猫ひげ堂へ妖こそ

御厨 匙

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㈩マツノマジナヒ

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 二月の朝、寒暖差で格子戸のすりガラスが罅入った。ゴンタはガムテープで応急処置した。店主のオサカベは勘定台の内のひきだしを整頓していた。天板の小さな日向で、黒猫の夜叉は丸くなった。
 猫の尻の横に、グラシン紙のつつみ。おやつの金米糖コンペイトウか何かかと、ゴンタはいそいそとひらいた。銀の指輪だった。ところどころ黒ずんで、だが美しい五弁の花束の意匠だ。なんの花だろう? その裏側は銀板が中途半端に切れて丸めこんである。浮彫りのアルファベット。こういう感じ、どこかでみたような……。しげしげと眺めていると、骨ばった手が指輪を奪った。オサカベだ。
「こら、勝手にいじるな」
「それ、何?」
「スプーンリングだ。伝えきくところによると、中世ヨーロッパ貴族の召使いの貧しい男が、意中の女に求婚しようと銀の匙を盗んでつくったのが始まりだそうだ。当時はきんよりも銀のほうが高価だったんだ」
「そっか、アンティークスプーンだ。どっかでみた感じだと思った」
「私も若いころは金がなくてな。自分でつくったんだ。葉子ようこに贈ったんだが、受けとってはもらえなかった」
「ヨウコ?」
「香葉子の母親だ。虎ノ門の骨董屋の客の娘だった」
 ああ、とゴンタはつぶやいた。オサカベはそれ以上語らず、指輪をもとどおり紙につつんで、ひきだしにしまった。
「葉子さんって、きれいだった?」
 ゴンタは尋ねた。オサカベは口をゆがめ、顎をしゃくった。
「そうだな、あれに似ている」
 勘定台の黒猫が大あくびした。ゴンタは悩んだ。どんな人だ?
 オサカベが倒れたのは、その宵だった。

     🐈‍⬛

「待て。カブを漬けたから、持っていきなさい」
 帰り際にオサカベがいった。このじいさん手製の漬物は、なかなか美味なのだった。オサカベは藍染ののれんを分けて台所へ向かった。ゴンタは見世の間のあがりかまちに腰かけて、ぼんやりとした。だが、待てども待てども、じいさんは戻ってこなかった。
 猫の大声がして、夜叉がゴンタにおどりかかった。このばあさん猫は、滅多に鳴かないのに。
「夜叉、どうした?」
 ひょうお、ひょうお、と夜叉は騒いだ。嫌な予感がした。ゴンタは夜叉をかかえて、台所へ走った。
 糠床のにおい。糠まみれの蕪が転がっていた。台所の流しのまえで、爺さんはいびきをかいてのびていた。着物のえりをゲロで汚して。一目で尋常じゃないとわかった。ゴンタはじいさんの頬をぺしゃぺしゃ叩いたけれど、オサカベは目を覚まさなかった。ゴンタは泣きそうになりながら、ケータイ電話で一一九番通報した。
「人が、年寄りが倒れました。救急車をおねがいします」
 どうにか猫ひげ堂の住所は告げたものの、応急処置の方法を伝えるオペレーターの声がうまく耳に入ってこなかった。オサカベが死んだら、どうしよう。ゴンタはケータイを耳に強く押し当てた。サイレンの音が微かにして、たちまち大きく迫った。
 べっぴん地蔵横丁に近所の人が様子をみにでていた。救命士がオサカベを担架に乗せたが、搬送先が決まるまで救急車は動けないとのことだった。ゴンタは黒電話の横の抽斗をひっくりかえして、オサカベの保険証をみつけた。越坂部おさかべ兵庫ひょうご。それが、じいさんのフルネームだった。十年以上つきあっているのに、そんなことも自分は知らなかった。いや、知ろうとしなかった。ゴンタは悔しくて、泣けて泣けてしょうがなかった。

