰も困らないだろう。なのに、この一瞬だけは確実にホワイトに影響を与える側に立っている。
プレイルームの部屋をデッキブラシで磨きながら、Aはぼんやりしていた。まだ犬とのプレイの余韻が抜けていない。まるで現実味のない時間だった。客が帰るのを見送ってから時計を見ると、二時間も経っていなかったのに驚いたくらいだ。
「どうだった?」
やはりデッキブラシを持ったヴィクトルが、感想を求めてくる。
「ワケがわからん」
本当にワケのわからない、夢みたいな出来事だった。
Aも犬のリードを持ってやはり部屋を一周し、ご褒美にポケットにねじ込まれたオヤツをあげた。ボールを取ってこいもさせた。もちろん、コマンドはヴィクトルが出したのだが。
ごろんさせて、二人掛かりで腹を撫でまわすと、犬は堪らずお漏らしした。
それで床掃除をする羽目になったのだが、何故か苛立ちはしなかった。漏らすほど嬉しかったのならしょうがないか、という気になってしまう。
「ていうかさ」
プレイ中、ずっと気になっていたことをAは聞いてみた。
「D/Sのプレイって、一対一じゃなくていいんだ?」
ヴィクトルは床に追加の洗剤を撒いた。ヴォルテールのDomたちは基本的にきれい好きで、さらに神経質なところがある。彼らにとってプレイルームは充分、所有物に含まれるのだろう。
「ホワイトはちょっと特別なんだ。
良いとこの会社のお偉いさんなんだよね。社長の引き抜き。仕事に厳しいせいで、部下に距離を置かれちゃってるんだよ。本当は群れに入りたいんだけどね。
ここには構って欲しくて来てるから、複数もアリ」
「群れか」
ガシガシと床を磨きながら呟く。
「あの恰好だけ見れば滑稽だけど、バックボーンを知ったら納得しちゃうだろ?
Aもカウンセリングが出来るようにならないとね」
「嘘を付かれたら?」
ヴィクトルはにやりと笑った。
「客の大半は嘘つきさ」
全く持って仰る通りだった。最初から自分の欲望に素直になれる奴なんていない。汚い部分を直視できないからだ。ひとつずつ客の嘘を見破ってお仕置きを与えるのが、ここでの仕事なのだ。
「なんだよ?」
「失礼。
何か良いことがあったようですね。顔に痣を作っているのに」
忘れていたが、昨夜、レスターに強かにぶたれたのだった。
Aはロッカーの内側の鏡を見た。たしかに喧嘩の後かという顔だ。ヤク中の相手もしたし、セラフィムにスタンガンを使われたので、悪相になっている。
この顔でシュゼーに会っていたらしい。野蛮な男のイメージを持たれただろう。
「まあいいですよ。
これをご存じですよね。……待ってください。上着を脱いでからこちらへ」
見た目のイメージ通りレスターは潔癖症だ。毛虫を目の前に突き出された女の子のように腰が引けている。
Aは上着を脱いで自分の椅子の背に引っ掛ける。
レスターのパソコンを覗き込むと、レッドライト地区にある風俗店を対象にしたレビューで賑わうSNSだった。ユーザーは地元民ではなく、観光客が大半なのだろう。盗難にあった等の報告も書かれていた。
「これがなんだ?」
「レビューを自作自演してください。もう少し、ヴォルテールの知名度を上げたいので」
「なんで俺が」
思わず唇を尖らせてしまう。
口にするのも憚れるが、従業員の中で一番、学がないのがAだ。レビューどころか、まともな文章すら書いたことがない。書く必要のない人生だった。
「疑問を持つことは許しません。
二、三日に一件のペースで構いません。投稿する前にチェックします。書けたら声を掛けてください。宜しいですね?」
この暴君がサポート業に従事していたとは信じられない。Aが社長なら即日、解雇するだろう。
靴の腹で灰色のパソコンデスクを蹴ろうとしたときだ。
ヴィクトルが珍しく事務所に顔を出した。
「Aー、
……ふたりとも何見てるの?」
ヴィクトルが背後から圧し掛かるようにパソコンを覗き込んだせいで、レスターとAはぎゅむっと圧縮された。
相変わらず自分の体格を分かっていない大型犬だ。
「へえ、こんなのがあるんだ。
