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道の肆区
四十二哩(脳味噌がありゃ音楽は鳴る)
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ぼくは二つの頭をカチあわせて、天王高校の職員用駐車場のアスファルトにほうりだした。回し蹴りでもう一つの頭を薙ぎ払う。ぼくは鼻血をすすりあげて、ゆらりと天野克浪へ近づいた。天野は日産エクストレイルのドアに凭れて、片手を突っぱった。
「ほ、骨は勘弁してくれ」
「先に戦争しかけてきたのは、そっちだろ。おれを殺しに来といて、てめえが殺されそうになったらガタガタぬかすのかよ」
ぼくは天野の顔をガラスに押しつけて、渾身の頭突きを肩に食らわせた。人体で一番折れやすいのは鎖骨だ。天野は声にならない悲鳴をあげて倒れこんだ。蛞蝓のように悶える四人。
ぼくは天を仰いだ。相変わらずの灰色。でも、雨はやんでいた。ぼくは鼻血をすすりつつ歩きだした。ティッシュは持っていなかった。部外者でも保健室って利用できるのかなと考えながら、ぼくは文化祭の人ごみへ戻った。
いきなり目の前に見知った顔が二つ。音羽カンナと竹宮朋代、近所の女子高のセーラー服だ。ぼくの鼻血を見て、ふたりは目を剝いた。
「きゃー、ちょっとやだ」
「あんた、大丈夫?」
「よお、久しぶりな」
ぼくは鼻をつまんでいった。
竹宮たちはぼくを救護テントへ連れてってくれた。ぼくはティッシュで鼻栓をして、パイプ椅子に座った。あたし飲みもの買ってくるね、と音羽はどこかへ行った。隣の椅子で竹宮はいう。
「あんた、天王高だっけ」
「いや、程工。先輩に呼ばれてきただけ」
「へえ、北浦はもっと頭良いとこ行くかと思ったのに」
意外そうにいわれて、ぼくは不思議に感じた。竹宮はぼくをバカにしているのだと思っていたから。
「もうオタウラっていわないんだ?」
「呼んであげてもいいけど?」
「北浦でお願いします。音羽と仲よくなったの?」
「河合省磨被害者の会を結成してね。しゃべったら悪い子じゃなかった」
竹宮は艶つやの黒髪を指先で梳いた。中学のころ腰まで届きそうだったそれは、花奢な肩の下で切りそろえてあった。セーラー服の胸もとの、きれいな丘陵。Cカップくらいかな。ぼくは髪を掻きあげた。竹宮の澄んだアーモンドアイが、ぼくの右耳へ向く。
「わあ。きれいだね。本物?」
芝賢治の形見のダイヤモンドピアス。ぼくは髪の毛で隠した。
「イミテーションだよ。キュービックジルコニア」
「へえ。でも、よく光るね」
竹宮の指先がぼくの右の毛を梳いた。男とちがう、繊細なふれかた。息が止まった。
かぐや姫オトせたら、おれに教えろよな。
いつかの芝賢治の声が甦った。ぼくはこの子と恋をできるだろうか? どこからか吹奏楽の軽快な合奏。デューク・エリントン《スイングしなけりゃ意味がない》。また小糠雨が降りだした。音羽はなかなか帰ってこなかった。
♂
華々しき鼻血のごとくあふれだすものを愛とは呼ばなくていい
♂
ファミレスの奢りは目黒秀気だった。目黒の手に入れたメールアドレスは、直後に変更されたのか通じなかったのだ。バーミヤン星川駅前店、白鳥雄飛とぼくはそれぞれ黒胡麻担々麺と五目天津飯を平らげた。デザートは愛玉子。ほくほく顔で雄飛がいう。
「右近中の後輩だったんだ。友達と一緒にききき来たら、はぐれちゃったんだってよ。でよ、名前きききいたら、くくく工藤蘭ってのね。お父さんが、きゃキャンディーズの蘭ちゃんがすきだったんですと」
