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第三章 光架
3-1 救われたもの
しおりを挟む姚泉が豊緋の刃に倒れた後、その魂魄は迷うことなく紅宮へと飛んで行った。それはまるで最初から決めていたかのように、用意されていたかのように、予測していたかのように。目的をもって。
あの儀式の最中、ひとりの少女が息を引き取った。母親は暗殺された方の宗主の数多いる妻のひとりで、金華の地の、大きな妓楼の元踊り子。その娘はまだ九歳で、生まれつき心臓が弱く、鳳凰の儀の数日前から意識がない状態だった。
娘が永遠の眠りについた後も、母親は泣き続け離れようとしなかった。
駆け付けた姚泉付きの宮女である黄蘭と緑夏は、姚泉の指示通り母親が変な気を起こしたりしないよう、傍で慰めながら見守っていた。そんな中、目の前で信じられないことが起こる。
「····なかない、で······」
その声は、息を引き取ったはずの少女から発せられた。
「もう、だいじょうぶ、だよ····」
慈しむような眼差しで母親の頭を撫で、少女は青白い顔で小さな笑みを浮かべた。やせ細った手首は痛々しく、しかしその指先は、どこか優雅でさえあった。
母親は驚きのあまり言葉が出ず、目の前の状況を受け止めるのに時間がかかったが、愛する娘が息を吹き返した奇跡に嬉し涙を浮かべて、ぎゅっとその小さな身体を抱きしめる。
その少し後だった。紅宮に住まう前宗主の妻たちやその子、そこで働く宮女たちに姚泉の訃報が知らされたのは。
黄蘭、緑夏は言葉を失い、娘が蘇って喜んでいた母親も表情が一瞬にして曇った。その訃報はすぐに紅宮中に広まり、泣き崩れる者もいたという。それだけこの紅宮における姚泉の存在は大きく、抜けた穴を埋める代わりの者などどこにもいなかった。
皆が悲しみに暮れる中、少女は涙を浮かべることもなく、数日経ってもなかなか立ち直れない宮女たちをじっと見つめて、母親に寄り添いながら余計なことは言わずに大人しくしていた。
(あれを早くあの子たちに渡してあげないと。いつまでもこんな状態じゃ、前に進めないわ)
姚泉の葬送も終わったというのに、未だにお通夜状態の紅宮。少女は母親の下裳を掴み、その後ろから周りを覗き見る。
不審な動きをして疑われるのも本意ではないし、なんとか自然に振る舞う必要があった。
唯一、あの三人だけはすぐに切り替えて動き出していた。黄蘭と緑夏、そして白桃。姚泉付きの宮女である三人は、彼女の意志を無駄にすることはせず、他の者たちが少しでも立ち直れるように各々声をかけて回っていたのだ。
「お母さん、ちょっとお庭に行って来てもいい?」
「こんな時間に?」
「お花を見たいの。ほら、夜に甘い香りのするお花、憶えてる?」
「夜来香のこと?」
うん、と頷き、夜に庭に出るための理由を自然に口にする。母親である翠蘭は急に思いついたようにそんなことを言う娘の前に膝を付き、穏やかな表情で訊ねた。
夜来香とは、咲き始めは黄色の強い黄緑色をしていて、いずれは橙色に変わるという、上品な甘い香りのする花だ。
暑い気候で育つため、この地は快適なのだろう。夜になると昼間よりさらに強い香りを放つが、真夜中になると甘い香りがなくなるという不思議な花だった。小さな星のような形をしていて、ひと房にいくつかまとまって咲いているのが特徴的なのだ。
この母娘は昔から庭の花の管理を仕事にしており、よくふたりで並んで作業をしていた。翠蘭は妓楼の踊り子だったこともあり、娘の看病でやつれてしまってもなお、かなりの美貌の持ち主だった。あとひと月もすれば元の調子を取り戻し、その美しさを完全に取り戻すことだろう。
「翠花はあのお花が好きだものね」
「うん。ねえ、ちょっとだけ。すぐに戻るから、ひとりで行って来てもいい?」
「あんまり長くは駄目よ? 約束できる?」
「うん、約束」
