彩雲華胥

柚月なぎ

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第二章 邂逅

2-8 あなたにだけ

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「やだね」

 その時、後ろの腰の辺りからなにかがぶつかる音がからんと鳴った。ふたりに背を向けたままの格好で抱き上げられた無明むみょうは、肩越しにその音の正体を知る。

(黒竹の横笛?)

 腰帯に斜めに差している黒い竹で作られた横笛の先には、藍色の紐と琥珀の玉飾りが付いていて、それが揺られて横笛にぶつかり、先ほどの音を鳴らしたようだ。

「あんたは嫌いだ」

 子供みたいに口を尖らせて、けれども弾むような声音で鬼は吐き捨てる。無明むみょうは口を挟みたかったが、頭が追い付かずいつもの調子が出ないので、とりあえず大人しくしていることにした。

 鬼の口調からして、白笶びゃくやのことを知っているようだった。それは白笶びゃくやも同じように思える。
 以前に会ったことだあるのだろうか。

(そういえば、白笶びゃくや公子も似たようなことを言っていた気がする)

 今思えば、あの時のあの歯痒いような言葉の数々は、まるで自分を以前から知っていて、捜していたかのような口ぶりだった。

 しかし肝心の無明むみょうは、まったく身に覚えがないのだ。やはりどちらも人違いをしているのではないかと思う。そうであれば、はっきりと伝えてあげないといけない。

「あ、あの!」

「なに?」

 白笶びゃくやの遠距離からの無数の攻撃を身軽に避けながら、余裕さえあるにこやかな表情で鬼は答える。

 くるりと無明むみょうを抱いたまま空中で一回転をし、斜めに飛んで渓谷の歪な壁を蹴り、再び地面に着地する。そのすべての動作が、まるで曲芸師のように軽やかで見事な身のこなしである。

「俺から公子様に話をする。君は誰かと間違って俺を連れてきちゃっただけだって。誤解が解ければこんな戦いは無意味だし、俺は君や公子様のどちらが怪我をするのも嫌だよ」

 鬼は少し考えて、うーんと斜め上に視線を向ける。それはどこか大袈裟な素振りにも見えたが、鬼に対して親近感が湧いた。

「俺は別にかまわないけど、あの公子殿が素直に応じるかな?」

「大丈夫。俺に任せて」

 解った、と鬼は軽く言って、大きく頷いた。無明むみょうは鬼の腕に抱えられたまま、身体を捩って正面を向く。白笶びゃくやが次の攻撃の態勢を整え、こちらを見据えている。

「俺は大丈夫。彼は誰かと間違って、俺を連れて来ちゃったみたいなんだ。危害を加えるつもりもないみたい。だからね、公子様。できれば、その武器を収めて欲しいんだけど······」

「············君は、」

 唇を嚙み締めて、やっと絞り出した声でその先を言うのを躊躇う。氷の飛針を両手の指の間にそれぞれ四本ずつ構えたまま、こちらを見上げていた。その様子を眺め、はあと嘆息し、鬼は首を振った。

「やっぱり退く気はないみたいだよ?」

 無明むみょうの耳の近くで内緒話でもするかのように囁く鬼は、やはりこの状況を楽しんでいるとしか思えない。

 渓谷はお互いの姿が見えるか見えないかというほど暗くなっているはずなのに、鬼の周りは常に少し明るく感じる。

 よく周りを見回してみれば、この谷底は枯れ井戸のように水の一滴もなく、渓谷に掛けられた吊り橋がかなり高い位置にあるため、普通の人間ならば降りることも登ることも不可能だろう。

「離れろと言った」

 飛針を鬼と無明むみょうの間すれすれに飛ばし、白笶びゃくやは忠告する。

「別にいいじゃない。このひとはあんたのものじゃないんだから」

 やれやれと、呆れたように鬼はもっともらしいことを言って、白笶びゃくやを挑発する。

「お前のものでもない」

「今は俺のものだよ、」

 頬に軽く口づけをして、その行為に呆然としている無明むみょうを見て満足気に微笑んだ。竜虎りゅうこに至っては白目をむいて立ち尽くしている。

「でもまあ、いいよ。困らせるつもりはなかったし、逢えて嬉しかったから」

 ひらりと地面に足を付いて、白笶びゃくやより少しだけ背の低い鬼は、抱きかかえていた腕を放し、無明むみょうの乱れた衣を丁寧に直す。

 そしてそのまま白笶びゃくやたちに堂々と背を向け、無明むみょう以外視界に入れずにじっと見つめてくる。

「いつでも呼んでくれてかまわない。あなたは俺の主だから、あなたが命じればなんでもするよ?文字通りなんでも、ね」

 正面に立ち、腰を屈めて右手を取ると、手の甲に優しく口づけをして、上目遣いで鬼は瞬きを一度だけした。

「俺の名は、————。これはあなただけに捧げる名だよ。忘れないで?」

 無明むみょうにだけ聞こえる声音でそう囁いて、鬼は蝋燭の火が消えるかのように闇の中に溶けた。

 しん、となった暗闇の中で、三人はただお互いの視線を重ねて次の言葉が出てくるのを待つしかなかった。


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