     🐈‍⬛

 夜の総合病院の待合所で、ゴンタはぽつねんと座っていた。電源を落としたケータイを、ぱくっとひらいては、ぱこっととじた。なんべんも、何十ぺんも繰りかえす。まるで耐久実験だ。何もせずに待っていることが、つらかった。
「ゴンタくん」
 少女の声。ダッフルコートをはためかせて、セーラー服の万葉が駆けてきた。母親の香葉子の姿もあった。タクシーで来たのだろうか。父親の努の姿はなかった。万葉はいう。
「おじいちゃんは?」
「意識が戻らない。早く行ってあげて」
 万葉はうなずいた。香葉子が娘に追いついた。数年前に大病をしたせいか、かつての美貌は衰えていたけれど、それでもそのへんの四十代よりはずっときれいだった。
「ゴンタくん、ありがとう。今晩はもう遅いから、ね」
 交通費のつもりなのか、香葉子は万札をだした。ゴンタは押しかえした。
「こんなに、いただけません」
「いいから、もらってちょうだい。私たち急ぐの」
 ゴンタはしぶしぶ承知した。万葉が目つきで謝っていた。ゴンタは項垂れてエントランスをでた。どうせ、家族以外はつき添いできないのだ。
 自宅のそばまで来たとき、ゴンタは蕪の漬物と、夜叉のことを思いだした。猫ひげ堂の合鍵はあずかっていた。台所でゴンタは糠床を片づけて、蕪を刻んだ。齧ると、こりこりといい音がした。いい塩梅あんばいだ。
 餌場の台所に夜叉は見当たらなかった。見世の間にもいなかった。ゴンタは初めて階段をあがった。二階がじいさんのねぐらのはずだった。
 電気をつけると、黒猫は煎餅せんべい布団ぶとんに丸くなっていた。あるじの残り香がするのだろう。ゴンタは跪いて、闇色のあたたかい毛なみを撫でた。ひょうお、と夜叉は云った。しょぼくれた水色と金色の目。ゴンタは泣きだしそうになった。
「ヒョウゴは病院にいるよ。お医者さんと看護師さんがたくさんついてるからね」
 けれど、じいさんが助かる確信が、ゴンタにはなかった。悪いことは考えたくない。ゴンタは黒猫にいいきかせた。
「ここにひとりじゃ、おまえも困るだろ。しばらく、おれんちにおいで。な?」
 夜叉は観念したのか、おとなしくゴンタの腕におさまった。

     🐈‍⬛

 ゴンタの部屋で、夜叉は学習机の下からでてこなかった。キャットフードも口をつけない。ゴンタはため息をついた。
 ゴンタは和泉に電話した。すぐにつながった。
「遅くに悪い。オサカベさんが倒れた」
『うん、きいた。さっき香葉子さんが母さんに連絡してきて。猫ひげ堂を売る気みたい』
 和泉の母親の千歳は、オイコス不動産の社長だ。和泉は大学をでたら、そこに勤める予定だった。
「もう、そんな相談を?」
 まるでじいさんが死んだ気でいるみたいだ。ゴンタは腹が立った。
『香葉子さん、離婚を考えてるらしくてね、おカネが欲しいみたいなんだ。たしかに、あそこの旦那さん、冷たいよ。香葉子さんが胃潰瘍で倒れたときも、ぼくのごはんは? ってきいたんだって』
 ゴンタも知っていた。香葉子はしょっちゅうオサカベに愚痴をこぼしに来ていたから。
 外套のポケットに、ゴンタは手をつっこんだ。香葉子のよこした、真新しい一万円札。これは手切れ金ということだったのか。あの店は、ゴンタのものになるはずだった。オサカベもゴンタも、はっきりと約束をかわしたわけではなかったけれど、そのつもりでいたのだ。ずっと。
「あの店、どうなるの?」
『品物はぜんぶ売り払うだろうね。母さんは店をリフォームして、おしゃれな町家風テナントにするつもりでいるんだ。ぼく、嫌だよ。おしゃれなテナントなんて』
「おれもだよ」
『おぼえてる? 水珠の夕立』
 おぼえている。猫ひげ堂の庭サイズの黒雲と、激しい雨。びしょびしょで飛びはねたシュンスケ。じいさんの晴れやかな笑顔。
『もし、母さんが池を潰すつもりなら、えらいことになるよ。あの宝珠は、誰にでもあつかえるもんじゃないんだ。ねえ、ゴンタ。どうなるの、じゃないだろ。なんのために大学で鑑定士の勉強してきたんだよ』
 和泉のいうとおりだった。ゴンタはケータイを握りしめた。
「和泉。今からこっち来い」
『今っ?』