夕餉を終えた頃で空も薄暗くなっていたが、紅宮は全体的に燈が多く煌々としているし、護衛のひとたちや宮女たちが何人もいるので、ある意味どこよりも安全な場所だった。
翠花という名の少女は、あの時完全に心臓が止まり、死んだはずだった。その魂は母親の周りからなかなか離れられず、夢月の魂魄が辿り着いた時もぐるぐると回っていた。
(あの子の代わりに守ると約束した。魂魄が完全に定着するのには時間がかかるから、当分は大人しくしていないといけないけれど)
夢月が特級の妖鬼に名を連ねている能力のひとつ。それは魂魄だけで存在できること。身体を替えられること。条件はあるが、それが上手くいけば姚泉と同じく、数年かけて定着させられるだろう。
本当の翠花は夢月にすべてを託し、天に昇って行った。
庭に降り、辺りを見回す。様々な花が咲き誇る中、見た目は地味だがその香りはどの花よりも存在感のある夜来香の前を通り過ぎ、その先にある金木犀の前で立ち止まると、白い下裳が汚れないように手で裾を持ちながらゆっくりとしゃがんだ。
「なんであんなことをしたか、訊きに来たの?」
後ろに現われた人物に対して、振り向くことなく夢月は問う。
「そうするつもりだったけど、そっちはいいや」
それは少し幼い声だった。またあの幼子の姿になっているに違いない。後ろに立っていた狼煙、否、逢魔がそう言ってすっと横にやって来た。
「ここを発つ前に、あんたに忠告しに来た」
幼子姿の逢魔は揃いな肩くらいまでの細い髪の毛で、前髪が長い。
腰帯に差している黒竹の横笛の端には、藍色の紐で括られた琥珀の紐飾りがぶら下がっている。
前に見た時と少し違うとすれば、臙脂色の膝まである長さの上衣を纏い、黒い上質な腰帯を巻き、白い下衣を穿いていること。
あの時はこの地の一族に合わせて朱色の瞳にしていたが、今は本来の瞳の色である金眼だった。
「あんたは無明のことを知らなすぎる。説明もなくあんな終わらせ方をしたら、悲しむだけだって想像できなかった?」
「悲しむ? 妖鬼に? 神子が?」
夢月はその言葉に正直驚きを隠せなかった。神子、無明は妖鬼としての自分の特性を知っていたはずだ。身体が駄目になっても魂魄が無事なら、まったく問題ないということを。長い付き合いでもなく、この地で初めて会った妖鬼に対して、悲しむなんてあり得ない。
それにあの時、無明は自分が何をしようとしているのか理解しているようだった。わざと豊緋に捕まり、抵抗もしないで殺されたことも。
「それで救われたものもあったかもだけど。でも間違ってるってこと、自覚した方がいいよ」
その言い方は決して責め立てるようなものではなく、どちらかと言えば諭すような優しさを含んでいた。いつもの憎まれ口は、今の状況では交わす必要はないということだろう。
「だから、これは忠告。もしあんたがこの先も無明と関わる気があるんだったら、無明のことを第一に考えて動いて欲しい」
逢魔は淡々とそう述べた後、夢月が言葉を返す前にその場から姿を消してしまった。
(····自分がやろうとしたことで、あの子を悲しませたということ?)
この地に不要な争いを齎していた妖鬼が、いなくなっただけ。ただ、それだけなのに。
しかし今の状況はどうだろう。
予想していたものとは、少し違うのではないか?
姚泉という身体を借り、紅宮の主として土台を作った。慕ってくれる者も大勢いた。その者たちは皆、数日経っても悲しみに暮れている。その意味を、ちゃんと理解していただろうか?
(やり方を間違えたとは思ってない。後悔もしていない。でも、やり残したことがないわけじゃない)
金木犀の根本を落ちていた石で掘り、土の中から取り出した小箱に視線を落とす。
大事なものをそっと胸元で抱きしめ、少女は朱色の瞳を閉じた。
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