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第二章 朱に交われば赤くなる
番外編② 桃李 後編 ※注
しおりを挟むあの日のことは、王府でも様々な噂が流れた。気に入らない護衛や従者を、梓楽が癇癪を起して殺したという話だ。実際は母親に逆らえず手にかけ、自らの手で殺した者たちを弔っていた。
それを最初から最後まで見ていた桃李は、大人たちが口々に囁く言葉が誰かによって捻じ曲げられたものだと知っていた。だから、誰が何と言おうがあの時の梓楽の姿が本物だと信じることにした。
ある時、ひとりで前を歩く梓楽を見つけた。桃李は、思い切ってその背に声をかける。が、当然の如く無視される。
この頃は、ふたりともそんなに身長も変わらず、歩幅もほぼ一緒だったためなんとか追いつけた。
桃李が十歳、梓楽が十二歳の時だった。
「兄様、梓楽兄様、待ってください」
声をかけ続けるが、一度も振り向いてさえくれない。魔王候補の皇子だけが纏う漆黒。肩まで伸びた黒髪を無理やり括っている梓楽の後ろ姿は、もう何度となく目にしていた。
桃李は母親似で、背中にかかるくらいの長さの薄茶色の明るい髪の毛が特徴的だった。
皇子なのに皇女が纏うような薄桃色の羽織を纏い、可愛らしい顔をしている。大きな琥珀色の瞳の端を紅で飾り、まだ幼い高い声のせいで、可憐な少女にしか見えない。
「兄様、待って······っ」
角を曲がった所で、しっと声を出すなという意味で口元に人差し指を立て、梓楽が指示をする。近くで女性の話し声が聞こえた。
ここは紫烏殿の近くで、聞こえてきた声は侍女たちのものだったのだろう。その意図を汲み取った桃李は、口を両手で塞いで、じっとその赤い瞳を見つめる。
「こっちだ、」
突然手を引かれ、その後は無言のまま王府の中に唯一ある、庭園の方へと連れて行かれた。植物など育たないこの魔界で、どういう仕組みでこのような立派な庭を作り上げたのか。木々だけでなく見たこともない花々が咲き乱れていた。
この庭園は普段から解放されているが、桃李がここに来るのは初めてだった。そもそも、この庭園は魔族たちにとっては不要な場所のようで、しかし何代も前の大王が造った物らしく、勝手に無くすわけにもいかないのだろう。
「わぁ····すごく素敵な場所ですね」
手を引かれたまま、桃李は上を見ながら歩き、そこに広がる景色に感動して思わず呟く。ちゃんと手の行き届いている庭園。誰も立ち寄らない場所なのに、管理する者がいるのだろう。
風が吹き、白い小さな花びらが舞う。常に薄暗い色に囲まれている魔界の中で、この場所は見たこともないような美しい彩が広がっている。
母である蘭玲に、人界には青い空が広がっていると聞いた事があり、その明るい色の空がここに広がっていたら、きっともっと美しかったに違いない。
「連れて来てくださり、ありがとうございます」
にっこりと純真無垢な笑みを浮かべた桃李に対して、梓楽は握っていた手を離す。
今まであったぬくもりが消え、桃李はなんだか寂しいと思った。このままずっと、握っていて欲しかったのに。
「なんで俺に気安く声をかける?嫌がらせか?それともお前も殺されたいのか?」
口の端を斜めに吊り上げ、歪んだ表情で問いかける。それは皮肉まじりの言い方で、普通なら気分の好いものではないだろう。
「兄様、もしかして、私に話しかけてくださったんですか?」
しかし桃李の反応は、梓楽が想像していたものとはあまりにも違っていて、逆に困惑した表情になってしまう。
それもそのはずで、目の前の者は怒ったり悲しい顔をするどころか、その瞳を輝かせていたからだ。
「嬉しいです。私、ずっと兄様とお話がしたかったんです」
「いや、話を聞いていたか?俺は、殺されたいのかって言ったんだ」
「いいえ。だって、そんなこと、兄様はしたくないはずです」
不穏な言葉を紡いで脅してみるが、桃李は怯むどころか足を一歩前に踏み出し、梓楽の顔をじっと覗き込むと、不思議そうに首を傾げる。そして動揺していた梓楽の手を取り、楽しそうに笑った。
「兄様、一緒に庭園を見て回りましょう?兄様とたくさんお話したいです」
「お前、俺が怖くないのか?それとも噂を知らない馬鹿なのか?俺はこの手で自分の従者たちをたくさん殺したんだぞ?さっさと離れろ。お前も死にたいのか?」
それはこんな姿を他の者に見られ、鏡華の耳にでも入ったら、皇子であろうと例外なく殺されるかもしれないと、心配してくれているのだろうか?
青ざめた表情で掴まれていた手を乱暴に解き、梓楽は視線を地面に落とす。
「俺になんか触れるな。母上でさえ俺に触れない。俺に少しでも触れた者は絶対に赦さないくせに、」
そこまで言って、はっと梓楽は余計なことを言ったと思ったのか、唇を噛み締めて言葉を呑み込む。それを見て、桃李は思わず梓楽に腕を伸ばし、飛び込むように抱きついた。
「は······?な、に?」
「そんなの、おかしいです。私の母上はいつも頭を撫でて褒めてくれます。良い子って抱きしめてくれます。それは当たり前の事じゃないんですか?」
短い影がふたつ重なり、ひとつになるように。
ぎゅっと背中に手を回してしがみ付く。
同情なのかもしれない。
自分は母親に愛されているから、話を聞いて少なからず優越感もあった。
この気持ちはなんだろう。
弱い者を守りたいという偽善的な感情?
私だけを必要として欲しい。
私だけを見て欲しい。
「私、兄様の事が知りたいんです。明日もまた、ここで逢ってくれますか?」
梓楽は抱きしめられたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。一体何を間違えてこうなったのだろうと、最初から最後まで会話を頭の中で繰り返してみる。
しかしどう考えてもおかしいのは桃李の方で、なにもかも馬鹿らしくなってきた。
「明日も明後日も逢わない」
「じゃあ明々後日は?」
「明々後日も逢わない!」
「じゃあいつなら逢ってくれるんですか?」
あ、駄目だ、こいつ。
梓楽は顔を引きつらせて脱力する。
やっと離れてくれた桃李は、今度は自分の後ろで手を組み、また覗き込むように見上げてくる。白い花びらが薄茶色の髪の毛を飾り、不覚にも綺麗だと思ってしまった。
「私、明日から毎日ここで待ってます。兄様が来てくれるまで、待ってます」
「ふざけるな。そんなことされたら、俺の唯一の居場所がなくなるだろ!」
ここは、自分がひとりでいるための場所。慌てていたとはいえ、連れて来なければ良かった。
「いつもここにいるんですか?じゃあ、私も勝手に遊びに来ることにします」
梓楽に「は?」という顔をされたが、良いことを聞いたと桃李はどこか満足気だ。また余計なことを言ってしまった、と後悔している梓楽。
その日から、ふたりは少しずつだが心を寄せ合っていく。
――――数十年後。
第七皇子の誕生。生まれた皇子は赤い瞳の皇子だった。必然的に魔王候補の第三位となった皇子は、藍玉と名付けられた。
健やかに成長し、幼いながらも神童と呼ばれるような才能を持ち、人懐っこい性格もあって皆に好かれていた第七皇子。老師たちも口々にその才能を自慢し合っていた。
彼の五歳の誕生日のひと月前、大王に呼び出された。梓楽のことは定期的に報告していたが、その日の呼び出しはそれとは関係のないものだった。
大王は玉座から降りて来て桃李の目の前までやってくると、その場に片膝を付いた。それに驚いて、下げていた頭を思わず上げる。
「梓楽とのことは、特別に目を瞑ってやろう。だが鏡華がそれを知ればどうなるか、賢いお前ならわかるだろう?」
「父上、私は、これ以上彼に嘘は付けません」
この数十年間、梓楽は周りからは狂人として扱われ、本人もそれを良しとしていた。
より残酷に、より凄惨に、多くの人間や道士を殺すため、人界への任務に赴く。それは大王である目の前の父の命令で、そこに拒否権はない。
そんなことを繰り返している内に、彼の心は不安定になり、桃李はそれを見ていられず、ある時からその一線を越えてしまった。
そして、それに引きずられるように、自分の奥底にある"狂気じみた感情"に気付く。
「それを決めるのは私で、お前ではない。任務はそのまま続けろ。それとは別に、やってもらいたいことがある」
言って、大王は桃李の耳元に顔を近づけ、囁くように"あること"を命じる。それは意外な命令で、どういう意図があるのか想像もできなかった。
『藍玉の特別な存在になれ』
その命に逆らえるわけもなく、桃李は「わかりました」と、ただ頷くしかなかった。
五歳の誕生日。宴である事件が起こる。あれは、おそらく大王の差し金だろう。その一部始終を見ていたが、どうやら藍玉には特別な力があるようだ。
宴の件を心配したふりをして、黑蝶殿を訪れる。手作りの贈り物をし、思いの外上手く事が進む。藍玉は人懐こく、素直で可愛らしい子だった。
その日から、もうひとつの秘密を抱えたまま、梓楽と藍玉の間を行き来する。
こんなことをいつまで続けるのだろう。
いつかきっと、酷い罰が下るだろう。
そして、あの日、もうひとつの狂気がすべてを奪った。梓楽のために、自分のために動いた結果だった。大王が無意味だと教えるために、鏡華に伝えたのだろう。あの日、花椿殿が血で染まった。
梓楽があの場所に来たのは、鏡華が梓楽にその光景を見せるためだったが、大王が関わっていたこともあり、桃李は重症を負った上に蠱毒を呑まされ、瀕死状態ではあったが生かされたのだった。
その後の事は知っての通りである。
自害したが生かされ、八年もの間眠り続けた。それでも梓楽はずっと待っていてくれた。今度こそ、偽ることなく彼の傍にいられる。
目覚めた時、誓った。
今度こそ、あなたのために生きる、と。
邪魔する者はもういない。
ずっと、あなたの傍にいられる。
あなただけを、愛せる――――。
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