おれのことはなんて書いてある? あ、星がいっぱい付いてる。ふうん」
「っヴィクトル、」
レスターが潰れた声で抗議する。細身の彼の腹に、デスクがめりこんでいるのだ。
「ごめんごめん。
Aを呼びにきたんだ。さっそくプログラムを始めよう」
Aはヴィクトルの背を追いかけ、二階のプレイルームへ上がった。
「着替えなくても良いのか?」
生地の薄いシャツを摘まみ上げて、Aは尋ねた。店ではいつも店長用の制服を着ている。グレーのシャツに黒のウエストコートだ。
ヴィクトルは歩みを止めないまま、首だけを捻ってAに笑いかける。
「大丈夫。プレイルームに入ったら、Aは店長じゃなくて見学客ね」
「おっかなねえなあ……」
「ワンちゃんを可愛がるだけの、簡単なお仕事さ。リラックスして」
ヴィクトルは小さな袋をAのズボンのポケットにねじ込むと、プレイルームのドアを開けた。
「やあ。ホワイト、お待たせ。
良い子でお留守番が出来てたかな?」
「……」
Aは面食らった。
そこには犬がいた。フワフワの毛皮で、耳やフサフサの尻尾もある。
ただ、サイズが異様にでかい。
人間が着ぐるみを纏って、顔はラテックス製のドッグマスクを被っているのだ。てっきり半裸の男が首輪をしているものと思っていたから、予想外すぎた。
マスクの眼の部分から、人間の眼がきょろきょろと動いて、ヴィクトルとAを見比べている。
着ぐるみ姿は毛皮補正もあって微笑ましいが、意思のある眼が覗いていると、妙に恐い。途端に生々しくなる。
ぬいぐるみのボタン製の目や、人形の樹脂製の目なら恐くない。犬や猫でもそう恐くはないだろう。人間の知性、感情の複雑さが眼を通して伝わってくるから恐いのだ。
否応にも自分がどう見られているか、挙動がどうジャッジされているのか、意識してしまう。
しかも目の前の犬は、犬の皮を被った人間だ。擬態をして姿を欺いている。
本能的に警戒心が呼び起されてしまうのだ。
戸惑いながら、Aは犬を撫でてやろうと手を伸ばした。
だが犬は「キャン」と鳴き声を上げると、ヴィクトルの背に隠れてしまった。鳴き声まで本物の犬のようだ。
「恐がりなんだ。
ホワイト、おれの友達と仲良くしてくれるかい」
ヴィクトルは膝を付くと、犬の首の下をカリカリと撫でる。
犬は従順にうっとりと咽喉元を晒している。やがてヴィクトルの手が離れると、Aの方へ四つん這いでやってきて、すり寄ってきた。
恐る恐る背を撫でると、ペロペロと犬が頬を舐めた。痣がある方の頬だ。
考えてみれば、可愛がられにきたのに、現れたのが顔に痣を作っている男では戸惑って当然だ。犬なりに、愛想を振りまいて機嫌を取ろうとしているのかもしれない。
「ホワイト、今日は一緒に遊ぼうな」
Aは全身を掻きまわすようにして、犬を撫でた。
犬は僅かに眼を細めた。少しだけAに気を許したことを雄弁に語ってくる。
表情の一部や言葉を制限されているので、意思を伝える手段はごく限られてしまう。これを的確に読めるかどうかで、良い飼い主かが決まるのは明白だ。
「ホワイト、首輪を取っておいで」
ヴィクトルからコマンドを使われ、ホワイトはすぐに隅の小物入れから首輪を取ってきた。
「Good Boy」
「ワン!」
ヴィクトルが片膝を付き、首輪の準備をしている間にも、犬の視線は彼から離れない。時折、せっつくように鼻づらをヴィクトルの手の甲に押し付けることすらした。
期待を込めて餌皿を注視する、本物の犬と変わらない。
「お座り、こっちを見て、そのまま」
お座りをして微動だにしない犬に、ヴィクトルが手際よく首輪を嵌めた。白い毛皮に映える、赤い首輪だ。そこから、今どき本物の犬にもしないだろう、鉄のチェーンがリードとして伸びている。
「Good Boy」
ヴィクトルが眼だけで、Aに合図してきた。
促されるまま犬の眼を見ると、さっきまでの恐さが薄れていた。夢見るように蕩けて、理性や知性に一枚膜がかかっているようだ。マスクの下で呼吸も荒くなっている。