     🐈‍⬛

「これって泥棒なんじゃ……?」
 薄暗い土蔵で、和泉はおどおどと木箱を抱きしめた。ゴンタは小間物を長持に詰め、目録を書きかえた。
「本当に必要なもんだけでいい。香葉子さんや万葉ちゃんだって元手がなきゃ困るだろ」
 二人は夜道をこそこそと品物を権上宅の物置きへとになった。土蔵の大事な品を運びおおせると、物置きはいっぱいだった。見世の間の品は、ゴンタの部屋へ運んだ。なじみのにおいがわかるのか、夜叉が学習机の下からでてきた。猫ちぐらをふんふんと嗅いで、なかにすっぽりともぐりこんだ。
 仕上げに池の鯉を生け捕りにして金だらいにいれた。怪しまれないよう、一匹だけは残した。
 夜明けまえには仕事を終えて、ゴンタと和泉は見世の間にぐったりと横たわった。

     🐈‍⬛

 人の気配で、ゴンタは目を覚ました。見世の間のまんなか、見おろしているのは万葉だった。格子戸のすり硝子に朝の光。
「何してるの?」
 万葉はいった。ゴンタはがばりと半身を起こした。和泉はすでにいなかった。あいつは寝起きがいい。
「いや、べつに」
「ねえ、夜叉は? どこにもいなくて」
「おれの部屋だよ」
 万葉はほっとしたようだ。「おじいちゃん、目が覚めたよ」
「ほんと?」
「でも、良くないの。私やママのこともわかんないみたいで。お医者さんは、予断は許さない状況だって。ママは、延命は望まないっていった。入院ってすごくおカネがかかるんだってね。ママもパパも、おカネお金って。私、そういうの嫌だよ。おじいちゃんは、まだ生きたいかもしれないのに」
 泣きだしそうな万葉に、ゴンタは言葉をかけあぐねた。
「ママがそんなふうになったのは、パパのせい。私、あの人、大っ嫌い。ゴンチャロフがカーペットに粗相したら、保健所につれていけっていうんだよ。年だからしょうがないのに」
「香葉子さん、離婚を考えてるって……」
「さっさと離婚すればよかったんだよ。なのに、私の教育費がかかるからって我慢しちゃって。私のせいで離婚できないみたいにいわれるの、すごい嫌だった。でも、もういいの。ママも目が覚めたみたいだから」
 万葉は見世の間をぐるりとみわたしてから、ゴンタをみすえた。悲しいほどに澄みきった目。
「ねえ、ゴンタくん。遺言書さがすの手つだって」
「遺言書?」
「おじいちゃんが何か書きのこしてるかもしれないでしょ。私、このお店なくなるの嫌。きっと、ゴンタくんにお店をあげるって書いてあると思うの。そしたら、私、ゴンタくんと結婚してもいいよ」
「なんでそうなるの。万葉ちゃんはシュンスケが好きだったんじゃないの?」
 ゴンタは頭に血がのぼって、ひっくりかえりそうだった。ゴンタと万葉の手首には、図らずもお揃いになった水晶の念珠がはまっていた。シュンスケがそれぞれにわたしたものだ。
「だって、何もいわないで、遠くへ行っちゃった」
 万葉の大きな目から、とうとう涙が溢れた。ゴンタは外套を探った。ポケットティッシュがあった。それを差しだす。万葉は涙をぬぐって、洟をかんだ。
「私、生まれないほうがよかった」
 ゴンタは勘定台ごしに、ひきだしから紙づつみを拾った。くしゃくしゃの紙をほぐすと、銀のスプーンリングが光った。
「これ、オサカベさんが、きみのおばあさんに贈ろうとしたんだって。受けとってはもらえなかったんだけどね」
「おばあちゃんには、親の決めた許婚いいなずけがいたの。でも、おばあちゃんのおなかにはママがいて、おばあちゃんはそのまま嫁いだの。ママは義理の父親から下のきょうだいと差別されて、つらい思いをしたみたい」
 万葉は指輪をみおろした。ゴンタは云う。
「この指輪の花、フランネルソウっていうんだよ」
 でまかせだった。似たような五弁花はいくつもある。食器の意匠なんて架空のものかもしれない。けれど。
「花言葉は、私の愛は不変。きみのおじいさんは、そういう気持ちで、葉子さんを愛したんだよ。きみはその血をひいてる。そんなきみが、自分を粗末にしちゃいけない」
 万葉のきゃしゃな手に、ゴンタは指輪を握らせた。万葉は指輪をみつめて、指先で涙をぬぐった。
「遺言書を探すのは、手つだう。でも、結婚は、本当に好きな人としなよ。万葉ちゃんは、家をでたいだけなんだろ」
 万葉はこっくりとうなずいた。ゴンタはほほえんだ。
「もし、おれが二代目になれたら、アルバイトがひとり欲しいな。考えてみてくれる?」
 万葉はわっと泣きだして、ゴンタの首にしがみついた。ゴンタは目を白黒させつつ、セーラー襟の肩をこわごわと抱きしめた。
 遺言書はみつからなかった。当初の計画を遂行するしかなさそうだった。

