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第五章
五、その手を取ったことを、後悔はしません。
しおりを挟む謁見の間を後にした櫻花は、あの長い階段を一段一段ゆっくりとした足取りで下りていく。考えても仕方がないが、茶梅たちにこの事態をどう説明したらいいかわからない。
しかし、そうやってぐるぐる考えている内に、いつの間にか門の前に辿り着いてしまっていた。雲の上に浮いている門の外側に、小さな影がひとつ。櫻花はその見覚えのある姿を確認すると、いつものように笑みを浮かべた。
「あなたが、嫦娥様の鬼神ですね? 名前はなんというのですか?」
成長し、十二歳くらいの少年の姿となった鬼神だったが、あの蟠桃宴会の時に見た姿と同じ、上から下まで薄汚れた漆黒の衣を纏っていた。その不揃いな黒髪は、あの時よりもずっと伸びていて、結びもせずにそのまま背中に垂らしている。赤い瞳を隠すように垂らしている前髪も、簾のようになっていた。
「名は······ありません」
小さい声はまだ幼さが残っているのか少し高めで、言いながらどんどん俯いてしまった。嫦娥は、どうしてこの子を数年傍に置いていたのか。
よく観察してみれば汚れた足元は裸足で、衣から覗く細い腕や足にも傷があり、頬にもぶたれたような痕があった。それを見る限り、少年の待遇は良いものではないことがわかる。その場にしゃがみ込み、櫻花は右手を差し出す。
「私で良ければ、名を与えても?」
俯いていた少年は、驚いて顔を上げる。そのまま櫻花を見下ろすと、恐れ多いと思ったのか、自分もその場にしゃがみ込んでしまった。
「····名を、くださるのですか? 皆に忌み嫌われている····鬼神の俺に?」
「はい。名がないとあなたのことを呼べませんから。あ、でも嫦娥様には内緒ですよ? 私といる時だけ、呼ばせてください」
先程よりも近い視線の先にある、不思議な赤い瞳。櫻花はまだ幼さが残る可愛らしい少年が、あの鬼神だとは思えなかった。差し出した右手の指先に、遠慮がちに小さな汚れた指が乗せられる。ふふっと笑って、その小さな手を優しく包むように握った。
「名は、少しだけ待ってください。良い名をあげたいので、まずは私の堂に帰りましょう。皆にあなたのことを紹介したいし、あなたにも皆のことを紹介したいです」
少年の手を引いて一緒に立ち上がる。少年は櫻花の胸の辺りくらいまでしかなく、茶梅よりは頭ひとつ分ほど背が高いようだ。手は繋いだまま、櫻花はふわりと宙に舞い上がると、少年の身体も同じように浮いた。地面から離れてしまった足にびっくりしたのか、宙に浮いた身体が細い板の上を歩いているかのようにぐらぐらと揺らぐ。
「空を飛ぶのは苦手ですか? ではこれならどうです?」
少年を引き寄せ、片腕で抱き上げると、そのまま下降する。少年は思わず櫻花の首にしがみ付き、どんどん離れていく雲を不思議そうに眺めていた。肩越しに見えるその純粋な少年の横顔に、櫻花は琥珀色の瞳を細める。
(この子はやはり、悪い子ではないです。堂に付いたら湯浴みをして、身なりを整えて、髪を結って、····良い名を与えよう、)
蓬莱山の一角、その片隅にある百花堂の朱色の屋根と色とりどりの花々が見えてきた。堂に降り立った時、茶梅がいつものように真面目に頭を下げて、胸の前で腕を囲って揖していた。その顔を上げた時、普段の可愛らしい顔が、ものすごく厄介なモノを見てしまったと言わんばかりに歪んだのは、言うまでもないだろう。
******
――――数日後。
櫻花は、うんと頷いて、筆を置いた。黒い墨で達筆に書かれたその文字に満足したのか、その文字自体を気に入ったのか、とにかく満面の笑みで自分の前に紙を掲げる。
「これなら、あの子も気に入ってくれるでしょう。あの子は花の精ではないけれど、私の堂にいるのだから、この名で決まりです」
