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1,脱退
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「ねえ、」
心地いい微睡みの向こうで声がする。
「兄さん」
――机に向かっている最中におとずれる眠気というものは、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。鉛筆を握っていた指が解け、頬が紙面に触れる。
「兄さん、寝ちゃいました?」
なんとなく聞こえてはいるが、眠い。どうせ急ぎの用事でもない筈だ。このままスルーしても構わないだろう……睡魔の手を取り、意識を深く落としていく。
「じゃあ……キス、していいですよね」
とんでもない台詞が耳元にすべりこみ、あっという間に眠気が追い払われた。
がばりと風を切る音が立つ勢いで、体を起こす。
「駄目に決まってるでしょ!」
起き上がりながら、デスクの端に置かれたデジタル時計を確認する。時刻は22時を過ぎていた。
「ああ、よかった……」
22時を過ぎていることに胸を撫で下ろす。枕替わりにしてしまっていたノートを閉じると、その風圧が前髪を揺らした。
「普通に考えてカメラは止まってますよ、ソルセ兄さん」
声の主はデスクに手をついて、ますます近くまで顔を覗き込んでくる。
天井の隅に設置された定点カメラは、22時になれば電源が落とされる。彼らの生活は、22時以降の深夜帯、そして明け方を除き、この定点カメラを通して全世界に公開されることがあるのだ。
「ということで、キスしていいですか?」
それは決して彼らになんらかの罰が与えられているとか、極悪な危険人物で監視せねばならないとか、現実味のないデスゲームに参加されられているとか……そういった理由ではない。
「だーめ」
練習日誌、と書かれたノートで軽く額を叩く。
「いてっ。仮にもアイドルになろうとする男の顔、叩きますか?」
……いや、もしかして照れ隠しとか。
なんとも都合のいい言葉が出るものだ。
「あのねぇ、君こそ……」
兄さんと呼ばれ、キスを乞われる青年――ソルセは改めてノートを開く。寝落ちしたことをありありと伝えるミミズ文字を見て、眉をひそめた。
「アイドルになろうとする練習生が、サバイバル番組中にキスなんてせがむ? 万が一カメラの電源が入ったりしたらどうするの」
そう、定点カメラでの撮影はサバイバルオーディション番組のシステムの一貫であり、彼らはその参加者のアイドルのたまご。いわゆる練習生である。
「……それ以上のことだって、したくせに」
「なっ……! シム・ジュヌ!」
いい加減に堪忍袋の緒が切れたというように、ソルセは椅子から荒々しく立ち上がる。けれども、それ以上になにを言ってやろうかと考えると、なんとも反撃のできる言葉が思い浮かばない。
「はあ……もういい。シャワールーム行ってくる」
キスをせがむ同室生、ジュヌに構われていては練習日誌も進まない。
明日の朝には提出しなければならないのに。これだって、番組中の決まりごとで提出は欠かせない。それに、この日誌の内容がどこかで公開され、自分の有利に働くことだってある。逆にいえば不利にもなりえる。だからこそ落ち着いて書きたかったのだ。
(いや、それは俺が寝落ちたのが悪いんだけど……)
ソルセは洗面道具の入ったバッグを掴むと、足早に部屋をあとにする。
「はあ、なんでこんなことになるかな」
軽くため息をつく。自分がオーディション番組に参加していることではない、あのシム・ジュヌという学生に再会し、さらに同室になるとは。
「もしもふたりともデビューメンバーに選ばれたら……」
アイドルとして活動期間の数年……いや、生涯を共にすることになるのかもしれない。
頭が痛い。バスルームに向かいながら長い銀髪を結ぶゴムをするりと外す。毛先が背中の中ほどで揺れた。
「バスタブ浸かって、ちょっとのんびりしてから戻ろ」
洗面道具を持ち直して、シャワールームへ向かう廊下を迷いなく進んだ。
◆
『姉の高校の卒業アルバムに、SayUのソルに似たひとが写ってる』
一つの書き込みが、イ・ソルセの人生を一転させた。
小さな芸能事務所がプロデュースするボーイズグループ・SayU。ソルセは『ソル』という芸名で、そのグループに所属していた。