「下の名前がカ行じゃなくてよかったっすね」
愛玉子のゼリーを頬ばって、ぼくはいった。雄飛はにやりとした。
「んで、兄貴の名前が斗南っていうんだと。《名探偵コナン》じゃんって笑ってさ」
ぼくは驚いた。「その工藤斗南と中二のときクラス一緒でした」
「マジで。世間はせめえな。でもな、おれからすっと、ちょっと若けえよな。十三歳」
目黒が苦笑いでいう。「犯罪じゃね?」
「おれのじいちゃんとばあちゃんは十七歳差でしたよ。光源氏みたいに、女になるまで成長を見守ったらいいんじゃないですかね」
「光GENJIって、昔のアイドルだっけ」
雄飛は素でボケてるらしかった。目黒がつっこむ。
「アホか、《源氏物語》のほうだよ。あのマザコンでロリコンのおっさんの話」
「メグ、読んだことあんだ?」
「マンガのやつな。光源氏が母親の面影があるからってガキンチョだった紫の上を誘拐して育てて、最終的に犯っちゃうんじゃなかったっけ」
「フツーに犯罪じゃね?」
「あんな不倫だの近親相姦だの昼ドラみたいにドロドロの話、何がおもしろいんだか」
ぼくはちゃんと読んだことがなく、なんともいえなかった。「でも、まあ、千年も生き残ってきたわけですからね。力のある物語なんでしょうね。こう、人間の普遍性というか」
「フヘンセーね」雄飛は愛玉子の枸杞の実を沈めた。「難しいこたわかんねえけど、ランちゃん、いい子みたいだし、つきあってみるわ。あの子、おれが吃っても笑わねえの」
目黒はじっと雄飛を見て、ため息をついた。雄飛はいう。
「メグ、さみしい?」
「おめえが誰とつきあおうが、おれには関係ねえよ」
目黒は愛玉子の残りをすくった。雄飛は表情の抜け落ちた目で相棒を見つめた。目黒が舐めた匙を向ける。
「それより、キ印、おめえの相手はよ?」
「中学でタメだった子で、竹宮ってんですけど……」
目黒がぐいっと身を乗りだした。テーブルが揺れて、食器が鳴った。
「竹宮って、竹宮トモヨか?」
そういえば、竹宮は中学で有名人だった。「はい、あの竹宮です」
「おめえじゃ釣りあわねえだろ」
そのとおりかもしれないが、はっきりいわれると腹が立った。
「べつに、釣りあうも釣りあわないも、メル友っすよ、メル友」
「おめえじゃ、ぜってえ無理だ」
目黒は意固地にいった。雄飛が笑う。
「メグは小坊のころ、トモヨちゃんすきだったもんな」
「そうだったんですか?」
目黒は仏頂づらでそっぽを向いた。雄飛はいう。
「初音の男子の三人に二人はトモヨちゃん派だったけど、メグが睨みききき利かせてるから、誰も近づけなくてよ。小六のとき、思い余ってホワイトデーにプレゼントあげてたよな。バレンタイン何ももらってないくせに」
「へえ、先輩にもかわいいときがあったんすね」
「うるせえっ。それ以上しゃべったら殺す」
「やってみ」
雄飛は不敵に手招きした。目黒は歯ぎしりして、雄飛の愛玉子を横どりし一気飲みした。雄飛は笑った。
♂
禁煙のファミレス恋に火をつけて燥いでる君たちが煙たい
♂
竹宮と文章で何を話せばいいのかわからなくて、うちのルドルフがフェルトの魚を抱っこし眠ってる写メールを送った。数分後、チープなファンファーレが鳴った。
超かわいい♡
ハートマーク……。ぼくは思いきることにした。
こんどの金曜日、カラオケ行かない?
どきどきしながら返信を待った。ルドルフの小さな背中を撫でると、そのたび皮が縮れておもしろかった。やつはぐるぐると喉を大きく鳴らした。チープなファンファーレ。
いいよ。カンナと一緒に行く。何時にどこ?
