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⑷少年法とピーター・パン(着陸篇)
しおりを挟むFM放送のKinKi Kidsが、少年房の天井から降っていた。つらなった雑居房は、動物園のバックヤードそっくりだった。鉄格子の下半分はアクリル板で目隠しされ、檻の左端が扉。コンクリの壁に、クリーム色のペンキを削った落書きがいくつもあった。五十嵐薫・吉在秀・諏佐達彦・内藤大我……こいつらは旅の記念に重要文化財の柱に名前を彫るようなノリだったのだろうか。罪の恥は掻き捨て。
昼食後だったが、胃袋が鳴った。あんな粗末なメニューじゃ、育ちざかりの腹はふくれっこなかった。俺はTシャツの腹をさすり、堂本兄弟のデュエットに耳をすませた。
入場のブザー。俺は気に留めなかった。それは頻繁に鳴っていたけれど、成人の勾留者ばかりらしく、俺はずっと一人だった。
ところが、その勾留者はこの房の前へやってきた。気張ったパンチパーマに、刺繍入りの濃紺の特攻服(全日本麗心愚連盟 横濱悪童連合 喧多売衆)。一八〇センチ未満か、俺と変わらない立っ端。年頃もタメくらいに見えた。でも、俺が眼を奪われたのは、その男の顔だった。
その男の左眼には、赤黒い痣があった。
留置場担当官にボディチェックを受け、男は房に入ってきた。男の顔立ちはあどけなかったものの、眼つきは細く鋭かった。おっかない。俺はさりげなく目線を外した。相手が異性ならともかく、見知らぬ男同士で眼が合っても、ろくなことにはならない。俺はビニール畳のささくれをいじった。ちらりと窺うと、パンチパーマはガンを飛ばしていた。俺はこの時間が早く過ぎることを祈った。
数分後、担当官が声をあげた。
「二十七番、三十五番、家裁送致!」
房の扉がひらかれた。外へ出ろ、ということらしかった。没収されたコンバースの代わりに、備品のゴム草履。
俺とパンチパーマは留置場の出入口へと行進した。俺はパンチの後ろだった。出入口の前で、順に手錠をかけられたのち、一人ずつ手錠と腰を括られ、さらに一本の太い縄で二人が括られた。俺たちは留置場を出た。二人が息を合わせて歩かないと、転びそうだった。
留置場担当官から、警官に交代した。俺たちは下り階段で、屋外駐車場へ出た。久しぶりの太陽が眩しく、真昼の熱風すら爽やかに感じられた。遠くで晩夏の蝉が喚いた。
護送車は日産シビリアンだった。窓にスモークフィルム。警官に促されて乗りこんだ。運転席は金網で仕切られていた。右側に一人掛けの座席が六列、左側にはそれが五列、後部座席は四人掛け。右側の座席には、すでに先頭から順に四人の非行少年が座っていた。おそらく、他の署から来たのだろう。俺たち二人も、左側の座席につかされた。
全員が着席すると、警官のバディが乗りこんだ。ドアが閉じられ、護送車がなめらかに発進した。警察署を出て右折し、四車線の大通りへ出て左折した。
信号に引っかかった。会話禁止の車内には、アイドリング音のみが響いた。車窓に、どこにでもあるような田舎街の風景。最も暑い時間帯、ストリートに人影は疎らだった。俺はその風景と全然別のことを思った。
大通りの歩道に、黒い楽器ケースを背負った男。俺は眼を瞠った。あのキューピッドちっくな天然パーマ、中村匡志だ。中村はPHSに何かを訴えながら、えらい早歩きで護送車を追いこしていった。
信号が変わった。護送車が動きだし、歩道の中村を追い抜きかえした。中村のぎょろ眼がこちらを捉えた。俺は隠れようとしてしまった。が、スモークフィルムで車内が見えるはずないことを思いだした。
中村は険しい顔つきで、こちらを見送っていた。押込められた人間たちを、苦々しく思っているのだろうか。明るい道の中村と、暗い車内の俺。急激に気分が落ちこんでいった。
裁判官は法服ではなく、黒の背広姿だった。そんな服だと、真面目そうなおじさんは銀行員みたいだ。
「八月六日水曜日、昨日だね。佐伯キミタカくん、君は横浜駅のホームで十六歳の男子生徒を蹴って線路に落とし、重傷を負わせました。そのせいでしばらく電車が止まって、たくさんの人に影響が出ました。それに、君は喫煙もしていたね。以上のことは、間違いないかな」
間違いありません、と俺は頷いた。家庭裁判所本部二階の少年部調査官室。ブラインドごしの窓から裁判所の中庭。壁に絵画と内線電話。ポトスの乗った大きなキャビネット。小さなデスクで、おじさんは頷きかえした。
「君のしたことは重大で、社会的影響が大きかった。観護の措置にします。これから、君を横浜少年鑑別所に送ります。そこで色々な調査やテストが行われます。心身の状態、隠れた病気がないかなどを調べます。君のための処分ですから、素直になって非行の原因なんかを考えてみてください。そこでの調査結果を参考に、審判がひらかれます。観護措置の期間は、四週間前後になるでしょう。これをきっかけに、禁煙することを奨めます」
四週間? 俺は壁のカレンダーを見やった。夏休みは、あと三週間と四日しかなかった。退所前に授業が始まってしまって、鑑別所入りが学校にばれたらどうしよう……。
西日の護送車で手錠を眺めながら、これから四週間の鑑別所生活を想像した。いびり・いじめ・リンチ――《あしたのジョー》の世界が脳内で展開していた。俺は眼のまえが暗くなりそうだった。乗りあわせた他の少年らも同じなのか、車内を重苦しい空気が支配した。充満した男の汗のニオイ。
一〇分ほど硬いシートに揺られた。街あいの少年鑑別所は、象牙色の背の低い建物だった。駐車場入口に施設名のプレート。
車庫入口のシャッターがあがると、観護教官が十人ほど揃い踏みで威圧感があった。護送車はそろそろと車庫の奥へ進んだ。
シャッターが閉まった。車庫の薄暗さのなか、まずパンチパーマがおろされた。施設内へ通じた扉が開け放され、そこにも教官。パンチは両脇を教官にかかえられ、扉の奥へと連れていかれた。やつの所持品のなかには、運動部のチームフラッグのような大きな旗竿があった。
しばらくして、こんどは俺がおろされた。警官から教官へ引き渡され、同時に所持品一式もリレーされた。
八帖ほどの入退所室も、象牙色が基調だった。保健室か診療室みたいだ。白いカーテンとベッド。身長測定器と体重計。奥にシャワーとトイレ。教官に俺は手錠を外され、本人確認をされた。氏名・生年月日・非行事実。
俺はTシャツを脱ぎ、ジーンズを脱いだ。サッカーソックスを畳んで、籠に置いた。汗ばんだ足の裏に、リノリウムタイルが貼りついた。俺は勢いよくトランクスをおろした。全裸。
まず、ペンライトで口のなか・鼻の穴・耳の孔を照らされた。次に、足の裏・腋の下・髪の毛のなかと調べられた。
「持ちあげて」
教官はごく事務的にいった。俺はちんぽと玉袋を持ちあげ、裏筋をさらした。顔が熱くなった。
「後ろ向いて。前屈みんなって」
俺は背を向けて、足を肩幅にひらいた。中腰になり、ケツを突きだした。女の子にだって、そんな部分を見せたことはなかった。教官はじっくりと見た。俺は首まで熱くなった。脳味噌が沸騰しそうだ。
「悪いけど、ちょっと見づらいんで、広げてくれるかな」
俺は自分の臀部をつかんで、ぐっと広げた。恥ずかしくて涙ぐみそうだった。
留置場でやったような持物検査のあと、教官から手渡されたのは、来月にはダムに沈む限界集落の小学生が着てそうな真っ青なジャージ。これがこの鑑別所でのコスチュームらしかった。デザインはともかく、においは清潔だった。
鉄筋コンクリ造の寮舎の、単独室という三畳の和室をあてがわれた。テレビと箪笥と机と布団。最低限の家具は揃っていた。意外と小綺麗だ。小ぶりな衝立ごしに広縁、そこに剝きだしの洋式便器と洗面台。窓には格子と羽板。羽板の隙間から、隣の白い刑務所が窺えた。遠くで暴走族のエグゾーストノイズ。
ジャージズボンは俺には寸たらずで、かっこ悪いことこの上なかった。体操着が汗でべたついた。もう二日、風呂に入ってなかった。十の指に、指紋押捺の黒インクが残っていた。
俺は畳に座り、黄色い表紙の〝生活のしおり〟を広げた。小一で習う漢字にまでふりがながふってあった。こんな簡単な字も読めないような連中が来る場所なのだ。自分自身が情けなくなった。
やっと訪れた凪の時間だったけれど、事件や今後のことばかり考えて、気が鬱いだ。無性に煙草の苦さが恋しかった。左の中指と薬指で、俺は架空のシガレットをふかした。
午後六時が夕食の時刻だった。カレーの匂い。ドアには差入口があったけど、錠の音ののち、ドアそのものがひらいた。配膳ワゴンの傍らで、教官がトレイを差しだした。
「机で食べるように」
はいっ、と俺は良い返事をし、いそいそと机へ運んだ。麦飯の具沢山カレーに福神漬け・野菜サラダ・ヨーグルト・大学芋! 小学校の給食みたいだ。ボリューム満点で、留置場の弁当とは大違いだった。俺は欠片も残さなかった。
満腹になると、いくらか気分はましになった。FMラジオ放送に、俺は耳を傾けた。THE YELLOW MONKEY・エレファントカシマシ・河村隆一・T.M.Revolution・GLAY・SPEED・KinKi Kids……週間オリコンランキングの上位曲がつぎつぎと流れた。四週間も聴きつづけたら、カラオケのレパートリーが増えそうだな、と思った。
鑑別所の面接室は、机を挟んで椅子が一脚ずつあるばかりの狭い空間だった。庭に面した窓に鉄格子。逆光の母、濃鼠のスーツの直美ちゃんは……泣いてはいなかった。俺はほっとした。直美ちゃんは疲れた微笑で、立ちあがった。この人の華やいだ雰囲気が、俺は嫌いじゃなかった。四十路になっても、どこか少女っぽさの抜けない人だ。実年齢よりも十は若く見られるのが、直美ちゃんの自慢だ。
「ナオミちゃ……母さん、ごめん。その……」
いきなり平手が飛んできて、俺はとっさに避けた。直美ちゃんの手が俺の肩に当たった。
「ケメ、あんたって子は、ほんっとに、もう……!」
「お母さんっ。暴力はいけません、暴力は」
教官が盾になるように前へ進みでた。直美ちゃんは急に落ちついた声を出した。
「いえ、体でわからせたほうがいいんです。バカなことしたんですから。うちの息子が、本当に申しわけありませんでした」
直美ちゃんは頭をさげた。教官は気勢を殺がれたようだった。
ようやく、俺と直美ちゃんは着席した。
「後藤さんって弁護士さんが家に来てね、少年審判の仕組みとか、何を準備すればいいかとか、アドバイスしてくれたの。じゃなきゃ今ごろ、まだ家でおろおろしてたかもね」
後藤さんは言伝て以上のことを果たしてくれたようだ。軽薄そうでも弁護士だった。直美ちゃんは続けた。