     🐈‍⬛

 オサカベの病名は、脳溢血だった。脳にダメージを負ったようで、遺言書のありかを教えてもらうことも、口頭で遺言を述べてもらうことも難しそうだと万葉はいった。
 ゴンタの部屋で、夜叉は餌をほとんど口にしなかった。オサカベが死んだら、このばあさん猫まで死んでしまうのでは……とゴンタは気を揉んだ。
 ひょうお、と夜叉は鳴いた。ゴンタはいう。
「ヒョウゴに会いたい?」
 ひょうお、ひょうお、と夜叉は騒いだ。ゴンタは胸を突かれ、涙ぐんだ。
「わかった。会わせてやる」
 ゴンタは万葉に電話した。そして、デイパックの口をあけて、黒猫をうながした。かしこい夜叉は、すすんで中に入った。
 モノレールの駅で万葉と落ちあって、ゴンタは総合病院の病室に忍びこんだ。
「おじいちゃん。来たよ」
 万葉がいった。うすみどりの酸素マスクをつけたじいさんは、ぼんやりと黒い目をあけているばかりだった。ゴンタの姿にも、なんの反応もない。ああ、オサカベがオサカベでなくなってしまった。
 ゴンタがデイパックをひらくと、黒猫が飛びだした。じいさんの腹をふんで、甘えた声で鳴く。オサカベの目に、光が小さく宿った。ぐるぐる喉を鳴らす黒猫を、じいさんの骨ばった手がぎこちなく撫でた。ゴンタは泣くのをこらえたけれど、となりで万葉が涙を流しているのに気づいて、結局は泣いた。
 猫を撫でるうちに、じいさんはことんと眠りこんだ。ゴンタはデイパックの口をあけて、黒猫をうながした。夜叉はじいさんの手をべろりと舐めてから、すすんで中に入った。
 その晩、オサカベは息をひきとった。享年七十五歳だった。

     🐈‍⬛

 早春の快晴。オサカベの葬儀は家族と関係者だけの、小ぢんまりした催しだった。火葬場の大きなかまどのまえで、仙雲寺の住持はしんみりという。
「まさか、おぬしのほうが先に逝ってしまうとはのぅ」
 棺の白い花々のなか、白装束のオサカベの顔は穏やかだった。ゴンタはじいさんの頬にふれてみた。専用の冷蔵庫で保管されていた亡骸は、ひんやりと冷たかった。住持が贈ったオサカベの戒名は、だった。
 やってきた僧侶は、墨染の僧衣もすがすがしい若者だった。僧侶は合掌し、一礼した。ゴンタと和泉と万葉も、つられてお辞儀した。僧侶はニカッと前歯をみせた。いたずらっぽく光る赤茶の目。
「どうだ、みちがえたか」
「シュンスケ⁉︎」
「シュンスケじゃねえよ。今は隼揚しゅんようってんだ」
「修行、終わったの?」
「きょうだけ猊下げいかに許しをいただいたんだ。おっちゃんの最後だからさ」
 一瞬、わっと場が沸いた。んんっ、と住持が咳払いして、ゴンタたちはしんとなった。
 ご家族のかた、最後のお別れを、とスタッフが云った。お父さん、と香葉子はつかのま顔を両手で覆って、けれど毅然という。
「お願いします」
 スタッフがオサカベを竈へ運んだ。爺さんの姿から、ゴンタは目が離せなかった。住持とシュンスケが声を合わせて、朗々と読経した。ぶ厚い扉が、ゆっくりとおごそかにとじた。扉のむこうで、炎がとどろいた。
 オサカベが焼ける一時間のあいだ、万葉はシュンスケと話していた。ゴンタは気になりながらも、二人を邪魔したくはなかった。和泉がにやりとした。
「ほんと、イイヤツだよね、ゴンタって」
「うるさい」

