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第十四話 悪夢
しおりを挟むむせ返るような甘い香りが漂う。
朦朧とする意識の中で、重ねた手。自分より少しだけ小さなその手を覆うように、そっと触れた。冷たい感触に不安になって、重ねた指の間に自分の指を絡めた。しかしだんだんとその手にも力が入らなくなり、閉じてはいけないとわかっていながらも瞼が重たくなってくる。
(守ら、なきゃ······約束、)
あのひとにも託されたのに。
(声······出ない)
ぱくぱくと口は動くのに、息を吸うのも辛く声を出す力も残っていない。触れ合った手とお互い寄り添うように肩を預けて、暗い部屋の中で薄れていく意識に心地好ささえ感じた。すべてを手放してしまえば、きっと楽だろう。
あの日、すべてを失った。
紅蝶を通して、その一部始終を視ていたことに気付いた賊は、隠れていた自分たちを見つけ出し殺そうとした。その直前で一緒にいた者が制止し、自分たちを亡き者にしようとしていた連れの賊に、なにかを耳打ちする。すると、隣にいる少女と同じで顔がはっきりと見えないその者たちは、結局なにも危害を加えることなく目の前からいなくなったのだった。
少しして、開かれた扉の前には小さな香炉を両手で持った者がひとりだけ立っていて、入ってきた瞬間から甘い香りが漂ってきた。
「あの蝶はお前のものか?」
香炉を部屋の隅に置くと、男が声をかけて来た。それはゆっくりとした口調で、暗い印象を受けるが若い青年の声だった。
「——に近付くなっ」
少女を庇うように前に出て、目の前の男の異様な雰囲気に負けないように睨みつける。しかし、たかが子供の強がりでどうにかなる存在ではなかった。男は手を翳しただけで邪魔なものを排除すると、憔悴している少女の前に立ってじっと見下ろしていた。うつ伏せになったまま手を伸ばす。
「やめろ······その子に、触るなっ」
少女の頬に手を伸ばして触れようとしたその瞬間、少女の中に隠れていた紅蝶が姿を現し、容赦なく男の手だけを焼いた。紅蝶の反応から、目の前の男がひとではないことを改めて知る。その者は冷静な表情のまま、燃えている自分の右腕にゆっくりと視線を落とした。
「浄化の炎か····面白い。だが、まだ未熟だ」
少女から一歩だけ離れた男は腕をひと振りして炎を掃うと、今度は躊躇うことなく、目の前で翅を広げていた紅蝶に手を伸ばして鷲掴みにした。そしてもう片方の手を翳してなにかを唱えると、紅蝶は鉄の檻でできた鳥籠のようなものに囚われてしまう。
「駄目っ······その子は、私の····っ」
精一杯の抵抗も虚しく、男は少女の手を掴んで自分の方へ引き寄せる。その行為を見ていることしかできない自分自身の弱さに、怒りと悔しさで胸が潰れそうだった。
「いいだろう、お前に決めた。これは、時が来たら返してやる」
怯えている少女のことなどお構いなしに、男は顔を近づけてそう囁く。紅蝶を得て満足したのか、それとも他に理由があるのか、少女を解放するとさっさと部屋から出て行った。再び扉が閉められる。深い闇が訪れ、あの甘い香りがより濃く部屋に漂い始めた。
「····大丈夫? 怪我、してない?」
ふらふらとした足取りで自分の方へと少女がやって来て、そのまま座り込む。身体を起こすのを手伝ってもらい、部屋の隅の方へと移動した。動いても体力を消費するだけだった。助けを求めたところで望みはない。
もう誰も生きてはいなかったから。
「あの香炉····煙、吸わない方が良い」
少女が口元に袖を当てて、囁くような小さな声で忠告する。一時的だろうが全身が痛んで動かせないことに気付いたのか、反対の手を引っ込めて袖に隠し、そのまま口元を覆ってくれた。
「俺たち、どうなっちゃうのかな····このまま、なにもせずに殺されるのか?」