初めて少年を連れて帰って来た時、茶梅に怒鳴り散らされた。
しかし世話好きな彼女は、文句を言いながらも、少年の手を引いて連れ去ると、汚れた身体を容赦なく洗い上げ、そのまま湯浴みをさせた。その間に最初に纏っていたぼろぼろの漆黒の衣を器用に手直しし、ついでに新しい靴を用意させておく。そして、湯から出た少年の鬱陶しい前髪に容赦なく鋏を入れ、綺麗に切って整えた。
その整えられた髪の毛を頭の天辺で一本に括り、櫛でとかしながら背中に垂らす。仕上げに紅色の髪紐で結べば、見違えるような美しい姿へと変貌を遂げ、茶梅は「これなら文句はないでしょう!」と言い放った。
「あ····、ありがとう、ございました····」
一連の出来事に、少年はただただ目を大きくして驚き、言葉を発することすら忘れていた。我に返って、やっとの思いで言葉を口にする。
「俺にも、仕事をさせてください」
「良い心がけです。この堂に来たからには、もちろん働いていただきます。あなたの仕事は、この者たちの駆除です」
「この者? たち?」
茶梅は足元を指差し、数日前にむしり取ったはずの雑草を忌々し気に見下ろした。その鬼の形相に、ぴんと伸びていた雑草たちがみるみる首を垂れた。
「ちなみに、得意なことはありますか?」
「えっと、お茶を淹れるのは得意です」
その日から、少年の仕事は草むしりとお茶くみに決定した。
今日も真面目に与えられた仕事をこなしている少年を見つけ、櫻花は驚かせないようにゆっくり歩いて近くまで行く。後で気付いたのだが、少年は急に話しかけたり触れたりすると、必要以上に驚き、びくりと大きく肩を揺らすことがあった。
足音に気付いたのか、少年は顔を上げ、ぱっと明るい顔になる。この数日で、櫻花に対しては、いつでもこのような顔をするようになっていた。それが嬉しく、櫻花もつい甘やかしたくなってしまうのだ。
「櫻花様、」
立ち上がり丁寧に拝礼をし、花神としての櫻花に敬意を示す。
「これを受け取ってくれますか?」
「これは····、」
手渡された文を不思議そうに眺め、少年は櫻花に視線を移す。
「開いてみてください」
「は、はい!」
あ、と少年は手が汚れていることに気付き、右と左の手を交互に衣で拭うと、文を開いてその中身を確かめた。そこには、ふたつの文字が綺麗な字で書かれていたが、少年にはなんと書いてあるかがわからなかった。
「これは"花"で、これは"楓"という文字です。読み方は、花楓」
「····花、楓?」
「はい、あなたの名ですよ、」
隠すことが叶わなくなった赤い瞳で櫻花を見上げ、再び文の文字に視線を落とす。途端、ぽろぽろと零れ出した涙で、文字が滲んでしまう。あ、と少年は慌てて文を掲げると、頬をつたい続ける涙に驚いていた。そんな姿を愛おしく見つめ、櫻花はよしよしとその頭を撫で、白い衣の袖で涙を拭ってやる。
「花楓は木ですが、真っ赤な美しい花を咲かせます。あなたの瞳と同じ、赤を持つ木。ここにはない木ですが、あなたがいます。改めまして、百花堂へようこそ。花楓」
差し伸べられた右手に、あの時と同じようにそっと指先を乗せ、花楓は眼を細めた。あの時と違うのは、そこに小さな笑みが生まれたこと。
櫻花と花の精たちは、花楓が鬼神であることなど忘れて、数年の時を共にする。花楓自身も、その幸せな時間に日々感謝し、花神である櫻花を崇拝していた。そこには、見えない絆のようなものがあった。
――――忘れもしない、数百年前のあの日。
呪われし鬼神の恐ろしい力によって、そのすべてが一瞬にして砕け散った。それもすべて、あの月神の計略だったということを櫻花が知るのは、それからずっと先の事。
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