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第三章
一、あなたがいた、あの穏やかで優しい時間。
しおりを挟むそこは、百花咲き乱れる堂。
美しい花々が年中枯れることなく咲き乱れ、舞い散る花びらはまるで雪のように地面を色とりどりに染めていく。
「櫻花様、見てください!」
たくさんの紙を胸に抱えて、十二歳くらいの可愛らしい少年が息を切らして駆けて来た。黒衣を纏うその少年は、黒い髪の毛を頭の天辺で括り、紅色の髪紐で結んでいる。見上げてくる赤い宝石のような瞳が、キラキラと輝いているように見えた。
「俺、あなたから戴いた名を、やっとひとりで書けるようになりました!」
「まだ数日しか経っていないのに、とても綺麗に書けていますね、」
大事そうに抱えていたその紙を広げて、嬉しそうに少年は報告してくる。視線が合う場所まで屈んでそれを受け取ると、そこに書かれている二文字を褒めながら、櫻花はうんうんと頷いた。
「当然の結果です」
その後ろからゆっくりと歩いて来る、少年よりもさらに幼い容姿の少女が、自慢げにふっと笑みを浮かべる。肩で綺麗に揃えられた黒髪に咲く白い山茶花。手が隠れるほど長い白い上衣下裳と、袖に山茶花の模様が入った黒い羽織を纏い、赤い腰帯に巻かれた金の紐飾りが、少女が歩く度にゆらゆらと揺れていた。
「茶梅様がたくさん付き合ってくださいました」
「そうでしたか。茶梅はぷんぷんといつも怒っていますが、本当はとても仲間想いで面倒見のいい、良い子ですからね、」
その言葉に、茶梅は照れているのか、真っ赤な顔で頬を膨らませた。
「わ、私がいつもぷんぷんしているように見えるのは、櫻花様が、私を怒らせるようなことばかりするからです!」
「それも茶梅の優しさですよね、」
うぐ、と茶梅は言葉を詰まらせる。そいうことを、平気で口にするのを止めて欲しい。
「おふたりは主と従者というより、まるで本当の兄妹のようですね」
そんなふたりのやり取りを見て、少年もくすくすと音を立てて笑う。
「そんな恐れ多い事を言わないでください。櫻花様は花神で、私などはただの花の精にすぎません。年長者として皆を纏めているだけ」
こんな姿をしているが、一番の古株で、櫻花との関りも長い。なにより、この主はこんな感じなので、どうしても口を出したくなってしまうのだ。
目の前に立つ櫻花の髪の毛を飾るのは桜桃の薄桃色の花々で、長い黒髪の所々に散らすように飾られたその花たちは、この堂に咲く花々よりもずっと美しく見えた。衣は白を基調としているが、袖や裾は赤い線の模様が入っており、帯も白いがその上に紫色の細い飾り紐を垂らしている。髪の毛を括っている小さな冠は金色だが、決して派手ではない。
「花楓、どうしました?」
琥珀色の瞳の端の辺りに紅色の化粧が入っており、いつも以上に華やかだった。先程までは「自分が書いた文字を早く見せたい!」という気持ちで頭がいっぱいで、この姿の櫻花を改めて見上げてみれば、今更だがその美しさに心を奪われてしまっていたのだ。
「初めて声をかけてもらった時のことを思い出してしまって、」
それまでの自分の扱いを思えば、今がどんなに幸福であるか。
この数日で、思い知る。
この百花堂の主である花神、櫻花。そして茶梅を中心とする九十九人の花の精たち。皆、まるで何年も一緒に過ごした家族のように、とても良くしてくれる。神にさえ忌み嫌われる存在であるこんな自分に対して、衣服や仕事、ずっとここにいたいと思えるような、そんな居場所を与えてくれた。
「これから尸迦と鷹藍と共に師匠の所に行くので、この衣裳を用意してもらったんです。宴もこのところ開かれていなかったので、確かに久しぶりに袖を通した気がします。数日留守にしますが、よろしく頼みますね」
「え、俺····ですか?」
「はい。花楓、あなたもこの百花堂の守り人のひとりですから、」
赤い瞳の少年が、驚いたように櫻花を見上げてくる。花の精でもなく、眷属でもない。でもあの日、その手を取ったその瞬間から、自分の中で唯一無二の主となった。
「はい、お任せください!」
その赤い瞳には一点の曇りもなく、どこまでも純粋なもので。この無垢な少年が、あの鬼神であることなど、気にも留めていなかった。鬼神とは、精霊ではあるが荒々しく恐ろしい神の類のこと。そんな彼が櫻花の元にやってきたのは、理由があってのことだったが。そんなことは今となってはどうでもよく、ただ彼が健やかに過ごしてくれればと思っていた。
あなたが(あなたと)いた、あの穏やかで優しい時間。二度と戻って来ない、それはもはや絵空事に同じ。
遠い昔。数百年も前の出来事。
あの頃の、こんな穏やかな夢を見たのは、本当に久しぶりだった――――。
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