デビューしたてこそは新しいグループの誕生だと、小さな花火のように華華しい時期もあったが、弱小事務所ということもあり、スポンサー不足、コネクション不足、資金不足が重なり、イベントや新曲リリースもままならない。
グループそのものが斜陽になりつつあった。それに加えて……。
『え? 卒業年数考えるとそれっておかしくない?』
『どおりで長男より老けてると思った!』
『小さなグループだからバレないとでも思ったのかな。アイドルが年齢詐称とかありえないね』
スマートフォンをスワイプする指先が震えた。
匿名掲示板だけでなく、あらゆるSNSで、もとよりSayUのファンダムでもない顔の見えぬ人間たちが、『ソル』の年齢についてあれこれ議論という名の誹謗中傷を繰り広げている。
『電話にメールに、君の年齢についての嫌がらせみたいな問い合わせが殺到している』
もはややる気のないマネージャーが、抑揚のない声で言う。
『君が大丈夫だと言ったから、三つもサバを読んでグループに入れてやったのに』
違う。違う。違う。そんなことは言っていない。
SayU結成の二年前。ソルセは24歳だった。遅咲きかというと、近年のアイドル低年齢傾向を考えればそうかもしれない。けれどその年齢でのデビューなど珍しいことでもなんでもない。
だが、事務所社長もマネージャーも。フレッシュな方がよかろうとソルセに21歳を演じることを条件にデビューさせたのだ。
良心が揺らがなかったわけではない。
しかしこれまでいくつもの事務所を渡り歩き、青春のほとんどを捨てて練習生を続けてきた。それは何よりもアイドルという存在になりたかったがゆえだ。
そんなソルセの夢という花が、ようやく開こうとしている。夢にまで見たアイドルになれる……どうしようもない誘惑に目がくらみ、弱い選択をしてしまった。
『ソル』という芸名も、微かな逃げなのだ。高校生当時、レッスンが忙しく特に友人もいなかった。誰の記憶にも残っていないだろうと考えてはいたが、やはりすべてにおいて甘かったのだろう。
『SayUもそろそろ潮時だったからな。ソル、お前が脱退したところで誰も気にとめないだろうさ』
……そうしてソルセにとっての二年間の芸能生活は、突如停電したかのように暗闇に包まれた。
心地いい微睡みの向こうで声がする。
「兄さん」
――机に向かっている最中におとずれる眠気というものは、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。鉛筆を握っていた指が解け、頬が紙面に触れる。
「兄さん、寝ちゃいました?」
なんとなく聞こえてはいるが、眠い。どうせ急ぎの用事でもない筈だ。このままスルーしても構わないだろう……睡魔の手を取り、意識を深く落としていく。
「じゃあ……キス、していいですよね」
とんでもない台詞が耳元にすべりこみ、あっという間に眠気が追い払われた。
がばりと風を切る音が立つ勢いで、体を起こす。
「駄目に決まってるでしょ!」
起き上がりながら、デスクの端に置かれたデジタル時計を確認する。時刻は22時を過ぎていた。
「ああ、よかった……」
22時を過ぎていることに胸を撫で下ろす。枕替わりにしてしまっていたノートを閉じると、その風圧が前髪を揺らした。
「普通に考えてカメラは止まってますよ、ソルセ兄さん」
声の主はデスクに手をついて、ますます近くまで顔を覗き込んでくる。
天井の隅に設置された定点カメラは、22時になれば電源が落とされる。彼らの生活は、22時以降の深夜帯、そして明け方を除き、この定点カメラを通して全世界に公開されることがあるのだ。
「ということで、キスしていいですか?」
それは決して彼らになんらかの罰が与えられているとか、極悪な危険人物で監視せねばならないとか、現実味のないデスゲームに参加されられているとか……そういった理由ではない。
「だーめ」
練習日誌、と書かれたノートで軽く額を叩く。
「いてっ。仮にもアイドルになろうとする男の顔、叩きますか?」
……いや、もしかして照れ隠しとか。
なんとも都合のいい言葉が出るものだ。
「あのねぇ、君こそ……」
兄さんと呼ばれ、キスを乞われる青年――ソルセは改めてノートを開く。寝落ちしたことをありありと伝えるミミズ文字を見て、眉をひそめた。
