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第二章 朱に交われば赤くなる
2-15 また逢う日まで ※注
しおりを挟む紅玉が狂人と化してる暁狼の方へ向かって行くのを、碧雲と翠雪は止めなかった。
彼が望んだ、妖魔を説得するために仕掛けたはずの罠は、もはや意味を成さない。その相手が絶命し、真っ赤な血肉の塊になってしまったからだ。
翠雪は少なからずこうなることを予想していたが、思っていた以上に暁狼の憎悪が強かったことに、後悔すらしていた。こんなことになるのなら、最初から関わらなければ良かった。
(噂以上のキレっぷりですね······"暁の餓狼"。無抵抗の妖魔に対してあの仕打ちとは。ひとの姿をしていようが、その器がひとのモノだろうが、少しの躊躇いもないなんて、もはや彼は、)
復讐者として完全に常軌を逸している。
それくらい、今、目の前に広がる凄惨な光景に悍ましさを感じた。恨みをもって鬼と化した者でさえ、ひとだった頃の良心をひと握りくらいは保持している。ここまで残酷に殺せるのは、もはや魔族以上だろう。
道士としての根本的な理念を持ちつつ、妖魔や魔族に対しては容赦ない。復讐というただひとつの目的が彼という器を動かす原動力なのだろう。
(魔界でもここまでの事を躊躇いもなくできるのは、第四皇子の梓楽くらいだろう。あの状態で、本来の彼の意識はあるのか?まるで別人格。なにかに取り憑かれているというオチなら、まだ救いようがあるが····、)
あれが素なのなら、もはや誰が敵で誰が味方かわからなくなっているのではないかとさえ思う。そんな状態の暁狼に、紅玉が近づいていく様子を、ただ見守ることしかできない。
(あんな顔、させたくなかった、)
だが一体誰が、こんなことになると予想していただろう。
どうしようもなかった?
紅玉の足は少しも迷うことなく暁狼に向かっていた。暁狼の笑い声が止まる。
不動のまま佇む影に、もうひとつの影が重なった。生ぬるかった血は風に吹かれて冷たくなっていき、赤で濡れた衣に死の実感を齎していた。
そんな中、違う温度が背中に触れて来て、その両の手は後ろから胸元に伸びて来たかと思ったら、ぎゅっと赤で染まった衣を掴んだ。
背中にあるぬくもりと、身体に回された腕の温度。べったりと付いた血液が道袍に染み込み、ひんやりと冷たくなっていた肌に、広がったぬくもり。背中に感じる吐息が、暁狼の心臓に音を与えた。
どくん。
どくん。
静寂の中、自分の心臓の音が身体の中に響き渡る。それは気付けばふたつあり、少しずつ冷静になっていくのを感じた。狭まっていた視界が晴れていくような。悪夢から現実に引き戻されるような、そんな幸福感にも似た、なにか。
「兄さん、もういいよ。もう、そのひとは、亡くなってる。動いたりしない」
その声はどこまでも落ち着いていて。
どこまでも悲し気で。
どこまでも慈しむような優しささえあった。
ぎゅっと握りしめられた細い指に力が入る。後ろから抱きつき、そのまま衣の胸元当たりを掴んで、離れないとでも言うように背中に頬を寄せていた。気が狂っていたとしても、こんな風に、簡単に後ろを取られるとは思ってもみなかった。
暁狼は剣を握ったまま、両の腕は身体の横に力なく下ろしていた。ゆっくりと視線を自分の胸元辺りを掴んでいるふたつの手に落とし、ぼんやりとしている頭を整理する。
「お願いだから、もう、傷付けないで」
そのひとを。
そして自分自身を。
紅玉は瞼を閉じる。こんな悲しい終わり方、誰も望んでいない。少なくとも、趙螢たちや麗花は。彼女の罪は憎んでも、死を望んでなどいないだろう。ちゃんとその罪を償い、その後の事は彼女自身の問題と思っていたはずだ。それがすでに叶わない状態だったとしても。
こんな酷い有様になっているなど、想像もしていないだろう。
「は······、綺麗事を言うな·····っ!お前は知らないからそんなことが言えるんだ!」
魔族はひとを虐げ残忍なやり方で殺す。妖魔はひとを喰らい、ひとを糧として自身の力にする。それによって失った者たちがどれだけいるか。この戦いに終わりなどなく、一方が息絶えるまで続くのだ。
「だから殺す······俺はそう決めた。あの魔族の皇子に再び出逢うまで。俺はこうやって殺し続けるしか、生きる意味はない」
復讐。強くなる原動力。そうやってこの五年間、心を無にして殺し続けた。
「殺された弟のために、なんて、俺は考えていない。これは、俺の、俺だけの復讐。こんな醜い感情、あの暁燕が持つはずないからな!」
そう、これは誰かのための復讐ではない。
すべては自分自身のため。
「それでも!」
紅玉は顔をくしゃくしゃにして、思わず声を上げる。悲鳴に似た嗚咽混じりのそれに、どす黒く淀み始めていた暁狼の感情が怯む。
カラン、と地面に金属音が鳴り響く。気付けば、右手から滑り落ちた剣が足元に転がっていた。
「それでも、駄目だよ、こんな悲しいやり方······兄さんの心がもたないよ」
「······そんなもの、とっくの昔に壊れている」
握りしめていた指が緩んだのを良いことに、暁狼は血で汚れたその手で紅玉の両手を掴むと、ゆっくりと自分から引き離す。握られたその手に悪意はなく、寧ろどこか優しささえあった。