ぼくはじゃっかん気落ちした。二人きりじゃないのか。
3時半に天王町のアズールで。
チープなファンファーレ。返事は一行のみ。
了解(*・ω・*)ゝ
♂
十三日の金曜日、蒸し暑い秋曇りだった。天王町駅から徒歩二分のアズールの前、約束の十五分まえにぼくは佇んだ。すっぽかされたらどうしようかと思ってた。
約束の時刻からやや遅れて、竹宮と音羽はやってきた。女子高の夏のセーラー服がまぶしかった。
薄暗い個室で、タッチパネル式のリモコンを操作する竹宮。ぼくは目黒のことをきいてみた。
「ヒデキくん? おぼえてるよ。学年ちがうのに、よく声かけてきたから。バレンタイン何もしてないのに、ホワイトデーにキャンディくれて。告白されたけど、丁重にお断りしました」
「なんで」
「うーん、よく見ると顔はかっこよかったんだけどね。髪型がダサいからヤだったの。なんか襟足だけ長く伸ばして金髪にしてて」
「見た目の問題なの?」
「見た目って大事でしょ。その人の中身が反映されるわけだから」
「ちなみに、おれの髪型はどう?」
竹宮は小首をかしげる。「変だけど、ダサくはないかな。あ、そうだ。難波先生、結婚したんだって。海老原先生と」
「マジでっ」
音羽は何か遠慮があるようで、すすんでぼくと話そうとしなかった。ぼくはあまり気にしなかった。音羽のことはなんとも思ってなかった。
冷房が寒いのか、竹宮は膝かけを使った。見おぼえのあるペンギン柄。
「それ」
「あゝ、これ、あんたがくれたんだっけ。肌ざわりよくて気にいってるの」
竹宮は淡々といった。ぼくがあげたから大事にしてるわけじゃないとわかっても、うれしかった。
ぼくはスピッツばかり歌った。音羽は浜崎あゆみや中島美嘉を歌った。竹宮は磨きのかかった美声で《アメイジング・グレイス》を歌った。ぼくと音羽は拍手した。
「トモヨ、こんどの金曜日のことだけど」
ぼくが歌うあいだ、音羽と竹宮はパーティーの相談をしていた。次の金曜日が竹宮の誕生日らしかった。音羽が歌っているあいだ、ぼくは竹宮にきいた。
「竹宮って九月二十日なんだ」
「そう。予定日は十八日で、中秋の名月だったから、親は月のついた名前をいっぱい考えたんだって。でも、結局、二日も遅れたんだ」
竹宮は名前の字を指で空中に書いた。朋代。月代をもじったのかな。
「そのパーティー、おれも行っちゃだめ?」
「だめ。男子禁制なの」
竹宮はにべもない。男子禁制なんて、たんなる口実で、ぼくを招きたくないだけかもしれない。想像が悪いほうへ傾く。
「じゃあ、二十一日なら会える? プレゼントだけやるからさ」
「なーに、変なもんじゃないでしょうね」
「一週間かけて考えるよ。期待しないで待っててよ」
竹宮はイエスともノーともいわず、白い歯を見せた。そして、とびきりの美声で《スカボロー・フェア》を歌った。
『〽Ask him to find me an acre of land,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Between the salt water and the sea strand,
For then he'll be a true love of mine.
Ask him to plough it with a sheep's horn,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And sow it all over with one peppercorn,
For then he'll be a true love of mine.
Ask him to reap it with a sickle of leather,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And gather it up with a rope made of heather,
For then he'll be a true love of mine.』
ぼくと音羽は拍手した。
♂
月を見て月のてまえの空を見て空のてまえの君を見ていた
♂
九月の誕生石はサファイアらしい。ダイヤモンド地下街の宝石店をひととおり覗いて、ぼくはため息をついた。矢嶋健みたいに真珠でもプレゼントできればかっこいいけれど、ぼくの財力では難しかった。だいたい、竹宮にとって、ぼくは友達枠のはずだった。いや、知人枠の可能性もあった。あまりにも高価なものを贈るのはおかしい。
