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第三章
六、揺るがぬ誓いと、秘めた想い。
しおりを挟む遠い昔、共に誓い合った夢。
怖いものは何もなかった。迷いも、憂いもなく、ただ真っすぐに進んで行けばそれでよかった。神と名の付く者として、すべきことはひとつ。
「私は、この地に生きるすべての者を救うために、この力を使いたい」
尸迦は真面目な顔で、まるでそれが当たり前のことで、出来ないはずがないと自負していた。天界の頂点に立つことを定められた彼のその強い意志は、少しも揺らぐことはない。
「では私は、私の大切な友たちのために、この力を揮おう」
鷹藍は、大それたことを平気で口にする尸迦の横で口元を緩めた。彼は常に自分のためではなく、他の誰かのためにその力を揮っている。
「君は、どうしたい? どんな神になりたいんだ?」
尸迦が首だけ向けて櫻花に訊ねてくる。
「私は······、」
そんなふたりの背中を見つめ、櫻花は何かを考えるような仕草をしながら首を傾げる。尸迦も、鷹藍もすでに天界では知らない者がいないというくらい、有名な神であった。世話になっている師が同じ、というだけで親しくしてもらっている身である自分には、ふたりのような壮大な目標などあるはずもない。
花神である櫻花は、争いを好まず、できることなら笑って過ごしたいと思っている。配下も数人程度で、堂もまだ与えられていない。しかしその力は、春や夏に、穀物、鳥、花、木などの万物に生長を齎す特別なもの。いつも笑顔で優しく穏やかな櫻花という存在は、未だ神々が統括されていないこの天界で、常に争いの中に身を置くふたりにとっては、唯一安らげる場所であった。
そんなふたりの間に後ろから勢いよく飛び込むように突進してきて、櫻花の腕がそれぞれに絡められる。突然の行為に驚いて、尸迦は左を鷹藍は右をそれぞれ向く。眼が合うふたりの少し下に、櫻花のお団子頭があった。
櫻花は見下ろしてくるふたりを大きな琥珀色の瞳で見上げ、ふふっと嬉しそうに笑みを浮かべる。
「私、ふたりのことが大好きです!」
「は?」
「うん?」
ふたりはほぼ同時に首を傾げた。
そんな惚けているふたりをよそに、間に挟まって絡めた両腕をきゅっと強く抱いて、櫻花は花でも咲いたような美しい笑みを見せる。
「だから私は、この手の届く場所、この腕に抱えられるものを守ります! だって尸迦を守れたら、あなたの衆生を救うという夢も守れるし、鷹藍を守れたら、大切な友のために存分に戦えるでしょう?」
そう言って、ね? 良い考えだと思いませんか? と訊ねてくる。その言葉に、ふたりは櫻花を見下ろしたまま固まっていたが、沈黙を破るように、
「それで? 争いを嫌う君が、どうやって私たちを守るんだ?」
言って、尸迦が揶揄うように笑った。本当は絡められた腕と一緒に、胸の奥がじんわりとあたたかくて、その感情を誤魔化すためにそんな言葉を紡ぐしかなかったのだが····。
「うーん。言われてみれば確かにそうですね····どうしましょう?」
その問いに対して櫻花は、本気で頭を抱えて悩み始めてしまう。
「君は変わらずに、ずっとそのままでいてくれれば、私はいいと思うが?」
鷹藍は尸迦が今どんな気持ちでいるのかを察して、自分の右腕に絡められた櫻花の細い左腕に手を置いた。
「····まあ、そうだな。君はそのままで、いい。余計なことは考えずに、いつもその笑みを私たちに見せてくれれば、それでいい」
顔を背けて右手で口元を覆い、尸迦も呟く。
「ではお言葉に甘えて、そうすることにします」
櫻花が遠慮なく今のようにくっついてくるのとは逆に、尸迦はその手に触れることすら、いつも躊躇ってしまう。今だって、絡められたままの腕に意識がいき、まったく落ち着かないのだ。そういう意味では、鷹藍は知己として自然に触れることができ、しかし友としての一線を越える気はなかった。だからこそ、尸迦には同情している。
櫻花はそんな彼の気持ちに、一生気付くことはないのだ。
******
その数十年後、永きに亘る天界の神々の争いに、終止符が打たれた。
尸迦は天上の最高神である天帝として、その座に就く。鷹藍は戦いの最中にその身が穢れ、天界から離れて蓬莱山に身を寄せた。櫻花は、九十九人の花の精を統括する花神として、蓬莱山に建てられた百花堂の主となり、呼ばれた時だけ天界へ昇るという日々を送る。
三人で集まることはほとんどなくなってしまったが、同じ蓬莱山にいる櫻花と鷹藍はよく逢っているようだった。
そして天帝となった尸迦がふたりに個人的に逢う機会は、殆どなくなってしまった。
ある日、天界の上部で開かれた宴の席で舞う、櫻花の姿を目にした。自分に気付いて、笑みを向けてくれるその気遣いに、あの頃の想いが込み上げてくる。その感情に蓋をして、数多いる神のひとりとして見つめるしかない。
"衆生を守り、この地を守り、天界を統べるのが使命"
一枚の花びらがひらりと盃の中で舞い、沈む。近くにいるはずなのに、今は遠い。伸ばせば手が届くはずなのに、伸ばすことすら叶わない。それは今も昔も同じ。
「尸迦、」
名を呼ぶ、穏やかで優しい声音。
夢の中でその名を呼ぶ、君に逢った。
「必ず、君の潔白を証明する。そして再び、"花神"として君を天界に迎い入れる。君は、それを望まないかもしれないが」
何度も。
忘れないように、夢の中で君を想う。
名を呼んでもらう。
あの日の誓いが、揺るがないように。
何度も。
何度も。
伸ばした手を、下ろす。
夢の中の君の幻影にさえ触れるのを躊躇う、臆病者の自分。
あの時、君に本当の想いを伝えていたなら、君はこの手を取ってくれたのだろうか? 今も離れずに傍にいてくれたのだろうか? 彼の者によって追放された後、天界に戻って来て欲しいと告げた時、答えは変わっていたのだろうか?
「衆生を救う? ····私は、君ひとりすら救えていないというのに、」
自分を嘲笑うかのように口元を歪め、天帝は瞼を閉じる。
転がりだした石は、もはや止まることはない。
ずっと、この時を待っていた。
数百年という永い時を経て、今、固く閉ざされていた禁断の扉が、ゆっくりと開き出す――――。
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