しかし血の気の失せた冷たい手は、紅玉に漂う鉄の臭いをより濃く感じさせる。
ぬるりとお互いを染める赤の気配に、背徳感のようなものを覚えた。
罪の証であるその血を分け合い、手を離した暁狼が振り向く。そこに先程の狂気は見られなかった。
「お前は、なんだ?どうして俺に興味を抱く?世間知らずの坊ちゃんのただの暇潰しなら、今日限りで俺のことなどさっさと忘れるんだな」
「······兄さん、僕は、」
「止めろ。俺は、お前の"兄さん"じゃない」
そう言った暁狼の眼は、どこまでも優しかった。突き放そうとしているはずなのに、なにかを諦めたかのようなその表情に、紅玉はただじっと眼を逸らすことなく見上げていた。
血で濡れた手を握り締め、少し戸惑いながら自分の右耳の小さな紅い玉に触れた。そして片耳だけ耳飾りを外し、手の中の違う温度に瞼を伏せる。
「兄さんは、兄さんだよ。僕がそう呼びたくて呼んでる。あなたはそれを許してくれた。僕はそれがすごく嬉しかったんだ。あなたがダメって言っても、もう遅いよ」
言って、ずっと悲しい顔をしていた紅玉が慈愛に満ちた笑みを浮かべた。それは、こんな悲惨な状況で浮かべるには場違いで、けれどもそれを真正面で見ていた暁狼には、まるで今まで夜空に浮かんでいた月が、急に目の前に現われたかのようだった。
「この耳飾りは、僕の母上が大切にしていたもので。旅に出る時に僕にくれたものなんだ。その片割れを、あなたに持っていて欲しい」
紅玉は暁狼の返答など関係なく、彼の手の中にその耳飾りを握らせる。あの血だまりの中で佇み笑っていた彼を見た時、きっと、もう邸には戻って来ない気がしたのだ。
このまま去ってしまうだろうことを察した紅玉は、引き留めることさえできないとわかっていた。だから。
「嫌なら捨てても構わないから」
「······馬鹿か。自分の母親の大切な物を、俺に捨てさせるな」
「うん、だから、持ってて欲しい。僕のこと、忘れないで?」
耳飾りを握り締めたまま、暁狼は困惑する。なぜこの者は、こんな姿を見ても逃げ出さないのか。失望しないのか。普通なら触れたくもないだろう。それなのに、こんな風に笑ったりして。
「僕もあなたのこと、忘れない。また逢えるって信じてる。だから、少しだけでいいから、考えて欲しい。本当にあなたには復讐しかないのか。あなたを否定したりはしない。でも、あなたがこんな風に自分自身を傷付けてしまうのは、嫌なんだ」
「勝手なことを言うな。俺はお前の事などすぐに忘れるし、次に逢うこともない」
冷ややかな眼で紅玉を見下ろし、出会った時のように引き離す。それでも、握ったままの耳飾りを目の前で投げ捨てるようなことはしなかった。
「それにね。一度繋がった縁は、切れたりしないんだよ?」
その耳飾りの意味を、紅玉はあえて教えなかった。だってそれは言い伝えであって、本当かどうかなんてわからない。けれども、もし暁狼がそれを捨てずに持っていてくれて、また再び出逢うことができたら。
『自分が一生添い遂げたい、もしくは離れていても繋がっていたいと決めたひとにその片方を贈ると、その縁は永遠に切れない』
母である夜鈴が教えてくれたそれが、本物だと証明もできる。
ふん、と暁狼がばつが悪そうにそっぽを向く。何を言ってもどんな態度を示しても、目の前の者には通じそうにない。
「······さっさと失せろ。俺ももう行く。趙螢殿にはあんたらに報酬を渡すように伝えておいた。これで文句はないだろ?」
足元に落ちている剣を拾い上げ、三人に背を向けると、そのままひとり歩き出す。
自分の荷物は最低限で、ほぼその身ひとつ。妖魔を殺してそのまま去るつもりでいたので、こんな風に話し込む予定ではなかったのだ。あの姿を見た彼らが、なにも言わずに去って行くだろうと思っていたから。
「そこのエセ仙人、なにを企んでるか知らないが、こいつをこれ以上変なことに巻き込むな。あんたのことはもう少し調べる必要がありそうだから、今度逢う時は覚悟しとけよ?」
背を向けたまま、暁狼が翠雪に対して忠告してくる。とばっちりを受けた翠雪は、そもそもの原因がそこにいる紅玉であることを呑み込み、あえて不敵な笑みを浮かべてやった。
そのまま森の奥へと消えていった漆黒の衣を見送り、三人はほぼ同時に顔を見合わせる。
「今度逢う時、だって!」
「いや、そこはどうでも良くて。紅玉様、手が血だらけですよ?無茶をしないでください。そもそもあんな状態のヤバい奴に抱きつくとか、なにを考えてるんですか!」
「あのイカレ狂人道士、私に喧嘩を売るなんて百年早い。今度逢ったら、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをさせてやります」
その前に、この原型を留めていないご遺体をどうにかしないとですね、と嘆息する。後始末は必要だろう。こんな光景を他の人間が見たら、間違いなくひと月以上は魘されてしまうはず。
一番の面倒事を残していった暁狼。
静かな夜が再び訪れる。
そして、この長いようで短い数日間が、終わりを告げるのだった。
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