東口のLOFTそごう横浜店をひやかしていると、チープなファンファーレ。メールは竹宮から。
今すぐ保土ヶ谷駅に来て。
啞然とした。なんでぼくの都合は一切無視なんだろう。ここでいうことをきいてしまうと、ずっとわがままを通される気もした。
でも、ぼくは保土ヶ谷行きの電車に飛び乗った。あの子はかぐや姫なのだから、無理難題を叶えてあげなければ、ぼくのような男はお近づきにさえなれないのだ。そう割りきることにした。
駅唯一の改札口で、竹宮は待っていた。白のカットソーシャツに菫色のマーメイドスカート。竹宮はぼくの腕をひっぱった。
「黙ってそばにいてね。余計なこといったりやったりしないでね」
途惑ったけど、竹宮が必死な感じがしたから、ぼくは素直に従った。恋人同士みたいに腕を絡めて、西口の階段をおりた。
宿場通りの商店街、マンション一階の喫茶店アルキバ。着いた席には先客が一人。十九か二十歳くらいだろうか。イケメンなのだけど、まるで特徴のない顔だった。いくら見ても、顔立ちが頭に入らない感じ。ぼくはとても嫌な予感がしながら、隣の竹宮を見やった。戦闘的な横顔。イケメンがいう。
「友達?」
「彼氏です」
ぼくはグラスのなかに水を噴きそうになった。竹宮はいう。
「何度いわれても、お話は受けられません。わたしは今の髪型が気に入ってるし、染めたくないんです」
話が見えなくて、ぼくはイケメンを観察した。セットしたてみたいな茶髪のツーブロック。こぎれいな格好なのに、手がひどく荒れていた。ぼくはJamais Vuの井深みちるさんの手を思いだす。もしかして美容師か。
「カット代はいらないし、なんならメシだって奢るよ。ブリティッシュカットにして、アッシュベージュに染めれば、トモヨちゃんの魅力をひきだしてあげられると思うな」
「ですから、染めたくないんです。それに、わたし充分魅力的ですから」
この子やっぱりナルシストなんだな、と思った。イケメンはぼくに目をとめる。
「へえ、彼氏もきれいな髪だね。きみもカットモデルやらない?」
「いえ、まにあってます」
反射的に、ぼくははたき落とすようにいった。イケメンはいう。
「とにかくモデルが必要なんだ。トモヨちゃんが来てくれるか、彼氏が来てくれるか、二つにひとつだよ」
話がおかしなことになってきた。余計なことをいうなと釘を刺されたが、ぼくは口をひらく。
「さっきからきいてると、ずいぶん勧誘のしかたが強引じゃないですか。あなた、どこの美容師さん?」
「デリラだよ」線路沿いの裏路地の店の名をあげた。「ノルマがあってさ。頼むよ。時間はとらせないから」
「あなたが強引な勧誘を続けるなら、ぼくは消費者庁に電話します。店が営業できなくなったら、あなた、まずいことになるんじゃないの」
男は顔をゆがめて、舌打ちした。素がでたようだった。
「小賢しいガキがよ」
テーブルを蹴って、ドアベルを鳴らしてでていった。ぼくは緊張が切れて、机に突っぷした。いまさら心臓がばくばくする。
「よかったぁ、あっさりひきさがってくれて」
「ありがとう。助かっちゃった」
「あいつ、なんなの」
「うちの近所の専門学生。美容師見習いやってて。でも、あいつ、小学生のときから知ってるけど、評判よくないんだ。家に暴走族が入りびたってたり」
竹宮は顔をしかめた。きれいな七宝焼きのピルケースから錠剤を一つだして、水で飲む。ぼくは心配になった。
「もしかして、偏頭痛?」
「予兆があるから、予防しとくの」
「また膝枕してやろうか」
中二の夏、行きがかりで、偏頭痛で倒れた竹宮を介抱した。竹宮は苦笑い。
「大丈夫、倒れないから」
おなかすいちゃった、と竹宮はモンブランと秋摘みダージリンを注文した。ぼくもデカフェを頼んだ。竹宮がいう。
「寒いの?」
「え?」
「手ぇ震えてるから」
ぼくはカップを置いて、指先を握りこんだ。「いや、薬の副作用でこうなるの」
「病気なの?」
「ちょっと病名はいいづらいけど、頭の病気だよ。一生、薬飲むんだ」
「そうなんだ」
竹宮はべつに哀れむふうでもなかった。竹宮も同じだからかもしれない。ぼくは尋ねる。
「竹宮は、いつから偏頭痛になったの」
「中二の全国大会、横須賀の予選会場でクラリネット吹いてたの。《ラプソディ・イン・ブルー》の、ド頭のグリッサンド。一番最初の大事なとこだから、めちゃくちゃ練習したんだ。