「ケメ。やっちゃったことは、もうしょうがないから、被害者の子とご家族にはお詫び状を書いて、きちんと謝ろうね。治療費とお見舞金は、あんたのバイト代から出すんだよ。たりなかったら母さんが補うけど、だからって母さんだけを当てにするんじゃないよ。いいね。しっかり反省なさい」
直美ちゃんのいうことは、きっと正しかった。でも、そう頭で思うのと別に、何かが腑に落ちなかった。あの冷蔵庫野郎が、可哀そうな被害者? 見苦しいから線路に飛びこめ、とあの男は荻原にいったのだ。どうして俺の給料をあんなやつに渡さなきゃならない。見守る教官のてまえ反論もできず、俺は俯いた。
「あんたは荻原くんって子を守ろうとしたんだってね。その子からも電話があったよ」
俺はぱっと顔をあげた。「シンちゃん、なんて」
「キミタカくんを叱らないであげてください、今は状況を受けいれるだけで一杯いっぱいだと思うので、って。荻原くんって、ずいぶんしっかりした子だね」
俺への伝言じゃないのか……、俺は肩を落とした。
「それとね、あんたはインフルエンザで入院して面会謝絶ってことになってるから、そのつもりで友達や学校にはイイワケを考えておくのよ。いい?」
「インフルエンザぁ? 夏なのに」
「しょうがないじゃない。変な重病をでっちあげると、話をつくるのに苦労することになるよ。インフルエンザなら、なんべんか罹ったことあるから、症状もわかるでしょ」
「そうだけどさ」
夏風邪ひくやつはアホや、と中村の揶揄する声がきこえてくるようだった。
それから教官も交えて、鑑別所の様子なんかの話をぽつぽつした。直美ちゃんは安心したみたいだ。面会時間は三〇分だった。
三日ぶりの風呂だった。水浅葱のタイルの、ちんけな浴場。入浴は二〇分で、制限時間内に脱衣所に出なくてはいけなかった。
俺のほか少年は三人いて、一人はあの左眼に痣のある男だった(パンチパーマから丸坊主に変身していた)。そいつの背中を眼にして、仰天した。背中一面、煙草の根性焼きの瘢痕で隙間なく埋まっていたのだ。一瞬で理解できた。きのう今日でついたんじゃない、長年にわたる執拗で陰湿な虐待だ。
入浴中は私語厳禁だった。俺は手早く頭と体を洗い、シャワーで流し、湯船に漬かった。漬かるあいだは、眼も瞑っていなくてはならなかった。
「気持ちいい~」
俺は眼を剝いた。隣の痣の坊主だった。発声禁止だといわれたばかりなのに、馬鹿なのかこいつは。
「しゃべるなといっただろうがぁー!」
当然、観護教官はブチギレた。悪いのはそいつなのに、そこにいる全員を怒るような叱りかたをされ、納得がいかなかった。
レクリエーションルームに十人ほどの少年が集められた。塾の教室みたいな机と椅子。斜め後ろに、あの痣のある坊主がいた。坊主がガンを飛ばしてきたので、俺は前を向いた。
教官がプリントを配った。数字や図やイラストのついた、記入式のテストだった。分量があって、かなり時間がかかった。後半、俺は手を抜いた。
じつは知能テストだったらしくて、あとで俺のIQは一一五だと心理技官にいわれた。高いんだろうか、低いんだろうか。金田一少年のIQは一八〇だったな、と思った。もっと真剣に受けるんだった、と悔やんだ。
くる日も来る日も、心理技官の課題をこなした。自己紹介文・作文・指定のお題に沿った絵を描く・事件に関する説明文・被害者宛てのロールレタリング……。
直美ちゃんは息子が入院中でも、そうそう郵便局の仕事を休めず、たまにしか面会に来てくれなかった。
単調な鑑別所生活に飽きあきしたころ、その人がやってきた。
前回とは別の面接室だった。俺は落ちつかない心地で席につき、机ごしに薄鼠の背広と向きあった。肌の感じは三十代半ばくらいか。実直そうな男の人だった。ヒノクラ・イタルです、とその人は名刺を置いた。家庭裁判所調査官少年係 日野倉 至。二時間サスペンスドラマみたいで、かっこよかった。
家裁調査官は、まず非行事実を確認した。俺は頷いた。日野倉さんは続けた。
「いずれ審判を受けることになるでしょう。そこで君は保護処分に付されます。
保護処分には、いくつか種類がある。
一つめが保護観察、普通の生活を続けながら、定められた期間、保護観察官や保護司さんの面接を受ける処分です。
二つめが教護院または養護施設への送致、施設に入所し、指導を受ける処分です。
三つめが少年院送致、少年院に収容して、矯正教育を行う処分です。
四つめが検察官送致、成人の場合と同様の手続きで刑事裁判を受ける処分です。しかし、今回の事件については、キミタカくんは非行時に十五歳だったので、この処分はありません。
五つめが不処分、いずれの処分も受ける必要がないと判断されたときや、あるいは非行の事実が認められなかったときは、処分しないという決定です。
そして試験観察、先の五つの最終決定をするために、定められた期間、調査官――私のことね――がキミタカくんの面接をします。
処分を決定するのは裁判官で、その判断のための材料を、これから私が調査して意見書にまとめます。わかるかな。質問はある?」
「僕の反省しだいってことですか」
「それも大事な要素ではある。けど、それだけではない。君の育ちかたや、家庭環境、性格や行動の傾向、生活状況なんかも考慮するよ。それから、保護者の子供を守る力も関係してくる」
「少年院の可能性ってあるんですか、初犯でも」
「一つの可能性だよ。少年院は、刑務所の子供版じゃない。塀はないし、教育カリキュラムがある。あくまで保護施設なんだね。少年法は、どちらかといえば少年を罰することよりも、少年を健全に育て再犯を防ぐことに力点を置いている。だから、キミタカくんにベストだと思えば、少年院という判断もありえないわけではない……ということだ」
俺は無意識に大きく呼吸した。日野倉さんは穏やかに笑った。
「緊張してるかい」
「少し」
「じゃ、リラックスできることをしようか」
日野倉さんは書類を片づけた。椅子から身を乗りだして、革のアタッシェケースを開けた。テーブルに置かれたのは、B4画用紙の束と、十二色サクラクレパスの箱だった。
またか、と正直なところ思った。心理技官に描かされたクレヨン画は、幼稚園児のころ描いた枚数をとっくに超えていただろう。それに中学のとき、俺の美術の成績は五段階中の三。絵を描くのは苦手だった。
「あの、鑑別所と家裁ってデータはやりとりしてるんですよね。こないだ、絵はいっぱい描かされましたけど」
日野倉さんは眉をさげた。「絵だけじゃ、わからないこともあるからね。君の態度や、物事への取り組みかたなんかも見たいし。どうしても嫌かな」
審判に影響すると思ったら、強く拒否はできなかった。俺ははだいろで画用紙を丁寧に塗った。まあ、それなりのクオリティのものができあがった。俺は絵の天地を引っくりかえした。
「こんなもんでいいですか」
日野倉さんは絵をじっくりと見た。「うん。よく描けてるね。色彩センスあるじゃないか」
十二のクレヨンの色はまんべんなく使った。紙の中心に直美ちゃんがいて、文隆と手を繋いでいた。その隣で、俺は携帯電話を手にしていた。隅っこで、ミッタンが背中を見せてフライパンと菜箸を握っていた。俺は皮肉な気持ちできいた。
「これで僕の精神状態とか、わかっちゃったりするんですか」
深爪の指が直美ちゃんを差した。「お母さんが大きいね」
「はい」
「この小さい子は」
「死んじゃった弟です」
「この携帯でしゃべってるのが君」
「はい」
「この料理してるのが、お父さん」
「はい」
「お父さんは、どうして後向きなのかな」
「顔、忘れちゃったんです」
深爪の指先が、とんとんと画用紙を叩いた。「お父さんと最後に会ったのは」
「弟の火葬のときです」
「君の目から見て、お父さんはどんな人だった」
俺はしばし考えた。「ケメ、おんまさん見たくねえか、って父親がにこにこしながら幼稚園児の僕にいうんです。動物園に行くのかなって思って、喜んでついてったんですね。そしたら、行先が競馬場で。おっさんの大群が馬に向かって声のかぎりに叫んでて、父親もなんか気が違ったみたいになってて。カネが懸かると、人間こうなるのか……って学んだ瞬間でしたね。
それでも幼心に、馬って生きものは美しいと思いました。より速く走るために進化した、細いけど強靭な脚と、あの筋肉美ってんですか? 十六頭の馬が、全速力で芝を蹴散らして駆けていくのに、なんか見とれちゃいましたね。馬って、そばで見ると睫毛が長くて、目ん玉が黒くておっきいんです。そこに緑の牧場が丸く映りこんで、綺麗で。だから、僕、いまだに馬が好きですね。
そんなギャンブル好きだったんで、父親はいつもおカネのことで母とケンカしてました」
「ご両親のケンカのとき、君はどうしてた」
「弟をつれて、近所の公園や図書館に避難しました。あいつは小さくて意味がわかってなかったから余計、大人が大声あげてたら恐かったと思います」
「弟さんのこと、大事に思っていたんだね」
「大好きでした」
「こんどの件を知ったら、お父さんはどんな反応をすると思う」
「わからないです」
「じゃ、お母さんの反応はどうだった」
「ケメ、あんたって子は! っていって、ビンタですね」
俺は笑った。日野倉さんは笑わなかった。
「お母さんは、よく君にビンタするの」
「僕が本当に悪いときだけです」
「ほんとうに悪いとき」日野倉さんは人差指で顳顬をとんとんと叩いた。「その、君がほんとうに悪いっていうのは、たとえばどんな状況なの」
「たとえば、弟をわざと泣かせたり」
「ほう」
「母とケンカして、くそババアっていっちゃったり」
「ほほう」
「あとは、僕がキレて壁に穴開けたときとかですね」
「君はそれを納得している?」
「理不尽だなと思うときもあります。でも、まあ、おおむね僕が悪いことが多いんで。とくに今回は」
「お母さんのことは好き」
「日野倉さんって」
「なんだい」
「他人の家庭の事情ばっかりきかされて、うんざりしませんか」
日野倉さんは頬笑んだ。「それが使命なんだ。たしかに、うんざりすることもなくはないけども。私が持ちまえの好奇心で君らの家庭の事情に鼻をつっこむことによって、その少年が人生に前向きになってくれたときの喜びは、何物にも代えがたいね。キミタカくんは補導・非行歴もないし。こうして会ってみたかぎりじゃ、非行性が進んでるようにも見えない。ここにやってくる大抵の少年より、ずっと頭もいい。ものすごくまともそうに見えるのに、なんでこんな大それた事件を起こしたのか、一調査官としてすごく興味があるね。君自身はどうしてだと思う」
そんなの、俺がききたかった。「供述調書にあることが、すべてじゃないでしょうか」
「じゃ、喫煙のことはどう」
「ライターがもったいなくて」
「というと」