じゃらっとわざと大きな音を発てて、リードを上に引っ張って息苦しくしてやると、さらに膜が一枚増える。
これがプレイ中のSubという生き物なのか。
あまりしげしげ見つめると、犬が夢から醒めてしまうかもしれない。
Aはヴィクトルに合図を送り返す。
「付け」
ヴィクトルが自分の太ももを叩き、リードを持って歩き始めた。コマンドを受けた犬もペースを合わせる。プレイルームの四隅に沿って、飼い主と犬は短い散歩を始めた。
始めは良かったのだが、ヴィクトルは背が高いから歩幅も広くなる。ネイティブの四つん這いではない犬は、それに必死で付いていく。殆ど駆け足だ。二周してAのところで止まった時には、心配になるくらい息を荒げていた。
「水を持ってこようか?」
尋ねると、ヴィクトルはそれをきっぱりと跳ね退けた。
「ダメ。
それはおれがやる」
「ッ!」
そういうと彼は奥へ水を取りに行った。
怯んだAは、心臓に手を当てて押さえた。妙な動きをしている。
ヴィクトルは明らかにAを牽制していた。全身で犬の所有権を主張していた。Domの執着心をまともに食らったのは、初めてではないだろうか。
AにはGlareが効かない筈なのに、あの迫力。良かれと思って申し出たのに。Domの所有物には、絶対に手を出すまい。Aは心に誓った。
「よしよし、頑張ったな。ホワイト、えらいぞ」
まだ呼吸の整わない犬の頭を撫でてやると、犬はさらに眼を蕩けさせた。
「えらい、えらい」
抱きかかえるようにして全身を撫でまわしてやる。くんにゃりと犬の身体が夏場のあめ玉のように融けていく。
AはUsualだ。Domのような力はない。それなのに分かり易すぎるほどに犬は反応を返してくる。不思議な感覚だった。
Aは娼婦のつまらない息子で、なんの権力も持たずに生きてきた。Aが死んだとしても誰も困らないだろう。なのに、この一瞬だけは確実にホワイトに影響を与える側に立っている。
プレイルームの部屋をデッキブラシで磨きながら、Aはぼんやりしていた。まだ犬とのプレイの余韻が抜けていない。まるで現実味のない時間だった。客が帰るのを見送ってから時計を見ると、二時間も経っていなかったのに驚いたくらいだ。
「どうだった?」
やはりデッキブラシを持ったヴィクトルが、感想を求めてくる。
「ワケがわからん」
本当にワケのわからない、夢みたいな出来事だった。
Aも犬のリードを持ってやはり部屋を一周し、ご褒美にポケットにねじ込まれたオヤツをあげた。ボールを取ってこいもさせた。もちろん、コマンドはヴィクトルが出したのだが。
ごろんさせて、二人掛かりで腹を撫でまわすと、犬は堪らずお漏らしした。
それで床掃除をする羽目になったのだが、何故か苛立ちはしなかった。漏らすほど嬉しかったのならしょうがないか、という気になってしまう。
「ていうかさ」
プレイ中、ずっと気になっていたことをAは聞いてみた。
「D/Sのプレイって、一対一じゃなくていいんだ?」
ヴィクトルは床に追加の洗剤を撒いた。ヴォルテールのDomたちは基本的にきれい好きで、さらに神経質なところがある。彼らにとってプレイルームは充分、所有物に含まれるのだろう。
「ホワイトはちょっと特別なんだ。
良いとこの会社のお偉いさんなんだよね。社長の引き抜き。仕事に厳しいせいで、部下に距離を置かれちゃってるんだよ。本当は群れに入りたいんだけどね。
ここには構って欲しくて来てるから、複数もアリ」
「群れか」
ガシガシと床を磨きながら呟く。
「あの恰好だけ見れば滑稽だけど、バックボーンを知ったら納得しちゃうだろ?
Aもカウンセリングが出来るようにならないとね」
「嘘を付かれたら?」
ヴィクトルはにやりと笑った。
「客の大半は嘘つきさ」
全く持って仰る通りだった。最初から自分の欲望に素直になれる奴なんていない。汚い部分を直視できないからだ。ひとつずつ客の嘘を見破ってお仕置きを与えるのが、ここでの仕事なのだ。
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