     🐈‍⬛

 オサカベの骨は由比ヶ浜の海にまいたという。遠景の富士山と、青鈍色あおにびいろの水平線。せせこましい墓に納まるよりも、そのほうが爺さんらしいとゴンタは思った。
 三月。香葉子は猫ひげ堂の品物を業者に売り払い、土地と建物をオイコス不動産に託した。
 和泉は勝手に書類を持ちだした。和泉邸の近所の店のテラス席で、ゴンタは書類を検めた。三文判を契約書につくとき指が震えて失敗し、欄外にしなおした。なんといっても三十二年ローン、手付金だけで一三〇万円だ(出世払いの約束で父親に借りた)。大きな決断だった。保証人の欄に和泉が署名し、判をついた。やっぱり指が震えていた。ゴンタは猫ひげ堂の土地の権利書を手にいれた。
 和泉は千歳にウルトラの大目玉をくらったそうだが、契約をとってきたことに関しては褒められたらしい。リフォーム代が浮いたと喜んでいたという。
 香葉子は夫との離婚調停が成立し、櫻木姓に戻った。香葉子と万葉は都内のマンションへ越していった。

     🐈‍⬛

 まずはかたちから。ゴンタは『男のふだん着物』という本と睨めっこしたあと、じいさんの和箪笥から着物をひっぱりだした。長襦袢がわりのハイネックのうえに、松皮菱まつかわびしを着て、兵児帯へこおびを浪人結びにして着流しにする。じいさんの紺足袋は、小さくて履けなかった。ゴンタは姿見のまえで斜に構えた。うん、どうにかそれらしくなった。着物は短足のほうが似あうんだぞ……じいさんの皮肉っぽい声が甦って、ゴンタは苦笑いした。
 台所でゴンタは襷掛けして、糠床をかきまぜた。何か、野菜ではない、なめらかな感触。ゴンタはそれをひっぱりだし、流しで洗った。サランラップにくるまった紙。まさか、と思った。
 、と達者な字でしたためてあった。
 ㈠土蔵の品物は西側は娘の鈴木香葉子に、東側は弟子の権上太樹にゆずる。
 ㈡猫髯堂の土地および建物は、権上太樹にゆずる。店の品物もこれにならう。
 ㈢両者、ケンカせぬこと。
「もっとわかりやすいところに隠しといてよ、オサカベさん」
 三十二年ローンか……。ゴンタはこれからの数十年を思って、ひっそりと笑った。
 梅の香り。門前を掃き清めていると、仙雲寺の住持がよたよたとやってきた。御年九十四歳。生きて動いているだけで天晴れだった。かたわらにウェルシュコーギー。十一才のゴンチャロフだ。香葉子が飼えないというので、住持がひきとったのだ。
「精がでるのぅ」
「和尚さん、散歩ですか」
 ゴンタがかがみこんで撫でてやると、ゴンチャロフははふはふ喜んだ。
「いや、あんさんに仕事を頼みたくてな」
 仙雲寺の客間、住持は三本脚の平たい鉢をお膳に置いた。ゴンタは息を飲んだ。金と銀の美しい魚。十数年ぶりにみるヒモクノウオだった。

     🐈‍⬛

 猫ひげ堂の見世の間、ゴンタは勘定台の鉢をみおろして、ふわりと欠伸した。懐中時計は、午後二時を回っていた。お客はさっぱり来なかった。ローンの支払いは来月から始まってしまう。ゴンタは自分の選択がまちがっていなかったかと不安にかられた。契約まえに遺言状がみつかっていれば……いや、そうなったら香葉子との遺産争いは避けられなかった。これでよかったのだ。ゴンタはひとりでうなずいた。
 黒猫は魚にみむきもしなかった。好物だった鰹節にすら興味を示さなかった。もう主人のいない世界に未練がないのかもしれなかった。
 金銀の魚が、ばちゃりと水面みなもを打った。ゴンタははっとした。
 気味の悪い眩暈のように、大きな揺れが襲った。店の品物がかちゃかちゃとふれあって、鉢の水が波立つ。地震だ。ゴンタはとっさに鉢をかかえて店の格子戸を叩きあけた。建物がゆがんだら、戸があかなくなる。それしか頭になかった。
 小さな影のように、夜叉が庭へ走りでた。激しい揺れに驚いたのかもしれない。ゴンタは叫んだけれど、黒猫は雑木林にみえなくなった。
 地震は一分以上も続いた。揺れがおさまってから、ゴンタはケータイを確かめた。東北地方を震源とする大きな地震が……と緊急速報が入っていた。
 猫ひげ堂の建物は、なんともなさそうだった。そういえば、大正十四年の震災復興建築だとオサカベがいつか話していた。大仏が傾いたという関東大震災の翌々年だ。揺れに強いわけだった。ゴンタは最小限の片づけをして、おもてへ走りでた。街はいつもと変わらなくみえた。
「夜叉、ヤシャ、やしゃ」
 暗くなるまであたりを探しまわったけれど、夜叉をみつけられなかった。ゴンタは肩を落として、誰もいない店へ戻った。