「僕のジッポー、父親のだったんです。父親は料理人なんで、タバコは吸わなかったですけど、アウトドアでお客さんをもてなすために使ってたみたいですね。けど、あのおじさん、出ていくときに忘れてっちゃって。それが、ジッポー社五〇周年記念のヴィンテージ品なんですよ。捨てるのは、もったいないっしょ。父親みたいにアウトドアで使うのが正しいんでしょうけど、そうキャンプばっかりしてられないんで」
「初めて吸ったときは、どんな状況だったの。一人? 友達と?」
「地元に格さんっていう、二コ上の先輩がいて。フルネームが實方格之進って、すごい名前なんです。格さんち、江戸時代から続く神社なんですよ。でも、格さん、地元じゃ有名な不良で。小学生のころにもう、校庭をスクーターで走ってるような人で。
放課後の公園とかで、先輩らがタバコ吸いながら駄弁ってるんです。家が近所なんで、よくそういう場面に遭遇するんですね。そうすると、格さんが声かけてくれるんです。よお、キンタ、って。押忍、って僕は返事して、それだけです。
そのときは、もう僕が中三で、格さんはとっくに卒業してて、噂じゃ進学しないで家業を手伝ってるって話でした。冬だったんですけど。格さんが公園でタバコ吸ってたんです、一人で、犬つれて。格さんちの、ハチベエって柴犬です。よお、キンタ、って格さんがいって。押忍、って僕は返事して。そしたら、格さんが手招きして、肉まんおごってやるっていうんです。はい、って返事しました。断りづらくて。セブンイレブンで僕は財布だしたんですけど、いいから、っていわれて。
公園で僕とハチが食べてるあいだ、格さん、隣でずっとタバコふかしてんです。タバコ吸ってる人って、たいてい見苦しいじゃないですか。でも、先輩の吸いかたはなんか……格好よかったんですね。育ちが出るんですかね。僕がじっと見てたら、吸うか? ってきかれました。はい、って返事しました。
一口吸ったとき、頭がクラッてして、その感じが嫌じゃなかったんですね。その感じを再現したくて、自分でタバコ買って吸うようになりました」
「喫煙のこと、お母さんは」
「知らなかったでしょうね。旦那と離婚して、子供が死んじゃって、そのうえ僕がぐれたりしたら、あのおばさん、可哀そうっしょ。だから、ぐれるにしても、こっそりぐれるわけです。
でも、これから禁煙します。人を蹴ったのは生まれて初めてです。そして、これで最後です。そう思ってます」
「落とすつもりじゃなかったけど、落ちても構わないと思っていたかもしれない。君の調書には、そう書いてあったね」
「それは……」
「事実ではない?」
「未必の故意っていうか」
日野倉さんはのけぞった。「まさか、自分の担当少年から未必の故意なんて法律用語をきく日が来るとは思わなかったよ。よく知ってたね」
「うちのおばさん、火曜サスペンスとか土曜ワイド劇場ばっかり見てるんで、覚えちゃったんです」
「君は被害者が線路に落ちても構わないと思ってた」
「たぶん。ただ、死んでも構わないとまでは思ってなかった。初対面の相手なわけだし」
「でも、かなり激しく蹴った。大事な友達の悪口をいわれたから?」
「不確かな話なんですけど……、僕が蹴ったやつ、荻原くんに酷いことしたらしいんです」
「酷いこと」
「噂できいたんです。中学のころ、荻原くんは殴る蹴るのいじめを受けてて、仕返しに相手を刺したって。本人も、便所のモップで顔を拭かれたことがあるっていってました。俺が蹴ったやつ、左頬に刃物で切ったみたいな傷がありました。もしかしたらと思って、その場で荻原くんにきいたんです。おまえの顔、モップで拭いたのはこいつか、って。荻原くん、うなずきました」
日野倉さんは前のめりになった。「それで君は、被害者を罰するために蹴った。悪いときの君を、お母さんが叩くみたいに。そういうことかな」
「俺が蹴ったのは、母のせいだっていいたいんですか」
俺は腹が立っていた。他人にわかったようなことをいわれたくなかった。家裁調査官は淡々といった。
「ほんとうに悪いときには、暴力を振るわれてもしかたがないと君は思っている。裏を返せば、ほんとうに悪いやつには、暴力を振るっても構わないんだって、君は思っていなかったかな。無意識に」
「わかりません」
「今はわからなくてもいいよ。でも、そのことについて、よく考えてみてくれるかい。それが今回の君への宿題だ。私は荻原くんと被害者の因縁の裏をとるから」
入所から一週間、俺は集団室に移された。ようするに二人部屋だ。ルームメイトは、あの元パンチパーマの坊主だった。坊主の左眼の痣は、薄くなりかけていた。殴られた鬱血なんて俺は見たことがなかったので、てっきり生まれつきのもんだと勘違いしていたのだ。
坊主の名前は、馮翼。一コ下の中三だった。個人情報を漏らすのは禁止だが、同世代が顔を突き合わせて、何も話すなってほうが無理だ。当然まずは、何をやってここに来たのかって話になった。殺人未遂と威力業務妨害だといったら、馮は初め信じなかった。飛び蹴りで冷蔵庫野郎が線路へ落ち、電車が停まった状況を詳しく説明してやると、馮は納得したみたいだ。馮の話は、こうだった。
「俺がいるとこは喧多売衆っていって、一応、俺がアタマっつうことんなってて、よく本牧通りのほうを暴走ってます。あの急カーブが見せ場なんすよ。
でも、俺、バイク自体には、あんまキョーミないんす。だから、いつも仲間のバイクのケツん乗ってます。
そんときは十台くらいで暴走ってて、俺は諏佐ってやつの原チャのケツで旗かついでました。俺らがケツまくり……、ケツまくりって隊列の最後尾で、マッポに追われたら囮んなる、けっこう大事な役なんす。一台だけスピード落として、カマ切ったりして妨害するんす。
ただ、最近はマッポも無理に捕まえようとはしねえんすよ。事故られたらダルいし、ビデオは撮ってるから、ナンバー照会して、イエ行きゃいいだけなんで。
でも、諏佐って根っから挑発野郎なんで、わざわざパンダの横でウィリーしたり、いらんことすんです。挙句、調子こきすぎて、こけやがって。俺は投げだされて。で、諏佐のやつ、俺を置き去りにしやがって。まあ、逆の立場なら、俺も置いてくでしょうけど。
パンダが急停車して、マッポが降りてきて、確保されそんなって、旗ふって暴れたら、顔面に一発ボコッとやられて、ワッパかけられました。だから、非行事実は共同危険行為と、公務執行妨害ですね」
鑑別所に入るほどの罪とは思えなかった。馮は非行や仲間のことは話したけど、家族の話は一切しなかった。俺もあえてきかなかった。その背中の根性焼きが、忘れられなかった。もしかして、家族と引き離すための入所だったのだろうか。
夜、暴走族のエグゾーストノイズがきこえたかと思うと、それがすぐそばで轟いた。俺はびびって貸与本のページから顔をあげた。
「仲間だ」
馮が呟いた。暴走族の一団は、鑑別所の外をぐるぐる周回しているようだった。馮は音楽でもきくかに瞼をおろした。爆音は十周ほどしてから、徐々に小さくなり、やがてきこえなくなった。それでも馮はしばらく眼を開けなかった。
週の頭にお菓子を買うことができて、日に二回、おやつを食べていい時間帯があった。直美ちゃんの差入れのおかげで、俺はそれなりにリッチだった。ポッキー・かっぱえびせん・カール・たけのこの里……新発売のじゃがりこが、とくに美味しかった。
俺と同室のあいだ、馮には面会者がおらず、カネがないみたいだった。俺はじゃがりこを分けてやった。半分コじゃなく、数本だけ。でも、馮は喜んで齧った。十四歳の顔だった。
「キンタ先輩、あのTシャツくださいよ」
「やだ」
それが俺たちの、お決まりのやりとりだった。FM放送のKinKi Kidsがきこえていた。
「守秘義務があるので詳細は話せないが、二年まえ、荻原心くんと被害者のあいだにはトラブルがあった。そして、そのトラブルに家庭裁判所が介入した。それは確かだよ」
午後の面接室で、俺の担当家裁調査官は告げた。それで俺には充分だった。俺はジャージの膝で拳を握った。
「あの痣のせいで、荻原くんはたくさん傷ついてきたんです。これ以上、誰にも傷つけられてほしくない。だから、あの男が許せなかった」
窓の外で寒蝉と、運動中の少年らの声。机ごしに日野倉さんは前のめりになった。
「ねえ、キミタカくん。被害者に対して、君は今どう思ってる」
答えられなかった。日野倉さんは続けた。
「もう何度か面接してるけど、君は一度も被害者の様子なんかを尋ねなかったよね。今、初めて被害者に対して、許せなかったと君はいった。その気持ちは今も変わらないんだろうか。被害者を心配したり、すまなく思ったりはしないんだろうか」
申し訳なく思っている、と噓でもいえばよかったのかもしれなかった。でも、俺は黙って俯いた。机に浅い傷がたくさん。家裁調査官はいった。
「私はね、保護観察処分相当と裁判官に意見するつもりだ。君はしっかりしているし、君のお母さんも頼りがいがある。君が今度の非行を後悔しているのも噓じゃない。君はきっと立ち直ってくれるだろう。ただ、被害者への償いの気持ちは……。私は正論を押しつけたいんじゃない。押しつけられた反省は、反省じゃないからね。それは反省のポーズだから。自発的な感情じゃなければ、贖罪にはならない。できれば私らは、君に心から申しわけなかったと思ってもらいたいけれども。それは今のままじゃ難しいのかい」
俺は顔をあげた。「だって、あいつ……他人ですもん。たった一度会っただけの。しかも、俺の友達に酷いこといったりやったりしてんですよ。印象は最悪ですよ。そんなやつのこと、本気で心配しないっしょ。俺の反応、すごく普通だと思いますよ」
日野倉さんの眼に、無念とも失望ともつかない色が浮かんだ。俺は続けた。
「こんな目に遭うって知ってたら、蹴らなかったです。もう二度としません。それだけは絶対です」
日野倉さんの虹彩は、橡色だった。そこに黒橡色の粒が散っていた。俺は見つめつづけた。家裁調査官は眼を逸らさなかった。
「君は自分が正しいと思って生きてきたんだね。君のお母さんがそういう人だったから。きっと、君は大抵いつも正しかった。でも、君は自分で思うよりも、ずっと気持ちが幼いんだよ。君は手のかからない良い子だったそうだね。手のかからない良い子を演じてた。お母さんの愛情は病弱な弟さんに傾きがちで、君はいつも我慢していた。愛されるためには、良いお兄ちゃんでいなきゃと君は思ってた。その思いを、君はいまだに引きずってる。弟さんの顔には、痣があったらしいね」
日野倉さんは右頬を差した。俺は頷いた。
「痣のある荻原くんに、君は弟さんの姿を重ねていたのかな」
俺は机上で手を組んだ。「荻原くんが気になったきっかけは、あの痣なんです。ブンも痣のことでいじめられたりしていたから、たぶん、荻原くんも苦労したんだろうなって想像できて。ブンにしてやれなかったことを、荻原くんにしてあげたかった。でも、やっぱり、俺の自己満足だったのかな」
こぼれ落ちた問いかけは、ひとりごとのように壁に吸いこまれていった。蝉の喚き声ばかりが、いつまでも繰りかえされた。
八月二十七日、水曜日。審判の日は、俺の十六歳の誕生日だった。
所持品検査のあと、鑑別所貸与のジャージを返却し、全裸の身体検査(やっぱり恥ずかしかった)。
俺は直美ちゃんが差入れてくれた無地の白いTシャツに袖を通した。家の匂いがした。俺は入所時に着ていたローストチキンを食らう雄鶏のTシャツを、観護教官に差しだした。
「これ、馮翼に渡してもらえますか。欲しがっていたので」
俺は手錠に腰縄を打たれ、例の車庫で家庭裁判所の日産キャラバンに乗せられた。
家裁までの一〇分、俺はずっと後部座席の車窓を眺めていた。二十日ぶりの娑婆の景色。眩しい紺碧に、入道雲が育っていた。暑くなりそうだな、と思った。
市の家庭裁判所本庁は、そっけない砂色の建物だった。いくつもの大きな窓に、空の青が反射した。
少年部調査官室で待たされた。つき添いの係官が気遣って声をかけてくれたけど、俺は緊張しすぎてうわの空だった。
ノックの音がして、ドアが開いた。覗いた知った顔に、俺はハッとした。
「後藤さん! 出廷するんですか」
後藤弁護士は、きょうも茅色の背広で決めていた。
「今回は僕がつくまでもないだろう」
後藤さんは意味ありげに頬笑んで、牛革のブリーフケースから、何かをとりだした。
「シンくんからだ。開廷まえに渡してくれるよう頼まれた」
勿忘草色の封筒と、小綺麗にラッピングされた紙包み。俺は胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「礼ならシンくんにいうんだね。どちらかといえば、僕はナオミさんの顔を見にきたんだ」
軽薄そうな弁護士は、頬を染めてそっぽを向いた。俺は意地の悪い気持ちでいった。
「あのおばさん、四十歳ですよ」
「うそぉっ⁉︎」
後藤さんはわかりやすくショックを受けた。俺は笑った。緊張がほぐれた。
勿忘草色の封筒は、ぶ厚かった。銀のシールで軽く留めてあるきりで、ペーパーナイフがなくても、簡単にひらくことができた。封筒と共色の一五枚の便箋からは……ミントリキュールの匂いがした。
佐伯公隆 様
残暑お見舞い申し上げます。ぼくは元気です。キンタも、そうだといいと思います。
先に告白しておきますと、ぼくも鑑別所にいた経験があります。ですから、キンタの気持ちはわかるつもりです。檻のハムスターのように単調な生活に、窮屈な思いをしていたはずです。審判の今日は、恐くてたまらないことでしょう。
この手紙が検閲をパスするか不安だったので、後藤さんに託しました。審判前に読めるとよいのですが。
かなり端折りますが、長い話になります。もし時間がなかったら飛ばして、しまいの4枚を読んでください。
この手紙を書くべきか悩みました。何を書いても言い訳でしかないような気がするのです。でも、事は起こってしまいました。なかったことにはできません。今回の事件の引き金はぼくなのです。
キンタが蹴り落したあいつを、仮にYと呼びます。Yはぼくの行っていた中学校で有名人でした。Yの父親は市会議員で、伯父は教育委員会の幹部、祖母はとあるお嬢さん校の元校長先生、そういう家柄です。だから、先生たちもYには遠慮していました。
Yは教室じゃ王様でした。半ダースほど家来がいて、そいつらに命令して、気に食わない子をいじめるのです。Yは自分じゃ手をくだしません。たいていは気の弱そうな子がターゲットでしたが、あるときは絵画コンクールで表彰された子がやられました。Yは飽きるとターゲットを替えます。ぼくらはそれを当番といっていました。ずっとやられるわけじゃないから、みんなは我慢してしまいます。担任は見てみぬふりです。荒廃した教育現場でした。思えば、それまでぼくが無事だったのが不思議です。なぜかぼくには当番は回ってきませんでした。こんな大きな目印があるのに。
一年の三学期でした。下校中、Yに呼び止められました。あいつはガラの悪い連中と一緒でした。取り囲まれて、プールの裏に連れていかれました。校内でやれば、ばれても揉み消してもらえると踏んだのでしょう。
「おまえの親、医者だろ、おれら一人一万で、六万用立ててくんないかな」と取り巻きのやつがいいました。Yはにやにやしてるだけです。そうすれば、主犯はおれじゃないといいのがれできますから。六人で囲まれて、恐かった。なんでもないときなら、ぼくは言うことをきいたと思う。
でも、そのとき、母が入院していました。急性骨髄性白血病。いわゆる「血液のがん」です。放射線と抗がん剤の治療を受けながら、ドナーを待っている状態でした。大事な治療費を、こんなやつらにやりたくなかった。事情を説明すれば同情してくれるような連中ではありません。
「うちには余分な金はない、何かするなら警察に言う」とぼくは言いました。Yの顔色がさっと変わりました。あいつはぼくの目を見て、
「おぼえといてやるよ」とだけ言いました。その口調と、Yの目つきに、鳥肌が立ちました。ぼくは全速力で走って逃げました。
翌朝、登校したら、ぼくの机に落書きがしてありました。死、と大きく一文字、黒いマジックで。それまでみんな挨拶くらいはしていたのに、もう誰も目を合わせてくれず、口も利いてくれなかった。
教科書やノートを破られるなんてのは序の口でした。体操着袋を便器に突っこまれたり、弁当に鉛筆の削りカスが入っていたり。ぼくの変な顔の写真を教室にばらまかれたこともあります。どこで隠し撮りしたんでしょうね。犯人はわかっていました。でも、証拠はありませんでした。ぼくは我慢しました。母を心配させたくなかったし、クラス替えをすれば終わると思っていたのです。甘かった。
ねえ、キンタ。顔に痣があると、簡単にバカにされてしまうのです。みんな、どうしても無意識に下に見るのです。たとえ、それまで仲が良かったとしても、尊敬があったとしても、ちょっとしたきっかけで、あっさりひっくりかえってしまう。
二年に上がったころには、学年の男子のあいだで、ぼくをいじめるのが一種のブームのようになっていました。全員が敵です。あいつらは悪魔祓いと称していました。すれ違いざまに殴られたり、足を引っかけられたり。そんなのはまだいいほうで、うっかり便所の個室になんか入ったら、上から水が降ってきます。その中学にいるあいだ、ぼくはもう便所に行けませんでした。
母のドナーは見つかりませんでした。母はやつれていきました。治療の副作用で全身が痛んだり、熱が出たり。母は弱気になって愚痴を言う日もありましたが、たいていは気丈にふるまっていました。ぼくは学校でのことを何も話しませんでした。なのに、母はうすうす感づいていたようです。
「無理して笑わなくていいのよ、シンちゃんはそのままでいいの」と母は言いました。ぼくは泣いてしまいました。母はずっと手を握っていてくれました。しゃべったのは、それが最後になりました。治療の効果よりも、白血病の進行が早かったのです。
一九九五年八月十一日、午後九時三十九分、母は旅立ちました。三十九歳でした。衰弱し、眠るようでした。髪も眉毛も抜け落ち、頬もこけていましたが、美しい顔でした。
悪魔祓いは、どんどんエスカレートしました。ぼくは掃除用具のロッカーに詰められ、四階から一階まで階段を転がされました。頭だけは守りました。ほうきやモップの柄で青タンだらけになったけど、痛いよりも何よりも、恐かったです。あいつらはロッカーの蓋を開けて、ぼくの顔の痣を指差して言うのです。
「あれぇ、悪魔の呪い、落ちてないな」
「もういっぺん転がしとく?」と笑っていた。ぼくは人間だと思われていなくて、もしぼくが死んでも、こいつらには罪悪感ってないんだと思ったら、恐かった。
十四歳の誕生日は過ぎていました。コートは着ていなかったから、十一月だったと思います。いつかみたいに、放課後、Yと取り巻きが待ち伏せしていた。
「カネ持ってこい」と言ったのは、Yでした。あいつは油断していたのでしょう。前の金額よりも高かった。
「払えば、安全に暮らせるようにしてやってもいいんだぜ」と、あいつは言った。全部、Yが裏で糸を引いていたんだとわかりました。
ぼくはなぜか、先生に相談してしまいました。警察に言えばよかったのに。本当に後悔しています。その先生は、そこの教師のなかじゃ、まともそうに見えたのです。先生の胸にしまってくれる約束で、ぼくは話したのです。
でも、その先生、そのことをYに言いました。職員室にぼくとYを呼びだし、握手させました。よかった、良かった、なんて言ってんです、その先生。ぼくとYがケンカしたとでも思ったのか……いえ、思いこもうとしていたのかもしれませんね。
そのときのYの顔、なんの表情もなかった。あいつの手、死んだ魚みたいに力が入ってなくて、気持ち悪かった。ぼくはなんで握手してしまったんでしょう。みんながみんな、Yのゲームに乗ってしまっていたのです。ぼくも乗ってしまっていたのです、今思えば。
あとでYたちに便所に連れこまれました。ホースで水をかけられ、モップで顔をこすられた。濡れた床で土下座させられて、頭を踏んづけられて……もう、なんの気力も残ってなかった。自分のことだったら、ぼくは怒らなかったと思う。でも、あいつ、こう言った。
「カネなんかあるわけねえよな、自分の妻も救えないヤブ医者だもんな」って。
父は総合内科医だから、がん治療は専門外なのです。母が死んだとき、あの人はみっともないくらい泣いていました。母を助けられず、不甲斐なかったのだと思います。
Yを殺してやろう、と思いました。家に帰って、計画を練りました。台所で肉切り包丁を研いで、タオルで包んだりして。でも、だんだん冷静になってきて……いや、ちっとも冷静じゃなかったのだけど、あいつを殺したら、あの人や兄貴が殺人犯の家族になっちゃうなってことは考えました。それで、計画を変更しました。Yの顔の皮を剥がすだけにしようって。ぼくみたいに、酷い顔になって生きればいいって。ねえ、バカですよね。
学校じゃ無理でした。Yが一人でいることがなかったから。下校時間を狙いました。あいつ、尾行にぜんぜん気づかなかった。あいつが取り巻きと別れて、小路に入ったところで襲いました。後ろから首を絞め、顔に包丁を当てました。でも、あいつのほうが大きいし、力も強かった。振り払われてしまった。あいつの頬から、たくさん血が出ていました。Yはぼくを見て、血のついた包丁を見て、
「人殺し」っていった。
「人殺し、人殺し、人殺しーっ!」ってだんだん大声になって、Yは近くの家へ飛びこみました。ぼくはそれ以上は追いかけなかった。殺意があると思われたくなかったので。そこで包丁を握ったまま、警察が来るまで待っていました。
取調室で、ぼくは刑事にぜんぶ説明しました。自分のしようとしたことも、あいつにされたことも。
「殺意があったんだろう」って刑事が言って、否定したら、そいつは机を叩いて怒鳴り散らしました。ぼくも自棄になって、
「反省なんかしない、鑑別所でも少年院でも入れたらいい」と言いかえしました。
その日のうちに、家裁に送られ、鑑別所に入る決定がおりました。いろいろなテストをやらされ、心理技官がいうには適応障害を起こしているとのことでした。それから、家裁調査官にも、Yにやられたことを説明しました。調査官は親身になってくれました。Yも家裁に呼ばれたのは確かですが、どうなったのかは知りません。ぼくはそれきり学校に行かず、別の中学に転校しましたから。忘れたことはありませんでした。あいつ、どういう気持ちだったんだろうと想像したりして。
再会してみて、わかりました。Yは反省も後悔もしていなかった。きっと、あの傷を友達に見せて、ぼくにしたことを自慢していたのでしょう。
でも、もう、どうでもいいのです。プラットホームの下で、小便を漏らして情けないツラをしたYを見たら、すべてどうでもよくなりました。
話が逸れました。最初の審判のことは、ものすごく緊張していたせいで、よく憶えていません。ただ大人の裁判所と違って、裁判官は高いところにいない。本当にすぐまん前で、だから余計に頭が白くなりました。
「何か言いたいことはありますか」と裁判官が問いましたが、ぼくはろくな返事ができませんでした。決定は試験観察でした。試験観察とは、いわば執行猶予です。そのあいだ、調査官の面接は受けなければいけませんが、おとなしくしていれば普通に暮らせるのです。期間は半年くらいでした。
二度目の審判では、もう少し余裕がありました。あらかじめ、自前の意見書を用意したりして。
「これからどうしたいですか」みたいな質問をされて、
「受験のために勉強します、将来は父のように人の役に立つ仕事がしたい、高校で将来の具体的な目標を見つけたいです」とぼくは答えました。決定は不処分でした。それを聞いたら気が抜けて、少し泣いてしまいました。
Yの親とは示談ですんだようで、民事で訴えられることもなかった。もし訴えられたら、こちらも訴えるつもりでしたが。
キンタのやったことは、ぼくのやったことよりは軽いと思います。計画的ではないし、凶器も使っていません。少なくとも少年院ということはないでしょう。
それよりも、恐いのは噂です。新しい中学校じゃ、ぼくのあだ名は人殺しでした。誰も寄ってきませんでした。ぼくは楽でしたが。兄も東京へ行っていましたし。大変だったのは、父です。医者の息子が傷害事件なんて、外聞が悪すぎます。病院があるので、引っ越すわけにはいきません。変な電話がなんべんも来ました。自宅の番号は二度変えました。けれど、あの人はぼくに一言も文句をいいませんでした。愛想を尽かしていたのかもしれませんけど。
だから、ぼくは医者になどなれないのです。
ぼくとYの確執に、キンタを巻きこんでしまったこと、どんなに謝っても謝りきれません。すべてはぼくが、そしてYが悪いのです。
殺そうとまで思い詰めたYなのに、なんでぼくは助けたのか、あのときはわからなかった。よく考えてみて、わかりました。ぼくはキンタを人殺しにしたくなかったんです。
キンタはぼくの大切な人です。キンタのためにできることなら、ぼくはなんでもしたい。なんでも言ってください。できるかぎり叶えます。
今日の審判が、前向きな結果で終わることを願っています。
P.S.きっと当日ではないけれど、誕生日おめでとう。ささやかですが、贈りものです。キンタは緑色が似あうと思います。気に入ってくれるとよいのですが。
草々
荻原 心より
文字が滲んで、俺は眼を擦った。荻原の思いが、痛いほど胸に迫った。
綺麗なラッピングを慎重に解くと、若草色のリストバンドだった。ナイキのロゴ入りだ。俺はそれを、手錠の右手首に嵌めた。
審判開始は、午前十時だった。係官に伴われ、俺は少年2号審判廷へ入廷した。
審判廷は、教室ほどの広さだった。右手に卯の花色のカーテンの引かれた窓。大きな木箱のような机に、女性裁判官が着座していた。紺のスーツに眼鏡のおばさんだ。向かって左の座に裁判所書記官、右の座に家裁調査官。日野倉さんは頷いた。
裁判官と対面する黒い長椅子のまえ、一張羅のスーツの直美ちゃんが佇んだ。その顔は厳しく引き締まり、妙に綺麗だった。俺の腰縄と手錠を外して、係官が退廷した。俺と直美ちゃんは眼を合わせてから、並んで着席した。
審判は人定質問から始まった。佐伯公隆、十六歳。住所、本籍地。
「……以上の非行事実に、間違いありませんか」
間違いありません、と俺。続いて、事件についての質疑に移った。裁判官はいった。
「被害者が線路に落ち、そこへ電車が来て、あなたはどのような反応をしましたか」
「まずいと感じましたが、何もできませんでした。荻原くんが線路へ降りて被害者を助けようとしたので、ショックを受けました」
「ショック。それはどのような」
「単純に、友達が危険に身をさらしていることと、なんといえばいいか……、自分を悪くいった相手を、命がけで救う行為が信じられなかった。とても……気高い行為で、僕という人間が、どうしようもなくちっぽけに思えたんです。そういう、二重のショックでした」
しばらく事件についての質問が続き、俺はできるかぎり誠実に答えた。裁判官はきいた。
「では、自らの喫煙については、どのように考えていますか」
「知りあいに勧められて、軽い気持ちで手を出してしまいました。鑑別所にいて、三週間吸ってませんけど、もうあんまり吸いたくないです。このまま禁煙しようと思ってます」
「保護者のかたは、どのようにお考えですか」
「私もよくいってきかせました。悪い先輩に引きずられて、吸ってしまったようです。家で吸うことはなかったものですから、見のがしてしまいました。うちは離婚しておりますので、私ひとりでは目の届かないところが多いのです」
「いままで、まったく気づかなかったと?」
直美ちゃんはつかのま俯いて、裁判官をまっすぐ見かえした。
「制服がタバコくさいと感じることはありました。でも、この子は、ファミレスで隣の席の人が吸っていたんだといいまして。この子を信じたい気持ちが強かったので、深く追求しなかったんです。キミタカは、さみしかったのかもしれません。忙しさをいいわけにして、この子ときちんと向きあってこなかった。これからは、もっと話しあう時間を持つよう努力するつもりです。
キミタカは抜けたところはありますが、けっして悪い子ではありません。男の子ですから、乱暴な口を利くこともあります。でも、同世代の子たちに比べたら、ずっと穏やかなほうです。
小さいときは、下の子の面倒をよく見てくれました。下の子の葬儀のあと、私が何もできずボンヤリしていたら、この子は小学二年でしたけど、ラーメンをつくってくれました。きちんと野菜炒めまで乗せて。あれは、おいしかった。この子は自分も悲しいんだろうに、それは見せずに慰めるようなことをいってくれました。本当に優しい子なんです。
今だって、私が疲れているときは、家事を手伝ってくれます。料理は私よりも上手なくらいです。
受験のときも、学力でやや不安があったけれど、私の経済力を考えて私立は併願しなかった。公立に絞って、第一志望の桜嶺に、みごとに合格してくれました。親思いな息子さんね、と会社の同僚もいってくれて……」
直美ちゃんは声を詰まらせ、眼をハンカチで押さえた。俺はこんなに褒められたことは今までなかった。尻がむずむずして、俺は審判廷のあちこちを見た。直美ちゃんは続けた。
「正直、この子が人を線路に落としたなんて信じられないんです。もちろん、事実なのはわかっています。こんどのことは、相手のお子さんやご家族のかたには、申しわけが立ちません。心からお詫びしたいと思っています。弁護士さんにお願いしようと考えたんですが、お恥ずかしい話、費用が賄えなかったんです。家裁のかたにあいだに立ってもらうことは、できないものでしょうか」
日野倉さんがいった。「それでは、私が被害者のご家族に連絡をとってみます。許可をくださったら、住所か電話番号をお教えします」
直美ちゃんは頭をさげた。「ありがとうございます。少し落ちついたら、キミタカにもお詫びの手紙を書かせます」
裁判官は頷いて、俺へ視線を移した。「お母さんの気持ちはわかりました。あなたはどうですか」
俺は裁判官の眼鏡を見つめた。「最初は、友達に酷いことをいった被害者を許せないと思っていました。でも、荻原くんは手紙で、もうすべてどうでもいいことだといいました。荻原くんが許しているのに、僕がわだかまりを持つのは筋違いですよね。僕のしたことはしたことですので、責任を持ちます。被害者にはバイト代から少しずつおカネを送ろうと思います」
日野倉さんが頷いていた。眼鏡を光らせ、裁判官はいった。
「休廷します。審判は十五分後に再開し、決定をいいわたします」
少年部調査官室で、俺は手錠の両手を見つめた。あといくばくかで、俺の運命が決まるのだ。胸に手を当てると、鼓動が早かった。俺は勿忘草色の便箋の匂いを嗅いだ。ミントリキュールの香に、気持ちが落ちついた。
長いようで短かった休廷ののち、女性裁判官はいった。
「決定をいいわたします。そのまえに、調査官のほうで何か発言はありますか」
はい、と日野倉さんは起立した。「キミタカくん。幼いころ、君のご両親はケンカが絶えなかった。知らずしらず、君は自分の気持ちを抑えて、大人の顔色を窺うようになった。やがて、ご両親は離婚という道を選んだけれど、そのことで君は少なからず傷ついた。お父さんはめったに連絡をくれず、自分のことなんて忘れてしまったんじゃないかと思った。いつかお母さんにだって見放されるんじゃないか。そんな不安を、君はかかえてしまった。君はなるべく良い子であろうとした。フミタカくんの世話をし、良い成績をとり、問題を起こさず、ときに問題を起こしても口をつぐんだ。フミタカくんは、いわば君の同志だった。しかし、フミタカくんも病気で急に亡くなってしまう」
なぜか涙腺がじんと痺れて、俺はリストバンドで眼を擦った。日野倉さんは続けた。
「君には、お母さんしかいない。お母さんが、君のすべてだった。お母さんの価値観が、君の判断基準になった。
ナオミさんはナオミさんで、一人で男の子ふたりを育てようと一生懸命でした。すでに父親はなく、母親とは疎遠で、離れて暮らす充隆さんもあまりあてにできなかった。間違っちゃいけないと、あなたはいつも必死だった。女親だからと息子たちにナメられないよう、ときに二人に手をあげることもあった。あなただって暴力が正しいとは思ってなかったはずです。けれど、そのときのあなたはそうするしかできなかった」
