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第一章 花轎
1-23 母との約束
しおりを挟む七つの頃、たったひとりの肉親であった母が他界した。母はどんなに貧乏でその日暮らしの酷い生活の中でも、いつも笑っているような、そんなひとだった。
父親のことは知らない。母と自分を養うこともできない、ろくでもない男なのだろうということだけは、子供ながらに理解していたが、彼女が父について何か語ることは、最期までなかった。
しかし、語らずとも、解っていることがひとつだけあった。
この力は、緋の一族が持つ特殊なもので、それ以外の光焔の民が持つことはないモノだった。
母は「この力は本当に必要だと思った時に使いなさい」と言った。使うな、とは言わないところが、彼女の聡明さを物語っている。その頃の光焔は貧困の差が激しく、金があるかないか、緋の一族との繋がりがあるかないか、でまったく違う待遇だった。
母が他界した後、たかが七つの子供に貸す部屋などなく、住んでいた部屋を追い出された。大家の情けもあって、母の亡骸をなんとか埋葬することが叶ったのは幸運だったと言えよう。
その日から、路地裏での生活が始まる。
最小限の荷しかないただの子供が、残り少ない財嚢を握り締めて生きるには、厳しい世の中だった。しかし、同じような境遇の者たちは驚くほど多くいて、路地裏はその様な者たちで溢れていたのだ。
「こっちへおいで、お腹が空いているだろう?さあ、あっちにたくさんあるから私に付いておいで、」
優しそうな顔で裕福そうな身なりの男が、自分と同じくらいの少年に手を差し伸べていた。その子は差し伸べられた手に自分の手を伸ばそうとしていたが、どう考えても怪しいだろうと、その少年の腕を思わず引いていた。
「え?ちょ······っ」
手を取ってその場から逃げていく少年たちを、その男はちっと舌打ちをしてその場で立ち尽くす。追ってくる気はないようだ。どうせ次の獲物を狙うのだろう。路地裏の角まで全力で駆け、肩で息をしながらその少年の方に視線を移す。
世間知らずな元坊ちゃんという感じのその少年は、息を整えるなり、蓉緋の胸ぐらを掴んできた。
「なんで邪魔したんだよっ!俺はもう三日も何も食べていないんだっ!やっと食事にありつけると思ったのにっ」
背は同じくらいで、しかし身なりは自分と比べたら良い方だった。思った通り、元々はそれなりの生活を約束されていた者なのだろう。それがなぜかこんな場所にいる。理由は、まあ、似たようなものだろう。
「あっそ、俺は四日目だ。けど、ああいう輩は気を付けた方が良いぞ?優しそうな仮面を付けて、裏でやってることは人攫いさ。娼館に売り飛ばされるのがオチだ」
「え······?なにそれ、」
その話を聞いた途端、少年の顔色が真っ青になった。それを想像して、後悔しているというところだろう。
仕方ないな、と懐から最後に残しておいた食べかけの饅頭の包みを取り出し、少年へ差し出す。
「俺は蓉緋。お前は?」
差し出された包みを広げてその中身を見るなり、少年は半分だけの饅頭を本能のままに口に入れた。
「もごもご····ごくん。俺は、花緋」
「······お前、俺の話聞いてたか?」
呆れた顔でその少年、花緋を見やる。さっき注意しろと言ったばかりだというのに、これだ。はあ、と肩を竦めて、蓉緋は花緋に手を差し出す。
「俺と一緒に来るか?それともここで人買いにその身を売るか?今すぐ選べ」
「······一緒に、行く」
花緋は少しだけ考えて、それから迷わずにその手を取った。
あの日からずっと、ふたりは共に生きてきた。
蓉緋が七つ、花緋が六つの時だった。
******
三年後、路地裏は当時十歳であった蓉緋によって統括されており、自分より年上の者も多くいたが、その者たちはまるで信者のように彼を慕い、信じ、指示を忠実に実行した。
結果、組織のようなものができあがり、各々の得意なものを商品として売り、大人たちと渡り合うようになっていた。仕事の請け負いは蓉緋の判断力によって見定められ、それに見合った金銭をしっかり要求できるような仕組みを作った。
最初は大人たちも子供のやっていることと馬鹿にして相手にしなかったが、少しずつ確実に実績を上げることで、その信頼を勝ち取っていく。
そして、そんな才のある者を、一族が放っておくわけがなかった。
ある日、ひとりのぼろ切れを纏った老人が、路地裏に迷い込む。今思えば、自分たちに会うためだったのだろう。
老人は言った。
「少年、お主はこの地をどう思う?」
施された握り飯を口に入れながら、汚らしい身なりの老人は、そんなことを十歳の少年に問うた。
「糞以下だな。上の人間が私利私欲に走れば、俺たちのような民はただ死ぬだけさ」
「ならば、鳳凰の儀に挑戦してみてはどうだ?宗主になれば、この糞以下の地も変わるかもしれんよ?」
「はは。俺にその資格があるとでも?無駄なことはしない主義なんだ」
蓉緋の横で、花緋は刀剣を握り締める。力があっても、機会がなければ意味がない。一族が二年に一度行う鳳凰の儀に出る資格を得られたら、絶対に自分か蓉緋が一番になって、宗主になることだって夢じゃない。
しかし、自分たちのように宮にも入れない者たちには、推薦状が必要だった。
「こいつなら、その資格があると思うんだが?」
蓉緋は花緋の右肩に手を置いて、ふっと口元を緩める。現宗主の弟の妾の子である花緋なら、すでに認知されているわけだから問題ないはず。
「ふむ。推薦状が必要とな?だが、そうじゃの、現宗主は、力だけは緋の一族の中で一番であることは間違いない。もう十数年以上もその座から動いておらんからの。今のお前たちでは返り討ちにあうのがオチじゃな」
「なんでそんなことがわかる?やってみなければわからないだろう、」
むっと花緋が目を細めて腑に落ちない顔をした。確かに、花緋の剣の腕は確かで、まだ九つなのにこの辺りで彼に勝てる者はほとんどいないだろう。
蓉緋は宥めるように、丸まった花緋の背中を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「時が熟した時、お前たちの許にこの握り飯の礼をしにくる。その時まで、今の志のまま、変わらずにいられる自信はあるかの?」
なんのことやらよくわからなかったが、蓉緋と花緋は同時に右の拳を前に突き出す。
「もちろん、」
その声は重なるように紡がれ、老人は立派な白く長い髭を上下に撫でた。
そしてその十二年後、老人は見違えるような立派な身なりで目の前に現れ、蓉緋と花緋に推薦状を持ってやってきた。
握り飯の礼にしては、随分と重たい礼だな、と不敵な笑みを浮かべ、老人の意図を察した蓉緋は、そう吐き捨てるのだった。
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