     🐈‍⬛

 四月が近づいても、夜叉は戻らなかった。外の世界を知らない年寄りの猫が、野良で生きのびられるとは、とても思えなかった。勘定台のヒモクノウオの光が滲んで、波立った。ゴンタは声もなく泣いた。オサカベを亡くして、夜叉までいなくなって、もしこの店まで潰してしまったら、自分には何も、なにもない。
 ぴん・ぽん、と小気味よい呼び鈴の音。お客だ。ゴンタは着物の袖で涙をふいて、格子戸をあけた。
 万葉だった。春セーターにジーンズ。たずさえた大きなボストンバッグ。花奢な左手人差指には、あのスプーンリングが光っていた。万葉は驚いたふうだった。
「どうしたの?」
 泣いた顔のことをいわれているのだとわかった。いや、花粉症で、とゴンタはごまかした。
「万葉ちゃんこそ、どうして?」
「夜叉がいなくなっちゃったって」
「なんで知ってるの?」
「和尚さん。ゴンチャロフのことで連絡をとりあってるの」
 ああ、とゴンタはいった。すべては筒抜けなのだった。
「ずいぶん大きいカバンだね」
「春休みのあいだ、お世話になろうと思って」
「……泊まるの?」
「アルバイトが欲しいっていったじゃない」
「申しわけないけど、きみを雇えるような状況じゃないんだ。お客さんも離れちゃって」
「お給料いらない。ごはんだけ食べさせてくれたら」
 ゴンタは目を剝いた。ああ、重かった、と万葉はバッグを座敷に置いた。
「香葉子さんになんていえば……」
「大丈夫。女の子の友達のところに泊まるっていってきたから。まずは夜叉を探さなきゃね。どうせヒマでしょ?」
 無邪気そうに笑う万葉に、ゴンタは何もいえなかった。

     🐈‍⬛

 万葉はノートパソコンで、迷い猫のポスターをしあげた。ゴンタの実家でプリントアウトして、コンビニで数十枚ほどコピーした。ふたり電柱に貼って歩きがてら、あたりの住人や通行人に訊きこんだ。万葉はぬかりなく店の宣伝までした。さすが商人あきんどの孫だった。
「そんなに遠くへは行ってないと思うよ。だいぶよぼよぼしてたし」
 万葉はいった。けれど、ゴンタは夜叉がもう生きていない気がしてならなかった。
 その宵、ゴンタは鰆の塩焼きと、筍ごはんと、蕪と油揚の味噌汁と、蕪と人参の漬物をふるまった。美味しい、と万葉は笑った。
 万葉が風呂に入っているあいだ、ゴンタは何も考えないようにした。二階の和室に客用の布団を敷いてやって、ゴンタは見世の間の煎餅布団に転がった。ほのかにオサカベの体臭。勘定台の鉢のなかで、金銀の魚は変わらず寄りそいあっていた。ゴンタはうつらうつらした。
 視線を感じた。業平菱なりひらびしの浴衣の万葉が枕を抱いていた。
「一緒に寝ていい? あの部屋、静かすぎてこわいの」
 ゴンタは布団に正座した。頬が熱くなる。「いや、ダメ」
「どうして?」
「おれと寝ると、危ないよ」
「どう危ないの?」
 真顔できかれて、ゴンタはうつむいた。耳から首まで熱くなった。
「……寝相が悪いから」
「わかってるよ、ほんとのことくらい」
 万葉はくすくすと笑った。ゴンタはたまらなくなって、万葉を抱きすくめた。力をこめたら、へし折れそうな体。湯あがりのぬくもり。ふたりは煎餅布団に転がった。ゴンタの胸に万葉は顔をうずめる。
「おじいちゃんのにおいがするね」
「そうだね」
「夜叉、どうしてるかな」
「もう、帰ってこない気がする」
「私は、帰ってくる気がするけど」
「そうかな」
「そうだよ、絶対」
 つぶらな黒い目がみあげた。ゴンタは愛しくなって、万葉の髪をするすると撫でた。万葉がつぶやく。
「松の呪いって知ってる?」
「マツノマジナイ?」
「昔、おばあちゃんに教わったの。在原ありわらの行平ゆきひらの歌。立ち別れいなばの山のみねふるまつとし聞かば今かへり来む。飼い猫がいなくなっても、それを唱えたら帰ってくるって」
「タチワカレイナバノヤマノミネニ……?」
「立ち別れいなばの山の峯に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」
「タチワカレイナバノヤマノミネニオウルマツトシキカバイマカエリコン」
 万葉はくすくすと笑った。ゴンタも笑った。ふたりは柔らかくキスして、ぎゅうっとくっつきあった。

