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第311話 逆転③

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「――ち、違う……違う、違う、違う! 全部、あの子達の妄想よ。私は……私はそんな事していない!」

 溝渕エンターテイメントを貶める性加害という名の嘘を喧伝していた側が、実は性加害者だったという事実が露呈し、矢崎絵里は取り乱す。

 一緒になって溝渕エンターテイメントを追い込んでいたスタッフや市民団体も旗色の悪さに思わず天井を仰ぎ見た。

「……これは拙いな」

 記者会見の様子をモニター越しに見ると、震える水野に代わり第三者委員会の委員長、小沢が被害内容を報告する。

『事務所の先輩である矢崎絵里氏は、溝渕エンターテインメントに所属してから数十年間に渡り、我慢しないと芸能界で売れない、有名になれば両親が喜んでくれるといった事を引き合いに出し、所属タレントに「今夜の頑張り」と称して、売春斡旋をしております。これは非常に悪質な行為です』

 売春斡旋は、売春防止法により定められた、人としての尊厳を害し性道徳に反する行為で、社会の善良な風俗を乱す売春について、これを助長する行為を罰すると共に、売春に走ってしまう女子を保護する目的で定められた禁止行為。

 次々と暴露されていく矢崎の犯行。
 まるで現代の吉原と揶揄されて何ら遜色もない売春斡旋の実態に、第三者委員会の会見を非難しにきた記者達も何と質問すればいいのやらと言葉を詰まらせ慌てふためく。

『勿論、当事務所に所属するタレント、矢崎絵里氏が行っていた犯罪行為に気付く事ができなかった我々にも責任はございます』

 暗い表情を浮かべるタレント達を見て、溝渕一心は矢崎の悪辣な行いに気付かなかった事を悔恨し発言する。

『彼女等の狂言により故人の名誉を貶め毀損する行為は許せません。事務所も対応に追われ甚大な被害を被りました。しかし、我々にも、責任の一端がある事は事実。私は溝渕エンターテイメントの社長として、当事務所所属の矢崎絵里氏による売春斡旋被害に遭われたすべての所属タレントにつき、法令に則った賠償を行います。また時効を迎えてしまった被害者の方につきましては、時効という名の法を超えて対応させて頂きます』

 社長である溝渕一心の言葉に、自然と、会場内から拍手の音が漏れる。

『被害者の方に対する対応については、今、溝渕社長が申し上げた通りです。加害者でありながら、故・溝渕慶太の名誉を貶め、溝渕エンターテインメントに多大な損害を与えた矢崎絵里氏に対しましては、別途、名誉毀損及び不法行為に基づく損害賠償を求める訴訟を東京地方裁判所に提起する予定です。当然、被害届も提出します』

 矢崎絵里達、自称被害者の話を元に作られた第三者委員会調査報告書発表からこれまでの間に受けた被害総額は数百億円を超える。
 その会見をモニター越しに聞いていた矢崎絵里は顔面蒼白で座り込む。

 半世紀に渡り行われていたとされる故・溝渕慶太氏による性加害の実態は、溝渕エンターテインメントに所属する有名タレント、矢崎絵里の狂言である事が発覚し、逆に、半世紀に渡り売春斡旋をしてきた事実が明るみとなった。

「嘘……嘘よ。嘘よ。嘘よ。嘘よ。嘘よ。嘘よ。嘘よぉぉぉぉ!」

 矢崎絵里は発狂する。

「――し、証拠は!? 証言なんか証拠にならないわよ! 私はやってない! 事実無根よ! やってもない事をどうやって証明したらいいの、それこそ、悪魔の証明じゃない! できる筈がないでしょう!!」

 司法を通さず証言だけで溝渕エンターテインメントの元社長、溝渕慶太氏を性加害者扱いし、市民団体や市民団体子飼いのマスコミを動員する事で未来永劫賠償名目で金をふんだくろうとしていた矢崎絵里がモニター画面を両手で掴みそう叫ぶと、会見上にいる一人の記者が手を上げ質問する。

『あのー、矢崎絵里氏がまるで犯罪行為を行なったかの様な物言いですが、被害者の証言以外に証拠はあるのでしょうか? 流石に犯罪行為を行なっていたというのであれば、証言だけでは弱いと思うのですが……』

 まるで被害者の証言だけでは証拠にならないと言わんばかりの発言に小沢は目を丸くする。

『溝渕慶太氏が亡くなり反論されないのをいい事に、ある事ない事を書いてきた記者の方がそれを言いますか……』

 思わず溢れた本音に、小沢自身も慌てて口を塞ぐ。

『失礼……』

 あの第三者委員会が被害者とされる人達の証言をただ纏めただけの報告書を公表してから溝渕エンターテイメントに届いた誹謗中傷は本当に酷いものだった。
 溝渕一心氏が故・溝渕慶太氏の性加害を行っていたかどうかを問われた際、「知らなかった」と回答すれば、「噂では聞いていたんだろう! 知らなかったはずがない、知らなかったでは済まされない」と責め立てられる。
 所属タレントは好奇の目で見られ、行く先々で遭遇する記者から息を吐く様にセカンドレイプ発言が飛び出す毎日。
 中には『早く認めて楽になれ』『被害に遭っていない人がこんな事を言う訳がないだろう』といった根拠に乏しい思い込みに基づく発言もあったと聞く。
 何のエビデンスもない自称被害者の証言を間に受け、溝渕慶太氏が性加害である事を一方的に事実認定した前第三者委員会が最たる例だ。普通の第三者委員会では、『事実として認定』ではなく『推認される』という表現が使われる。溝渕慶太氏が故人という事もあり断定不可能だからだ。

