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第五章

四、あなたは誰ですか?

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 天界の謁見の間の奥には、天帝が座する重々しい玉座が置かれている。ずらりと十人くらいずつ、左右に道を挟んで並んでいる者たちは、寸分も乱すことなく真っすぐに列をなしていた。その線のように綺麗に並んだ何人もの神官たちを横目に、櫻花インホアは自分の目の前を歩く使者の後ろを、離れないようについて行く。

(いつ来ても重い雰囲気ですね····ここでは口を開くにも天帝の許可がいると聞きますが、)

 この謁見の間には天井はなく、しかし真白い柱は高く伸びていて、不思議な造りになっている。突き抜けた先の雲のひとつもない空は、まさしく天界の象徴のようにも思える。

 ここまで来るのにも延々と長い階段を歩いて来たのだが、それこそ飛んで行けば楽なのに、と思ってしまったくらいだ。使者が先に跪き、慌てて櫻花インホアもその後ろで同じように跪き、高い位置に座する天帝に向かって拝礼を行う。

「花神、櫻花インホア。そんなにかしこまらなくても良い。今日は頼みがあって君を呼びつけたのだ」

「頼み、ですか?」

 櫻花インホアが何も考えないで言葉を発すると、左右の神官からの鋭い視線が、一瞬にしてこちらに向けられるのを感じた。

(ああ、そうでした。発言は許可を取ってから····でしたっけ?)

 ふっと天帝の秀麗な顔に笑みが浮かぶ。右手を上げ、他の者たちは下がれ、と合図を送った。その合図に、神官たちは戸惑いお互いの顔を見合わせる。

「この者とふたりで話をする。他の者たちは席を外せと言ったのだ」

 天帝はよく通る声で、謁見の間に集まった者たちを下がらせる。綺麗に並んでいたその列は、やはり綺麗にその場から順番に去って行く。櫻花インホアは、そんな者たちの小言が嫌でも耳に入って来る。

「下級の花神ごときが、なぜ天帝とふたりきりで話など?」

「天帝も天帝だ。いくらあの者がお気に入りだからといって、これでは上にも下にも示しが付かない」

 今回に関しては、寧ろ、櫻花インホアの方がその理由を知りたいのだが、ここでなにか言ったところで、きっと睨まれるだけだろう。彼ら彼女らは、櫻花インホアたちが上って来た階段を、ぞろぞろと逆に降りていく。最後に目の前にいたはずの使者までも立ち上がり、一礼をしたかと思えば、さっさといなくなってしまった。

(どうして尸迦シージャが、わざわざ皆の前でこんなことをする必要が?)
 
 頭を下げたまま、いつもとは違う雰囲気に、少なからず不信感を覚える。天帝になってからというもの、たまに上部で開かれる宴で姿を見るくらいで、個人的に、ましてやふたりきりでなど、逢うことはなかった。なによりも彼の方が避けているようにも思え、だからこそこの振る舞いに対して違和感しかなかった。

「天帝、上位の神官たちの謁見を妨げてまで、一体私に何の用なのでしょうか?」

 先程までここにいた彼らは、謁見に来た神官たちだったはず。さすがの櫻花インホアもそのくらいは察することができた。しかし、肝心の天帝は····。

「君が来た時には、すでに謁見は終わっていた」

 と、なんでもないとでも言うように、気にするなと続けた。そして玉座から立ち上がると、こちらに一歩ずつ近づいて来るのがその足音で解った。
地面を見つめたままの櫻花インホアは、その白い靴の先が視界に映っても、顔を上げることはなかった。だが、その右手が目の前に差し出された時、その手を取らないという選択肢は選べなかった。

「さあ、まずは立ってくれ。話はそれからだ」

「····はい、失礼します」

 櫻花インホアが、戸惑いながらもその手の上に自分の手を乗せた途端、視界が一変する。そのまま手を強く握られ、その場に立たされたかと思えば、すぐ目の前に天帝の白い衣があった。胸元に引き寄せられた櫻花インホアは、思わず見上げてしまう。

 視線が重なった。

 それは、本当に恐れ多くて、逆に眼を逸らすことができない。身体が強張って上手く動かず、ただされるがままになってしまう。

櫻花インホア、君に頼みたいことがあると、言った」

 右手は握られたまま、左手が頬に触れてくる。櫻花インホアの絹のように白い肌に触れたその指先で、花でも愛でるように優しく撫でてきた。困惑する櫻花インホアをよそに、天帝は話を続ける。

「月神は知っているね? 嫦娥チャングの事だ。彼女が、自分の鬼神おにがみを、君に預けたいと言ってきたのだ」

「····あの子を、ですか? なぜ私に?」

 櫻花インホアは数年前の宴会の席で見た、あの幼子を思い出す。話をしてみたいとは思っていたが、どうして嫦娥チャングが、天帝を介して自分にそれを頼むのかがさっぱり解らなかった。西王母せいおうぼも言っていたが、あの者は自分の事を嫌っているらしい。そんな自分に、なぜ、そんなことを頼むのか。そもそもなんのために、彼女は天界にあの幼子を連れて来たのか。

「私や応竜や四竜たちに加え、他の神や精霊たちに庇護される君を、よく思わない者たちがいるそうだ。彼女はそれが気がかりだと言う。故に、しばらくその鬼神おおにがみを傍に置いてみてはどうかと言うんだ」

 もしそれを本気で言っているのだとしたら、櫻花インホアは目の前にいる天帝を本物かと疑いたくなる。しかし、それを口にすることはできない。

「天帝の命とあれば、私ごときがその是非を問うことはないでしょう」

「ならば、話は早い。すでに門の外に呼び寄せてある。君が帰る時に、一緒に連れて行くといい。話はそれだけだ」

 言って、櫻花インホアを解放すると、天帝は踵を返して振り向きもせずに去って行った。しん、と静まり返ったその場にひとり、立ち尽くす。

「····一体、何が起こっているんです?」

 あれは、本当に自分がよく知る尸迦シージャだろうか、と疑問だけが残る。その身から放たれる王たる気質や、声、顔、すべて彼のモノだった。しかし、その微妙な雰囲気や、距離感などは違和感しかない。

「もし本当に彼ではないのなら、····あれは誰だと言うんです?」

 あんなことを、彼は絶対にしない。自分に触れることすら躊躇う彼が、あんなことをするはずがない。天帝の姿を借りて偽るなど赦されるわけがないし、誰も気付かないなんて、そんなことが果たしてあるだろうか。

 しかし櫻花インホアは知らない。天帝は常に地上を巡回しているため、ほとんど天界には戻らない。従者はおろか傍付きの神官すら、その顔を正面から見たことがある者などいないことを。ましてや、どんな人物かなど、知る由もない。櫻花インホアがどんなに違うと言っても、目の前に本物が現れて、偽物と鉢合わせにでもならない限り、誰も信じてはくれないだろう。

 月神である嫦娥チャングは、姿を変える変化の術を会得していると聞く。まさか、と櫻花インホアは嫌な予感を覚える。人払いをしたことにも意味があったのだろう。自分と天帝が親密であるという、決定的な印象を与えるためだ。

 実際、天帝は確かに自分を贔屓にしてくれている。それは、昔から知った仲だからで、それ以上の、例えば皆が噂するような甘美な関係などではないのだ。けれどもそうは思わない者も、いる。自分と天帝は深い関係で、なんなら櫻花インホアが惑わせていると思い込んでいる者も少なくない。


 この時、櫻花インホアが感じた胸騒ぎに似た、なにか。それこそが、底なし沼に片足を踏み入れた瞬間であったことを知るのは、もう少し後のこと。


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