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6話
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芳佳がいなくなったと連絡を受けたのは、今から二時間ほど前になる。
いつまで経っても扉の前に置かれている夕食を不審に思い、扉を開けるともぬけの殻だったという。お母さんの動揺は尋常ではなく、電話越しになだめるのが精いっぱいであった。一日の授業と職員会議を終えたばかりの疲労の蓄積した体にむち打ち、愛車を走らせていた。
時刻は午後9時。完全に日は沈み、片田舎のこの街ではもう既に人影もまばらだ。芳佳は身長190cmを超える超長身だ。体格もしっかりとしているため、一目見れば遠目でもすぐに分かる。人っ子一人見逃さないように、両目を大きく見開き、周囲に気を配る。
どこに行ったかなど、心当たりはない。とにかくひたすら、でたらめに走り回る。が、見当たらない。
何事もなく帰ってきたのであれば、お母さんから連絡が来るだろう。しかし、それがない。いまだに見つかっていない証拠だ。
一通り街中を見終える。当然抜けはあるだろうが、コンビニやゲームセンターなど学生時代に良く訪れる場所は思いつく限り回ったはずだ。しかし、それでも見当たらない。
「……もう一度」
民家の隙間にある月極駐車場で、車をUターンさせ、異なる道を縫うように走る。行きかう車の数もずいぶんと減ってきた。
大きな十字路を曲がり、商店街を走る。この時間は既に歩行者天国から脱している。いつもは人々の声が響き、ひしめき合う場所は静寂に支配されていた。そして、そこに人影はない。
アクセルペダルを強く踏み、速度を上げる。本来ならば、左折する自宅への帰路を突っ切る。
スタート地点である学校に戻り、一周してきた南側とは反対、北側にある校庭方面へと向かう。いつもは喧噪の如く響いている運動部の声はない。それだけで、酷くもの寂しく、不気味な雰囲気が漂っている。
視界の隅に、影が映る。校庭の片隅に設けられている電灯、それに照らされた一つの影。十三夜の月とはいえ、光量は足りない。その顔までは見えなかった。しかし、それが目的の人物であるという確信があった。
ブレーキを思い切り踏みしめる。慣性が働き、強い力で引っ張られ、身体が軋んだ。しかし、それを気にしている余裕はない。
「芳佳!」
車を飛び下り、駆け寄る。近付くにつれ、彼の姿が明瞭になっていく。
ぼさぼさに伸びた髪、病的に細くなった四肢、虚ろな眼、私の記憶の中にある弟の姿とは合致しない姿。
「……姉貴?」
一瞬、ビクリと肩を震わせる。小動物のような仕草がまるで似あっていない。
「よかった、無事で……」
彼と向き合い、呼吸を整える。
「お母さん、心配してた。急にいなくなったからって」
ああ、とどこか他人事のようにつぶやき、頭をがしがしと荒々しく掻いた。
「……あー、うん、そっか……いや、なんかリハビリって」
「リハビリ?」
いったい何に対するものだろうか。何か彼は怪我でもしていたのだろうか。いや、それ以前にいったい誰に言われたというのか。
「人付き合いに、っていうか、脱引きこもりのリハビリをしろって……こいつに」
そう言って、虚空に視線を向ける。
「こいつって……誰?」
「誰って、何言ってんだよ、俺の幼馴染」
幼馴染と芳佳は言った。
しかし、そんな存在は私の記憶にはない。
瑠璃との会話が蘇る。イマジナリーフレンドの存在。あれはあくまで仮定として話していた。弟が日常的に独り言を呟くのは、想像上の友達とのやり取りであると仮定していた。しかし、今なら断言できる。私の仮定は、間違っていなかった。
「芳佳、その幼馴染は存在してない」
ぽかんとした表情が、髪の隙間から見てとれた。
「そこに、人はいない」
あるのは伸びた影だけ。二つ分の影が、向かいあっているだけだ。
「姉貴、何言ってんだ? ここにいるじゃないか」
適当なことを言っている様ではない。間違いなく彼は、ここに誰かがいると心から思っている。
「相沢悟」
「は?」
「飯田唯、石田かおり、佐々木雄介」
一人ずつ、名前を挙げていく。
「渡辺正一、以上5名。近所にいて、あんたが遊んでた友達よ」
芳佳は黙っていた。ただ黙って、視線を泳がせている。この蒸し暑さが故ではないだろう、止めどなく汗が頬を伝っている。