「アイドルになろうとする練習生が、サバイバル番組中にキスなんてせがむ? 万が一カメラの電源が入ったりしたらどうするの」
そう、定点カメラでの撮影はサバイバルオーディション番組のシステムの一貫であり、彼らはその参加者のアイドルのたまご。いわゆる練習生である。
「……それ以上のことだって、したくせに」
「なっ……! シム・ジュヌ!」
いい加減に堪忍袋の緒が切れたというように、ソルセは椅子から荒々しく立ち上がる。けれども、それ以上になにを言ってやろうかと考えると、なんとも反撃のできる言葉が思い浮かばない。
「はあ……もういい。シャワールーム行ってくる」
キスをせがむ同室生、ジュヌに構われていては練習日誌も進まない。
明日の朝には提出しなければならないのに。これだって、番組中の決まりごとで提出は欠かせない。それに、この日誌の内容がどこかで公開され、自分の有利に働くことだってある。逆にいえば不利にもなりえる。だからこそ落ち着いて書きたかったのだ。
(いや、それは俺が寝落ちたのが悪いんだけど……)
ソルセは洗面道具の入ったバッグを掴むと、足早に部屋をあとにする。
「はあ、なんでこんなことになるかな」
軽くため息をつく。自分がオーディション番組に参加していることではない、あのシム・ジュヌという学生に再会し、さらに同室になるとは。
「もしもふたりともデビューメンバーに選ばれたら……」
アイドルとして活動期間の数年……いや、生涯を共にすることになるのかもしれない。
頭が痛い。バスルームに向かいながら長い銀髪を結ぶゴムをするりと外す。毛先が背中の中ほどで揺れた。
「バスタブ浸かって、ちょっとのんびりしてから戻ろ」
洗面道具を持ち直して、シャワールームへ向かう廊下を迷いなく進んだ。
◆
『姉の高校の卒業アルバムに、SayUのソルに似たひとが写ってる』
一つの書き込みが、イ・ソルセの人生を一転させた。
小さな芸能事務所がプロデュースするボーイズグループ・SayU。ソルセは『ソル』という芸名で、そのグループに所属していた。
デビューしたてこそは新しいグループの誕生だと、小さな花火のように華華しい時期もあったが、弱小事務所ということもあり、スポンサー不足、コネクション不足、資金不足が重なり、イベントや新曲リリースもままならない。
グループそのものが斜陽になりつつあった。それに加えて……。
『え? 卒業年数考えるとそれっておかしくない?』
『どおりで長男より老けてると思った!』
『小さなグループだからバレないとでも思ったのかな。アイドルが年齢詐称とかありえないね』
スマートフォンをスワイプする指先が震えた。
匿名掲示板だけでなく、あらゆるSNSで、もとよりSayUのファンダムでもない顔の見えぬ人間たちが、『ソル』の年齢についてあれこれ議論という名の誹謗中傷を繰り広げている。
『電話にメールに、君の年齢についての嫌がらせみたいな問い合わせが殺到している』
もはややる気のないマネージャーが、抑揚のない声で言う。
『君が大丈夫だと言ったから、三つもサバを読んでグループに入れてやったのに』
違う。違う。違う。そんなことは言っていない。
SayU結成の二年前。ソルセは24歳だった。遅咲きかというと、近年のアイドル低年齢傾向を考えればそうかもしれない。けれどその年齢でのデビューなど珍しいことでもなんでもない。
だが、事務所社長もマネージャーも。フレッシュな方がよかろうとソルセに21歳を演じることを条件にデビューさせたのだ。
良心が揺らがなかったわけではない。
しかしこれまでいくつもの事務所を渡り歩き、青春のほとんどを捨てて練習生を続けてきた。それは何よりもアイドルという存在になりたかったがゆえだ。
そんなソルセの夢という花が、ようやく開こうとしている。夢にまで見たアイドルになれる……どうしようもない誘惑に目がくらみ、弱い選択をしてしまった。
『ソル』という芸名も、微かな逃げなのだ。高校生当時、レッスンが忙しく特に友人もいなかった。誰の記憶にも残っていないだろうと考えてはいたが、やはりすべてにおいて甘かったのだろう。
『SayUもそろそろ潮時だったからな。ソル、お前が脱退したところで誰も気にとめないだろうさ』
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