直美ちゃんもハンカチで眼を押さえ、洟を啜った。日野倉さんはさらに続けた。
「キミタカくんは、叩かれるのは自分が悪いからだと思っていた。お母さんは正しいはずだと信じ、自分自身も正しくあろうとした。だから今回、大切な友達に罵声を浴びせられ、その相手を罰しようとして蹴った。それが正しいやりかただと君は無意識に思っていた。
不幸中の幸い、被害者は命に別状はなかった。こんどの事件がなかったら、君は自分のひずみに気づくことなく、大人になってからもっと重大な結果を伴う事件を起こしたかもしれない。今回のことを教訓に、ぜひ自分の内面と向きあってみてほしい。そして、どうか逃げずに、自棄にならずに、少しずつ被害者に償っていってほしい」
俺はぼろぼろと泣いた。タオル地のリストバンドは、涙をよく吸った。荻原がプレゼントにこれを選んだ理由が、わかった気がした。
俺が落ちつくまで、裁判官のおばさんは待ってくれた。
瞬きもせず見つめながら、裁判官は告げた。
「では、決定をいいわたします。佐伯キミタカくん、あなたを、不処分とします」
PHSの着信音。自室のベッドで、俺は身じろぎした。寝ぼけ眼で通話ボタンを押し、電話を顔に添えた。
『ケメか。平気か』
完全に眼が覚めた。八年ぶりだったけど、すぐに誰かわかった。ほのぼのした北の訛りが懐かしかった。
「ミッタン! どしたの」
西の窓に、百日紅の樹冠。晩夏の午後の斜めの光が、花の影を学習机に投げかけていた。
『大人の声んなったなあ』
ミッタンはしみじみいった。俺は胸がしわっとした。
『ごめんな。きょうの裁判いってやりたかったけど、お父さん、カネがなくてな』
ミッタンのぼそぼそした声は、ルー・リードに少し似ていた。
「いや、大丈夫だよ。不処分だったんだし。あ、不処分って無罪みたいなもんね。それより、ミッタン今どうしてんの」
『お父さんはな、札幌で小料理屋やっててな。常連さんが十何人かついて、儲かりゃしねえが、食えてはいるんだ。心配いらねえよ。ナオミちゃんからきいたぞ。ケメはすげえガッコ入ったんだってな』
「あ、うん。偏差値七十五のとこ。無理かと思ってたけど、入れちゃった」
『ケメは利口だからな。ガッコは楽しいか』
「うん。友達いっぱいいるよ」
『そうか。なら、いいんだ』
「……」
『若いうちに、いっぱい勉強しれな。ケメはお父さんみたいんなっちゃダメだぞ』
なんと返事したものか悩んでいると、じゃあな、とミッタンは通話を切った。俺はしばらくビジートーンをききつづけた。
鉄の風鈴が凜と鳴って、百日紅の花が揺れた。
「何か手伝おうか」
珠暖簾を分けて、紺のポロシャツの荻原がいった。わが家の狭い台所で、俺はエプロンの腰を縛った。小五の家庭科でつくった青いエプロンは、今の俺にはつんつるてん。普段は気にせず使っていたが、よそ目には可笑しいかもしれなかった。俺は低い調理台に向かった。
「大丈夫。お客さんは座っててよ」
俺は手をミューズで念いりに洗った。洗い終えても、荻原はまだ佇んでいた。
「あの、俺、料理苦手なんだ。いろいろ覚えたいから、見学してもいいかな」
荻原は人見知りだった。ダイニングの席で初対面の直美ちゃんと二人きりにするのも可哀そうかと思った。俺は手招きした。あいつは嬉しそうに寄ってきた。
「本日のメニューは」
「オクラの豚肉巻きと、オニオンスープと、ポテトサラダ。デザートは桃でーす」
桃は荻原の手土産だった。あいつは両手を打ち合わせた。
「すごい、本格的」
「まず、手ぇ洗って」
「はーい」
三口の焜炉をフルに使って、鍋に湯を沸かした。オクラを下茹でし、ジャガイモを煮こんだ。俺は眼を瞑って、玉葱をリズミカルに刻んだ。荻原の声がいった。
「うまいもんだなー」
「料理なんか数こなしゃ、嫌でも格好つくの。父ちゃんはいっつもいってたぜ、女は裏切るけど、料理は裏切らねえってさ」
「キンタのお父さん?」
「銀座の板前だったんだ。でも、北海道に帰っちゃってさ。今は小料理屋やってるらしいんだけど、どうせ競馬でスッテンテンになってんだろうな」
俺は玉葱スライスの山を鍋に放りこんだ。缶詰のコーンを加え、固形のコンソメを摩りおろして、蓋をした。料理のコツについて、あいつはこまごまと質問した。俺はわかるかぎり答えた。茹だったオクラを水にさらして、塩胡椒で下味をつけた豚肉を巻いた。それをフライパンいっぱいに並べ、中火にかけた。ジャガイモには竹串がすんなりとおった。湯を捨てて、塩をまぶして空煎りした。ポテトマッシャーがないので、おたまで潰した。
「シンちゃんちに電話したらさ、女の人が出たじゃん。あれって誰」
「すみれさん、お手伝いさんだよ。一日おきに来てくれるんだ」
「お手伝いさんのいる家って……、やっぱ、シンちゃんってお坊ちゃんなんだな」
「うちは、たいしたことないよ。山手町って、とんでもないカネ持ちが多いから。庭にプールがあったかと思ったら、次の年にはテニスコートになってたりするんだもん。うちなんかすごいボロ屋敷だし、恥ずかしいんだ」
本当に引け目を感じているようだった。俺はミックスベジタブルを芋に加え、マヨネーズを絞った。
「あのねえ、んなこといったら、俺んち掘っ建て小屋じゃん。ボロでも屋敷ならいいじゃんか」
あいつはきまり悪そうに俯いた。俺は笑った。
「身柄引受け、お手伝いさんに頼めばよかったのに。ねえ、後藤さん呼んだの、やっぱり俺のためなんしょ」
荻原は俺のリストバンドを見つめた。「だって、キンタが俺みたいな目に遭ったら、嫌だ」
「ありがとう」
俺はスープを碗によそって、肉巻きを皿に盛りつけた。ポテトサラダを四つの小鉢に分け、その一つにサランラップをした。荻原に手伝ってもらって、ダイニングのテーブルに運んだ。ラップをしたサラダを、桐の整理箪笥に置いた。大きな写真立てに、文隆の写真が何枚か。その右頬の赤痣は、百日紅の花に似ていた。俺は軽く掌を合わせた。
「ブンはじゃがいもがチョー大好きでさ。このくらい、ペロッと平らげるんだぜ。だから、誕生日と命日は、ポテトサラダつくってやるんだよ。六日がブンの誕生日だったんだ。今年もやってやるつもりだったんだけど、ああいうことになっちゃったからさ」
「そっか」
荻原も掌を合わせた。テーブルで直美ちゃんは初孫でも見るように眼を細めていた。
テーブルの皿が空になってから、荻原が直美ちゃんにいった。
「郵便局にお勤めなんですね。普段はどういった業務を」
「定形外の大型郵便の区分けをやってる。あとは外国郵便なんかもね。私のいる横浜郵便集中局っていうのは、神奈川県の郵便局の元締めみたいなところでね、県の郵便物がぜんぶ集まるの。そこで県内の郵便局別に区分けして、配送するのよ。私は真面目によくやってるから、関東郵政局長賞をもらったことがある。それをもらったのは、局内の非常勤職員では、私をいれて二人しかいないって課長はいってたね」
「すごいなあ。僕、郵便って興味があるんです。鎌倉の祖父が郵便史の研究家で」
「へえ、郵便史の」
「はい。由比ガ浜に遊びに行くと、前島密のことなんかを話してくれます」
「一円切手の人ね」
「そうです。競合相手の飛脚の親方を、密が説得するんです。君はロシヤに手紙を運べるのか、郵便は日本と世界を繋ぐ一大事業なのだ、って。そういう話きくのが好きで。祖父に影響されて、僕も切手を集めたりして。何年か前にも、密の記念切手が発売されましたね」
「そうね。でも、ああいうのは数が出るから、価値はあがらなそうね」
「ええ。しかも、郵便のコレクターは年々減っていて、市場は右肩下がりなんだそうですよ。でも、値段じゃないんです。きちんと保存して伝えていくことに意義があるんです。祖父がいっていました」
二人の郵便談義が終わりそうになく、俺は少々退屈だった。俺は箸を空のコップに突っこんだ。直美ちゃんが俺にいった。
「手紙といえば、あんたどうするのよ」
「何が」
「何がじゃないわよ。ケガした子にお詫び状を書くんでしょう」
「あんなやつに」
俺の声は険悪だったろう。直美ちゃんも険しい顔になった。
「あんたの話をきいたかぎりじゃ、相手は酷い子なのかもね。でもね、その子にだって母親はいるでしょ。息子が大ケガしたら、気が気じゃないはずだよ。たしかに賠償請求なんかされても、うちは困るけどね。最低でも、お見舞金と治療費はね。あんたのやったことは、やったことだよ。人として筋は通さなきゃダメだ。きちんとお詫び状を書いて……」
「だって俺、申しわけないって思ってない。そんな気持ちで手紙なんか書いたって、相手の感情、逆撫でするだけじゃないの」
「だからって、このままほったらかしで良いわけないでしょうが」
「だから、見舞金とかは、ちゃんと出すよ。それでいいんだろ」
直美ちゃんは、むっと唇を結んだ。あっ、桃、と荻原の声。俺と直美ちゃんは振りむいた。
「デザートの桃、冷えてるんじゃないかな」
荻原はあどけなく続けた。さりげなく仲裁してくれたのだと思った。俺は席を立った。
「そうだな、冷えすぎてもうまくないからな」
櫛切りにした白桃を、硝子の器に盛って運んだ。荻原と二人、縁側に腰かけた。細長い庭を眺めて、デザートフォークで桃を齧った。あいつはいった。
「キンタは、いいな」
「え、何が」
「お母さんと、すごく仲いいじゃない。俺、何年も家族とケンカしてないもん」
「ケンカしないなら、仲いいんじゃないの」
「そういうことじゃなくて……、なんていったらいいのかな」荻原は桃の齧り口を見つめた。「たぶん、おたがいに、ケンカしても無駄だと思ってるのかも」
俺は言葉をかけあぐねた。痣のない側の横顔が、悲しいほど綺麗だった。
「キンタが羨ましい」
あいつは桃を頬ばった。百日紅の赤い花が降った。二階の窓の風鈴が鳴った。
九月の放課後、第三棟二階の美術室の窓に小糠雨。糊の利いたワイシャツの荻原は、木製スツールに姿勢よく座っていた。
荻原から一メートルほど離れて、白いビニールエプロンの堤律子が佇んだ。校則違反の白いポロシャツと、瑠璃色のカラコン。律子の花奢な両手は、黝い粘土を大胆にちぎった。荻原の肩から上を再現した塑像は、まだ粗削りだったが、驚くほど荻原に生き写しだった。俺は椅子の背凭れに両腕を乗せ、塑像と荻原をなんべんも見比べた。
「リツコ、すげえ」
律子は粒揃いの歯を見せた。ときおり荻原も塑像を一瞥し、恥ずかしそうに正面を向いた。俺はきいた。
「これって出来あがったら、どうすんの」
「この粘土の原型を、まず着色した石膏でコーティングして、固まったら粘土を刳り抜くの。その石膏の型の内側に石鹸水を塗って、こんどは普通の白い石膏を段階的に流しこむのね。それで石膏が完全に固まったら、外側の色つきの石膏を木槌で叩いて壊す。すると石膏像の完成」
ひとときも手を止めず律子は説明した。俺は感心しきりだった。
「じゃ、この粘土は残らないのか」
「そう。石膏の欠けらが入っちゃうから、再利用もできないしね」
「一回こっきりか。人生みたいだな」
「俺、輪廻を信じたい派」
荻原が小さく挙手した。俺は大げさにリストバンドの右腕を振った。
「輪廻するとしてもさ、この人生は一回きりだろ。俺が佐伯キミタカで、おまえが荻原シンで、おまえが堤リツコとして、ここに揃うのは今世だけかもしれないんだぜ。そう思うと、なんかすごくねえ? 奇跡じゃねえ?」
荻原はハッとしたふうに瞬きした。仔馬の眸のような、慈しい黒。
「そうだな」
「はい、そこ。純粋な子を騙さないように」
律子がいった。えっ、俺、騙されてるの、と荻原は両頬を押さえた。俺と律子は笑った。
黝い塑像を、俺は注視した。卵型の頭・高い額と鼻梁・鋭い頬・厚みのある唇。俺ではなく、中村でもなく、荻原をモデルに選んだ律子の審美眼は、悔しいけれど確かだった。
荻原に痣がなかったら、と思った。それは容易に想像できた。でも、その想像の顔は、荻原じゃないように見えた。
実物の荻原がいった。「俺、夏休みは鎌倉の祖父の家に行ってたんですけど、堤さんは何してました」
「バイト三昧」
「あの画材屋だべ」
俺は口を挟んだ。律子は手を止め、荻原の頭部を角度を変えて観察した。
「うん。休み中だけ、週五に増やしてもらったの。美大生が辞めて田舎に帰っちゃってね、丁度よかったんだ。給料日が楽しみだよ」
俺はいった。「そんなに稼いで、何か欲しいもんでもあんの。俺、買ってやろうか」
「美大の学費と、自動車教習所の費用。どっちも親は反対してるから。自分でなんとかするしかないの」
「そっか。すげえな。俺、おまえんこと、尊敬するわ」
「キンタも、あるだけ使っちゃわないで、考えなよ」
「反省します」
塑像の台に向かって、俺は日光猿軍団がやるあのポーズをした。律子は肩を揺らした。こぼれるミディアムボブの黒髪。律子はいった。
「鎌倉か、いいなあ。私んちは青葉区だから、海がないんだよね」
「由比ヶ浜海岸って、夏目漱石の《こゝろ》の舞台になった場所なんです。海のむこうに富士山が見えて綺麗ですよ。臨海教室、堤さんは来なかったでしょう。来年の夏あたり、鎌倉に行きませんか……えっと、みんなで」
荻原は恥ずかしそうにいった。律子は嬉しそうに笑った。俺はいった。
「臨海教室、チョー楽しかったぜ。リツコ、なんで来なかったの」
「焼けたくないもん。シミ予備軍できちゃう」
律子は頬をさわった。俺も真似して頬をさわった。
「シミ予備軍もできたけど、思い出もできたし、老後の後悔はないね」
荻原がいった。「シミ予備軍、できるかもしれないですけど、また、みんなで思い出つくりましょうよ」
開け放したドアから、誰かの口笛。流行りのKinKi Kids。それは廊下に反響し、はっとするほど美しく響いた。KinKi Kidsが流れていた鑑別所の日々が、遠く思えた。
残暑の夜の階段をおりて、俺は台所へ行った。喉が渇いていた。
台所の蛍光灯が、煌々と白かった。老眼鏡の直美ちゃんの手に便箋。合板のダイニングテーブルに封切った封筒。俺はぴんと来た。きっと、被害者からの手紙だ。俺が何もいわないうちに、直美ちゃんは切りだした。
「被害者の子ね、お母さんを早くに亡くしたんだって。だから、お姉さんが返事をくれたんだけど、本人は高校を辞めなきゃいけなくなったそうよ」
俺はびっくりした。「なんで辞めてんの」
「スポーツ推薦だったから、部活が続けられないと、在学資格もなくなっちゃうんですって。半分ひきこもりみたいになっちゃって、可哀そうでしょうがないって。どうするの」
「どうするって、どうしようもないじゃん。カネ渡すくらいしか……」
「おカネで解決する問題じゃないとお姉さんはいってるわ。おカネ以外の誠意の見せかたはないのかって」
「知らないよ、そんなの」
俺はきつめの声を出した。直美ちゃんは恐い眼をした。
「父さんのこと、あんたは憶えてないんだね」
離婚は十年も前。当時の記憶は朧げだった。何をいいたいのか、わからなかった。
「ミッタンが何よ」
「まあ、あんた、幼稚園児だったもんね。ミッタン、入院したことあったでしょう。それも思いだせない?」
どこかの病室にミッタンを見舞ったことは、なんとなく憶えていた。腹の縫合痕を見せて、ミッタンは笑ったのだ。お父さん、ドジだから、転んで包丁刺しちゃったんだ、と。
「そっか。ミッタン、そんなふうにいったんだ。そうじゃないのよ。あのとき、ミッタン、職場で若い子に刺されたの」
しばし、声が出なかった。「なんで」
「どういうなりゆきだったのか、わからない。ミッタン、話したがらなかったし。
でも、相手の子は十八で、たいした罰は受けなかった。初めこそ手紙とおカネ寄こしたけど、反省を見せて罰を軽くしたかっただけなんだろうね。そのあと、その子はどこかへドロンだよ。
ミッタンは神経やられちゃってね、右手が思うように動かなくなった。それで板前を辞めたの。そのせいで離婚したようなもんだよ。悔しいよ。おかげで、あんたにも苦労させて。
ケメ。あんた、少なからず人の人生を曲げたんだよ。あんたはもう済んだことみたいに思ってたようだけど、むこうはそう思ってないよ。とにかく、お詫びの手紙を書きなさいよ。文面が思いつかないっていうなら、母さんが下書きをしてもいいから」
「なんでそこまでして」
「人の恨みは、恐いよ。あんた、このままじゃ、きっと痛い目に遭う。それが嫌だから、いってんじゃないの」
直美ちゃんの泣きそうな声。俺は早く麦茶が飲みたいと思っていた。
十月の夕方、駅前商店街のビデオショップはそこそこの客入りだった。帰り際の学生や会社員。カウンターで客に応対する合間に、俺は新入荷のビデオの荷解きをしていた。
カウンター前に客が佇んだ。俺は作業を中断し、営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいませ。レンタルでございますか」
お客は、パンツスーツにジャケットを羽織った女の人。女性にしては背が高かった。二十代なかばか。理知的な額の、眦の切れあがった美人だ。隙のない化粧のその人は、一本のビデオをカウンターに置いた。
「その映画、観たことある?」
そのビデオは《勇気ある追跡》。カウボーイハットに眼帯のジョン・ウェイン。古そうな映画だ。
「すみません、まだ観たことがなくて」
「あなた、高校生よね。いつからここに勤めてるのかしら」
接客中、逆ナンみたいに女に声をかけられることはあった。俺がカウンターに立つのをわざわざ見計らって来たり、積極的な子は電話番号のメモを渡してきたりもした(その子とはいっぺんデートしてそれきりになった)。俺は軽くどきどきした。
「四月からなので、もう半年ですね」
そう、と美人は微笑した。くきやかなルージュと白い歯。でも、眼はまるで笑っていなかった。ようやく、俺のなかで黄信号が点った。この人は何か変だ。美人がいった。
「あなた、何か人に恨まれるようなことをしなかった」
「したかもしれませんけど、ここでお客さんにお話しするようなことではないです」
俺は淡々と答えた。美人は笑みを消した。
「教えてあげる。強い意志さえ持てば、正義は達成できる。それがその映画のテーマよ」
そう告げると、美人はふいと立ち去った。あっけにとられて俺は見送った。美人はパンプスを鳴らして入口の短い階段をあがり、振りかえることなく出ていった。
「佐伯、ちょっと来い」
帰りのHR後、担任の米井潤一が手招きした。米井は苦虫を嚙んだ顔。悪い予感。
職員室に行くのかと思いきや、行先は第一棟二階の校長室だった。古びた木製デスク・木製キャビネット・木製ローテーブル・合皮のソファーセット。室内は整頓されているのに、何か雑然とした印象がした。
二人掛けソファーにつくよう促された。米井と財津左京校長は、二人して俺の正面に座った。尋問のポジションだ。ますます悪い予感。
「おまえが横浜のビデオ屋でアルバイトをしているときいた。本当か」
米井がいった。次の瞬間、俺は頭をさげた。
「すみませんっ。うちは母子家庭なので、家計が苦しかったんです」
下手にごまかさず、素直に認めたほうが傷が浅い気がしたのだ。米井は銀縁眼鏡のブリッジを中指で持ちあげた。
「なら許可をとればよかっただろう。なぜ無断でやる必要があったんだ」
「それは……」ただ許可をもらうのが面倒だっただけだ。
「まだ、隠してることがあるんじゃないのかね」
それまで黙っていた財津校長が口をひらいた。十月なかばの校長室は涼しいのに、俺は汗をかきそうな心地がした。
「……と、おっしゃいますと」
「二ヶ月まえ、君がしでかした事件のことだよ」
校長の声にはなじる響きがあった。俺は絶句してしまった。校長は続けた。
「じつをいうとだね、被害者は古い知人のお孫さんだったんだよ。まったく、人を蹴って線路に突き落とすなんて、まるで気狂いの所業じゃないか。桜嶺始まって以来の不祥事だ」
「でも、審判では不処分になったんです」
つい、すがるような声になった。校長の顔つきは魚類のように冷たかった。
「だとしても、社会通念上、許されない。人道に悖る行為だ。いずれ処分を通達する。それまで、まわりに余計なことは話さないように」
「人を線路に突き落としたらしいよ。うちの生徒だって」
「そいつ、退学モノだよな。くわばら、くわばら」
どこから噂が出たのか、昼休みの教室にはそんな会話がきこえた。俺は気が気じゃなかった。机に腰かけた中村が、黄色いエレキベースの弦を右の親指で叩いた。
「ほんま、どこのどいつやろ。電車止めたアホは」
「ただの噂だろ。まさか、うちの生徒に限って。な、キンタ」
隣に佇んだ荻原がいった。俺は席を立った。
「……ちょっと、便所」
いたたまれなかった。俺は教室を出て、階段を駆けおりた。
第三棟校舎裏の桜の林は、春になると様々な品種が一斉に咲き誇り、ちょっとした見ものだった。でも、晩秋の今は、ただの淋しい桜紅葉だ。上履きのまま腐葉土を踏み、俺はしゃがみこんだ。
陽だまりに、白黒のぶち猫が背中を丸くしていた。猫は大儀そうに俺を一瞥し、眼を閉じた。校庭に棲みついた野良で、うちの生徒らは好き勝手に名前をつけて可愛がった。俺は個人的に牛若と呼んでいた。その薄汚れた毛並みを、俺はなんべんも何遍も撫でた。ふれるたび、毛皮が縮れるのが面白かった。そうしていると、胸に蠢く不安の塊を忘れていられた。信頼っていうのは、貯金みたいなもんだ。なくなるときは、いっぺんになくなるのだ。
背後から枯葉を踏む音。俺はいった。
