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第三章
五、あなたは何も悪くない
しおりを挟む櫻花は黒衣の青年に手を引かれ、その場に立つ。白蛇姿になっている肖月を大事そうに胸に抱いていてる彼の顔に、先程見せた冷たい微笑はどこにもなかった。
「肖月が咄嗟の判断で壺を割ったようですが、店主の言うように元に戻ってしまうんでしょうか? 瘴気を封じた宝具と言いましたが、もしかして、あの壺は天界の宝物庫に収められていた呪物ですか?」
天帝直属の武神ならば、それを知っていても不思議ではない。深く被った衣から口元だけ見えるのだが、少しも感情が読み取れず、櫻花は困った顔で見上げていた。正面に立つ彼は、櫻花の視線よりも少しだけ高く、けれどもその衣の隙間から顔は覗き見れない。
「····あの壺はあなたの言う通り、宝物庫で何重にも封印を施して保管されていた、強い瘴気を封じた呪物です。本来なら、ひとの手に渡るはずのない物。それがここにある時点で、あり得ないことなのですが」
「天界でも、一部の者しか知り得ないこと、ということですね」
櫻花は表情を曇らせる。
瘴気は猛毒と同じで、ひとにもそうでない者にも害しかない。肖月は眼を回した程度で済んでいるようだが、本来なら瀕死になっていてもおかしくないはずだ。目の前の青年が起こしたのだろう強風が、それを和らげてくれたのだろう。
そんな代物がひとの世に平然と存在していたことが、恐ろしく思う。
「しかし、どうして店主は無事だったんでしょう? あの方は何度も叩き割ったと言っていました。それに関しては、嘘を付いているようには思えません」
拾ったという言動はさておき、あの必死さは演技ではないだろう。
「そもそも"運が奪われる"というこの壺の謂れは、どこから?」
様々な疑問が櫻花の頭の中をぐるぐると回って、普段穏やかすぎる彼の眉間にも、珍しく皺が寄る。
「店主が壺を割っても無事だったのは、あの瘴気がまだ宝具の効果で封じられていたからだと思います。割っても何度も元に戻っていたのは、そのせいかと。俺が風で散らした後、瘴気がその壺の方へ戻って行くのを確認しました。まだ少しですが効果は残っているようです」
もう一度でも割れば完全に封印は解かれ、この辺り一帯がどうなるかわからないほどの瘴気に覆われるだろう。
そんな会話をしている間に、目の前でみるみる白い壺が元の姿を取り戻していく。それは不思議な光景で、気付けば飛び散ったはずの破片が、逆再生されるかのように元通りになった。
「けれども肖月がこの瘴気にやられたのは、壺を割る前でした。箱を開けて取り出した直後。これはどういう?」
「それは俺にも解りません。なにか予期せぬ事が起こったとしか····。けれどもそれが広がる前に、彼が完全に叩き割ったことで再び封印の楔が発動し、瘴気が壺の中に戻ったというのが俺の今の見解です」
黒衣の青年はその場から岩の方へ数歩進み壺を手に取ると、箱に入れるでもなくそのまま左の広袖に無造作に入れる。
「うーん。なんだか都合の良い話ですね」
運悪く瘴気が壺から放たれ、運良く壺を叩き割ったことで再度封印が施されたということ? 自分で考えておいてそれがまったく腑に落ちず、櫻花はますます頭を悩ませる。
「この壺は、あくまでただの封印用の宝具です。何度も壊されたことで綻びが生まれていても不思議ではありません。それに噂を民の間に流したのは、これを盗んだ者と同一人物、もしくは協力者、でしょう。運が奪われるという噂、壊しても元に戻ってしまうこと、そのすべては、ただの噂から始まっています」
櫻花はその見解に、一年前の任務を思い出す。あの時も、蝶の噂に翻弄された。その結果、待っていたのは蝶ではなくて精気を吸う恐ろしい蚯蚓の妖だった。
「彼は運が良かったと言ってもいいでしょう。その程度で済んでいるのですから」
青年の言葉に悪気はなかったが、櫻花は腕の中の肖月に視線を落とし、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべる。その変化に気付いた青年が、深く被った黒衣の奥で眼を細めた。
「····この崖を超えた先に、霊泉があります。そこに浸らせてあげれば、完全には無理でしょうが、今よりはマシになるかと」
その不器用だが優しさのある物言いに、ありがとうございます、と櫻花は青年を見上げて微笑む。その笑みに安堵し、黒衣の青年は小さく嘆息する。
「ここに、あなたが来てくれて助かりました。でなければ、肖月はどうなっていたかわからないですし、そのまま元に戻った壺を完全に壊してしまっていたことでしょう」
そうなればこの地は瘴気で覆われ、大変なことになっていたはず。
「私、夢を見たんです。ずっと昔、とても幸せだった頃の夢を····」
いつも見る悪夢ではなく、それはどこまでも幸福に満ちた時間。
それ故に悲しくも残酷な、夢。
「あの頃の私は本当に馬鹿で、愚かで。ひとの悪意などまったくわからなくて。私が守れると思っていたものすら、この手から全部、零れ落ちてしまったんです」
俯き白蛇を抱きしめて、無理に自虐的な笑みを浮かべる櫻花に、黒衣の青年は手を伸ばそうとするが途中でその拳を握り締める。そのまま腕を下ろすと、同じく視線を下に向けた。
(櫻花様、あなたは何も悪くない)
悪いのは、自分。
壊したのも、自分。
奪ったのも、間違いなく。
「あの子は、今、どこにいるのか····生きていてくれたなら、私は、」
その言葉は、先程冷笑を浮かべた時の言葉とは矛盾していて、黒衣の青年は眉を顰める。
櫻花は言った。
『数百年前、私の大切なものを壊した、あの"災禍の鬼"が、』
"災禍の鬼"の正体は、彼からすべてを奪った"鬼神"であると言われている。そのことを知らないはずはないのに。
黒衣の青年はあの時の事を思い出すだけで、吐き気を覚える。悍ましい感情が胸の中を駆け巡る。この手が犯したその罪は、どんなに徳を積もうが消えることはないのだ。
『私を殺してください』
その願いを叶えることなど、自分にはどうしたってできるわけがなかった。
『皆のところに、私を、連れていって····』
あの日、起こった悲劇は、紛れもなくこの手が招いたもの。
蹲り嘆いても、あの日には戻れない。
黒衣の青年は一礼すると、なにも言わずにその場から姿を消した。残された櫻花は、肖月をいつものように道袍の腹の辺りに収めると、ふっと口元を緩める。
「私は、今度こそ····」
その言葉の続きを紡ぐことは、なかった。櫻花は良く晴れた空を見上げ、同じ空の下にいるだろう者を想う。そして、三人で誓い合ったあの日を思い出す。あの日の誓いは、櫻花にとってなによりも大切な、もの。
それはまだ、天界が天帝によって統一される前の、ずっとずっと遠い昔の――――。
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