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静かな予感
しおりを挟む温泉施設に到着したメンバーたちは、それぞれ男女に分かれて浴場へ向かった。広々とした露天風呂に浸かり、登山の疲れを癒している間、沙月はふと凌のことを思い出し、心の中で小さなため息をついた。
「あの……椎名さん、さっきはありがとうございました。」
浴場で隣に座ったあやめに沙月が声をかける。
「何が?」とあやめは笑いながら聞き返す。
「下山のとき、冷静に対応してくれたことです。私、ああいう場面ですぐにパニックになっちゃうから……椎名さんみたいに堂々としていたいなって思いました。」
沙月の言葉に、あやめは照れたように肩をすくめた。「そんな大したことじゃないよ。私もただ目の前のことをやっただけ。」
「でも……本当に頼りになるなって思いました。」沙月の目は真剣だった。
一瞬、あやめはその視線を受け止めたが、次の瞬間には軽く笑って返した。「沙月ちゃんだって十分頑張ってるよ。少なくとも、私が同じ状況だったら、もっと騒いでたと思うし。」
その場を和やかにするような言葉に、沙月は少しだけほっとした表情を浮かべた。
一方、男湯では颯が温泉の端に寄りかかりながら、凌に話しかけていた。
「なあ、高坂。今日のあやめ、すげえ格好良かったよな。」颯は笑いながら、あやめが沙月を気遣う場面を思い出しているようだった。
「……そうだな。」凌は曖昧に答えたが、心の中ではあやめの姿が鮮明に浮かんでいた。彼女が冷静に沙月を助け、全員の注意を引きつける姿。その瞬間、ただ感心しただけではなく、自分でも説明できない感情が湧き上がっていた。
「お前もさ、あやめには感謝しとけよ。」颯が冗談めかして言う。「沙月ちゃんを気にしてるお前の気持ちに、あやめは気付いてたんじゃないか?」
「別に……そんなことないだろ。」凌は少し苛立った声を出してしまった。その反応に颯は驚いたように眉を上げたが、それ以上何も言わなかった。
温泉を出た後、全員が合流して休憩スペースに向かった。そこで、沙月が凌の隣に座ろうとした瞬間、颯がふと割り込むように声を掛けた。
「おい、あやめ。ジュース買うの手伝ってくれないか?」
「あんた、一人で行けるでしょ。」あやめはあっさりと返すが、颯は肩をすくめながら小声で何か耳打ちした。あやめは小さくため息をつき、「仕方ないな」と立ち上がった。
その隙に颯はあやめを連れ出し、沙月と凌を二人きりにする場を作った。
「高坂くん……あの、今日ありがとうね。」沙月が小さな声で話しかける。
「いや、俺は何もしてないよ。」凌は照れ臭そうに頭をかいたが、沙月の目は真っ直ぐだった。
「……私、今日改めて思ったの。高坂くんみたいな人が近くにいてくれて本当に良かったって。」
沙月の言葉に凌は言葉を詰まらせた。しかし、すぐに何か返そうとした瞬間――。
「よし、戻ったぞ。」颯があやめとともに席に戻ってきた。タイミングの良すぎる登場に、沙月は慌てて姿勢を正し、凌は心の中でため息をついた。
一方で、あやめは沙月と凌の表情をちらりと見て、何かを悟ったような笑みを浮かべる。そして何も言わず、自分の席に静かに腰を下ろした。
翌朝、登山からの疲れが少し残る中、メンバーたちは温泉宿での朝食を楽しんでいた。あやめはいつものように手際よく荷物の片付けを済ませ、まだぼんやりしている沙月をさりげなくフォローしていた。
「沙月ちゃん、これ忘れてたよ。」
あやめは沙月が置き忘れたハンカチを手渡す。その表情はどこまでも自然で、沙月は「あ、ありがとう……」と恐縮しながら受け取った。
その姿を横目で見ていた凌は、あやめの気配りと自然体な優しさに改めて心を動かされていた。一方で、沙月の凌への視線が以前よりも強くなっていることに気付き、胸の奥に微かな罪悪感がよぎる。
「さて、みんな準備できたか?」颯の声が響き、全員が車に乗り込む準備を始めた。帰り道は穏やかな天気で、しばらく車内は疲労と満足感の中、穏やかな空気が流れていた。