     🐈‍⬛

 八哥鳥はっかちょうの素晴らしい歌で、ゴンタは目を覚ました。ガムテープつきの格子戸の外は、薄青かった。夜明けだ。万葉の愛らしい寝顔と、小さな寝息。ゴンタは起こさないよう、そっと布団を抜けでた。
 かたかた、かたかた、と格子戸が揺れた。すりガラスごしの小さな黒い影。まさか、とゴンタは戸をあけた。
 夜叉……ではなかった。ちいさな小さな、片手に乗るほどの黒猫だった。胸毛がスカーフのように白い。
「なんだ、おまえ。どっから来た?」
 そいつを抱きあげて、あっ、とゴンタは声をあげた。右目が水色で、左目が金色だった。きょとんとみあげる子猫。ゴンタは、ほほえんだ。
「おかえり、夜叉」
 ゴンタは小さな猫を懐に抱いた。提灯の紋、生まれ変わる揚羽蝶。庭の貧乏草が春風にそよいだ。
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【第6回ほっこり・じんわり大賞にて奨励賞を受賞いたしました🌸】 応援いただいた皆様、お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました! ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。. 疲れた時は神様のおにぎり処に足を運んで。店主の豊穣の神が握るおにぎりが貴方を癒してくれる。 ここは人もあやかしも神も訪れるおむすび処。メニューは一択。店主にとっての思い出の味のみ――。 大学進学を機に田舎から都会に上京した伊勢山莉亜は、都会に馴染めず、居場所のなさを感じていた。 とある夕方、花見で立ち寄った公園で人のいない場所を探していると、キジ白の猫である神使のハルに導かれて、名前を忘れた豊穣の神・蓬が営むおむすび処に辿り着く。 自分が使役する神使のハルが迷惑を掛けたお詫びとして、おむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりをご馳走してくれる蓬。おにぎりを食べた莉亜は心を解きほぐされ、今まで溜めこんでいた感情を吐露して泣き出してしまうのだった。 店に通うようになった莉亜は、蓬が料理人として致命的なある物を失っていることを知ってしまう。そして、それを失っている蓬は近い内に消滅してしまうとも。 それでも蓬は自身が消える時までおにぎりを握り続け、店を開けるという。 そこにはおむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりと、かつて蓬を信仰していた人間・セイとの間にあった優しい思い出と大切な借り物、そして蓬が犯した取り返しのつかない罪が深く関わっていたのだった。 「これも俺の運命だ。アイツが現れるまで、ここでアイツから借りたものを守り続けること。それが俺に出来る、唯一の贖罪だ」 蓬を助けるには、豊穣の神としての蓬の名前とセイとの思い出の味という塩おにぎりが必要だという。 莉亜は蓬とセイのために、蓬の名前とセイとの思い出の味を見つけると決意するがーー。 蓬がセイに犯した罪とは、そして蓬は名前と思い出の味を思い出せるのかーー。 ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。. ※ノベマに掲載していた短編作品を加筆、修正した長編作品になります。 ※ほっこり・じんわり大賞の応募について、運営様より許可をいただいております。

雨の上がる時・・・

本条蒼依
ライト文芸
 明美が、公園で犬を拾いペットにしてから始まる ホットストーリー  こちらは、毎日の更新はできませんが頑張っていきたいと 思います<m(__)m>

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

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