夏のよく晴れた日で、駐車場の車がまぶしかった。視界のすみに、銀色の光が見えはじめて。なんだかわからなくて。頭がちくちくして。でも、本番も迫ってたし、そのままステージにあがったの。椅子に座って、照明器具を見あげたら、もう銀色の光が目の前に乱れ飛んで、なんにも見えなくなった。何これって思ったけど、何がなんでも吹かなきゃって。横浜市立右近中学校吹奏楽部です、ってアナウンスがあって。でも、アッコ先生の指揮もよく見えないし。もう勘だよ。ド頭のグリッサンドは完璧だったよ。みんなが鳴らしはじめて、そのころにはもうはっきり頭痛がしてた。左側が万力で締められてるみたいで、もう演奏どころじゃなくて、クラリネットかかえて丸くなって。でも、みんなだって全てをかけてここに来てるわけだから、わたし一人のために無駄にはできないでしょ。演奏は続いて。頭痛してるときって、大きな音がつらいんだ。座ってられなくなって、床に伸びちゃった。それでも、演奏は続いて。《ラプソディ・イン・ブルー》きくたびに、そのときをまざまざと思いだすよ。
パパの恩師がいる大学病院で検査したけど、原因不明。母方のおばあちゃんや、叔母さんも偏頭痛だったから、家系的なものでしょうっていわれたよ。基本的には、予防と対症療法しかない。いろいろ試しみてて、わかったの。辛いものはだめ。ブドウもだめ。チョコレートもだめ。タバコの煙もだめ。それで、スポットライトみたいに、強い光を見るのが一番だめ」
竹宮はポシェットから何かをとりだした。十数枚の名刺の束、それを扇のように広げる。
「こんなにスカウトが来るんだよ。でも、だめなの。スポットライトを浴びたら、また発作が起きちゃう。モグラみたいに、死ぬまで暗いところにいるしかないの」
竹宮は目を潤ませて、名刺をほうりだした。芥川龍之介《歯車》を思いだす。ぼくはこの子に何をしてやれるだろう。
「ドミトリー・ショスタコーヴィチって知ってる?」
「音楽家だっけ」
「ロシアのね。第一次世界大戦に従事して、頭を撃たれて、弾丸の破片が脳に残ったんだ。左脳の側頭葉のあたり。ここは記憶と音の知覚にかかわる部位で。頭蓋骨をひらいて、ここに電気刺激を与えると、懐かしい記憶とともに音楽がきこえることがある。てんかん患者でも、痙攣発作を起こすまえに同じ経験をする人がいる。本人は秘密にしてたけど、ショスタコーヴィチは頭をかしげると、金属片が動いて、音楽がきこえたんだって。記憶とかかわりなく、そのたびに新しい音楽が。それを創作の源にしていたから、摘出手術を拒否した。そのせいか知らないけど、晩年は右手が動かなくなって、ピアノが弾けなくなった」
「つまり、何がいいたいの」
「だから、つまり、おれや竹宮の病気もさ、ショスタコーヴィチの金属片みたいなもので、もしかしたら何か意味があるのかもしれないって思うんだ。おれたちには、きっと特別な音楽がきこえるんだよ」
ふーん、と竹宮はいった。がっくりした。ふーん、かよ。ぼくは冷めたコーヒーをすすった。
秋のインディゴブルーの黄昏。光りだした丸い街灯の下、竹宮がいう。「ねえ」
「うん?」
「ショスタコーヴィチのおすすめ教えてよ」
♂
甘さなきデカフェを服し少年はその頬骨に陰翳を持つ
♂
ショスタコーヴィチ《二十四の前奏曲とフーガ》は、J.S.バッハ《平均律クラヴィーア曲集》を意識した大作だ。すべての調性を網羅する二十四曲ずつの前奏曲とフーガ、全四十八曲。二時間超。ショスタコらしい複雑でコンテクストに満ちた音楽、それをピアノひとつで演る。最難関の二十四番以外なら、ぼくはどうにか弾けると思う。ムーザ・ルバツキーテの弾くDISC1(第十三番のフーガまで)をかけながら、ぼくは日課のスクワットをした。
ベッドに転がって、竹宮を思った。ふと気づくとベッドの下、ルドルフがぼくの靴下を咥えて、ちょこんと行儀よく待っていた。これで遊べというのだ。ぼくは靴下をとって、投げた。やつはよろこんで追った。また咥えて持ってくる。それを数回くりかえした。荒い鼻息、きらきらした金緑石色の目。
「ルド。おまえ、前世は犬だろ」
撫でてやると、ぐるぐるぐると喉を大きく鳴らしてすり寄る。小型エンジンみたいだった。
チープなファンアーレ。メールは竹宮から。
カンナが北浦に話したいことがあるんだって。相談に乗ってあげてもらえますか?