帰路途中、颯が唐突に提案した。「おい、次のサークル活動の話、しとこうぜ。時間あるし。」
「次って、もう決まってるの?」沙月が聞き返すと、颯は得意げに笑った。
「まだだけどな。候補はいくつか考えてる。川沿いのキャンプとか、軽いハイキングコースとか。どれがいい?」
「キャンプとかいいね!」あやめがすぐに反応する。「みんなで協力して準備するのも楽しいし。」
「うん、キャンプいいかも!」沙月も同意するが、その視線はどこか凌に期待を寄せているようだった。
しかし、凌はその場ではっきりと意見を言えなかった。あやめの男前な態度と沙月の健気な姿、そのどちらも頭の中を巡り、どうしても気持ちが定まらなかったからだ。
颯はそんな凌の様子に気付き、意味ありげに笑みを浮かべた。「まあ、詳しい計画はまた次回だな。それまでにみんな、自分がやりたいことを考えとけよ。」
数日後、大学のキャンパスで再びサークルメンバーが集まる日がやってきた。颯が提案した次回のキャンプ企画を本格的に話し合う予定だったが、その前にあやめがひとり黙々と荷物の整理をしている姿が目に留まった。
「椎名さん、手伝おうか?」沙月が声を掛けると、あやめは振り返り、「大丈夫だよ。でも、ありがとうね。」と爽やかに笑った。
その言葉に沙月は少し戸惑いながらも、彼女の強さに憧れる気持ちを再認識していた。そして、少しでもあやめのように振る舞いたいと考え、彼女なりに小さな努力を始める。
一方で、凌は颯に引きずられる形で備品の準備を手伝っていたが、頭の片隅ではどうしてもあやめのことを考えてしまう。
「お前、また考え事かよ。」颯が小声で茶化すように言う。「あやめに何か言いたいことでもあるんじゃないか?」
「……別にそういうんじゃない。」凌は否定するが、颯は肩をすくめて笑うだけだった。
キャンプ当日、大学から車で2時間ほどの湖畔にメンバー全員が集まった。颯が中心となり、テントや調理道具の準備を手際よく指示しながら、さっそく賑やかな雰囲気が広がっていた。
「みんな、さっそくテント設営に取りかかろうぜ!あとでバーベキューするための場所も確保しなきゃな。」颯が声を張り上げると、あやめが腕をまくりながら応じた。
「あたし、テントやるよ。沙月ちゃん、一緒にやらない?」
「え、うん。でも、私こういうの初めてで……。」
「大丈夫!教えるからさ。」あやめは笑顔を見せ、沙月の肩を軽く叩いた。その頼もしさに、沙月も緊張をほぐされたように微笑んだ。
一方で、凌は少し離れたところで、薪を集めている沙月とあやめの姿を眺めていた。自信たっぷりに指示を出しながら沙月をフォローするあやめの姿に、やはり彼女の特別な存在感を感じてしまう。
「おい、高坂、ぼーっとしてないでこっち手伝え!」颯が笑いながら呼びかけ、凌は慌てて薪を持ち上げた。「わりぃ、ちょっと考えごとしてた。」
「お前、最近ずっと考えごとだな。」颯は意味ありげに笑うと、「まあいいけど、今のうちにあやめに感謝しとけよ。あいつ、本当に頼れるだろ?」と言い残して行ってしまった。
その後、全員で協力してテント設営を終えたころには、すっかり夕方になっていた。颯と凌が火を起こし、あやめと沙月が準備した食材を並べて、バーベキューがスタートした。
「うわー、すごくいい匂い!」沙月が目を輝かせながら焼き上がる肉を見つめていると、あやめがトングを持ちながら笑った。
「ほら、沙月ちゃん。これ先にどうぞ。頑張った分のご褒美だよ。」
「あ、ありがとう!」沙月は嬉しそうに受け取る。
その様子を見ていた凌は、自然と視線があやめに向いてしまう。彼女の気配りやリーダーシップには、どうしても目を奪われてしまうのだ。
「お前、あやめばっか見てるぞ。」颯が隣で低く囁き、凌は慌てて目を逸らした。
「そんなんじゃないって!」
「そうかね。」颯はニヤリと笑いながら、自分の皿に肉を追加した。
食事が終わり、星空の下で焚き火を囲む時間が訪れた。皆が談笑する中、沙月が勇気を振り絞って凌に話しかけた。
「高坂くん、ちょっと散歩しない?」
