上 下
7 / 10

七,隔たり

しおりを挟む

『チッ! この風じゃ舵がきかない!』
『高波だ! 飲み込まれるぞ!』

 瞼に……頭に……父の姿が映し出される。
 それだけでなく、マテウス自身がその場にいるような緊迫感があった。

 やはり父も、己のように波に襲われていたのか――。
 そう思った次の瞬間、父の船は波に飲み込まれ、船体も、乗り組員も、荷物も……なにもかもが海中でばらばらになっていく。

 ――父さん!

 マテウスは思わず声を出す。手を伸ばす。
 しかし、海を人形のようにたゆたう父には、到底届かなかった。


 父が沈んでいく……そう思った刹那、影がよぎり、父を抱きかかえると水面へと浮かんだ。
 小さな入り江に父を運んだ影は、やはり人魚であった。それは父こそが探し求めていた存在だ。


 ……目を覚ました父は難破の衝撃か、一切の記憶を失っていた。
 目を開き、茫然とする父に向って、人魚は優しく微笑む。
 クラルテとは異なり、鎖骨から少し下に乳房がついている。女性の人魚なのだろう。

 父は新たな記憶を構築するとともに、人魚と心を通わせていった。
 かつての父とは異なり、笑顔は柔和なもので、それを人魚に向ける度に彼は幸せそうであった。
 人と人魚の隔てなど、かけらも感じられない。

 やがてそれは、――愛と呼べるものに育っていく。
 添い遂げよう。父が人魚に告げると、彼女は幸福な涙を零して喜んだ。

(父さん……僕も知りました。あなたが敵視していた人魚とは、かくも優しいのだと)

 とはいえ、人間と人魚が共に生きる道が険しいことを、彼らは自覚していた。
 父と人魚は二人静かな安住の地を目指し、旅立っていく。

 これが父にとって、本当に最後の船旅になるのだろう。
 そう、マテウスは察した。

 ただただ、夕陽に向かって旅立つ父の船を、マテウスは見守っていた。

「……っ」
『マテウス?』

 はっと目を開いたマテウスは、元の通り、小さな岸辺にクラルテと在った。
 ほんの一瞬目を閉ざしていただけだが、どっと疲弊する。

『マテウス? 大丈夫?』
「…………うん……」

 なんとも言いようがない。マテウスはクラルテを不安にさせないよう、むりやりに唇を笑ませた。
 けれど、やはりその気落ちは伝わってしまったようで、クラルテの腕がそっと背中に回される。

 海に棲んでいるにも関わらず、クラルテの体は冷たすぎず、生きていることを感じさせた。
 胸元に触れる赤い心臓が、ゆっくりと動いている。

(ああ。もしかしたら僕だって同じような道をたどって……)

 透明なクラルテの体を、マテウスもそっと抱き寄せる。
 肩口に額をつけ、そっと目を閉ざしたところで、はたと気付いた。

 ――え?
 同じ、ような……?

『マテウス?』
「あ……」
『悲しい、記憶だった?』
「……ううん。そんなこと、ないよ」

 クラルテの指先が、後頭部をあやすように撫でる。柔らかいその手櫛は、まるですべてを包み込むようだ。

「少し、唄ってくれるかい? 君の歌が聴きたい」

 そうリクエストをすると、クラルテが頷く気配がした。そうして胸に直接響くあの声で、マテウスのために歌い始める。

 ――天の真珠、波に揺れて……

 何も違わない、人間も人魚も。
 住む場所、姿かたち……それらが違うからといって、先入観や偏見をもって見ている。

「君は、人間ぼくが恐くないのかい?」
『……はじめは、少し。大地の子らは海を荒らすと聞いていたから。でも」

 マテウスが顔を上げると、クラルテは美しく微笑んでいた。

『きっと人というのは、本当は優しいのでしょう? マテウスみたいに』
「クラルテ……」

 波の音に耳を撫でられながら、彼らはもう一度、強く強く抱き締めあった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

産卵おじさんと大食いおじさんのなんでもない日常

丸井まー(旧:まー)
BL
余剰な魔力を卵として毎朝産むおじさんと大食らいのおじさんの二人のなんでもない日常。 飄々とした魔導具技師✕厳つい警邏学校の教官。 ※ムーンライトノベルズさんでも公開しております。全15話。

寮生活のイジメ【社会人版】

ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説 【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】 全四話 毎週日曜日の正午に一話ずつ公開

生意気な少年は男の遊び道具にされる

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

初体験

nano ひにゃ
BL
23才性体験ゼロの好一朗が、友人のすすめで年上で優しい男と付き合い始める。

助けの来ない状況で少年は壊れるまで嬲られる

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

一人の騎士に群がる飢えた(性的)エルフ達

ミクリ21
BL
エルフ達が一人の騎士に群がってえちえちする話。

俺の体に無数の噛み跡。何度も言うが俺はαだからな?!いくら噛んでも、番にはなれないんだぜ?!

BL
背も小さくて、オメガのようにフェロモンを振りまいてしまうアルファの睟。そんな特異体質のせいで、馬鹿なアルファに体を噛まれまくるある日、クラス委員の落合が………!!

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

処理中です...