139 / 231
第五章 欲望
5-28 失ったモノ
しおりを挟む――――十年前。
蘭明が八歳、朎明が六歳の時だった。
竹林の中で遭遇してしまった凶暴な黒い犬の妖獣に、襲われた。都から少し離れた場所にあるその場所は、下級の妖者くらいはいるものの、妖獣など今まで存在しなかった。
宗主である母と、違う邸で暮らす父、数人の術士たちと共に、妖者退治に来ていたのだが、ふたりはいつの間にか逸れてしまったのだ。
運が悪いことに大人たちの気配はなく、たったふたりだけの所にそれは現れた。
大人たちからすれば、だだの大型の犬ほどの大きさの妖獣だったが、幼いふたりにとっては見え方が全く違った。獰猛な黒い獣はぐるぐると剥き出しの鋭い牙をこちらに見せて、威嚇してくる。
蘭明は妹である朎明を守ろうと、前に出て手を広げ、震えながらもなんとか黒い犬を睨みつける。その眼には涙が浮かび、どんどん視界が歪んで掠れてしまう。ぶんぶんと首を振り、なんとか意識を集中する。
「······姉さま、怖い」
「大丈夫よ、朎明。じっとしていれば、きっと、どこかへ行ってくれるわ」
自分の後ろでぎゅっと衣を握り締めてくる朎明を安心させようと、蘭明は優しく、できる限りの冷静な態度で答える。
朎明と黒い犬、交互に視線を向けながら、じりじりとこちらに寄って来ている妖獣に、内心焦りを覚える。
(母様、······父様っ)
蘭明の祈りは届かず、妖獣は勢いよく襲い掛かって来た。思わず突き出した細い腕に犬の鋭い牙が噛み付き、貫通する。
右腕に激痛が走る。同時に、強い陰の気が身体の中に流れ込んでくる不快さに、悲鳴を上げることすらできなかった。
「誰か助けて!姉さまが殺されちゃう!」
自分の後ろでその光景を目の当たりにし、混乱して叫ぶ朎明。いけない······と蘭明は途切れそうな意識をなんとか繋いで、再び腕の痛みに耐える。妖獣の視線が朎明を捉えているのが解った。
「妖獣さん、私の方が美味しいわよ!」
蘭明は噛み付かれたままの腕を引っ張り、妖獣の気を引く。
引っ張られたことによって、自分の獲物を獲られたと思い再び嚙む力が増す。そのまま引きずられるように蘭明の足が地面から離れた。
宙に一瞬浮いたと思えば、地面に右腕以外が叩きつけられる。妖獣は蘭明の右腕を咥えたまま、獲物が弱るのを待つかのように、右に投げたり左に投げたりした。
(もう、駄目、)
地面に身体を叩きつけられる痛みと、腕の感覚が無くなっていく恐怖。このまま意識を失えば、本当に、もう、死んでしまうかもしれない。
閉ざされていく視界の中、妖獣の悲痛な悲鳴が響き渡る。
「蘭明!朎明!」
それは、宗主であり母の声だった。妖獣の口から右腕が解放され、そのまま放り出された身体を、地面に付く前に誰かに抱き止められる。
「······とう、さま、私、ちゃんと朎明を、まもった、わ」
「ああ、よくやった。もう、大丈夫だ。君を虐めた妖獣は、宗主が倒してくれたよ」
ああ、良かった。朎明は泣いているけど、怪我はないみたい。宗主に抱き上げられ、涙を拭われている。もう大丈夫。
私はお姉ちゃんだから、妹を守らないといけないのだ。私、ちゃんと守れた、よね?
「朎明、良かった。どこも怪我をしていないわね?大丈夫よ、もう怖くないわ」
どうして?
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!
腕の感覚がない。
私の右腕、どうなってしまったの?
「これは、もう······、いや、······早く邸に、」
「その子は大丈夫なの?」
「薊明、」
父様、どうしてそんな顔をするの?
教えて······私、もしかして、死ぬの?
「命に別状はないが、これでは、もう······武芸は無理かもしれない」
「蘭明は当然のことをしたのよ。朎明を守って負った怪我なら、誇りに思いなさい」
「薊明、君ってひとは、蘭明がこんな状態だというのに!」
喧嘩、しないで。私は大丈夫よ。だって、もう痛くないもの。
そのまま意識が無くなる。再び目が覚めたのは一週間後だった。夢であったなら良かったが、目覚めたその瞬間から悪夢が襲った。蘭明はその事実に、しばらく立ち直ることができなかった。
数日の間は、右腕の肘から下、指の一本も動かせない状態だった。一年かけてなんとか物が握れるようになり、さらに数年かけて細かい作業ができるまでに回復した。
しかし、一番必要としていた武芸への復帰は叶わず、どれだけ血の滲むような努力をしても、どうにもならなかった。
それから自分にできることを探し、なんとか役に立てるようにと、宝具を使いこなせるように頑張った。妹たちのお世話もした。
いつも笑顔でいるようにした。この腕に対して、朎明が負い目を感じないように。
本当に褒めて欲しいひとには、届かないと解っていても。
0
お気に入りに追加
84
あなたにおすすめの小説

新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。


別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。
いとしの生徒会長さま
もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……!
しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!
某国の皇子、冒険者となる
くー
BL
俺が転生したのは、とある帝国という国の皇子だった。
転生してから10年、19歳になった俺は、兄の反対を無視して従者とともに城を抜け出すことにした。
俺の本当の望み、冒険者になる夢を叶えるために……
異世界転生主人公がみんなから愛され、冒険を繰り広げ、成長していく物語です。
主人公は魔法使いとして、仲間と力をあわせて魔物や敵と戦います。
※ BL要素は控えめです。
2020年1月30日(木)完結しました。

思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった
たけむら
BL
「思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった」
大学の同期・仁島くんのことが好きになってしまった、と友人・佐倉から世紀の大暴露を押し付けられた名和 正人(なわ まさと)は、その後も幾度となく呼び出されては、恋愛相談をされている。あまりのしつこさに、八つ当たりだと分かっていながらも、友人が好きになってしまったというお相手への怒りが次第に募っていく正人だったが…?

嫌われ者の長男
りんか
BL
学校ではいじめられ、家でも誰からも愛してもらえない少年 岬。彼の家族は弟達だけ母親は幼い時に他界。一つずつ離れた五人の弟がいる。だけど弟達は岬には無関心で岬もそれはわかってるけど弟達の役に立つために頑張ってるそんな時とある事件が起きて.....
学園の天使は今日も嘘を吐く
まっちゃ
BL
「僕って何で生きてるんだろ、、、?」
家族に幼い頃からずっと暴言を言われ続け自己肯定感が低くなってしまい、生きる希望も持たなくなってしまった水無瀬瑠依(みなせるい)。高校生になり、全寮制の学園に入ると生徒会の会計になったが家族に暴言を言われたのがトラウマになっており素の自分を出すのが怖くなってしまい、嘘を吐くようになる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿です。文がおかしいところが多々あると思いますが温かい目で見てくれると嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる