死にたがり屋のやり方

御厨 匙

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死にたがり屋のやり方

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 警報機の音に、くすんだローファーが駆けだす。薄鼠のズボンに、紺のブレザー。晩秋の風に、その手の白いレジ袋ががさがさと鳴る。駅前商店街のはずれの踏切、夕方はいったん遮断機がおりたらあかない。少年の眼前で黒と黄のバーがおりる。少年はいらだったふうにパーマの長髪を掻きあげる。左耳に光るシルバーピアス。
 踏切の内でも、別の少年がバーの通せんぼに遭っている。同じ学校の紺ブレザー、アディダスのショルダーバッグ、スニーカー。そのスポーツ刈りの少年はバーを見おろし、途方に暮れたように佇む。長髪はスポーツ刈りを見つめる。警報機の赤い明滅、ひずんだ和音。スポーツ刈りは動こうとしない。買いだしの主婦や、帰宅途中のサラリーマンが気にするそぶりを見せる。だが、声はかけない。ちんけな田舎町だが、横須賀線の隣駅は横浜だ。一応、都会人の気質なのだ。利害のない他人に無関心。
 アルミ色の快速電車が迫る。せっぱつまった警笛。スポーツ刈りは電車に向きあう。だが、腰がひけている。その横顔に、怯えと迷い。長髪は舌打ちして、バーをくぐる。レジ袋ががさがさと鳴る。接近する長髪に、スポーツ刈りはたじろぐ。長髪は問答無用でスポーツ刈りの背中と膝裏をかかえあげる。スポーツ刈りは目を剝いて足をばたつかせる。長髪は線路間に避難する。さっきまでスポーツ刈りのいた場所を、急ブレーキ音とともに電車が過ぎる。長髪は声を立てて笑う。恐怖がすぎた、ひきつけのような笑いだ。
 電車は五〇メートル先で止まる。警報機は鳴りつづけている。長髪はスポーツ刈りを立たせ、肩を叩く。
「逃げるぞ」
 え、とスポーツ刈りは小さくつぶやく。長髪は真顔でいう。
「電車止めたんだ。補償問題だぞ。バックレようぜ」
 スポーツ刈りは途惑いがちにうなずく。素直そうな童顔だ。二人はバーをくぐって、環状線側へ駆け抜ける。レジ袋ががさがさと鳴る。

 環状線沿いの外階段のマンション、四階の角部屋。四〇五号室。長髪はスポーツ刈りを招き入れる。1LDK。整頓されているものの、インテリアはそっけない。男の部屋だ。壁に大きな写真パネル。巻層雲と平原、木の車を引く水牛と笠の農夫。異国のものながら、どこか郷愁を誘う風景だ。長髪がいう。
「叔父さんの部屋なんだ。撮影で飛びまわってるから、そのあいだおれが番してんの」
「カメラマンなの」
青柳あおやぎあおむって、写真界じゃそれなりに有名らしいけど」
 長髪がレジ袋からとりだしたのは、インスタントコーヒーの壜。ひと匙すくって、電気ポットの湯を大ぶりなマグカップに注ぐ。砂糖は使わず、冷えた牛乳をたっぷり加える。ぬるそうなカフェオレだ。ダイニングテーブルについたスポーツ刈りのまえに、長髪はカフェオレを置く。スポーツ刈りは礼をいってすする。
 テーブルにはタバコ入りの硝子の灰皿、青いチューブワックスと、それを切りだした成形途中の塊。スポーツ刈りは不思議そうに見やる。長髪はシルバーリングの指で塊をつまむ。
「これを鋳造して、シルバーアクセをつくるんだ。おれの趣味」
「機械科なんだ」
「そうだよ。おまえは」
「電気科」
「じゃ、爆弾つくれるんだ」
「つくろうと思えば。でも、つくらないよ」
「電車で脳味噌ふっ飛ばすくらいなら、爆弾できらいなもんふっ飛ばしちまえばいいのに」
 スポーツ刈りは困ったふう。長髪はいう。
「青柳創与具そよぐっていう。創造性の創、与党の与に、具体的の具。おまえは」
翔太しょうた。飛翔の翔に太郎の太」
「名字は」
 翔太はうつむいて、黙りこむ。創与具はいう。
「翔太は死のうとしたんだよな」
「死のうとしたっていうか……、棒がおりてきて、死んだら楽かなって一瞬おもって」
「電車に脳味噌ふっ飛ばされるほうが楽な状況って、どんな」
 翔太は答えない。カフェオレをすする。創与具は降参したふうに笑う。
「まあ、初対面のやつに気軽に話せるもんでもないか。でも、死ぬにしても、もっと楽な死に方があるだろ。おれが思うに、凍死がベストじゃないかな。雪山とかで眠くなると気持ちいいんだってさ。叔父さんがいってた。どうしても死にたくなったら、おれにいえよ。一緒に富士山に登ろう」
 翔太はますます困ったふう。創与具はいう。
「翔太はアクセって興味ある」
「つけないけど、たぶんきらいじゃない」
 創与具は奥の部屋からデッサン帖を持ってきて、ひらいてみせる。翔太は目を瞠って、手にとる。ボールペンのラフスケッチ。植物や動物の緻密なモチーフ、トライバルの幾何学図形。翔太は無言で、だが熱のこもった目でページを繰る。
「どう」
「すごくきれいだ」
「翔太はどんな感じがすき」
 翔太は最初からページをめくりなおして、指差す。
「この羽根のやつとか」
 リアルな片翼のペンダントトップだ。創与具は大きく笑う。
「それ、自分でも気に入ってんだ。つくってやるよ」
「でも、銀って高いんでしょ」
「初回割引にしてやるからさ。ひいきにしてよ」
 翔太は初めて笑顔になる。創与具はいう。
「つらくなったら、ここに来ていいからな。コーヒーくらいは飲ましてやるよ」
 翔太は笑みをこわばらせて、うつむく。「あの、頼みがあるんだ。学校や外でおれを見かけても、声かけないでほしいんだ」
「どうして」
「そのほうがいいんだ。おれといると、おまえまで変に思われる」
「おまえは変に思われてんの」
 翔太は答えない。創与具はため息をつく。
「わかったよ。見かけても声はかけない」
 翔太の顔に安堵の色。創与具はいう。
「なあ、爆弾で校舎ふっ飛ばして、冬休み延長させる気ない」
 翔太は腹をかかえて、息だけで笑う。

よん組のヒツジって、三千円でしゃぶってくれるらしいぜ」
 地元の工業高校の教室。パンチパーマやリーゼントの連中がうわさする。男の多い学校に特有の同性愛ネタ。男にとってホモはオバケと同じだ。出会いたくないが、話題にするぶんには楽しい。
 長髪禁止の工業高校において、長髪の創与具は目立つ。創与具は席で熱心にワックスの塊を削る。休み時間に孤立していることを、創与具はなんとも感じていないふうだ。創与具はふっと息を吹きかけ、かすを飛ばす。手にした青いワックスの原型マスターは、髑髏スカルモチーフの指輪らしい。
 機械科の創与具は二年いち組だ。放課後の廊下、創与具は翔太を見かける。電気科ならばさん組かⅣ組のはず。翔太も気づくが、目を伏せてうつむく。創与具はさりげなく軌道をずらして、翔太へ近寄る。翔太の目に途惑い。創与具は肩を翔太の肩に軽くぶつける。創与具の口が微かに笑う。そのまま無言で去る。翔太はつかのま創与具をふりかえり、またうつむいて廊下を進む。

 横浜の街の一画、雑居ビル二階のPURE HYBRIDという未点灯のネオンサイン。
 木の彫金台、多種多様の工具、ノートのラフスケッチ、ターコイズの原石の欠片、切りだされたワックスの塊、たわめられた銀の板。三十代半ばか、麻エプロンの銀職人シルバースミスは顎ひげを掻いて、髑髏の指輪を観察する。手首にトライバルタトゥー。創与具は不安げにきく。
「どうすか、大隈おおくまさん」
「中途半端や。男向けにしたら華奢やし、女向けにしたらごちい。おまえは誰に向けてつくっちょるん」
 創与具の顔に落胆の色。大隈は指輪を返す。
「制作はまだ早い。今は見て学ぶ段階ちゃ」
「でも……」
 大隈は創与具の胸を軽くノックする。「おまえにはがある。だから、焦るな。ほら、そろそろ五時やぞ。スイッチ入れてきて」
 創与具は肩を落として、カウンター内の壁のスイッチをいじる。店の表で、PURE HYBRIDというサインが点灯する。
 まもなく男女の客が入店してくる。ディスプレイは気の早いサンタとツリー。いらっしゃいませ、と創与具は営業スマイルをつくる。創与具はカウンターを兼ねたショーケースを覗きこむ。革とターコイズと銀。インディアニズムと和の融合フュージョン。創与具は首をひねる。そして、ファイバークロスで硝子を磨く。創与具の仕事は接客と雑用らしい。
 PURE HYBRIDというサインが消灯する。時計の針は午後九時半を回っている。創与具はレジの金をかぞえて、伝票に几帳面な字を書く。集金袋に詰めて、アトリエの金庫にしまう。お先に失礼しまーす、と創与具は声を張る。お疲れー、と大隈はふりかえらずにタガネを打つ。接客のときには見せない顔で。
 初冬の宵闇。雑居ビルの階段をおりながら、創与具はふかぶかとため息をつく。手のひらの髑髏の指輪。創与具の顔つきは納得していない。創与具はそれを右の中指に嵌める。

 環状線沿いのマンション。創与具が階段をあがっていくと、四〇五号室のまえに男がしゃがんでいる。創与具は不審げに目を細めて、それから頬笑む。ダウンジャケットの翔太は迷子のように見あげる。
「よお、コーヒー飲みたくなったか」
 うん、と翔太。両目が光って、いきなり涙がぼろぼろとあふれる。創与具は目を丸くする。
 創与具は部屋の電気をつけて、システムコンポをONにする。スピッツ《インディゴ地平線》が再生される。ポップで軽快なギターリフ、草野マサムネの衒いのないヴォーカル。翔太はしゃくりあげている。創与具はおそるおそる手を伸ばし、翔太の背中をさする。創与具はタバコの箱を差しだす。
 翔太は不器用に一本つまみだして咥える。創与具は銀のジッポーで火をつけてやる(これも髑髏モチーフだ)。翔太は思いきり吸いこんで、赤い顔をしかめて煙を吐きだして、またしゃくりあげる。創与具もタバコを咥えて、翔太の背中をさすりつづける。
 収録時間四十六分のCDが止まったころ、翔太はようやく泣きやむ。ごめんね、と恥ずかしそうにいう。いいよ、と創与具はいう。翔太はきく。
「なんで音楽かけたの」
「いい音楽は人を癒す。たぶん」
「創与具は、おもしろいな」
 創与具はただ頬笑む。「なんかつくってやろうか」
「悪いよ」
「べつに、自分のメシつくるついでだから。玉子でいいよな」
 創与具は卵六個と挽肉と冷凍ミックスベジタブルでオムレツを二人前焼く。つくり置きのおにぎりを解凍し、インスタント味噌汁を淹れる。翔太は感心顔。
「すごいな、料理できるんだ」
 創与具は苦笑する。「こんなの料理のうちに入んねえよ」
「うまそう」
「召しあがれ」
 翔太は箸を上手に使う。かすがまるで残らない。翔太が食べるのを、創与具は箸を止めてじっと見つめる。穏やかなブラウンの目。
 空の皿をまえに、翔太はいう。「おれが洗うよ」
「いいの」
「そのくらいはね」
 翔太は洗剤と水をたっぷり使って洗ってくれる。家事はやり慣れてないようだ。濡れた調理台を一瞥し、だが創与具はお礼だけいう。翔太は得意げに笑う。

 学校の廊下や階段で翔太とすれちがうとき、創与具は必ず肩をぶつけにいく。それが二人のあいさつだ。翔太はいつも一人だった。創与具と同じだ。
 創与具のバイトのない日、翔太は四〇五号室に遊びに来る。プレイステーションをやり、飲み食いし、他愛ない話をする。二人は足を絡めて、一緒に腹筋運動する。BGMはスピッツ《フェイクファー》の四曲目。九十回をまえに創与具がギブアップ。翔太は余裕で運動を続ける。翔太のシャツの裾から板チョコみたいに分割した腹直筋。
「くそ、おれよりムキムキじゃん」
 翔太の腹を、創与具はぺたぺたとさわる。エッチ、とつぶやいて翔太はシャツをさげる。
「何かやってた」
「陸上部で八〇〇メートル走ってた。八〇〇って短距離あつかいなんだ。長いけど、ほぼ全力疾走で。おれ、速かったよ。県大会で四位入賞したことある」
「なんで辞めちゃったの」
「人間関係で、いろいろあって」
 それ以上は翔太は語らない。創与具もあえてきかない。
 異国の平原の写真パネルに、翔太はいう。
「なんか、なつかしいね」
「原風景って題名なんだ」
「げん風景って何」
「えっとね……その人の人生の方向性が決定づいたときの、心に深く焼きついた風景のこと」
「むずかしいね」
「あとは、変わってしまうまえの風景って意味もある」
「変わってしまうまえの風景か」
 翔太は深く感じ入ったようだった。何もしゃべらず、じっと考えこむ顔をしている。創与具はいう。
「富士山に登りたくなったか」
「いや、まだ大丈夫」
 翔太は疲れたように頬笑む。創与具はため息をついて、翔太の髪をくしゃりと撫でる。

 木枯らしがグラウンドの砂を巻きあげている。昼休みの廊下で生徒たちが左右によける。よけられているのは翔太だ。創与具は髪を掻きあげて、目を凝らす。翔太は泣きだしそうにうつむいて、ふるえている。髪も制服も濡れ鼠だ。誰かが笑いながらがいう。
「うわ、来んな。ホモがうつる」
 創与具は近づく。翔太は後ずさる。怯えた目。創与具は翔太の腕をとって、人けの少ないほうへひっぱる。
 創与具は翔太をジャージに着がえさせる。翔太の肩を抱いて、正門まえでタクシーを拾う。翔太は洟をすすっている。創与具も何もいわない。
 四〇五号室で、翔太はシャワーを浴びる。長い行水。創与具は深刻な表情でタバコを喫う。低く縞になる煙。
 創与具のジャージは、翔太には長い。袖と裾を折り返して、翔太は湯気の立つカフェオレをすする。創与具はタバコをねじ消す。
「何があった」
「便所に行ったら、水風船ぶつけられた」
「誰に」
「ほかのクラスのやつ。五人くらい」
「もしかして、おまえの名字ってヒツジっていう」
「そうだよ、日辻ひつじ翔太」
 翔太は顔をあげない。創与具は慎重にいう。
「気に障ったら、ごめんな。翔太は、その、性的指向のことでいじめられたのか」
「知らないの」
 創与具は首をふる。翔太の童顔が皮肉に笑う。
「学校じゅう知ってるかと思ってた。ホモの強姦魔の日辻って」
 創与具は顔色を変えない。強姦魔という言葉は、この童顔の少年に最も似つかわしくない。
「部活を辞めたことと関係ある」
「ほんとに知らないんだ」
 翔太はカフェオレをすすって、遠くを見るような黒い目。異国の平原の空。
「先に断っておくとね、強姦はしてないよ。強姦されそうになったのは、おれだよ」
 創与具は苦しげに顔をゆがめる。翔太はいう。
「一年のころ、遅くまで残って自主練してた。片づけて帰ろうとしたら、なぜか先輩がいて。ちょっと手伝え、って。先輩のいうことって絶対だからさ。部室に行って、そしたら先輩、ドアに鍵かけるんだ。先輩の顔が近いなって思ったら……キスされて。頭まっ白になるだろ。しかも、舌入れてきて、おれのちんこ撫でてくんだ。気味悪くて、突き飛ばした。やめてください、って。先輩、ブチギレて、ビンタしてきて。押し倒されて、脱がされそうになって……。どうにか逃げだしたけど……でも、いま思うと、抵抗しなきゃよかったのかもね。一度ガマンすれば、それですんだのかも」
 翔太は無表情にいう。創与具は怒ったようにいう。
「そんな保証ないぞ。味しめて、また手ぇだしてきたかも」
 翔太は目を潤ませて、口をへの字にする。創与具はいう。
「そいつの名前は」
 翔太は一瞬ためらって、口にする。「轟木とどろき先輩」
「轟木雄介ゆうすけかよ」
「知ってるの」
「同じ桜中だよ。どうしょもないバカだった」
「おれ、忘れようと思った。でも、つぎの週、部活に行ったら、誰もあいさつしてくれないんだ。みんな、おれを遠巻きにしてて。わけわかんなかった。でも、漏れてくる話の断片をきいてたら、先輩、自分がおれに襲われたみたいにいいふらしたみたいだった。おれが人に話すと思って、予防線張ったんだろうね。一度、顧問に事情をきかれたけど。でも、おれ、いえなかった」
「どうしてみんなに訴えなかったんだ、ほんとは逆なんだって」
 翔太は痛みをこらえるように目をとじる。
「おれが、ホモなのは、ほんとうだから。おれが先輩のこと、変な目で見てたからこうなったのかと思ったら、いえなくて」
「変な目で見てたって……」
「フォームがきれいだなとか、筋肉のつきかたがかっこいいなとか。ずっと、こっそり見てた。でも、ばれてたんだろうな。だからだ、きっと」
 翔太はカフェオレを飲みほす。さみしげに笑って、席を立つ。
「大丈夫。もう、ここへは来ないから。安心して。いままで、ありがとう。やさしくしてくれて、すごくうれしかった」
 翔太は背を向ける。創与具は翔太の手首をつかむ。
「それで、おまえはどうすんだよ。また線路に立つのか」
 翔太は答えない。ブラウンの目が潤んで、創与具はきつく瞼をつむる。創与具のしなやかな腕が、翔太の背を掻き抱く。
「おまえが死んだら、いやだ」
 創与具はいう。翔太はただ大きく息をしている。
「絶対に、いやだ。許さない」
 翔太の肩がふるえる。翔太の顔がくしゃりと崩れて、大粒の涙が創与具の手にはぜる。


「アオヤギくんさ、ヒツジとできてるってマジ」
 二年Ⅰ組の教室。クラスのやつがいう。むきだしの下世話な好奇心。
「できてるって、何が。おれは金もらって制作を依頼されただけだよ」
 創与具は完成間近の緑色のワックスを見せる。翼のかたち。そいつはいう。
「一緒にタクシー乗ってたでしょ。どこ行ったの」
「困ってるみたいだったから、家まで送った。それがどうかした」
「そうなんだ。ねえ、どっちがネコなの」
「どっちも人間だよ、バカサワくん」
樺沢かばさわだけど」
「バカでもカバでもいいけどさ、くだらない話でおれの時間むだにしないでくれる」
 創与具はあっちいけのジェスチャー。樺沢はむっとした顔で退散する。
 創与具と翔太は、表面上はいままでどおりだ。学校では他人のふり、部屋では友達。でも、創与具は以前のように気軽に翔太にさわらない。その代わり、翔太を盗み見る瞬間が増えた。逆に翔太は創与具をあまり見ないようにしている。奇妙な緊張感が生じている。
「カッシーニはプルトニウム満載してて、スイングバイに失敗して墜落するとやばいんだよ。空から恐怖の大王が……ってそれだよ、きっと」
 四〇五号室。宵のブラウン管のまえで、翔太はいう。ノストラダムスの予言した七の月を来年にひかえて、テレビ番組はその手のいかがわしいトピックが多い。創与具はワックスを削る手を止めて、チャコールフィルターを嚙んで笑う。
「賭けてもいいけど、墜ちねえよ。ノストラダムスは意味深な詩を書くのがすきな、ただの町医者だって」
「カッシーニが墜ちなくても、きっと何か起きるよ」
 翔太は意固地にいう。婉曲な自殺願望のようでもある。創与具は同情的な目をして、ため息をつく。
「うん、何か起きるかもな」
 翔太の黒い目は小さな子みたいに澄んでいる。
「世界が終わる日、創与具は何がしたい」
「そうだな。ありったけ借金して、クイーンエリザベス号に乗って、ジャグジーに漬かって、マリファナ吸って、ドンペリあけて、美女を十人くらいはべらせて……」
「つまんないな」
「翔太は」
「おれは」翔太は首をふる。「いわない。恥ずかしいから」
「いえよ。ずるいぞ」
 創与具が覗きこむと、翔太は赤らんで目を伏せる。
「すきな人と、ふつうにすごしたい」
「すきな人、いんの」
「いや、いないけど」翔太は目を伏せたまま、小声でいう。「もしいたら、そうやって終わりたい」
「おまえ、かわいいな。乙女か」
「なんだよ、乙女って」
 二人はわちゃわちゃとケンカする。
 環状線で車が雨をはねる音。時計は夜九時を少し回っている。翔太はいう。
「カサ持ってない。貸してくれる」
「泊まってけば。こっから学校いきゃいいじゃん」
 翔太は気おくれしたふう。創与具は煙を吐きつつ笑う。
「うまい朝食つくってやるよ」
 翔太は途惑いがちにうなずく。
 翔太にベッドをゆずってやって、創与具は床でシュラフにもぐる。翔太は申し訳なさげにする。
「おれが寝袋でいいよ」
「いいから、いいから。おやすみ」
 創与具は長い紐をひっぱって、電気を消す。

 雨の音。何度かカミナリが鳴る。環状線沿いの天井に、ヘッドライトがうすぼんやりと映っては流れる。この部屋は夜でも街明かりのために視界がきく。創与具は覚めている。翔太は寝息を立てている。
 創与具はシュラフを抜けだす。ベッドのそばに佇む。翔太の寝顔は小学生のようだ。創与具は頭をふって、ダイニングへ行く。髑髏のジッポーで、タバコに火をつける。深く吸うと、先端の橙の火が強くなる。成形途中の緑色のワックス。翼のかたちのそれは、ほぼ完成に近い。けれど、創与具の目は光なく沈んでいる。
 ベッドからうめき声。創与具はタバコを灰皿ににじって、翔太の肩をゆする。翔太はがばりと起きあがる。
「……ああ、こわかった。金縛りにあって、ずっと呼んでたんだ。創与具ぅー、って」
「大丈夫か」
「この部屋、事故物件じゃないよね」
「叔父さんからは何もきいてないけど」
 翔太は二の腕をさする。「あー、もう、寝るのこわいよー」
「一緒に寝てやろうか」
 創与具は冗談っぽくいう。翔太は黙ってベッドの片側へ寄る。創与具はまばたきして、だがブランケットへもぐりこむ。
 狭いシングルベッド。創与具は翔太の首に腕を回してひっつく。とたんに創与具がバカ笑いする。翔太は腰をひく。
「あの、朝勃ちみたいなもんだから、あんまり気にしないで」
 創与具はそっぽを見やる。つめたい夜気。やまない雨の音。ぼんやりと差すヘッドライト。創与具はいう。
「翔太はさ、なんでホモんなったの」
 途惑ったふうなまがある。「なんでっていわれても」
「きっかけとかなかったの」
「気がついたら、そうだったんだよ。創与具だって、べつにきっかけなんかなくても、女がすきだろ」
 創与具はつかのま考えこんだらしい。「まあ、気がついたら女がすきだな」
「それと同じで、おれの場合は男が気になるだけだよ」
「翔太の目から見て、おれってどう」
 一瞬の沈黙。「ノーコメント」
 雨の音。ヘッドライト。創与具は翔太のTシャツをたくしあげる。翔太は身じろぎする。
「何」
「ちょっと脱いで」
「なんで」
「いいから脱いで。おれも脱ぐから」
 創与具はブランケットを蹴飛ばして、ためらいなく脱ぐ。Tシャツも、スウェットパンツも、トランクスも。翔太は啞然と凝視している。枕辺の間接照明に創与具はタッチする。梔子色の仄明かりに、創与具の豹のような裸身が浮かびあがる。創与具は髪を掻きあげる。
「どう」
 翔太は夢見ごこちの目をする。さっと創与具の局部を一瞥し、耳まで赤らんで顔を背ける。創与具は翔太のシャツをひっぱる。
「脱いで」
 創与具は強引にシャツを翔太の頭から抜く。翔太の発達した大胸筋と、小さな乳首。翔太はいう。
「レースのスタートまえよりどきどきしてる」
 創与具は翔太の左胸を押さえる。「ほんとだ」
「指輪、つけたまま寝るんだね」
「気になる」
「べつに」
 創与具はそのままさわる。翔太の割れた腹筋と、下腹部の茂み。創与具はパンツに手を入れる。翔太の息がはねる。でも、声はださない。
 創与具は翔太を背中から抱いて、ペニスを緩慢に愛撫する。翔太は目をつむって、深い息。創与具は翔太の首筋を嗅いで、べろりと舐める。翔太は身ぶるいする。
「かわいい匂いすんな、おまえ」
「創与具は」
「うん?」
「エッチしたことあんの」
「一度だけな」
「どこまで」
「最後まで」
「そうなんだ」
「ききたい」
「ききたくない」
「妬いてんの」
「創与具はホモじゃないんでしょ」
「ないと思ってたんだけど」
 翔太のむきだしの尻に、創与具は怒張したペニスを押しつける。
「よくわかんねえわ」
 翔太を愛撫しながら、創与具はささやく。
「女つれこむなって叔父さんにいわれてんだけどさ」
 亀頭を押し潰されて、翔太は鼻音で鳴く。
「男つれこむなとはいわれてないしな」
 創与具は翔太の反応をうかがって、強く刺激し、ゆるゆるとじらす。創与具の手は翔太の液でぬるつき、シーツにしみができる。
「翔太は誰かとエッチしたことある」
「ない」
「おまえが三千円でしゃぶってくれるってクラスのバカがうわさしてた。誰かのさわったことは」
「できないよ。とにかくバレちゃいけないって、それだけで。キスだって轟木先輩にされたのが初めてで。だから、びっくりして……」
 翔太の声は泣きそうにきこえる。創与具は笑う。
「おれが初めてなんだ」
 創与具はどろどろの右手で翔太の尻にふれ、指を肛門に突き入れる。翔太は身をよじる。
「痛い。いやだ」
 創与具は荒い鼻呼吸をしながら、指を小さく浅く動かす。翔太は身をこわばらせて、息を飲みこむ。創与具は左手で翔太の頭をかかえてキスする。翔太の苦しげな息づかい。創与具はやさしく、慰めるようにする。翔太の体から力が抜けていく。
 創与具は翔太の足からパンツを抜く。翔太は両腕で顔を隠す。薄肉色の肌がしっとりと汗ばんでいる。創与具は足首をつかんで、股をひらかせ、翔太の肛門を探る。睾丸の裏側をぐりぐりと押すと、翔太の腰がかすかにゆれる。創与具はそこを重点的に、奥までいじる。指がふやけるほど執拗に。創与具の横顔は泥遊びする幼児のように熱心だ。指を増やして、減らして、また増やす。
 カーテンの隙間がうっすらと明かるんでくる。翔太の半びらきの唇、ぬるいゼリーのようにとろんとした目。三本指で肛門を突くと、腰をゆすって、かすれた声をあげる。指にまとわりつく庚申薔薇色の粘膜。翔太の反りかえったペニスからチーズみたいに濃い液が糸をひいている。創与具の喉が鳴って、喉仏が動く。創与具は正常位でペニスを肛門にあてがって、体重をかけて押しひらく。翔太は悲鳴をあげ、手を突っぱる。
「いたい、むり、しんじゃう」
 創与具は容赦なく貫いて、翔太の足をかかえる。自身を呑みこんだ部分を、食い入るように観察する。
「見て。おれのかたちんなってる」
 翔太はそこを見やって、信じられないという表情をする。翔太の泣き顔にキスして、創与具はあやすように動く。翔太は眉根を寄せて、苦しげに鳴く。創与具は腰を使いながら、翔太のペニスをしごく。翔太の尻がゆれて、悲鳴が甘くなる。創与具は荒い息をして、うっすらと笑う。
「……たまんねえ」
 シーツを掻く翔太の両手を、創与具はみずからの首にかける。翔太はしがみつく。せつない喘ぎ、ぬかるんだ粘膜と、ベッドの軋み。本格的な朝までは、まだ猶予がある。

 登校時間はとっくにすぎた。すっかり日が高くなって、だが二人はまだまぐわっている。創与具も翔太も、汗と精液まみれだ。四つん這いの翔太の尻に、創与具は無我夢中で腰を打ちつける。翔太はすすんで足をひらき、尻を差しだして、低い甘い声を漏らす。最初の途惑いやぎこちなさは、どこかへ行っている。童顔が苦悶と恍惚の境界線上でよだれを垂らす。
 まえぶれなく翔太が暴発する。あふれる精液。腰砕けになる翔太の尻を、創与具は無理やり持ちあげ、スパートのように激しく突く。翔太の声が高くなる。翔太のペニスの先で精液がぷらぷらとゆれる。創与具がうめいて、のけぞる。翔太の尻の奥へそそぎこんで、創与具は体を離す。翔太のひらききった肛門から、どろりと白いものがこぼれ、シーツを汚す。翔太は横倒しになって、ぐったりと脱力する。二人のはずんだ息の音。相変わらずの車の走行音。狭いシングルベッドで、創与具は天井を見る。翔太がうつろにつぶやく。
「おれ、ほんとにホモんなっちゃった」
 創与具は気まずげな面持ちになる。それについて創与具はコメントしない。ただ乱れ髪を掻きあげて、ため息をつく。翔太はいう。
「腹へった」
「おれも」
「朝食、つくってくれるっていった」
 もう正午近い。創与具はベッドから身を起こす。
「シャワー浴びようよ」
「先に浴びてきて」
 翔太はそっけなくいって、背中を向ける。創与具はせつない目をして、そばを離れる。浴室のドアの音。
 翔太はけだるげに身を起こし、ティッシュで肛門を押さえる。創与具の濃い精液に、わずかに混じった血のピンク。翔太は顔をしかめて、ティッシュを丸めて投げる。それはごみ箱に吸いこまれる。
 玄関のドアが鳴る。翔太ははっと顔をあげる。男の声。
「イカくせえな。なんだ、創与具、いんのか」
 翔太はとっさにブランケットを腰に巻きつける。玄関から現れたのは不惑前後か、日に焼けた本棚のようにガタイのいい男だ。駱駝色のトレンチコート、たずさえたスーツケースに多数のステッカー。男は奥の部屋へやってきて、乱れたベッドと翔太を認め、不審顔になる。
「誰」
 翔太は頬を紅潮させ、泣きそうな目。浴室からどたばたと創与具が駆けてくる。トランクス一丁だ。男は創与具に怒鳴る。
「おまえなあっ、女つれこむなっていったろ」
「男つれこむなとはきいてない」
「ラブホにすんなって意味だよ。バカか、おめえは」
 男は創与具の頭をはたく。どうやら創与具の叔父らしい。叔父は手であたりをあおぐ。
「ああ、くせえ。おれは三ヶ月ぶりにミネソタから帰ってきて、時差ぼけでくたくたなんだよ。なのに、なんだ、このざまは。これじゃ眠れねえじゃねえか」
「すいません」
 翔太がいう。叔父は苦笑する。
「カノジョさ、シャワー浴びといでよ。どうせこのバカがいいこといって、たらしこんだんだろ」
 翔太はうつむいて、ブランケットを巻いたまま浴室へ急ぐ。

 洗濯機でシーツが回り、全開の窓から冬の風が吹きこむ。創与具は米を炊き、三人ぶんのサラダとハンバーグをつくって供する。叔父はコートのまま、サニーレタスをもそもそと食む。
「おめえらも若いしよ、そういう気分になることはあるだろうよ。ただ、おれのベッドですんなって話だよ。ちゃんとしかるべき場所へ行ってだな」
「ラブホに行けと。はいれんの、男同士で」
「ホモでもレズでも、客は客だろ。むこうも選り好みしねえよ」
 創与具と翔太は顔を見あわせる。叔父はハンバーグを頬ばる。
「キンゼイ報告書って調査結果が昔あってな、それによるとノンケのやつでも、異性と恋愛するまでの一時期にホモとかレズになることがあるんだってな。おまえらもそういう感じだべ」
 翔太は暗い目でうつむく。創与具は察して、だが何もいえない。叔父は目をつむって、山盛りの白米を嚙みしめる。
「やっぱ米はサイコーだな。日本人でよかった」

 四〇五号室。乾燥棚に白黒の印画紙が数十枚。ほのかに溶液の酸っぱい匂い。叔父はいう。
「三百枚撮っても、使えるのはこんだけだ。下手な鉄砲も……ってやつ。まだまだ半人前だ。一生修行だよ」
 創与具は覗きこむ。印画紙の一枚、バンダナの少年が強い目で睨んでいる。ネイティヴアメリカンの血を引く彼の長髪は黒く、目は切れ長で暗い。
「初めは警戒されたけど、大隈の友達だっていったら、受け入れてくれたよ。あいつはインディアンネームまで持ってるからな」
 ある大全紙のショットに、創与具は見入る。山岳の空を滑空するハクトウワシ。美しい風切羽。
「気に入ったか」
「だめだ」
「あ?」
「あ、いや、すごくいい写真だよ。ただ、おれが描いたデザインが、だめな気がしてきて」
「描き直しゃいいじゃねえか」
「もうワックス削っちゃった。でも、デザインからやりなおす。翔太にあげる約束なんだ」
 叔父はにやりとした。「そっか、カノジョにな。まあ、ダチは大事にしろよ」
「わかってる」
 創与具は写真を睨む。ミネソタの澄みきった空に、神々しい両翼。

 ありふれた住宅街の戸建て、青柳という表札。創与具は無言で玄関へあがり、階段をのぼる。
 二階のドアから若い男が出てくる。大学生だろうか。容姿は創与具に似ているが、髪は短い。おそらく創与具の兄だ。狭い廊下で行き会って、創与具の頬が緊張する。兄はあざけった笑みを浮かべる。創与具は黙って兄の横をすり抜ける。兄はいう。
「よお、女とやったか」
 創与具は何も反応せず、部屋のドアをしめる。
 創与具は学習机について、翼のかたちの原型マスターを手にする。顔をしかめて、それをまっぷたつにへし折る。そして、デッサン帖をひらき、新しいスケッチを描きだす。

 朝。工業高校の実習室。カーキの作業着に、白いハイカットの安全靴の創与具。新しく削りだした原型マスターの最終点検をする。それは両翼をひろげた鷲のかたちだ。可能なかぎり慎重に、埃をブラシで取り除き、傷をワックスペンで修復する。鋳造後の仕上げ時間の短縮と、シルバーのコスト削減になる。
 ワックスペンで鷲に棒ワックスをつける。この棒ワックスが支えとなり、またシルバーの湯道になる。電子秤でワックス全体の重さを計って、筆算で必要な銀の量を算出する。ワックスが三一.五グラム。スターリングシルバーの比重が一〇.五グラム。31.5×10.5=330.75。だから気持ち多めに見積もって、三三三グラムでいい。鷲と棒ワックスをゴム台にセットし、ステンレス製のフラスコをかぶせる。
 料理のようにボウルで石膏の粉を溶く。とろみのついた石膏をフラスコに注ぐ。真空脱泡機にかけて、気泡を抜く。固まるまで数時間。
 放課後。石膏の詰まったフラスコを、創与具は電気炉で焼く。石膏は陶器のように固まり、ワックスは溶けだし、空洞ができる。鋳型の完成だ。
 鋳型を溶解炉キュポラにセットし、つるぼにシルバーの地金を入れる。マイクロ波によってシルバーは一〇〇〇℃に溶ける。タイミングを見計らって、創与具はレバーをてまえに引く。るつぼで溶けたシルバーが、鋳型に流れこむ。
 一分後、鋳型を水につける。じゅっと水が焼け、急激な温度変化で石膏が砕ける。
 シルバーが冷えたら、へらとブラシで石膏のかすを除く。ニッパーで湯道を切り離す。焼けた黒い鷲。あとは酸洗い液につけて、研磨するばかりだ。
 創与具は満足げに頬笑んで、片づけを始める。

「どうすか、大隈さん」
 銀職人のアトリエ。磨きあげられた銀の鷲を手に、大隈は顎ひげを掻く。
「そうやな。これなら買うてやってもええぞ。一万でどうや」
 創与具は目を輝かせて、拳を軽く握る。
「ありがたいっすけど、これ友達にあげるやつなんす」
 大隈は頬笑む。「なるほど。ようやく受け手を意識したちゅうわけか。芸術アートちゅうのは、相手に届いてなんぼやけな」
 鷲を受けとって、創与具も頬笑む。「はい」
 PURE HYBRIDというネオンサインが消えないうちに、創与具は雑居ビルの階段をおり、駅方面へ急ぐ。横浜駅前の青いイルミネーション。サンタクロース姿の呼びこみ。創与具は髪を掻きあげて、コートの群れに目を凝らす。そわそわと腕時計をたしかめる。時刻はまもなく午後九時だ。
 道を挟んで翔太が佇んでいるのに、創与具は気づく。マスクをした翔太は、近寄ってこない。翔太は携帯電話を取りだし、コールする。創与具のポケットでPHSが鳴る。創与具は応答する。
「メリークリスマス」
『どこへ行くの』
「二人きりになれるところ」
『案内してよ』
 二人は通話したまま歩きだす。創与具の十数メートルうしろを翔太がける。
『探偵になった気分』
「話したいことがあるんだ」
『うん、おれも』
 三ヶ月まえに開業したばかりの高級シティホテルの階段を、創与具はあがる。翔太は気おくれして立ちどまる。
『ここなの?』
「ツリーのまえで待ってるよ」
 吹き抜けの天井のほとんどを覆うシャンデリア、大理石の太い柱と、のっぽの正統派のクリスマスツリー。創与具は手をふる。翔太は駆け寄り、マスクをずらす。
「まさか泊まるの」
「二週間まえに予約した」
「マジで。すげえ」
 翔太はおかしくてたまらないって顔。創与具は苦笑する。
「グレードは最低だけどな。ディナーもないし」
「何もいらない」
 翔太は首をふる。創与具は頬笑む。
 明るい柩のようなエレベーター。創与具はセンサーにカードキーをかざし、階数ボタンを押す。翔太は寄り添って、頭を創与具の肩に乗せる。
「……会いたかった」
 創与具はせつない目で翔太の髪を梳く。

 ドアがしまる。部屋はスタンダードツイン。九階からの駅前の景色はたいしたことがない。創与具はブラインドをおろす。片方のベッドに腰かけ、コートのまま創与具と翔太は抱きあう。二人は目をとじて、おたがいの気配や量感をたしかめる。創与具はいう。
「このあいだ、ごめんな。無理やりみたいに」
 目をとじたまま、翔太はいう。「恥ずかしいし、痛いし、中出ししてくるし」
「ごめん」
「でも、うれしかった。創与具がどういうつもりか、正直わかんないよ。創与具の叔父さんがいってたように、創与具にとっちゃ女に行くまえの予行演習みたいなもんかもしれない。でも、気にしないことにした。遊びでも気の迷いでもいいよ。今だけでいいから」
 創与具は翔太の肩を押しやって、コートのポケットを探る。茶色の袋を翔太に渡す。翔太はそっとテープを剝がす。滑りでたのは、銀の鷲。太いシルバーチェーンつきだ。間接照明の卵色の光が、流麗な翼に照り映える。翔太は魅了される。創与具はいう。
「それつくりながら、ずっと考えてた。おれ、男すきになるの、初めてじゃなかった。当時は自覚はなかったけど、友達すきすぎて距離感おかしくして、きらわれたりしてた。たぶん、おれにとっては、相手の性別ってそこまで重要じゃないんだ。だから、きっと、翔太と一緒」
 翔太の目に卵色の光が澄んでいる。創与具はいう。
「おれもレイプされたことあんのね。相手は女だったけど。受験生だったとき、勉強してるのに、隣の部屋で兄貴が女とやってて。あんまり遠慮がないから、文句いいにいったんだ。そしたら、あいつら、二人がかりで押さえつけてきて、それで……」
 創与具は弱々しく笑う。翔太の目が潤む。
「それから兄貴とは口きいてないよ。だから、翔太の気持ちが、わかる気がしたんだ。おまえに何かしてやれるんじゃないかって。思い余って、また距離感まちがえたかもしれない。でも、おれは、おまえと寝たのは後悔してない。……いや、ちがうな。なんていやいいのか……」
 創与具はいらいらと髪を掻きむしる。翔太は急かさず、言葉の続きを待っている。
「おまえと寝てみて、初めて素の自分になれた気がした。おまえといるのは、おれにとって一番いいことだと思った。それで、つまり……」
 創与具は息をついて、翔太の目を覗く。
「だから、おれのそばにいてくれませんか」
 翔太は息を大きく吸う。胸がふくらんで、ゆっくりとしぼむ。創与具はいう。
「死なないでくれる」
 うん、と翔太はうなずく。創与具は顔じゅうをほころばせる。翔太は余分な涙をぬぐって、鷲へうつむく。創与具は鷲のチェーンのフックをはずす。腕を回して翔太の首につけて、そのままキスする。翔太は目を伏せる。
「ごめん。おれ、プレゼント用意してない」
「何もいらない」
 創与具は翔太の髪を梳いて、またキスする。しばし舌と唾液をしっとりと絡める。翔太はいう。
「ホテル代は半分だすね」
 創与具が笑い声を立てる。二人はくすぐられたように笑いあって、ベッドへ倒れこむ。

 ブラインドの隙から冬の朝日が淡く差す。片方のシングルベッドに裸の二人が寝息を立てる。創与具が翔太を背中から抱いて、相似形に寄り添う。夜の激しさを物語るようにシーツが垂れさがっている。
 翔太が身じろぎして、目をこする。その動きで、創与具も気がつく。創与具は相棒を表返して、キスを浴びせる。翔太は寝ぼけつつ応える。緩慢な口づけに、だんだんと熱が入る。二人は息を乱して、見つめあう。創与具はいう。
「風呂いこっか」
 ぬるいシャワー。バスルームの鏡に、翔太は中腰で手をつく。創与具は翔太の腰骨をつかんで、ゆうべさんざん掻き回したところに、重たくなったペニスを沈める。翔太はせつない声をあげ、ねだるように腰をくねらせる。受け容れる行為にすっかり慣らされて、快楽に貪欲になっている。創与具は快感に溺れつつも、どこか冷静に相棒を観察する。翔太の顎をつかんで、耳にささやく。
「見て。おまえ、すげえやらしくて色っぽい」
 翔太は鏡を見る。ペニスを臍まで反り返らせて、乳首を尖らせて、淫蕩な顔をした自分自身。胸もとの銀の鷲ばかりが正気だ。翔太は泣きそうな目で、うつむく。創与具は耳を食む。
「すんげえかわいい。もっとエッチな声だして」
 銀の鷲がリズミカルにゆれて、翔太は甘い悲鳴をあげる。庚申薔薇色の亀頭が蜜を滴らせて、内腿がふるえる。
 二人は番ったまま、慎重に座りこむ。創与具はシャワーを翔太の股間に当てる。翔太は魚のようにびくびくと反応する。創与具はささやく。
「中、とろとろで、きゅんきゅんしてる。最高」
 翔太はすすりあげるように鳴いて、白目を剝いて達する。みずからの体を汚して、ぐったりと創与具の胸にもたれる。余韻に震える相棒を、創与具は組み敷いて、唇を奪う。鎖骨を滑った銀の鷲が、床で音を立てる。翔太のとじられた目から、涙が伝う。創与具はそれを舐めとる。
「おれのだ」
 創与具は翔太を激しくゆさぶる。翔太は両手両足で創与具にしがみついて、うわごとのように相棒の名前を呼ぶ。シャワーの湯が無駄に流れる。

「こんどのとき、このホテルにどんな顔して来ればいいんだろうね。あのベッド」
 一階へのエレベーターのなか。翔太の質問に、創与具はにやりとする。
「忘れたころに行きゃいいさ」
 二人は顔を見あわせて、同時に噴きだす。
 一階でドアがあく。エレベーターホールに、顔の似た四人の男女。おそらく夫婦と、娘と息子。創与具と翔太は表情筋をこわばらせる。一家の息子、樺沢が二人を認めて、にやりと笑う。
「ねえ、どっちがネコなの」


 新年明けの教室。創与具は席でデッサン帖にラフスケッチを描いている。教室の戸口で、騒々しい笑い声。数人に小突かれ、ひったてられて、翔太がやってくる。翔太は半べそだ。やつらが創与具を囲む。樺沢がいう。
「アホヤギくんさ、ヒツジがききたいことがあるんだって」
 翔太は創与具のまえへ押しだされる。翔太の唇はふるえている。
「お、おれは……ホモだけど、創与具は、ちがうよね。そ、創与具は、おれに同情しっ……してくれただけだもんね」
 創与具は言葉を失う。イエスといえば、翔太を傷つける。ノーといえば、翔太への同性愛感情を認めることになる。黙っても、はぐらかしても、ノーと同じことだ。
「そうでしょ。ただの同情でしょ。おれなんか、す、すきなわけ、ないよね」
 翔太はふるえながら、こわい目をする。イエスといえと言外に迫っている。そうすれば、少なくとも創与具は対象外になる。
 創与具の唇がひらきかけて、だが何もいわずにとじる。創与具の顔が、苦しげにゆがむ。翔太の黒い目から、とうとう涙があふれだす。
 ひゅーひゅーと樺沢たちは囃したて、翔太を創与具へ押しやる。翔太を抱きとめて、創与具は椅子ごと倒れる。樺沢は木工用セメダインのボトルをひっくり返す。白い接着剤が、どろりと創与具と翔太の頭に垂れる。デッサン帖のラフスケッチにも。

「切らなきゃだめだな、こりゃ」
 校舎一階の手洗い場。創与具は長髪にこびりついた接着剤をぱりぱりと砕く。ごめん、と翔太はいう。十何回目かの謝罪だ。翔太の髪にも接着剤が残っている。創与具は寒さにふるえつつ髪の雫を絞る。
「おれ、昔からさ、おまえは変だっていわれてきたの。おれはただ青紫のランドセル背負いたいだけで、べつに誰かに迷惑かけたわけじゃないのに、それだけで頭おかしいみたいにいわれんの。親からも先生からも、ふつうにしなさいっていわれて。でも、おれからすると、ふつうって何って感じでさ。よくわかんねえけど、ふつうにしなきゃなんねえ。で、ふつうのふりすんだけど、やっぱり変だっていわれる。でも、おれからすると、ふつうのやつらのほうが変なんだよ。バカで、下品で、強欲で、底意地悪くて。あんなのがふつうなら、ふつうなんか願いさげだよ。もう無理。ふつうのふりすんの、疲れた。なんかもう、おれが富士山のぼりたい」
 創与具はつめたいPタイルにへたりこむ。翔太も目線を合わせてしゃがむ。
「だって、創与具は、ふつうじゃないもの。最初から、わかったよ。創与具は、誰ともちがうって。線路まで、おれを助けに来てくれたときから」
 創与具は相棒を見つめかえす。黒い目に、ブラウンの目に、理解の光。合わせ鏡のように無限に照らしあって、どこまでも届く。翔太はいう。
「だから、もう、ふつうのふりなんてしなくていいよ。一緒に富士山に登ろう」
 翔太の肩に、創与具は額を乗せる。創与具は、静かに泣く。翔太は創与具をかかえて、背中をさする。いつかの夜、創与具にそうしてもらったように。

 朝、冬晴れのブルー。富士山の五合目まではバスで行ける。標高一四〇〇メートルの御殿場ルートの入口から、創与具と翔太は緩やかな雪の傾斜を登りだす。踏みしめるたび、雪が不満げに鳴く。ニット帽の創与具は山の装備だが、翔太はダウンジャケットの下に厚着しているだけだ。翔太の足どりは速い。創与具はいう。
「ゆっくり登らないと、高山病になるかも」
「どうせ死ぬのに」
 翔太は無表情につぶやく。創与具は手を差しのべる。
「最期なんだから、楽しくしようよ」
 翔太は表情を変えず、手をとる。御殿場ルートは中上級者向けだ。もともと登山者が少なく、もちろんシーズンオフの冬はいわんやだ。二人は人目を気にせず、手をつないで、ゆっくりと歩を進める。眼下は白銀の裾野。
 ひたすら緩やかな大傾斜。数メートル先を淡い雲が漂う。創与具は苦しげな息をする。翔太も呼吸が早い。翔太はいう。
「頭いたくなってきた」
「ほら、いったじゃん」
「だから、自転車選手は高山トレーニングするんだな。肺活量があがるから」
 山の天気は変わりやすい。だんだんと風がでてくる。地吹雪のなか、創与具と翔太は目もろくにあけられない。創与具が笑いながら叫ぶ。
「顔がさみい」
「笑いごとかよ」
「笑うしかねえだろ、こんなときは」
「くそ、富士山なめてた」
 翔太もやけくそのように笑う。
 やがて二人は無口になる。相変わらずの地吹雪と、薄くなる酸素。二人はぼそぼそとカロリーメイトをかじる。無心に足を上へ運ぶ。
 標高三〇〇〇メートルの七合目で、ようやく丸太小屋が見える。二人は示しあわせるでもなく、そこを目指す。
 ドアをしめると、創与具と翔太は同時に深いため息をつく。そのシンクロ具合に、二人は静かに笑う。創与具はニット帽を脱いで、短く刈った髪をざらりと撫でる。
「慣れねえな、髪ないの」
 翔太は両手で創与具の頬を挟んで、ついばむようにキスする。
「まえは五ェ門みたいでかっこよかったけど、今もルパンみたいでかっこいいよ」
 創与具はにやりとして、キスしかえす。
 避難小屋には電気もガスもない。創与具はザックから道具をだす。水と、ガスコンロと、鍋と、チキンラーメン四袋。創与具はいう。
「最後の晩餐だ」
「まだ昼だけどね」
「死ぬのは日没後でいいよな」
「凍死ってどのくらいかかるの」
「さあな。体温が三三℃を切ると物事に正常に反応できなくなる。三〇℃を切ると精神錯乱状態になって、幻覚を見る。二五℃を切ったら昏睡に陥って、死ぬ」
「なんか、ぜんぜん楽そうに思えないな」
「八甲田山の進軍を思いだすよな」
「天は、天はわれらを見放した」
 二人は笑う。ラーメンが煮える。二人は鍋からじかに回し食いする。
 食後のコーヒーはブラックだ。翔太は少し残す。創与具が残りを飲む。創与具はステンレスのカップを置いて、翔太の髪を梳く。それが誘いの合図だ。翔太はいう。
「遺書って書いた」
「いや、書いてない」
「おれは書いたよ、家族みんなにそれぞれ」
「翔太は家族と仲がいいんだな」
 創与具はさみしげに笑う。翔太は悲しい目をして、創与具を抱擁する。創与具はいう。
「自殺したら、地獄に落ちるかな。自分自身に対する殺人だろ。おれらの場合は、ツレまでいるし」
「創与具がいれば、地獄でもいいよ、おれは」
 二人は目を見交わす。顔をかしげあって、たがいを慰撫するようなキスをする。
 二人は凍えながら服を脱いで、ひらいたシュラフに横たわる。翔太は銀の鷲を握る。
「地獄に持っていけたらな」
「あっちでまたつくってやるよ」
 翔太は泣きそうに頬笑む。創与具はキスをくりかえして、翔太に覆いかぶさる。

 日没。創与具と翔太は服を着て、夜の雪原へでる。二人は雪に転がり、身を寄せあう。創与具が叫ぶ。
「星が見えすぎて気持ち悪い」
 冬の星がおそろしい密度で迫ってくる。暴力的なほどぎらぎらとまたたく。翔太はいう。
「すごいね、冥途の土産だね」
「冥途の土産に教えてやろう、って時代劇の悪代官がよくいってない」
「いってる、いってる」
「おれ、時代劇すきだよ。勧善懲悪だから」
 二人は他愛ないおしゃべりを続ける。マイナス十八℃。風のぶん、体感温度はもっと低い。そうでもしないと気が変になりそうな寒さだ。翔太はふるえ声でいう。
「寒すぎて眠くならない」
「おれも」
「ねえ、かまくらつくらない」
「ええ? それじゃ死ねないだろ」
「だって寒い」
「おれも寒いよ」
「寒すぎて頭いたい」
「だったら小屋に戻ったほうが」
「それじゃ死ねない」
「かまくらつくるエネルギーが無駄じゃん」
「どうせ死ぬし」
 翔太は起きあがって、かまくらの土台をこしらえはじめる。創与具はしぶしぶのていで手伝う。三十センチほどの壁を築いたところで、翔太がじれくそのように雪の塊を叩きつける。
「手が動かない。痛いよう。死んじゃう」
 べそをかく相棒の肩を抱いて、創与具は小屋へ戻る。
 ガスコンロの青い炎に、二人は手をかざす。洟をすすって、翔太がいう。
「ごめんね」
「いいよ。凍死は向いてなかったんだ」
 創与具は翔太の肩をさする。翔太は創与具にもたれかかる。

 東の空が白んでくる。二人は小屋をでる。眼下に、雲海が絶え間なく波立つ。朝日が咲き誇った瞬間、雲はほんものの黄金色に塗り変わる。翔太は息を飲む。
「すごいね、これならあの世に持ってけるね」
 創与具は、うなずく。二人は同じほうを向いて、一対の彫像のようだ。雲は秒ごとに色を変えてゆく。翔太がいう。
「おれ、生きたい」
 創与具ははじかれたように相棒を見る。翔太の横顔は、光を浴びて神々しい。創与具は洟をすすって、手を差しのべる。
「せっかくだから、登頂するか」
 うん、と翔太は手をとる。
 二人が頂上に着くころには、雲は晴れている。裾野の白銀の森から渡る風。翔太はバンザイのように両手をあげる。創与具も両手をあげて、翔太とハイタッチする。
 下山道をとぼとぼ行きながら、翔太がいう。
「なんか、寒い思いしてエッチしに行っただけだったね」
 創与具は噴きだす。「ちげえねえ」

 三年はち組の教室まえ。土木建築科のガタイのいい連中がたむろしている。金髪のイガグリ頭、轟木という刺繍の作業着。かたわらに樺沢の姿がある。二人は親しげに口をきく。轟木は樺沢を肘で小突く。
 創与具が廊下の奥からやってきて、連中のまえで佇む。樺沢が不審げに見やる。轟木がにやにやという。
「バカガイじゃん。なんか用」
「あんたが日辻翔太にしたこと、知ってますよ」
 創与具はいう。一瞬、相手の目に走る怯え。あゞ? と轟木はすごむ。樺沢はわけがわかってない顔。
「卑怯もん」
 猫の機敏さで創与具は拳を叩きこむ。中途半端な髑髏の指輪が、轟木の鼻を潰す。華々しい鼻血。きき苦しい悲鳴をあげ、轟木はPタイルを転げる。樺沢と仲間たちがいきりたつ。
 創与具はネコ科の獣のように階段を駆けおりる。わあわあと樺沢たちが追う。
 創与具は実習室へ入り、窓を叩きあけ、足をサッシにかける。樺沢が創与具の襟をつかむ。創与具は床へ落ちる。仲間たちが追いついて、創与具を寄ってたかって蹴る。創与具は丸まって頭と腹を守る。
「動くな。爆弾だよ」
 紙袋をさげて、翔太が叫ぶ。樺沢たちは動きを止めるものの、にやついている。本気にしていない。
 翔太は携帯電話でコールする。その瞬間、校庭で圧力鍋が炸裂する。凄まじい爆音、小さな火の手と、もうもうたる白煙。校舎じゅうの教室の窓がいっせいにあき、生徒らの顔が鈴なりになる。
 静まりかえる実習室。樺沢たちは呆然としている。翔太は紙袋を胸にかかえて、携帯電話を耳に当てる。
「はい、おれらと心中したいやつは、一緒にカウントダウンして。十、九、八、七……」
 やつらは先を争って出口へ殺到する。押しあい圧しあいながら、廊下を逃げていく。
「……四、三」
 翔太はカウントダウンをやめ、携帯電話をしまう。創与具は紙袋を覗きこむ。中身は、創与具の白い安全靴だ。二人は顔を見あわせ、くっくっと笑いだす。大笑いになり、背中を叩きあう。二人の目は涙でいっぱいだ。
 警察車両のサイレンがきこえだす。誰かが通報したのかもしれない。教師らが実習室に駆けつける。創与具と翔太は手をつないで、教師らと対峙する。

 水色のラジカセからスピッツ《ハチミツ》の曲が流れている。電車の走行音。横須賀線沿いのアパートの部屋は1K。大きな写真パネルが飾ってある。かつて四〇五号室にあった、原風景という題名の風景写真。青い羽根の扇風機が首を振って、生成りのカーテンが帆のようにふくらむ。畳のうえで鈍く光る銀の鷲。そのチェーンを握って、ハーフパンツの翔太は畳でまどろんでいる。小学生のような寝顔。
 玄関の錠が鳴って、ドアがひらく。短いポニーテールに柄シャツの創与具は、韮入りのレジ袋をさげている。それを調理台に置き、創与具は大の字の相棒を見おろす。しょうがないなというふうな顔つきで、タオルケットを腹にかけてやる。
 翔太が起きあがって、目をこする。翔太はぼんやりと頬笑む。
「おかえり」
「遅番か」
「いや、きょうは中止になった。創与具は」
「きょうも十時すぎだよ。特注品の納期が近いから」
「そっか、残念」
「夕飯、つくっといてくれてもいいんだぞ」
「まずくても文句いわないならね」
 二人は笑う。扇風機が首を振る。カーテンがふくらむ。
 昼のブラウン管。ワイドショーのネタは、二〇〇〇年問題についてだ。キャスターは大げさなほど深刻な表情でフリップをまくる。創与具と翔太はちゃぶ台で韮チャーハンを頬ばる。創与具は苦笑する。
「ノストラダムスが終わったと思ったら、またこれだもんな」
 翔太が真顔でいう。「ねえ、ほんとに核ミサイルが誤発射されたらどうする」
「されねえって」
「でも、いいんだ、いつ世界が終わっても」
「なんで」
 翔太は頬笑んで、胸の銀の鷲を押さえる。「だって、創与具が一緒だから。こわくない」
 創与具は泣きそうに笑って、相棒の髪をくしゃりと撫でる。どちらともなく二人は顔を寄せあう。カーテンがふくらんで、恋人たちの横顔を隠す。
 かすかに風に警報機の音が混じる。
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アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

ダメリーマンにダメにされちゃう高校生

タタミ
BL
高校3年生の古賀栄智は、同じシェアハウスに住む会社員・宮城旭に恋している。 ギャンブル好きで特定の恋人を作らないダメ男の旭に、栄智は実らない想いを募らせていくが── ダメリーマンにダメにされる男子高校生の話。

上司と俺のSM関係

雫@更新予定あり
BL
タイトルの通りです。

ハンターがマッサージ?で堕とされちゃう話

あずき
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【登場人物】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ハンター ライト(17) ???? アル(20) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 後半のキャラ崩壊は許してください;;

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