「え、いや、そんなわけないだろう、だって、こいつは幼馴染で、腐れ縁で、幼稚園の頃からずっと一緒にいて、それで……な、なあお前もなんか言えよ、おかしいだろ、こんなの。だって、お前はここにいるのに、いないなんて」
明らかな動揺。虚空に向かって、ひたすらに声をかけている。その様は、目をそらしたくなるほど痛々しく、弱々しかった。
「芳佳、一つ聞いてもいい?」
「え、な、なんですか」
「……その子の、名前は何?」
動きが止まる。名前、と小さく呟く。
そこにいるのだ。どんなことがあろうと、どれほど情報に埋もれようと、こいつの事なら、こいつの存在なら絶対に浮かんでくる。俺にとって、何よりも大切な存在なのだから。でも、それがない。何もない。
からっぽだ。
姿も見える。声も聞こえる。触れることも出来る。ずっと、ずっと一緒にいた存在なのに、分からない。名前が、分からない。
「どうして……」
頭が痛い。脳を押しつぶされているような、鈍痛。
何も言わない。こいつは何も言わず、こちらを見ている。
「なあ、なんで黙ってるんだよ……怒ってるのか、名前が出てこなくて……あやまるよ、違うんだ、これは、きっとド忘れみたいなものなんだよ」
そうだ、そうに違いない。俺はバカだから、きっと名前なんてものが偶々浮かんでこないんだ。
だから、別に、そんなことはあり得ないんだ。こいつが存在しないなんて、絶対にありえない。
「そうだろう、なあ……お前は、ここに……」
そっと手が伸びてくる。ひんやりとした感触が頬に触れる。蒸し暑い夜、火照った身体を冷やす感触が心地いい。
ほら、触れるんだ。いるんだよ、ここに。
「お別れだな」
寂しげに笑う。
「な、何言ってるんだよ、お別れって……意味の分からないことを」
「あの人の考えている事、言っている事は間違っていない。俺は、ここにいない」
「だったら、今ここで話しているお前は何なんだよ!」
「……ここにいるのは、お前の脳と精神が作り出した存在だよ」
「何わけの分からないことを……」
「分からなくはないだろう? 君が俺を作り出したんだ。だから、今俺が話していることは君が思っている事でもあるんだよ、たとえそれが無意識でも」
何をバカなことを言っているのか。そんなことを俺が考えているはずがない。それに、作り出したなどと虚言にも程がある。
「じゃあ、お前はこの世に、存在しない人間で、俺が、俺が見てる、俺が作った幻覚だっていうのか」
「うーん、そうだな、それに近いが、似て異なるものだな」
幻覚ではないということか。
「俺は、君からつくられた。君の中にある像から産まれた。君は、繋がりを持つことを恐れた。多くの人々と触れ合い、絆を持ち、新たな価値観、差異、そして自身の成長と確立を。それによって、過去の自分が否定されてしまうような気がしていたから。だから、逃げたんだ。誰もいない場所へ」
言葉の一つ一つが、重く突き刺さる。全ての言葉が、無意識に隠し、封印していた恐怖、自分が外から逃げた原因、恐怖の正体だった。
「でも、大丈夫だ、それはおかしなことではない。誰しもが持ち得る不安感、恐怖感、焦燥感でもある。そして、それを俺が、君の無意識ともいえる存在の俺が言及できた。これは君が現実を受け入れる覚悟が出来た証拠だ」
にこりと、儚く笑う。
「言っただろう、きっと今回のリハビリでよくなると。だから」
もう俺がいなくても大丈夫だ、その言葉の直後、頭痛がさらに酷くなる。立っているのか座っているのか、目を開けているのか閉じているのか、上下左右、自分の方向さえ分からない。ぐるぐると視界が回る。言葉が脳内で反芻され、身体を駆け巡る。
自分を呼ぶ声がする。聞き覚えのある声だ。肩に触れる感覚もある。膝と肘には固く冷たい感触。
ああ、俺は今蹲っているのか。どこか他人事のように感じる。鈍痛は治まらない。むしろ酷くなっている。その一方で、思考はひんやりと冷めていく。血の気を失っていくような感じだ。ゆっくりと、意識が遠のいていくことが分かる。眠りに落ちる瞬間はいつも曖昧だが、こんな感じなのだろうか。
姉貴の声だ。自分の肩を掴んでいるのも、きっと彼女なのだろう。
不思議なものだ。ああまで見苦しく、否定していたのに、今この現実を受け入れている自分がいる。あいつは、いないんだという現実を。無意識が表に出るなど、こうも容易いものなのかと思う。
――――――それと。
