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第二章 ノーカウントパンチ
第二十九話 坊ちゃんのお兄さん
しおりを挟む 契約を進めるとき、いつも紙で机がいっぱいになる。
契約内容が書かれた書類に委任状。見取り図や翻訳術報告書に術式目録――わたしはそれらを、混ざらないように並べた。
お茶一つ出されていないテーブルの左側にいる老紳士は恰幅がよく、あごの髭を抜く癖があった。彼はレストランの経営者で、今回の依頼主だ。
名前はゴランドさん。
普段は腰に細身の剣を据えているけれど、今は契約相手に友好の意思を見せるため、手の届かないところに立てかけてある。
その契約相手はわたし――ではない。
ゴランドさんの正面の席には誰もいない。その代わりに、テーブルの上に小さなお客さんがいた。
手のひらサイズの黒銀の毛皮の持ち主はネズミさんだ。テーブルの上で立ち上がり、あちこちに視線を向けながら鼻先をひくひく動かしている。
片目に傷のある彼の名前はアジンさん。レストランに住むネズミさんの代表だ。ゴランドさんの契約相手でもある。
え? ネズミさんに契約なんてできるはずないって?
翻訳術師がいないところだとそうなのかもしれない。でもわたしのような翻訳術師がいれば、そんなこともできてしまう。
わたしはフクラ・ラークス。成人したばかりの年齢と低い背から信じない人も多いけれど、この町唯一の翻訳術師だ。草の香りがする渋染めのローブと、チェスのポーンのような首飾りがその証。
今からわたしの仕事ぶりを見せてあげる。
ここはゴランドさんが経営するレストランの、窓から一番離れたテーブル席だ。開店前なのでお客さんはいない。
わたしはテーブルの横に立っている。
「それでは、翻訳術を開始します」
わたしは首飾りに口づけをして、祈りを込めた。そしてアジンさんの頭にハンコを押すように、軽く押し当てる。
「どうですか? わたしの言葉がわかりますか?」
わたしは首飾りをアジンさんから離すと、人間の言葉で語りかけた。
もちろんネズミさんには、人間の言葉はわからない。そのはずだけれど――
『ああ、わかるぞ。不思議なもんだなぁ』
アジンさんがしわがれた声で答えた。わたしの言葉が通じたのだ。
これが翻訳術。詳しい原理を説明するのは難しいのだけれど、どんなモノとも話せる魔法みたいなものだ。
わたしはあらためて、一人と一匹に目配せをした。
「翻訳術が成立したので、契約の内容確認に移らせていただきます。この契約はレストラン、エアカイトの経営者であるゴランドさんと、アジンさんを代表とするレストランに生息するネズミさんたちとの間で交わされます。両者は従業員、および関係するネズミさんに契約内容を周知する義務が――」
まだ前置きの段階だけれど、丁寧に説明していく。特にネズミのアジンさんは文字を読むことができないので、反応をうかがいながら、より念入りに説明する必要がある。後から『聞いてない』と言われるのが一番困るのだ。
とはいえこんな前置き部分。人間だってまともに聞いていられない。ネズミさんからすれば、難解な呪文を唱えられているようなものだ。
案の定、アジンさんは不安そうに周りをきょろきょろと見回している。
「アジンさん大丈夫ですか? わからないところがあったら何でも言ってください」
わたしが問いかけると、アジンさんは首を傾げた。
『わからないもなにも、難しいことだらけで何がなんのこっちゃわからねってば』
さっきと同じで、しわがれたおじさんの声でそう返ってきた。ちなみに、アジンさんが実際にその声で喋っているわけではない。
アジンさんが伝えようとしたことを、翻訳術でわたしがそう認識しているのだ。
伝えようとしていれば――例えばダンスとか臭いとかでも『言葉』として受け取ることができる。
でもわたしは言葉だけで伝えないといけないので大変だ。
「簡単に言うと、契約で決まったことを他のネズミさんにも教えてあげてくださいということです」
情報量を減らして、わかりやすい言葉を選んだ。でもまだアジンさんは首をひねっている。
『教えるつっても、ネズミなんて山ほどいるぞ』
「レストランに住んでいるネズミさんだけで大丈夫ですよ。契約はアジンさんを代表と認めたネズミさんのみに有効ですから」
『ああ、そうだったか。それなら楽勝だ』
アジンさんはピョンピョンと跳ねた。
それに対し、ゴランドさんは「すべてのネズミに有効だといいのだがな」と、髭を抜きながらつぶやいた。
わたしはすかさずゴランドさんに向き直る。
「そうなるとネズミさんの群衆ごとに契約する必要が出てくるので、わたし一人しか翻訳術師のいないこの町では、現実的ではないですね。可能だとしても、お金もたくさんかかります」
「わかっている。高い報酬を払っているんだ。独り言くらい許してくれ。国の決まりに文句を言うつもりはないが、小娘が一つの仕事で取る金額じゃないぞ」
ゴランドさんは手を払うようにして、話を進めるよう促した。
お世辞にも良い態度とは言えない。わたしが契約相手だったら、目の前で契約書を破り捨てている。
でもアジンさんはネズミだから、ゴランドさんが何て言ったかなんてわからないし、人間の表情や態度の機微なんかもわからない。
わたしたち人間に、動物の表情がよくわからないのと一緒だ。
だからゴランドさんの悪態はこの契約には影響しない。ゴランドさんはそれがわかってやっているのだ。
そう思うと余計にムカムカしてきた。でも今は仕事中だ。アジンさんのためにも、わたしは我慢して次の文面を読み上げた。
「この契約は人間とネズミさんの居住空間を隔離して、お互いの幸福度を上げるのが目的です。ネズミさんたちはレストランの客室、厨房、倉庫に立ち入らないようにしてください」
わたしは色分けされた図面をアジンさんの前に置いた。
「入ってはいけないところは赤く塗られています。ネズミさんたちの活動区域である床下にも掲示するので、参考にしてください。青の部分は屋外ですが、廃棄する食材の一時置き場です。食べ物が必要な場合はここから持って行ってください。トイレは建材に影響のないこの場所で――」
図面を指差して、一つずつアジンさんに説明していく。
ゴランドさんとアジンさんの意見を何度もすり合わせて決めたことなので、だいたいわかっているはずだ。けれどやっぱり、念には念を入れておかなければいけない。
実際、アジンさんは何度もうなずきながら『ここがなるほど、そうか』と相槌を打っている。まるで初めて説明されているかのようだ。
(ちょこちょこ様子を見に来て、必要なら説明し直した方がよさそうですね)
心の片隅にそうメモをして、説明を終えた。
「それではゴランドさんとアジンさん。契約の内容に問題が無ければサインをお願いします」
ここでいうサインは、名前を書き記すことに限らない。人間以外の生き物にそんなことはできないからだ。
アジンさんはサインの欄をかじって跡をつけた。こういうのもありだ。
それを見てゴランドさんは顔をしかめた。でも何か言ったりはせず、胸ポケットから万年筆を取り出して横の欄に名前を書いた。
アジンさんの真似をして、紙をかじってくれたら面白かったのに。
わたしは契約書を正面に置いて、軽く深呼吸した。
「では翻訳術師フクラ・ラークスがゴランドさんとアジンさんの契約が成立したことを確認しました。すべての生き物が人類の友人であらんことを」
わたしは決まり文句を言ってから首飾りを外し、底部分を二人のサインの間に軽く押し当てた。
正確には軽く押し当てているように見えるように――だ。実際は結構指に力を入れている。震えないギリギリのところで、力いっぱい押し当てているのだ。
(もう大丈夫ですかね? いや、もう少し……)
三回くらい、そうやってためらってから、ゆっくりと首飾りを紙から離した。
恐る恐る覗き込んだ先に、地面に突き刺さる二本の剣を象った印影が見える。翻訳術師を現す紋章だ。
上の方にわたしの名前が入っているのだけれど、力を入れすぎたか、文字がつぶれてギリギリ読めないくらいになっている。そのくせ印影の左下部分はかすれていて、まるで齧られたリンゴみたいだ。
正直、見栄えは悪い。それでも翻訳術師の印だということは一目でわかる……はずだ。
「大丈夫。合格点ですね」
肩の力が抜けたせいか、思わず自己評価を口にしてしまった。
ゴランドさんはその印影を見て、顔をしかめた。
契約内容が書かれた書類に委任状。見取り図や翻訳術報告書に術式目録――わたしはそれらを、混ざらないように並べた。
お茶一つ出されていないテーブルの左側にいる老紳士は恰幅がよく、あごの髭を抜く癖があった。彼はレストランの経営者で、今回の依頼主だ。
名前はゴランドさん。
普段は腰に細身の剣を据えているけれど、今は契約相手に友好の意思を見せるため、手の届かないところに立てかけてある。
その契約相手はわたし――ではない。
ゴランドさんの正面の席には誰もいない。その代わりに、テーブルの上に小さなお客さんがいた。
手のひらサイズの黒銀の毛皮の持ち主はネズミさんだ。テーブルの上で立ち上がり、あちこちに視線を向けながら鼻先をひくひく動かしている。
片目に傷のある彼の名前はアジンさん。レストランに住むネズミさんの代表だ。ゴランドさんの契約相手でもある。
え? ネズミさんに契約なんてできるはずないって?
