74 / 231
第三章 氷楔
3-17 その名は、
しおりを挟む水の中は春の終わりにしては冷たく、なにより真っ暗だった。絡みついてくる黒く長い髪の毛のようなそれが、無明を包み込むように周りに浮遊しているためであることに気付くのに、さほど時間はかからなかった。
(まずい····突然だったから、息が、····っ)
こぽっと左手で塞いだ指の隙間から気泡が零れて、遠くなっていく水面に上がっていく。そんなに深い運河ではないはずなのに、まるで底なし沼のように下も上も解らなくなる。ぎゅっと右手に握られた横笛に力が入った。
(息のできない水の中じゃ、······俺の力は役に立たない)
足に絡みついて離れないそれは、どんどん無明を暗闇の中へと引きずり込んでいく。その度に空気が漏れ、意識が遠のきそうになった。
けれども先程から耳元で煩いくらい喚かれる、異様に低かったり高かったりする声が、何度も無明を現実に戻してしまう。
(······これ、は、怨霊の集合体?)
いくら水がそういうものを呼び込みやすいと言っても、この怨霊の数は尋常ではない。しかも都は玄武の宝玉の恩恵を一番近くで受けている地だ。こんなモノが自然に集まるはずがないのだ。
(······もう、これ以上、は)
こぽこぽと先程よりも多くの気泡が口の隙間から零れ落ちていく。抑えていた手も力を失くし、真の暗闇に視界が染まる。声は相変わらず喧しく、再びこちらに引き戻そうとする。その度に苦しさが増し、頭が痺れてくる。
『————忘れないで?』
ふと、誰かの声が頭の中に響いた。あれは、あの声は、誰のものだったか。
『————これはあなただけに捧げる名だよ』
名前、を呼べと。
その声は告げる。その声は、あの喧しい怨霊たちの声を掻き消して、無明を暗闇から光の方へと引き戻す。
(·····きょ····げ、つ····鏡月っ)
水面があるだろう方向に、横笛を掲げるように伸ばす。沈んでいく身体。朦朧とする意識。
薄れていく視界に、ぼんやりと柔らかい金色の光が生まれた。
それは、怨霊の塊を突き破って真っすぐに無明の所にやってくると、迷わず腕を掴んで身体を引き寄せ、大事に抱きかかえるように、水面に向かって泳いでいく。
怨霊たちは叫び声を上げ、今度はふたりを捕らえようといくつもの黒い触手を伸ばした。
「八つ裂きにされないと気が済まないらしい」
ふっと口元を緩め、水中で言葉を紡ぐ彼は、意識を失ってしまった無明を見下ろして、それからその金眼を触手の核に向ける。
水中に漂う髪の毛ような気色の悪い触手は、再び獲物を取り戻そうと、こちらをしつこく追って来る。
金眼の妖鬼は、なぜかぴたりと動きを止めた。
それを好機と無数の触手がふたり諸共喰らおうと、四方八方から包み込むように再び暗闇に引きずり込んだ。
しかし、丸い球体のように水中に形成されたそれは、獲物を捕らえたと満足するのも束の間、今度は運河の水が天にでも昇るような勢いで舞い上がり、その姿を露わにされる。
その上空には、薄青の衣を纏ったもうひとりの獲物の姿。欲張って取り込もうと触手を伸ばすが、獲物に触れるどころか、その鋭く細い触手が先の方からみるみる凍っていく。
よく見れば、運河の水が黒い球体になっている怨霊の周りを囲むように聳え、氷の壁となっていた。
(······あれは、)
怨霊の集合体となっている球体が氷に完全に覆われる前に、突如、内側からみるみる大きく膨れ上がり、半分覆っていた氷と共にそのまま勢いよく弾け飛んだ。
破片になった黒い物体は、露わになっている地面に溶けるように消えていき、怨霊の声はもはやどこにも存在しなくなった。
視線が重なる。
金眼の双眸が、冷ややかに白笶を見上げてくる。
「あんたになら、このひとを任せてもいいかなと思ったけど、どうやら期待外れだったようだ」
言って、狼煙は抱えていた無明を抱き上げ直し、白笶の言葉を待つことなく、その場から煙のように消え失せた。
0
お気に入りに追加
84
あなたにおすすめの小説

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた
翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」
そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。
チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。
いとしの生徒会長さま
もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……!
しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!

心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください
某国の皇子、冒険者となる
くー
BL
俺が転生したのは、とある帝国という国の皇子だった。
転生してから10年、19歳になった俺は、兄の反対を無視して従者とともに城を抜け出すことにした。
俺の本当の望み、冒険者になる夢を叶えるために……
異世界転生主人公がみんなから愛され、冒険を繰り広げ、成長していく物語です。
主人公は魔法使いとして、仲間と力をあわせて魔物や敵と戦います。
※ BL要素は控えめです。
2020年1月30日(木)完結しました。
学園の天使は今日も嘘を吐く
まっちゃ
BL
「僕って何で生きてるんだろ、、、?」
家族に幼い頃からずっと暴言を言われ続け自己肯定感が低くなってしまい、生きる希望も持たなくなってしまった水無瀬瑠依(みなせるい)。高校生になり、全寮制の学園に入ると生徒会の会計になったが家族に暴言を言われたのがトラウマになっており素の自分を出すのが怖くなってしまい、嘘を吐くようになる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿です。文がおかしいところが多々あると思いますが温かい目で見てくれると嬉しいです。

淫愛家族
箕田 はる
BL
婿養子として篠山家で生活している睦紀は、結婚一年目にして妻との不仲を悩んでいた。
事あるごとに身の丈に合わない結婚かもしれないと考える睦紀だったが、以前から親交があった義父の俊政と義兄の春馬とは良好な関係を築いていた。
二人から向けられる優しさは心地よく、迷惑をかけたくないという思いから、睦紀は妻と向き合うことを決意する。
だが、同僚から渡された風俗店のカードを返し忘れてしまったことで、正しい三人の関係性が次第に壊れていく――

思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった
たけむら
BL
「思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった」
大学の同期・仁島くんのことが好きになってしまった、と友人・佐倉から世紀の大暴露を押し付けられた名和 正人(なわ まさと)は、その後も幾度となく呼び出されては、恋愛相談をされている。あまりのしつこさに、八つ当たりだと分かっていながらも、友人が好きになってしまったというお相手への怒りが次第に募っていく正人だったが…?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる