Sub専門風俗店「キャバレー・ヴォルテール」

アル中お燗

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11.ABCのA

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 電話が鳴っている。

 Aは毛布を身体に巻き付け、丸まった。昨日の夜があまりにも長かったせいだ。だが、どんなに身体を堅く閉じても、ヒステリックな音は止まない。
 根負けしたAは、未練たらたらで店の固定電話へ向かった。

 Aはヴォルテールの備品置き場で寝泊りしている。前の風俗店でもそうしていた。部屋を借りてまで死守したいプライベートがないからだ。

 装飾過多なアンティークの受話器を持ち上げる前に、咳払いをひとつする。

「はい、キャバレー・ヴォルテールでございます」
『A、助けてくれ、』
「どうした? まだバッド入ったか?」

 前に勤めていた店のSubのマットだ。薬さえやらなければ良いやつなのだが、時々、ラリって電話をひっきりなしにかけてきたりする。
 今日はいつもより声の調子がやばそうだ。歯ぎしりも微かに聞こえてくる。
 Aは耳に受話器を押し付けた。

「医者が要るか?」
『たのむ、……ウっ、』

 吐瀉物が床を叩いたらしい。電話越しとはいえ、気分の良いものではない。

「十分だけ待ってな。明るい音楽でもかけてろ」

 溜息をつくと、備品置き場から上着を持ってくる。昨夜、レスターの冷ややかな視線を浴びたやつだが、今はこれしかない。
 Aは上着を羽織ると、朝のレッドライト地区へ出た。



 両耳がピアスだらけの医者は、見た目に反して腕が良かった。
 何故か全裸のマットにも怯まなかった。錯乱状態の彼を組み敷き、腕を出して鎮静剤を注射する。一連の流れが、あまりにも手慣れていた。
 そういえば、医者は水晶の夕餉を囲む会の主治医でもあるのだ。

 Aと医者の二人掛かりでマットをベッドへ放り投げる。
 鎮静剤が効いたのだろう。彼は意識を手放している。不摂生な生活の色が全身を染めていた。腕には鎮静剤だけではない注射痕が無数にあった。
 おそらく店で嫌なことがあって、薬に逃げてしまったのだろう。

 しばらくヴォルテールから帰るときの、満たされきったSubの顔しか見ていなかったから忘れてしまっていた。

「依存症回復プログラムを薦めるが、まあ無理だろうな」

 医者はうんざりだと言わんばかりに吐き捨てる。

「なあ、先生。
 こいつを大事にしてくれるDomがいたら、こいつはまともになるのかな」

 医者は両手を白衣のポケットに突っ込んで、無言のまま、部屋を見回した。
 束の間、沈黙が下りた。

 部屋は荒れていた。クローゼットの物を掻き出したらしい。服が散乱している。植木鉢の草は枯れていた。Aが音楽をかけろと言ったせいだろう、CDも散乱し、何枚かは割れていた。
 そんなカオスな空間に、白衣の医者が立っていると異物が紛れ込んだようだった。髪はキンキンだし耳はピアスぎっしりだが、Aの中に彼を尊敬する気持ちが芽生えた。

「……希望を持つことだ」

 ずいぶん言葉を選んだのだろう、無言の末に医者は肩を竦める。

「で? 治療費をもらおうか?」

 言われて、Aはドキッとした。金のことを失念していた。そしてポケットに手を突っ込んで、さらに動揺した。
 ヴェルナーから巻き上げた金が、まるごと入っている。
 Aのこめかみに冷たいものが流れた。

「いくら?」
「お気持ち程度」

 別のタイミングで聞きたい言葉だった。
 ポケットから数枚を差し出す。

「は?
 あんた、最高級品の抑制剤をバカスカ買っていくよな? こんな早朝に叩き起こしてくれた分は上乗せしないのか?」

 医者がチンピラに豹変した。今にも唾を吐きかけられそうな勢いだ。
 芽生えた敬意が萎える。

「~~っ、分かったよ」

 Aは投げやりになって追加分を支払った。中年男の生臭いキスに耐えたのに、天に見放された気分だ。
 医者は札を数えると、ピンと指先で弾いた。

「よし。
 ああ、それから」
「……まだ何かあるのかよ」
「オレのことはドクターと呼べ。先生では定義が広すぎる」
「そんなに大事かあ?」

 拍子抜け半分、呆れ半分で、Aは脱力する。

「大事だ。
 自分が何者か確認する必要がある」

 医者の言葉は強かった。責任と義務の重みがある。
 Aはもう少し、この医者と話をしてみたくなった。ただ抑制剤を横流しするだけの男だと思っていたのに、彼はちゃんと医者だったからだ。

「ドクター。夜明けのコーヒーでも飲んでいかないか。
 こいつもそれくらいご馳走してくれるだろう」

 親指を立ててマットを指さす。
 医者が頷いたので、二人はキッチンへ入った。幸いなことに、部屋の荒れ具合に反して、キッチンはほとんど手付かずだ。調理をしないのだろう。

 冷蔵庫には妙に食料が詰め込んである。ジャンクフードの包装がくたびれていないので、買ってきてから日は経っていないだろう。舌にくる薬物をやるつもりだったのかもしれない。

 医者が小振りの鍋で湯を沸かし、Aがインスタントコーヒーとビスケットを発見した。

「名前を聞いてなかった」

 キッチンのテーブルに向かい側に座り、医者がマグカップを傾けた。

「A」
「変な名前」

 Aが開封したビスケットに次から次に手を出すので、医者は眉を顰め、皿の真ん中で二等分する。ひとり十枚ちょっとだ。

「どういう意味だ?」
「言いたくない」

 医者が自分のビスケットを更に二等分して、片方をAの方へ寄越した。

「……いやだ」

 意に反して、腹が鳴る。
 さらに二等分されたビスケットが追加された。医者の手元には、もう三枚しか残っていない。
 じゅわりと唾液が溢れてきた。

「それ、全部くれるなら、言う」
「……」
「あッ!」

 医者は有無を言わさず、皿を半回転させた。
 三枚のビスケットがAの手元にくる。

「分かった! 言えばいいんだろ!
 ABCのAだよ!」
「……キス?」

 医者は皿の位置を戻しながら、話を促す。

「ガキの頃、娼婦のお袋の横で客にAを売ってた。商品名だ」

 この話をすると大抵の人間は笑う。売春街では鉄板の笑い話だ。Aも一緒になって笑ったが、毎回、同じ量だけ自尊心が削られた。慣れる日はこないだろう。
 医者は笑わない。僅かに眉根を寄せただけだった。
 Aは気まずくなった。こういう反応をされたことがないので、どうすればいいのか知らないのだ。

「ドクターの名前は?」

 居心地の悪さを誤魔化すように、早口に問う。

「シュゼー・サフラネク」
「いいじゃん、立派だ」

 ビスケットでパサパサになった口を、賞味期限の知れないコーヒーで流し込む。
 シュゼーもやっと自分の分のビスケットに手を付けた。一枚をゆっくり味わって、小さく呟く。

「偽名だよ」
「え?」

 舌なめずりしてビスケットに伸ばした手が止まった。

 顔を上げてシュゼーを見ると、彼は頬杖をついて、半眼を伏せていた。どこか物憂い表情だ。まだ弱い朝日に、淡い金髪が透けている。ピアスも、着ている白衣も、それ自体が輝いているよう。
 イノセントな光景だった。

 Aは見惚れた。普段あれだけ美形に囲まれているというのに。

「あんたも、偽名を名乗れば?」
「今までAで通してきたのに、……今さら」

 何を名乗っても名前負けしている、と指を差されるシーンを想像してしまう。キスですら笑われるのに、そうなったら辛いだけだろう。

 シュゼーはなぜ偽名を名乗っているのだろう。レッドライト地区にいる理由と連動しているのなら、ヤバいことに首を突っ込んだとか、借金取りに追われているとかだろうか。
 それとも水晶の夕餉を囲む会の主治医をしているから?

 今まで通り医者と客の関係に留めて、シュゼーに深入りしない方がいいだろう。トラブルに巻き込まれたら、今度はレスター達に何をされるか分かったものではない。
 頭では分かっているのに、彼への好奇心が抑えきれない。シュゼーが名前を笑わなかったからだ。

「……また、抑制剤を買いに行くから」

 もっと違うことを言いたいのに、気の利いたセリフが思い浮かばない。Aは今まで感じたことのない気恥ずかしさに、混乱をした。
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