音羽が?
♂
秋曇りの空。保土ヶ谷駅付近の線路沿いの児童公園。音羽は肩あきブラウス・ショートジーンズ・グラディエーターサンダルという気ばった格好。ゆるく巻いたショートボブ。ぱっちりした二重瞼。どっちかっていったら、かわいい子だ。ぼくにいいたいことってなんだろう。まさか、愛の告白じゃないよな。好かれるようなこと、何もしてないぞ? 中学のときは、ぼくのこと嫌ってるみたいな雰囲気だったし。ぼくは悶々と悩んだ。音羽はいう。
「あのさ、中学のとき」
「うん?」
「ブラジャー入れたの、あたしなんだ」
「えっ、ブラ……」
ぼくは顔が熱くなった。音羽も赤面する。
「あたしのブラジャー、机に入ってたでしょ」
「うん、はい、入ってましたね」
「省磨にいわれて、ついやっちゃったんだけど、あのときはごめんなさい」
音羽は勢いよく頭をさげた。ぼくはいう。
「気にしてたんだ?」
「うん、さすがに悪いなって思ってた。ごめんね」
「いや、うん、たしかに、あのときはどうなるかと思ったけど。でも、いいよ。きちんと謝ってくれたから」
「よかった」
音羽はキバナコスモスが咲くように笑った。根は悪い子じゃないんだな、と思った。
「じゃあ、それだけだから。またね」
「もう帰っちゃうの」
「このあと、好きな人とデートなの」
ぼくは気が抜けて、頬笑んだ。「そっか、うまくいくといいな」
♂
みおくった出発いくつ沿線にみどりきみどりさみどりゆれて
♂
竹宮の誕生日翌日、きょうも曇りだった。ルバツキーテの弾く《二十四の前奏曲とフーガ》DISC2を片耳でききながら、ぼくは選りすぐりのプレゼントを小脇に約束の場所へ行った。このあいだ音羽と会った児童公園。横須賀線沿線、フェンスごしに往来するアルミの車体を眺めて、ぼくは恋人候補枠の女の子を待っていた。
約束の時刻より遅れてやってきた。アースカラーのサマーニットにロングスカート。もう秋のコーディネイトだ。ベンチに座って、竹宮は期待する目。
「それで、どうだったの」
「どうって」
「だから、カンナに告られたんでしょ。返事はどうしたの」
ぼくは片手をぶんぶん振った。「告られてません! 音羽が怒るよ。中学のころ行きちがいがあって、それを謝ってもらっただけ」
「なーんだ、つまんない」
竹宮は本気で落胆していた。この子にとって、ぼくは完全に恋愛対象外なのだな。つい、ため息をつく。ぼくはLOFTの紙袋を差しだした。
「一日遅れですけど、誕生日おめでとう。気持ちばかりですが」
「わー、ありがと。見ていい?」
ぼくはうなずいた。あの子は丁寧にラッピングを解いた。十センチ四方ほどの箱をあける。曇った水の入った林檎型のガラス体。竹宮は不思議そう。
「これ、何」
「ストームグラスっていって、樟脳の結晶が入ってるんだ。その日の天気によって結晶のかたちが変わって、予報ができるんだよ。頭痛って天気に影響されたりするんだろ? おれも低気圧来るとテンションだださがりになって、だめなんだ。台風の時期は正直きつくて。でも、これって低気圧のせいなんだって自覚できると、多少気持ちが楽になんのね。だから、竹宮の頭痛が少しでも楽になればいいなって思って……」
竹宮はじっと林檎を見おろして黙っていた。あんまり気に入らなかったのかなと思った。
竹宮のアーモンドアイが泣きそうなことに気づいた。あの子は目もとの化粧が崩れないよう、そっと指先でぬぐった。
「ありがとう。考えてくれたんだね」
プレゼントなんてされ慣れてるだろうに。ぼくの行いはこの子の心の水面に一石を投じたのだろうか。ぼくはいう。
「このあと予定ある?」
「ううん」
「カラオケ行かね?」
「すきだね、カラオケ」
