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第五章
六、あの日の残響。
しおりを挟む茶梅は目の前の凄惨な光景に全身が震え、身動きができないでいた。それは一瞬の出来事で、何が起こったか正直理解不能であった。運よく櫻花はこの場におらず、この惨状を見せずに済んだことだけが幸いと言える。
目の前に広がるのは、九十八人の花の精たちの骸。それもすべてバラバラにされていて面影すらない。真白い石楠花の花は皆の血で赤く染まっている。血に染まった花々に交じって咲き誇っている一輪の赤い曼珠沙華が、そのすべての元凶だった。
皆を殺したのは、間違いなく目の前にいる者。
月神、嫦娥があの子の耳元でなにかを囁いたその途端、あの子の様子が一変し、禍々しい力が発動したかと思った矢先、反射的に茶梅の前に飛び出した花の精たちの身体がバラバラに引き裂かれた。
血飛沫が舞うその光景を、嫦娥は高笑いをしながら眺めていた。他の神官たちは彼女の機嫌を損ねないように引きつった笑みを浮かべ、花の精たちが散っていく様を遠目で眺めているのだった。
(····花楓、この宴に訪れた時から様子がおかしいとは思っていたけれど、)
この宴は、嫦娥が主催となり開かれた。この広く豪華な邸は彼女のモノで、その宴に花神である櫻花が招かれることは今までにないことだった。なぜなら彼女は、櫻花を一方的に嫌っていたからだ。
そもそもあの子は、嫦娥が下界から連れて来たという鬼神《おにがみ》だった。それを櫻花に押し付け、数年間音沙汰もなかったのに、ある日、この宴への招待状を持って使いの者が現れたのだ。
その時点で櫻花も茶梅も警戒したが、始まってみれば特に何の変哲もない宴だったのだ。
(櫻花様、戻って来てはなりません····これは、罠です)
頭を抱え込み、花楓はよろめきながらこちらに近付いて来る。その眼は虚ろで、何か見えない意思に操られているようにも見えるし、歪んだ表情は抗っているようにも見えた。
「嫦娥様、こんなことが天帝に知れれば、あなたは天界を追われるどころが、大罪人となるでしょう」
天界での殺生は禁じられている。たとえ大罪を犯しても、それだけは天帝でも与えてはならないとされている。それなのに、この月神は花の精を花楓に殺させた。その事実は変わらない。
「口の減らない愚かな花の精よ。何か勘違いをしていないか? 追われるのは私ではない。この危険な鬼神を所有していた、あの者よ」
「は? それは、どういう····まさか、最初からそのつもりで」
「お前こそ何を言っているのか理解に苦しむ。この惨状を招いたのは櫻花とそこの忌々しい鬼神だ。ああ、違うか。そもそも、その不吉な花をこの庭で咲かせたお前たち花の精の落ち度であろう。配下の不手際はその主の罪。花の精を管理していた、お前の罪でもある」
この者は、本気でそんな戯言が通ると思っているのだろうか。
いや、通るのだろう。だからこそ、揺るぎのない自信のある表情で嘘を並べ立てているのだ。そもそも、あの花は不吉な花でも縁起の悪い花でもない。その真の意味も知らない無知な女の言いがかりこそ、理不尽であり、理解に苦しむ。だから、あえて茶梅は口を開く。
「まさかとは思いますが、石楠花に混じっていた曼珠沙華の意味をご存じではないのですか?」
「口を慎めと言ったであろう? そんな真っ赤な毒花、不吉以外の何物でもない。その花を咲かせたお前たちの罪は重い。いい訳など無用だ」
「あなたは、本当に可哀想なひとですね。あなたが不吉と言ったその花は、吉兆の前触れを示す花。それを毒花などとは····天界の神がそのようでは、聞いて呆れますね」
茶梅はもはや、自分の首が飛ぶことなど当に覚悟している。
曼珠沙華は確かに見た目は赤く不吉で、毒もある。花のある時期には葉がなく、葉のある時期に花がないという特徴から、"葉見ず花見ず"と呼ばれる。普通の植物とは真逆の生長を繰り返すその様も。死人花などと呼ばれてもおかしくないだろう。
しかし、真の意味は"天界に咲く花"である。
「この花を咲かせたことが罪であるわけがない。そもそも、その種をこの庭に潜ませていたのはご自身でしょうに。私たちはあなたの命でこの庭の花を咲かせたにすぎません。あなたがこの花を罪というのなら、その罪深き花を庭に埋めたあなたの罪はどう裁くのです?」
嫦娥は眉間に皺を寄せ、血の海の上に跪く茶梅を睨みつける。そしてひそひそと後ろで囁かれる声に一瞥し黙らせると、再び皮肉な笑みを浮かべて茶梅を見下ろす。
「言いたいことはそれだけか?」
嫦娥と茶梅のちょうど真ん中に、ゆらりと花楓が立ち塞がった。
赤い瞳と眼が合った。
その瞳は揺らいでいた。
顔は涙でぐしゃぐしゃになり、歪んでいた。
しかしそれに反して、彼の周りには赤黒い色をした触手が蠢いており、その先端は、大きな斧のような形をしていた。その斧には血が滴っており、ここで散った花の精たちの血が染み込んでいるように見えた。
『花楓、聞こえていますか? もし聞こえていたら、どうか忘れないで。私たち花の精は――――、』
次の瞬間、身体の奥深くに突き刺さった鈍い音と共に、茶梅の視界は赤で染まった。
(····櫻花、さま····の、声、)
悲痛な悲鳴が耳に届いた。それは、紛れもなく、主の声だった。
しかしもはや答えることは叶わない。身体から引き抜かれた触手はそのまま鋭い刃と形を変え、茶梅に止めを刺す。胴から離れた首が勢いよく宙へ舞い上がり地面に落ちると、ころころと転がっていった。
それは、ある者の足元まで転がりきると、それを知っているかのように止まった。
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