「探してくれたの」
荻原は俯き加減。「靴はあるのに、どこにもいないから。屋上とか見にいっちゃった」
「そっか。心配してくれたんだ。ありがと」
風に千の梢が騒いだ。桜紅葉が散った。荻原は隣にしゃがんで、牛若の頭を撫でた。痣の横顔がいった。
「なんだ、おまえ、俺みたいな顔してるじゃないか。不細工だな」
牛若の顔の柄はアシンメトリーで、たしかに荻原の痣に似ていた。あいつの撫でるしぐさは優雅だった。荻原の指先に、牛若はうるさいくらいにぐるぐると喉を鳴らした。
「俺、退学になるかもしれない」
俺はいった。荻原は手を止め、眼を大きくした。俺は校長室での出来事を話した。
「公立はわりと寛容だって後藤さんはいってたんだけどな」荻原は苦しげに眉間を皺めて、牛若を撫でつづけた。「もし、キンタが退学になったりしたら、俺も辞める」
「そんなこと、絶対すんな。俺が嫌だ。だいたい、退学って決まったわけでもないし、縁起でもないこといわないで」
ごめん、とあいつはいった。荻原は悪くないのに。俺は自分自身に苛々した。
「俺も猫ならよかったのにな」
あいつは低い声でいった。俺は唇を嚙んだ。荻原にそんなセリフをいわせたことが、つらかった。
枯葉の跫。俺と荻原は凍った。息を切らした中村は、酷い仏頂面だった。
「おまえら、なんか隠し事しよるやろ」
瞬時に俺は緊張した。荻原が歯を見せた。
「ごめん。じつはアレ、ただのイソガニだったんだ。あの蟹を食べちゃうと、中村の株が下がると思ったから……」
「ごまかすな。八月の横浜駅の乗客転落事故のことや。俺は知ってんねんぞ」
顔が引きつりそうだった。荻原も恐い顔になった。中村はどこまで知っているのだろう。はったりの可能性もあった。
「知ってるって、何をだよ」
中村は俺たちに割りこんでしゃがみ、牛若を両手で捏ねくりまわした。
「休み中、安藤らとスタジオで練習してたんや。俺ら、もし遅刻したら、ドベのんがメシおごるっちゅう掟でな。ほんで俺、うっかり遅刻しそなってもて。ベース担いで、必死のパッチで走り倒して、滑りこみセーフで電車乗れたんや。はー、やれやれ、これでまにあう……思てたら、電車、途中で減速してな。ただいまぁ、緊急停車のぉ、無線を受信しましたのでぇ……とかアナウンスあってな。なんで東海道線の事故で、横須賀線まで止まるんじゃ。保土ヶ谷から横浜まで五分のところ、十五分かかってんで。おかげで、五人ぶんの晩メシおごらされてん。財布の中身、ずんべらぼんや。安藤のアホが、Lのクアトロピザ二枚も頼みよって。スニーカーの中敷ん裏の、虎の子の漱石さんもなくなったわ。ドカ損や」
中村は涙を拭くふりをした。それから真顔になって、俺を真正面から見据えた。
「俺のおやじ、西中央署に勤めてん。少年係の巡査部長でな」
はっとした。そういえば、あの巡査部長は中村といった。中村なんて至極ありふれた名字だから、まさかとも思わなかった。脱力感が襲った。俺は苦々しい気持ちでいった。
「お父さんから全部きいたのか」
「アホ。おやじはなんもいわん。警官は業務上のことは、家族にもいうたらあかんのや。
ただな、あのおやじ、いきなし俺にガッコの友達んこときくんや。俺の友達関係、それまで気にしたこともなかったくせにな。キンタとシンノジんこと、重点的にきかれたわ。なんかおかしい思たけど、まあ、そんときは、それだけのことやった。
けど、こういう噂が出てな。おまえらのどっちかがそうなんちゃうかて気ぃがした。キンタ。インフルエンザで入院て、噓やろ」
牛若の大欠伸。俺は奥歯を嚙みしめた。
「なんでもかんでもいえっちゅうつもりは、俺はべつにないねん。ただ、肝心なこといわんとくのは、友達ちゃう思うんや」
中村はまっすぐに睨んだ。俺もまっすぐに見かえした。中村の迫りだしたぎょろ眼。その眼ん玉が潤んで、中村はじわりと俯いた。
「……俺が、勝手に思てただけか」
中村は乱暴に眼を擦った。こんどはふりじゃなかった。この天パの男に申しわけなくなった。中村は野次馬根性じゃなく、友情からこんな尋問をしてきたのだ。
俺は観念して、すべてを明かした。駅のホームで荻原が罵倒され、俺が相手を蹴って線路に落としたこと。留置場と鑑別所に入り、審判で不処分になったこと。けれど、校長は何かしらの処分をくだすつもりらしいこと。俺は弱りきって、情けない声を出した。
「どしたらいいかなあ、俺」
中村は天パを掻きながら首を捻っていたが、やがてぽつりといった。
「被害者に、校長への嘆願書でも書いてもろたら、ええんちゃうか」
佐伯公隆 様
前略
あなたがいつ手紙を寄こすのか、私はずっと待っておりました。あの事件から一ト月が経ち、二タ月が過ぎ……もしかしたら、あなたは手紙を書く気はないのかもしれないと思いはじめました。
大和はケガは回復したものの、いまだに電車に轢かれそうになる悪夢を見、駅に近づくことさえできない状態です。医師にはPTSD――心的外傷後ストレス障害と診断されました。弟がこんなに苦しんでいるのに、あなたが事件を忘れ、のうのうと暮らしているかと思うと、腹が立ってしかたありませんでした。
探偵に依頼し、あなたの身辺を調べあげ、思いきって横浜駅前のビデオ店まで会いに行きました。あなたは……あどけない、普通の男の子でした。意外でした。てっきり、もっと粗暴な子だと想像していたのです。だから、余計にわかりませんでした。弟がなぜあんなひどい目に遭わなければならなかったのかと。
あなたからの手紙に添えられた、荻原心くんの手紙を読みました。弟のしたことはあまりに残酷で、荻原くんには頭をいくつ下げてもたりません。
けれど、大和はもう、それなりの報いを受けているのです。
長男への過度の期待と、また母親を早くに亡くした不憫さから、父は弟をわがまま放題に育てました。欲しがるものはなんでも買い与え、悪さをしても碌に叱ることもしませんでした。大和は自分は選ばれた特別な存在だと心得違いをしてしまったようです。
二年前、大和が荻原くんへの恐喝未遂と暴行で家庭裁判所の呼出しを受けたとき、父は弟を罵倒し、したたかに殴りました。おまえは私の子ではない、と。勘当も同然で、大和は住む部屋すら私たちとは別にされました。身勝手な父親です。弟はすっかりねじけてしまいました。軟式野球と、その仲間だけが、大和の最後の砦だったのです。
その砦さえ、あの子は失いました。あなたのせいです。
財津左京校長に、あなたのアルバイトと事件のことを知らせたのは、私です。あなたも大和と同じ痛みを知ればいいと思った。今は、やりすぎたと悔いています。あなたの将来を潰しても、なんともならないのですから。
あなたの送ってくれたお金は、受けとりましょう。大和のこれからのために使いたいと考えています。
草草不一
舘岡和泉
美しい字の便箋を折り、俺は元の封筒に収めた。嘆願書を頼もうという下心は、もうなかった。舘岡大和の話に、俺は何故か馮翼を思いだした。舘岡も、馮も、俺も、荻原も、きっと等しく加害者であり、被害者なのだ。
学習机の双子の毬藻の壜の横、五歳の文隆は痣を歪めて笑っていた。俺は荻原の笑みを思った。あいつに会いたくて、しかたなかった。
十一月の凩に、石川啄木の短歌を思った。真新しい詰襟のホックを、俺は外した。白いカラーが、喉に擦れて痛かった。
青銅色の鉄骨を乗せた見晴らし台、ベンチで俺はG-SHOCKを読んだ。幕末明治期にイギリス軍の駐屯地だった場所に、昭和三十七年に開園したこの公園は、市の商業港と斜張橋を一望できた。一キロ先の海は、秋の午後の光を撥ねかえして静かだ。
待ち人は、まもなく現れた。じかに会うのは一ヶ月ぶり。桜嶺の黒いブレザーの荻原は、頬の線が心持ち柔らかになっていた。
「ちょっと太った?」
「天高く馬肥ゆる秋だからね」
「元気そうで何より」
「新しい学校はどう。友達できた?」
後期中間テスト直前に、俺は停学を食らった。事実上の退学勧告だった。そんな学校なら行かなくていい、と直美ちゃんはいった。俺は第二志望だった高校の編入テストを受け、中途半端な時期の転校生になった。けれど、噂はつきまとい、俺は新しい教室で浮いた。
「藤江高校って元女学校じゃん。女の子が多くてさ、ハーレム状態なんだよね。マジ天国」
俺は強がりをいった。荻原は頭をさげた。
「こんどのこと、ちゃんと謝っておきたかったんだ。俺のせいで、キンタにたくさんつらい思いさせて……」
「謝んないでよ。たんに俺がバカだっただけで、べつにシンのせいじゃないって。俺はハーレムでうはうはだから、いいの」
「ほんとに、ごめん」
「……」
「ごめん」
「やめてってば」
荻原との関係を、憂いや疚しさの残るものにしたくなかった。俺は恐い顔をつくった。
「それ以上謝ったら、俺、怒るよ」
「ごめ……」
荻原は口を押えた。俺は微苦笑した。あいつは顔をあげた。
「そうだ、堤さんから伝言。あの石膏像、完成したから、こんど見に来てね、って」
「マジ。行く、いく」
「中村からも伝言。暇やったら軽音楽部にでも入ってドラム叩け、上達したらセッションしたってもええで、だって」
二人の伝言が嬉しいのと、荻原のつたない関西弁が可愛くて、俺は笑った。
「ドラムね。せいぜい練習しますか」
「みんな、寂しがってるよ。俺も……」
荻原は耳を赤らめ、もじもじと俯いた。この男の耳に、俺は嚙みつきたくなった。
「シンちゃん。俺のこと、好き?」
荻原は眼を大きくした。俺は重ねてきいた。
「手紙でいってくれたよね。俺のいうことは、できるかぎり叶える、って」
う、うん、と荻原は途惑いがちに頷いた。俺は歯茎が出るほど笑ってみせた。
「今からシンちゃんち、遊びにいっていい」
荻原も、笑った。「きょうはあの人、家にいるんだ。だから、キンタ、遊びに来てよ。話したいことが、いっぱいあるんだ。おいしいコーヒーもご馳走するから」
俺は立ちあがり、右手を差しだした。詰襟の袖から、若草色のリストバンドが覗いた。あいつの骨ばった右手が、手を握りかえした。
俺はその手を強く引っぱった。なかば転ぶように荻原は、俺の胸へ飛びこんだ。両腕にすっぽりと収まる花奢な肩。
「キン……タ?」
その前髪に、俺は唇を寄せた。そのミントリキュールの匂いを、胸いっぱいに吸いこんだ。凩の鳴るあいだ、両腕に力を込めた。ゆっくりと腕を解いて、俺はそっぽを向いた。
「ちょっと、抱っこしたかっただけ」
意味わかんない、と荻原は擽ったそうに肩を揺らした。痣を歪めた、邪気のない笑顔。
自分でも意味がわかんなくて、俺も笑った。
薄い巻層雲が、空の青を淡くしていた。先導し歩きだす荻原の肩を、海からの凩がどどうっと掻き抱いた。
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