もしあの香炉から出ている煙が毒だとしたら、待っているのは死だろう。自分たちはなにもできない、無力な子供なのだと思い知らされる。退魔師としての自分はまだまだ未熟で、自分自身さえもまともに守れないのだ。
「その時は····一緒、」
寄り添うように肩を並べた少女の口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。あれからどのくらい経ったのか。絡めた指先にさえ力は入らず、瞼は重くなり、ぼんやりとした視界の端に少女の姿が見えた。ぴくりとも動かない少女に絶望し、同じように瞼を閉じる。
(····その時は、一緒、だ)
手放した意識。
少女の言葉。
もう、このまま終わらせてしまおう。
夢の終わり。夢。
これは、きっと、悪い夢だ。
守りたかったひと。
守りたかったもの。
なにひとつ残らなかった。
次に目が覚めた時、隣には誰もいなかった。
生き残ったのは自分だけ。曖昧な記憶。自分だけが救われたのだと知った。その時から、夢を見るようになる。約束をする夢。永遠に繰り返す夢の中で、少女はいつも笑っていた。
こんな悪夢は見たくなかった。
全部、あのひとのせいだ。
天雨はゆっくりと瞼を開けた。
******
薄暗い部屋の中にぼんやりと、燭台の灯りが浮かぶ。隣の寝台の上で蹲っている翠雪の姿が視界に映る。横になったまま、夢の中の少女を想う。あんな夢、ただの夢に決まっている。あの少女がもうこの世にいないなんて、嘘だ。
(その時は、一緒····そう、約束したのに、)
結局、あの子を守れず、失ったことすら忘れて。のうのうと生きていたのだ、自分だけ。生涯の主と認めたひとを、一生かけて守る。そう、誓ったはずなのに。
(守りたいひとさえ、俺にはもういない)
記憶を取り戻したら、少女に逢いに行く。そう、決めていたのに。
(····なんで俺は、あんなこと)
仰向けになって、両手を顔の前に翳す。翠雪が目の前に現れた時、抱きしめたいと思った。触れたいと思った。
あの気持ちは、衝動はなんだったのか。
割り切れなかったのは、翠雪に対して仲間意識でもあったのだろうか。お互いに失ったもの。大切な家族。幸せな時間。守れなかったもの。
手を下ろし、天井を見上げる。あの夢が曖昧な記憶の欠片だと思っていた。だから夢の続きを見たいと思っていた。それなのに、それが嫌な記憶だと知った途端、自分以外の誰かのせいにして閉ざす、なんて。都合が良すぎる。
(俺はこれから、なにを守ればいい?)
なにを目的に生きればいい?
「····天雨、起きていますか?」
かけられた声に思わず動揺する。それを悟られないようにひと呼吸おき、ゆっくりと起き上がった。寝台の上で横向きになったままの翠雪に視線を向けると、燭台の暖色で仄かに照らされている姿が目に入った。
「なにか、外の気配がおかしい気がします」
天雨は首を傾げて、眼を閉じる。失踪していた村人たちは殭屍になっていて、すべてこの手で葬った。彼らが彷徨うことは二度とないはず。他に懸念する材料があるとすれば、あの魔族の女か翠雪を攫った奴くらいだろう。
「外の様子を見てくる。あなたはここで、」
「私も一緒に行きます」
青白い顔で身体を起こし、真っすぐに見つめてくる翠雪。天雨にはそもそも拒否権はない。一応、師と弟子の関係であり、本来指示を出すのは師である翠雪の方だからだ。
簡易的に身支度をして、まだ眠っているだろう店主と陽に気を遣いながら、物音を立てないように宿を後にする。雨は上がり、闇の中に浮かぶ雲が漂う中、半分に欠けた月が淡く光り闇空を照らしてた。
誰もいない路をふたり、並んで歩く。翠雪が感じた気配の正体。月明かりの下、次々と現れたその影に、ふたりは思わず息を呑んだ。
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