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第四章
二、君がくれる感情は、言葉は、いつも。 ※注
しおりを挟む夢から覚めた時、自分の頬をつたう涙をそっと拭う指先があった。ぼんやりとする頭は、視界に映るものさえ曖昧にして、その行為を拒否するという選択肢すら思い付かないようだ。
あたたかいその身体に抱かれて、優しい指先に触れられている。完全に油断していた櫻花は、冷たい水でもかけられたかのようにびっくりして、慌てて起き上がろうとしたが、止められる。
「急に起き上がったら、危ないよ?」
「あ、あれ? 私、どうして····君、もしかして、なにか、してませんよね?」
昔の夢を見ていた気がする。すごく嫌な夢。でも、いつの間にか心地の良いものに変わって、気付けばあの黒い靄のような感情が晴れていた。
目を覚ました櫻花は自分の今の状況を確認し、困惑する。それもそのはず。肖月に抱き上げられた状態で、彼の白い衣の胸元あたりをしっかりと掴み、膝の上に横向きで座っていたのだ。
起き上がろうとした時に止められてしまったため、今もその体勢のまま動けずにいた。彼の右腕が自分の肩の辺りを支えていて、左手は先程まで頬をつたう涙を拭ってくれていたが、今は櫻花の左手の上に置かれている。衣を握りしめたままの櫻花の右手を気にして、抱き上げた格好のままその場に座ったのだろう。櫻花は肖月の衣の胸元を掴んでいた手を、そっと放す。
「なにかしてない、とは言えないかな?」
言葉に詰まって、櫻花はうぅと唸る。
「と、とりあえず、この体勢をどうにかしたいのですが····」
「俺はこのままでかまわないよ。地面は岩だらけで冷たいし固いから、ゆっくり眠れないでしょ? 倒れたんだから、休まないと」
もっともらしい理由で肖月が返す。どうやら、放してくれる気はなさそうだ。正直、心地好いと思っている自分がいて、櫻花は諦める。
涙の痕を見つめて、肖月は青銀色の眼を細める。櫻花は身体を預けるように力を抜いて、俯いたまま口元を緩めた。その笑みは、前に一瞬だけ見せた寂しそうな笑みに似て。
「私は、きっと、疫病神なんです」
だから、ひとりでいるのが一番良いのだ。この強運は、自分だけに齎されるため、周りの人間は逆に不幸になってしまう。
「それは、違うと思うけど?」
このたった数年の間に、たくさんの人々をその手で救ってきた。そこに小さいも大きいもないが、その誰もが最後は笑顔になっていた。
誰も不幸になんてなっていない。
それに、あの日、森の中で再会した時のことも。そのきっかけも。あれは自分の幸運と、櫻花の強運が合わさって起きたのだと、今なら解かる。
「あなたは、俺にとって光だよ」
その言葉を、初めて聞いた気がしなかった。櫻花は顔を上げ、じっと肖月を見つめる。逸らすことなく見つめ返してくるその瞳に、彼の誠実さを感じた。
「私がどうして地仙のまま、地上に留まっているのか····訊かないんです?」
「前にも言ったけど、あなたが話したくなったら話してくれればいいよ?」
本当は、もう、夢の中で見てしまった。あの悲惨な光景が、櫻花の心を蝕んでいるのだという事も、知っている。優しい櫻花には、耐え難い苦痛だろう。自分のせいで配下が全員殺されたのなら、尚更だ。それに天界に戻れば、その原因となった神に会うかもしれない。
天帝は櫻花を大層気に入っていると、弁財天も言っていた。呪いを解くためとはいえ、天仙になって天界に昇ることは、櫻花にとって、必ずしも喜ばしいことではないのだ。
「肖月、ありがとう」
その言葉と表情に、肖月は静かな笑みを湛える。
優しい言葉。優しい声音。その穏やかな笑みも。全部。自分だけのものになればいいのに――――。
再び、左手で櫻花の頬へと触れた。まだ冷たいままのその頬は、肖月に触れられた途端、赤みを帯びる。それが嬉しくて、触れたまま親指だけ動かして撫でると、戸惑いを隠せない琥珀の瞳が見上げてきた。
櫻花はどんどん近づいて来る綺麗な顔に対して、どうしたらいいか解らなかった。出逢ったあの時のように、口付けされてしまうのではないかと思うと、心臓がなんだか騒がしい。あの、力が抜けてしまうほどの激しい口付けは、忘れようとしても忘れられるはずはなかった。そんな感情を見透かすように、肖月がふっと悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「口付けすると思った?」
「からかわないでくださ····」
言い終わる前に塞がれた唇は、こうなることを求めていたかのように緩く開かれ、受け入れてしまっていた。あの時のように貪るような激しいものではなく、優しく気遣いのあるそれに、櫻花は逆に絆されてしまう。無意識に右手が肖月の衣を掴み、気付けばしがみ付くようにしっかりと握りしめていた。
この感情を、なんというのだろう? 考えるだけで、胸の鼓動が速くなり、頭が痺れてくる。
君がくれる感情は、言葉は、いつも。自分だけに向けられているのだと、知っている。嘘偽りのない、その想いは、きっと――――。
ゆっくりと目を閉じた櫻花は、それ以上考えるのを止めて、その身をただ委ねるのだった。
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