翻訳術師がいないところだとそうなのかもしれない。でもわたしのような翻訳術師がいれば、そんなこともできてしまう。
わたしはフクラ・ラークス。成人したばかりの年齢と低い背から信じない人も多いけれど、この町唯一の翻訳術師だ。草の香りがする渋染めのローブと、チェスのポーンのような首飾りがその証。
今からわたしの仕事ぶりを見せてあげる。
ここはゴランドさんが経営するレストランの、窓から一番離れたテーブル席だ。開店前なのでお客さんはいない。
わたしはテーブルの横に立っている。
「それでは、翻訳術を開始します」
わたしは首飾りに口づけをして、祈りを込めた。そしてアジンさんの頭にハンコを押すように、軽く押し当てる。
「どうですか? わたしの言葉がわかりますか?」
わたしは首飾りをアジンさんから離すと、人間の言葉で語りかけた。
もちろんネズミさんには、人間の言葉はわからない。そのはずだけれど――
『ああ、わかるぞ。不思議なもんだなぁ』
アジンさんがしわがれた声で答えた。わたしの言葉が通じたのだ。
これが翻訳術。詳しい原理を説明するのは難しいのだけれど、どんなモノとも話せる魔法みたいなものだ。
わたしはあらためて、一人と一匹に目配せをした。
「翻訳術が成立したので、契約の内容確認に移らせていただきます。この契約はレストラン、エアカイトの経営者であるゴランドさんと、アジンさんを代表とするレストランに生息するネズミさんたちとの間で交わされます。両者は従業員、および関係するネズミさんに契約内容を周知する義務が――」
まだ前置きの段階だけれど、丁寧に説明していく。特にネズミのアジンさんは文字を読むことができないので、反応をうかがいながら、より念入りに説明する必要がある。後から『聞いてない』と言われるのが一番困るのだ。
とはいえこんな前置き部分。人間だってまともに聞いていられない。ネズミさんからすれば、難解な呪文を唱えられているようなものだ。
案の定、アジンさんは不安そうに周りをきょろきょろと見回している。
「アジンさん大丈夫ですか? わからないところがあったら何でも言ってください」
わたしが問いかけると、アジンさんは首を傾げた。
『わからないもなにも、難しいことだらけで何がなんのこっちゃわからねってば』
さっきと同じで、しわがれたおじさんの声でそう返ってきた。ちなみに、アジンさんが実際にその声で喋っているわけではない。
アジンさんが伝えようとしたことを、翻訳術でわたしがそう認識しているのだ。
伝えようとしていれば――例えばダンスとか臭いとかでも『言葉』として受け取ることができる。
でもわたしは言葉だけで伝えないといけないので大変だ。
「簡単に言うと、契約で決まったことを他のネズミさんにも教えてあげてくださいということです」
情報量を減らして、わかりやすい言葉を選んだ。でもまだアジンさんは首をひねっている。
『教えるつっても、ネズミなんて山ほどいるぞ』
「レストランに住んでいるネズミさんだけで大丈夫ですよ。契約はアジンさんを代表と認めたネズミさんのみに有効ですから」
『ああ、そうだったか。それなら楽勝だ』
アジンさんはピョンピョンと跳ねた。
それに対し、ゴランドさんは「すべてのネズミに有効だといいのだがな」と、髭を抜きながらつぶやいた。
わたしはすかさずゴランドさんに向き直る。
「そうなるとネズミさんの群衆ごとに契約する必要が出てくるので、わたし一人しか翻訳術師のいないこの町では、現実的ではないですね。可能だとしても、お金もたくさんかかります」