小さく、囁くような声。残響のようにか細く、陽炎のように揺れる声。
きっと、また―――――。
いつまで経っても扉の前に置かれている夕食を不審に思い、扉を開けるともぬけの殻だったという。お母さんの動揺は尋常ではなく、電話越しになだめるのが精いっぱいであった。一日の授業と職員会議を終えたばかりの疲労の蓄積した体にむち打ち、愛車を走らせていた。
時刻は午後9時。完全に日は沈み、片田舎のこの街ではもう既に人影もまばらだ。芳佳は身長190cmを超える超長身だ。体格もしっかりとしているため、一目見れば遠目でもすぐに分かる。人っ子一人見逃さないように、両目を大きく見開き、周囲に気を配る。
どこに行ったかなど、心当たりはない。とにかくひたすら、でたらめに走り回る。が、見当たらない。
何事もなく帰ってきたのであれば、お母さんから連絡が来るだろう。しかし、それがない。いまだに見つかっていない証拠だ。
一通り街中を見終える。当然抜けはあるだろうが、コンビニやゲームセンターなど学生時代に良く訪れる場所は思いつく限り回ったはずだ。しかし、それでも見当たらない。
「……もう一度」
民家の隙間にある月極駐車場で、車をUターンさせ、異なる道を縫うように走る。行きかう車の数もずいぶんと減ってきた。
大きな十字路を曲がり、商店街を走る。この時間は既に歩行者天国から脱している。いつもは人々の声が響き、ひしめき合う場所は静寂に支配されていた。そして、そこに人影はない。
アクセルペダルを強く踏み、速度を上げる。本来ならば、左折する自宅への帰路を突っ切る。
スタート地点である学校に戻り、一周してきた南側とは反対、北側にある校庭方面へと向かう。いつもは喧噪の如く響いている運動部の声はない。それだけで、酷くもの寂しく、不気味な雰囲気が漂っている。
視界の隅に、影が映る。校庭の片隅に設けられている電灯、それに照らされた一つの影。十三夜の月とはいえ、光量は足りない。その顔までは見えなかった。しかし、それが目的の人物であるという確信があった。
ブレーキを思い切り踏みしめる。慣性が働き、強い力で引っ張られ、身体が軋んだ。しかし、それを気にしている余裕はない。
「芳佳!」
車を飛び下り、駆け寄る。近付くにつれ、彼の姿が明瞭になっていく。
ぼさぼさに伸びた髪、病的に細くなった四肢、虚ろな眼、私の記憶の中にある弟の姿とは合致しない姿。
「……姉貴?」
一瞬、ビクリと肩を震わせる。小動物のような仕草がまるで似あっていない。
「よかった、無事で……」
彼と向き合い、呼吸を整える。
「お母さん、心配してた。急にいなくなったからって」
ああ、とどこか他人事のようにつぶやき、頭をがしがしと荒々しく掻いた。
「……あー、うん、そっか……いや、なんかリハビリって」
「リハビリ?」
いったい何に対するものだろうか。何か彼は怪我でもしていたのだろうか。いや、それ以前にいったい誰に言われたというのか。
「人付き合いに、っていうか、脱引きこもりのリハビリをしろって……こいつに」
そう言って、虚空に視線を向ける。
「こいつって……誰?」
「誰って、何言ってんだよ、俺の幼馴染」
幼馴染と芳佳は言った。
しかし、そんな存在は私の記憶にはない。
瑠璃との会話が蘇る。イマジナリーフレンドの存在。あれはあくまで仮定として話していた。弟が日常的に独り言を呟くのは、想像上の友達とのやり取りであると仮定していた。しかし、今なら断言できる。私の仮定は、間違っていなかった。
「芳佳、その幼馴染は存在してない」
ぽかんとした表情が、髪の隙間から見てとれた。
「そこに、人はいない」
あるのは伸びた影だけ。二つ分の影が、向かいあっているだけだ。
「姉貴、何言ってんだ? ここにいるじゃないか」
適当なことを言っている様ではない。間違いなく彼は、ここに誰かがいると心から思っている。
「相沢悟」
「は?」
「飯田唯、石田かおり、佐々木雄介」
一人ずつ、名前を挙げていく。
「渡辺正一、以上5名。近所にいて、あんたが遊んでた友達よ」
芳佳は黙っていた。ただ黙って、視線を泳がせている。この蒸し暑さが故ではないだろう、止めどなく汗が頬を伝っている。
「え、いや、そんなわけないだろう、だって、こいつは幼馴染で、腐れ縁で、幼稚園の頃からずっと一緒にいて、それで……な、なあお前もなんか言えよ、おかしいだろ、こんなの。だって、お前はここにいるのに、いないなんて」