 第三者委員会の根拠のない事実認定を受け、マスコミが都合のいい部分のみを切り取りそれを広く喧伝した結果、企業からは「取引を継続すれば我々が人権侵害に寛容であるという事になる」といった発言や「人権を損なってまで必要な売上は一円たりともない」といった発言まで出てきた。他にも「性加害をした人物の名前を残すのはどうなのか」といった声まで……

 確かに、所属タレントが性加害を受けていた事に気付かなかった事は溝渕エンターテイメントの落ち度だ。
 しかし、故人の名を貶めたり、謂れのない罪を被せられる筋合いはない。

 隣を向くと、溝渕エンターテインメントの社長、溝渕一心が頷くのが見える。

『――はい。調査報告書にも一部記載しておりますが、被害者の方々が性加害を受けた際、録音したデータの外、加害者自身が提出してきた物的証拠、証言などがございます』

「――なっ……」

 証拠となる資料を保全されていた事を知り、矢崎は目を剥いて驚きの声を上げる。

「なんで……どういう事よ、それ……?」

 水野達が私を裏切り、枕営業をさせられていたと証言するのはまだ分かる。
 しかし、枕営業を受けていた側が証拠となる資料を提供したというのが分からない。

「あいつ等、破滅願望でも持っているの……そんな事をすればどうなるかなんて火を見るよりも明らかでしょう。この私を巻き込むんじゃないわよ……!」

 急ぎ調査報告書に目を通すと、水野達、被害者達の証言の外、被害者と枕営業を受ける側の会話を録音した録音データ、枕営業を受ける側が隠し撮りした動画データや、枕営業を受けた日程、図った便宜の内容など、事細かなデータが第三者委員会の調査により明らかとなった事が書かれている。
 それを見た矢崎は怒りのあまり絶句する。

 あれほど証拠は残すなと言っていたのに、何で音声や動画がデータとして残っているのよっ!
 私を通じて枕営業を受けていました、だなんて証言までして馬鹿じゃないの!?

「――なんで、私がこんな目に……!」

 確かに性接待を斡旋していた事は事実。だが、そこに金銭的なインセンティブは発生していない。私はただ事務所の後輩達が売れる様にと、そういった場を提供しただけなのに……!

 矢崎は金銭的なインセンティブを受け取っていない。見返りとして、CMに起用して貰ったり、様々な番組に呼んで貰っていただけだ。被害者としてあの場に立っているタレントの中には、番組に出れたと涙を流しながら喜ぶ者もいた。
 この私が芸能界の有力者達とパイプを繋いでやったから有名になれたんじゃないか。
 なのに、なのに……!
 ふざけんじゃないわよ……!

 到底、第三者委員会の会見とは思えない大暴露会見を見て、矢崎を支援していた市民団体の一人がポツリと呟く。

「お、おい。これ、拙くないか?」

 ハリーとかいう女の甘言に乗せられ、矢崎の事を支援してきた市民団体の職員は焦った表情を浮かべる。

「は、話が違う……溝渕慶太社長が加害者で、矢崎さんは被害者じゃなかったのか? これではまったく逆じゃないか……」

 多額の寄付金を手にする事ができる。
 そう聞いていたからこそ、話に乗ったのだ。
 芸能事務所に道義的な補償を求める所か、やっていたのは故人の名誉を貶める誹謗中傷。
 これにより、溝渕エンターテイメントは数百億円を超える損害を被り、心無い誹謗中傷により心を病んでしまったタレントもいる。

 これは、拙いですね……。

 途方に暮れる矢崎や慌てふためく市民団体の姿を見てハリー・レッテルは、ふうーと息を吐く。

 あれだけ手間と時間をかけたというのに……有名タレント、矢崎を利用した集りは失敗。
 今、見切りを付けなければ、こちらまで危うい……
 身をもってそう感じる程、空気感がガラリと変わった。

 しかし、一体何故……。
 誰もが知る芸能界の噂と有名芸能事務所、溝渕エンターテイメントを結びつけ、世論を巻き込んで扇動した。
 一日も欠かさず、テレビやニュース、新聞で私達がでっち上げた故・溝渕慶太氏の性加害を報道した事で四面楚歌だった筈だ。
 これだけ執拗に報道すれば、例えそれがどんなに無理筋な裏付けの取れていない情報であったとしても、これは重大な問題で、本当にあった事実なのだと民衆は捉える。
 どこの世界にも他人を批判したいだけの人間は存在するので、一度、情報を流せば、それをさも真実であるかの様に情報の補強を勝手に行なってくれる。
 それで、世界最大の性加害者、溝渕慶太が誕生し、溝渕慶太の犯した犯罪の渦中で得たと想定される利益はすべて被害者の救済や補償に充てるべきという世論が醸成される筈だった。
 だが、蓋を開けてみればどうだ?
 当初の想定とは異なる様相となっている。

 溝渕慶太氏が故人である以上、自称被害者が口を割らなければ、それが真実であると認識される筈だったのに……。

「やってくれましたね……」

 そう呟くと、ハリーはモニター画面に映る第三者委員会を睨みつけた。

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 次回は2023年11月19日AM7時更新となります。
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