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第一章
八、約束してください。
しおりを挟むあれからひと月ほど、肖月は白蛇の姿のまま、櫻花の衣の中で狸寝入りを決め込んでいたが、やっと化身の姿をとった。
櫻花はもはやしまっていた事すら忘れかけていたため、目の前にあの姿で現れた時にはかなりびっくりしていた。それくらい白蛇はまったく動かず、しかも丁度良くあたたかいので、櫻花は冬を越すのにもってこいだと思っていた。
そのぬくもりが腹の中からいなくなってしまった時、嬉しいような物悲しいような、不思議な感覚を覚える。それを知ってか知らずか、肖月は少しだけ腰を屈めて櫻花と視線を合わせる。
「そんなに白蛇の姿の方が良かった?」
顔を覗き込まれ、櫻花はその不思議な雰囲気の美しい青年に対して、どう答えたら正解かわからなくなった。
(はいと答えてもいいえと答えても、彼を喜ばせてしまう気がする、)
しかし、肖月は青銀色の眼を輝かせて、答えを待っている。話題を変えようと、櫻花は困った顔で笑みを浮かべた。
「いいですか? 百歩譲って、同行は認めます」
「本当に? 嬉しいな。俺、あなたのためならなんでもするよ?」
「それは、········間に合ってます」
ぱっと一変して少年のように明るい声で嬉しそうな表情を浮かべた肖月に対して、櫻花は眩しすぎて一瞬だけ言葉を失ったが、なんとかお断りを入れる。
「でも、これだけは約束してください。私なんかのために、その尊い命を懸けたりしないと」
「うん。約束する」
「あと、君のその姿はとても目立つので、人前では白蛇さんの姿でいてください」
「うん。じゃああなたの衣の中にいる」
櫻花は自分で言って、あれ?と首を傾げる。
(まるで自分が、衣の中にいて欲しいと言ったようなものでは?)
ぶんぶんと首を振って、その考えを散らす。
断じてそのようなことはない、はず!
(なんだか全部、この子の思惑通りになっている気がするのですが、)
結局、狸寝入りだったことを知りながらも、ひと月以上も彼を自分の衣の中に忍ばせていたのだ。途中でどこかに置き去りにしても良かったというのに、自分の良心がそれを赦さなかった。いや、寧ろ、心地好かったので手放すのが惜しかったのでは?
(だって、本当にぬくぬくして気持ちよかったんですもん。それに、白蛇さんに罪はないですし、)
自分でも何を言っているのか解らなくなってきた。櫻花の百面相を興味深げに眺めながら、くすくすと小さく肖月は笑う。
(本当に、可愛らしいひとだな)
触れたくなるが、思い留まる。せっかく油断しているのに、また警戒されては台無しだ。そもそも、契約に口付けは必要なかった。
(したいから、した。なんて言ったら、きっと真っ赤な顔をして怒るんだろうな)
それはそれで可愛いだろうな。
そんなことを考えながら、櫻花の右隣を歩く。
初めて会った日に心を奪われ、逢えない数年間はずっと冀っていた。この身のすべてはあなたのもので、この心もあなただけ。
「あなたのこと、なんて呼んだらいい? 主? ご主人様、なんていうのもありかな?」
「どっちも嫌ですよ。私の事は名で呼んでください」
わかった、と肖月は頷く。
まだまだ肌寒い冬の頃。
仙人にも精霊にもあまり関係のないことだったが、あたたかいものはあたたかいし、冷たいものは冷たいとわかる。
子供が親の手を繋ぐように自然に、横にあるその手を優しく握って、肖月は歩く。完全に油断していた櫻花は、え?え?と戸惑ったまま、連れられて行く。
白い地面に付いた足跡はふたり分だけ。
久々に広がる青い空と、仄かに感じる太陽の温もり。白い景色に反射して、目が眩みそうだった。
******
――――それからさらにふた月後、春の中頃。
仙人が住むという五神山のひとつ、蓬莱山。
応竜、鷹藍の領域内。ふたりは突然目の前にやって来た紅藍によって、なかば強制的にここに連れて来られたのだった。
数刻前————。
春の穏やかな風がふわりと吹き抜ける中、舞い散る花々を眺めながら、ふたりはどこへと目的地は決めずに歩いていた。
そこに何の前触れもなく天から降って来たのは、真紅の衣を纏った、可愛らしくも美しい、女性の見た目をした紅竜の分身、紅藍だった。
彼女? 彼? は朱色の瞳を輝かせて、その両手を取ると、ぱあっと明るい顔で櫻花を見下ろして来た。
「櫻花ちゃん! 下僕ができたって聞いたわよ!」
「は? え? なんです?」
急に聴き慣れない言葉を発する紅藍を見上げ、櫻花は首を傾げる。下僕とは?と、琥珀色の瞳を丸くして訊ねる。
「そこの白髪朴念仁くんのことよ! 精霊の化身を下僕にするなんて、さすが櫻花ちゃん」
「もしかして肖月のことを言ってるんですか? 彼は別に、」
「ということで、お願いがあって今日は来たの! あんたも、もたもたしないでこっちに来て頂戴、」
言って、後ろに立つ肖月の腕を遠慮なくがしっと掴む。
櫻花に対する明るく社交的なものと、肖月に対する声の調子がまったく違うため、非常に解りやすい嫌われ方だった。
「櫻花ちゃん、私にしっかり掴まっててね! あんたは、適当に逸れないようにこれでも持ってなさい」
紅藍は自分の手首に巻いていた白い布を半分解き、その端を肖月の方へ無造作に放った。ゆらゆらと風でなびく細い布を肖月が無言で掴んだその瞬間、紅藍はそれとは逆の右腕を櫻花の腰に回すと、そのまま横に抱き抱えて地面を蹴る。
燃えるような色の長い赤髪が風に靡き、抱えられている櫻花の頬をくすぐったのも束の間。瞬きをひとつする間に、すでに空の上だった。
「へ? ええっ!?」
「紅竜様、白昼堂々に拉致とか、大胆すぎ」
垂らされた細い布を掴んだまま、宙でぶら下がりながら肖月は呑気にそんなことを言う。それに反して櫻花は、いつもの如くまったく説明をしない紅藍に抱えられたまま、うーんと蟀谷を揉む。
「と、とにかく、どこに向かっているのかだけでも教えてもらえませんか?」
「蓬莱山の鷹藍様の領域よ」
はい? と櫻花はますます首を傾げる。鷹藍は紅藍たち四竜の長で、櫻花とは昔からの知己である。
しかしながら、それ以上の説明はなく、櫻花はある意味肖月の言うように、自分の意思とは関係なく、紅藍によって蓬莱山へと拉致されるのだった。
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