「わかっている。高い報酬を払っているんだ。独り言くらい許してくれ。国の決まりに文句を言うつもりはないが、小娘が一つの仕事で取る金額じゃないぞ」
ゴランドさんは手を払うようにして、話を進めるよう促した。
お世辞にも良い態度とは言えない。わたしが契約相手だったら、目の前で契約書を破り捨てている。
でもアジンさんはネズミだから、ゴランドさんが何て言ったかなんてわからないし、人間の表情や態度の機微なんかもわからない。
わたしたち人間に、動物の表情がよくわからないのと一緒だ。
だからゴランドさんの悪態はこの契約には影響しない。ゴランドさんはそれがわかってやっているのだ。
そう思うと余計にムカムカしてきた。でも今は仕事中だ。アジンさんのためにも、わたしは我慢して次の文面を読み上げた。
「この契約は人間とネズミさんの居住空間を隔離して、お互いの幸福度を上げるのが目的です。ネズミさんたちはレストランの客室、厨房、倉庫に立ち入らないようにしてください」
わたしは色分けされた図面をアジンさんの前に置いた。
「入ってはいけないところは赤く塗られています。ネズミさんたちの活動区域である床下にも掲示するので、参考にしてください。青の部分は屋外ですが、廃棄する食材の一時置き場です。食べ物が必要な場合はここから持って行ってください。トイレは建材に影響のないこの場所で――」
図面を指差して、一つずつアジンさんに説明していく。
ゴランドさんとアジンさんの意見を何度もすり合わせて決めたことなので、だいたいわかっているはずだ。けれどやっぱり、念には念を入れておかなければいけない。
実際、アジンさんは何度もうなずきながら『ここがなるほど、そうか』と相槌を打っている。まるで初めて説明されているかのようだ。
(ちょこちょこ様子を見に来て、必要なら説明し直した方がよさそうですね)
心の片隅にそうメモをして、説明を終えた。
「それではゴランドさんとアジンさん。契約の内容に問題が無ければサインをお願いします」
ここでいうサインは、名前を書き記すことに限らない。人間以外の生き物にそんなことはできないからだ。
アジンさんはサインの欄をかじって跡をつけた。こういうのもありだ。
それを見てゴランドさんは顔をしかめた。でも何か言ったりはせず、胸ポケットから万年筆を取り出して横の欄に名前を書いた。
アジンさんの真似をして、紙をかじってくれたら面白かったのに。
わたしは契約書を正面に置いて、軽く深呼吸した。
「では翻訳術師フクラ・ラークスがゴランドさんとアジンさんの契約が成立したことを確認しました。すべての生き物が人類の友人であらんことを」
わたしは決まり文句を言ってから首飾りを外し、底部分を二人のサインの間に軽く押し当てた。
正確には軽く押し当てているように見えるように――だ。実際は結構指に力を入れている。震えないギリギリのところで、力いっぱい押し当てているのだ。
(もう大丈夫ですかね? いや、もう少し……)
三回くらい、そうやってためらってから、ゆっくりと首飾りを紙から離した。
恐る恐る覗き込んだ先に、地面に突き刺さる二本の剣を象った印影が見える。翻訳術師を現す紋章だ。
上の方にわたしの名前が入っているのだけれど、力を入れすぎたか、文字がつぶれてギリギリ読めないくらいになっている。そのくせ印影の左下部分はかすれていて、まるで齧られたリンゴみたいだ。
正直、見栄えは悪い。それでも翻訳術師の印だということは一目でわかる……はずだ。
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