明らかな動揺。虚空に向かって、ひたすらに声をかけている。その様は、目をそらしたくなるほど痛々しく、弱々しかった。
「芳佳、一つ聞いてもいい?」
「え、な、なんですか」
「……その子の、名前は何?」
動きが止まる。名前、と小さく呟く。
そこにいるのだ。どんなことがあろうと、どれほど情報に埋もれようと、こいつの事なら、こいつの存在なら絶対に浮かんでくる。俺にとって、何よりも大切な存在なのだから。でも、それがない。何もない。
からっぽだ。
姿も見える。声も聞こえる。触れることも出来る。ずっと、ずっと一緒にいた存在なのに、分からない。名前が、分からない。
「どうして……」
頭が痛い。脳を押しつぶされているような、鈍痛。
何も言わない。こいつは何も言わず、こちらを見ている。
「なあ、なんで黙ってるんだよ……怒ってるのか、名前が出てこなくて……あやまるよ、違うんだ、これは、きっとド忘れみたいなものなんだよ」
そうだ、そうに違いない。俺はバカだから、きっと名前なんてものが偶々浮かんでこないんだ。
だから、別に、そんなことはあり得ないんだ。こいつが存在しないなんて、絶対にありえない。
「そうだろう、なあ……お前は、ここに……」
そっと手が伸びてくる。ひんやりとした感触が頬に触れる。蒸し暑い夜、火照った身体を冷やす感触が心地いい。
ほら、触れるんだ。いるんだよ、ここに。
「お別れだな」
寂しげに笑う。
「な、何言ってるんだよ、お別れって……意味の分からないことを」
「あの人の考えている事、言っている事は間違っていない。俺は、ここにいない」
「だったら、今ここで話しているお前は何なんだよ!」
「……ここにいるのは、お前の脳と精神が作り出した存在だよ」
「何わけの分からないことを……」
「分からなくはないだろう? 君が俺を作り出したんだ。だから、今俺が話していることは君が思っている事でもあるんだよ、たとえそれが無意識でも」
何をバカなことを言っているのか。そんなことを俺が考えているはずがない。それに、作り出したなどと虚言にも程がある。
「じゃあ、お前はこの世に、存在しない人間で、俺が、俺が見てる、俺が作った幻覚だっていうのか」
「うーん、そうだな、それに近いが、似て異なるものだな」
幻覚ではないということか。
「俺は、君からつくられた。君の中にある像から産まれた。君は、繋がりを持つことを恐れた。多くの人々と触れ合い、絆を持ち、新たな価値観、差異、そして自身の成長と確立を。それによって、過去の自分が否定されてしまうような気がしていたから。だから、逃げたんだ。誰もいない場所へ」
言葉の一つ一つが、重く突き刺さる。全ての言葉が、無意識に隠し、封印していた恐怖、自分が外から逃げた原因、恐怖の正体だった。
「でも、大丈夫だ、それはおかしなことではない。誰しもが持ち得る不安感、恐怖感、焦燥感でもある。そして、それを俺が、君の無意識ともいえる存在の俺が言及できた。これは君が現実を受け入れる覚悟が出来た証拠だ」
にこりと、儚く笑う。
「言っただろう、きっと今回のリハビリでよくなると。だから」
もう俺がいなくても大丈夫だ、その言葉の直後、頭痛がさらに酷くなる。立っているのか座っているのか、目を開けているのか閉じているのか、上下左右、自分の方向さえ分からない。ぐるぐると視界が回る。言葉が脳内で反芻され、身体を駆け巡る。
自分を呼ぶ声がする。聞き覚えのある声だ。肩に触れる感覚もある。膝と肘には固く冷たい感触。
ああ、俺は今蹲っているのか。どこか他人事のように感じる。鈍痛は治まらない。むしろ酷くなっている。その一方で、思考はひんやりと冷めていく。血の気を失っていくような感じだ。ゆっくりと、意識が遠のいていくことが分かる。眠りに落ちる瞬間はいつも曖昧だが、こんな感じなのだろうか。
姉貴の声だ。自分の肩を掴んでいるのも、きっと彼女なのだろう。
不思議なものだ。ああまで見苦しく、否定していたのに、今この現実を受け入れている自分がいる。あいつは、いないんだという現実を。無意識が表に出るなど、こうも容易いものなのかと思う。
――――――それと。
小さく、囁くような声。残響のようにか細く、陽炎のように揺れる声。
きっと、また―――――。
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