その言葉に凌は少し驚いたが、「ああ、いいよ」と頷き、二人で焚き火から少し離れた湖畔に向かった。
「綺麗な星空だね。」沙月が空を見上げながら呟く。
「ああ、すごいな。」凌も空を見上げながら答えたが、沙月の言葉がどこか緊張していることに気付いた。
「……私、ずっと言いたかったことがあって。」沙月が立ち止まり、凌に向き直る。
「え?」凌も足を止め、彼女を見つめた。
「私……高坂くんのこと、好き……です。」
突然の告白に、凌は言葉を失った。湖面に映る星の光が二人の間を静かに照らす。その瞬間、凌の心の中では、沙月とあやめの姿が交錯していた。
焚き火の近くに残っていたあやめと颯。颯がふと笑いながら口を開いた。
「あの二人、なんか良い雰囲気じゃない?」
あやめは焚き火の炎を見つめながら、「どうだろうね」とだけ答えた。その声には少しだけ硬さがあったが、颯はそれ以上何も言わなかった。
湖畔での沙月の告白を受けた凌は、目の前の彼女を真っ直ぐ見つめていた。彼女の震える声と真剣な表情に心が揺れる。けれども、凌の頭の中には、あやめの笑顔や男前な姿がちらついていた。
「沙月……ごめん。」
短い言葉に沙月は少し驚いたような表情を浮かべる。「え……?」
「沙月の気持ちは本当に嬉しい。けど、今はまだ……誰かとそういう関係になる自分が見えなくて。」
言葉を選びながら話す凌に、沙月は一瞬傷ついたような表情を見せたが、すぐに小さく笑った。
「そっか。ごめんね、急に言っちゃって。でも、ちゃんと話してくれてありがとう。」
その強がる笑顔に、凌の胸が少し痛んだ。しかし、それ以上何も言えず、二人はそのまま静かに焚き火の場所へ戻った。
焚き火の周りでは、颯がいつもの調子で軽口を叩き、みんなの笑い声が響いていた。その中で、あやめがふと立ち上がり、全員に向けて声を上げた。
「そろそろ夜も深いし、明日のために片付け始めようか。焚き火も消さなきゃだし。」
「椎名さん、さすが仕切るのうまいね!」沙月が感心したように言うと、あやめは照れくさそうに笑った。「あんまり遅くなると、みんな明日起きられないでしょ?」
颯が肩をすくめながら言った。「まあ確かにな。でも、お前、そういうの得意すぎだろ。母ちゃんみたいだぞ。」
「あんた、今の褒めてるつもり?」あやめは半笑いで睨みつけ、颯が「ごめんなさい!」と大げさに頭を下げる。そのやりとりにまた笑いが起こり、和やかな空気の中で片付けが進んでいった。
その夜、メンバーたちはテントで休む準備をしていた。沙月は隣のテントであやめと寝る予定だったが、なかなか眠れない様子だった。
「どうしたの?」あやめが尋ねると、沙月は少し戸惑いながら答えた。
「……ただ、今日一日いろいろあって、ちょっと考えごとしちゃって。」
あやめはしばらく沙月を見つめ、優しく言った。「無理に話さなくてもいいけど、もし何かあったら、私はいつでも聞くからね。」
その言葉に沙月は小さく頷いたが、心の中では「あやめさんみたいに強くなりたい」と繰り返していた。
翌朝、湖畔に朝日が差し込み、冷たい空気の中で新しい一日が始まった。あやめは早起きして周りを散歩していたが、偶然、焚き火の跡を見て物思いにふける凌を見つけた。
「高坂、こんな朝早くに何してるの?」あやめが声をかけると、凌は少し驚いたように顔を上げた。
「あ、椎名さんか……ちょっと、なんとなく考えごとしてて。」
「へえ、颯みたいに能天気なタイプかと思ったけど、意外だね。」あやめはからかうように笑ったが、凌は真剣な表情で返した。
「椎名さんって、何であんなに人に優しくできるんだろうな。」
その言葉にあやめは一瞬だけ驚いたが、すぐに肩をすくめた。「別に特別なことはしてないよ。ただ……自分がそうされたいと思うことを、他の人にもしてるだけ。」
その率直な答えに、凌は何かを悟ったように頷いた。そしてあやめの背中に、さらに強い憧れを感じていた。
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