「だって竹宮の声、きれいじゃん」
竹宮は目を丸くしてから、くすぐったそうに笑いだした。
「おれ、変なこといった?」
「べつに。行こっか。北浦の奢りね」
「ええー、今月ピンチなのに」
ぼくは立ちあがりざまに尻をはたいた。竹宮は艶つやの髪を揺らして、先に歩きだした。二十四番のフーガが果てた。何かが始まるときの、肯定的な予感がしていた。曇り空を吹く秋の風は、水のようにさらさらと流れていった。
♂
音羽は例の好きな人とうまくいったようで、とんと顔を見せなくなった。ぼくは竹宮と二人で遊んだ。
「彼氏できたとたん、なんにも連絡よこさないんだよ。けっこう薄情だよね」
スターバックス横浜西口店のテラス席で、ケータイをいじりつつ竹宮はぼやいた。竹宮はキャラメルマキアート/ぼくはチャイティー。ぼくは冗談めかしていう。
「おれらもつきあっちゃう?」
「あんた、意外とチャラいよね」
「チャラいって何、チャラいって」
渾身の口説き文句をかわされ、ぼくは肩を落としてチャイをすすった。
十月だった。日差しはあんがい鋭く、けれど風は冷たい。どこからか吹きだまった枯葉が、足もとでかさこそと鳴る。人肌恋しい季節だ。竹宮はいう。
「つまんない。なんかおもしろい話しなさいよ」
また無茶ぶりが始まった。ぼくは数秒考えた。
「若いまま百歳になる方法なーんだ?」
「は?」
「謎なぞだよ」
「オチはあるの?」
「一応はね」
「わたしは百歳です、っていいはる」
「残念。答えは……ヴィヴァルディ《四季》を百回きけばいい、でした」
「たいしたことないオチね」
「《四季》って四十分くらいあるから、百回だと六十六時間半だ。おれは八日かかった」
「きいたの?」
「小三のときな」
「なんでそんなことしたの?」
「うんと年寄りになりたかったんだよ、心だけ」
「あんた、変ね」
「褒め言葉だと思っとく。退屈はまぎれましたか」
「少しね」
竹宮は人差指と親指で三センチの幅をつくった。ぼくは頬笑んで、チャイをすする。
「ぶっちゃけるけどさ、おれにとっておまえって恋人候補枠なのね」
「枠?」
「おれには他人枠と知人枠と友達枠と、恋人候補枠と恋人枠があるの。でも、たぶん、竹宮にとっては、おれって友達枠なんでしょ」
「一応ね」
「一応?」
「うそ。友達だと思ってるよ」
竹宮は真摯な顔でいった。ぼくは畳みかける。
「ずばり、おれが恋人枠に昇格する可能性って何%?」
「五十%、かな」
「あら、意外と高い」
「あんたはきらいじゃないけど、今の友達枠も楽しいんだよね」
竹宮はマキアートをすすった。それはぼくも同感だった。
「竹宮としゃべってんの、楽しいよ。でも、できたら手ぇつないで歩いたりしたい。だめですか?」
「手ぇつなぐだけ?」
「そりゃ、キスもしたいし」
「キスだけ?」
「そりゃ……口にだすのは自主規制します」
竹宮は笑った。「ちなみに、恋人枠になれなかった場合は、どうするの」
「そしたら、ずっと友達枠のままだよ」
竹宮は頬笑んで、うちの黒猫のように小首をかしげた。
「じゃあ、いいよ。つきあってみようか」
心臓のあたりがくわっと熱くなって、ぼくはぐっと拳を握った。なんの奇跡か気まぐれか、かぐや姫がふりむいた。万歳三唱したいくらいだったけど、ぼくはクールなふりで次のデートを提案した。
やったぜ、シバケン。
♂
とりたてていうべきほどの屈折もなくみなとみらい線は東へ
♂
十月最後の雨の土曜日、横浜の相鉄ムービルに行った。映画は竹宮が選んだ。米英合作の、刑務所を舞台にしたヒューマンドラマだった。劇場の外で、ぼくらはポップコーンの残りを消費しながら話した。
「展開は読めちゃうけど、悪くなかったな。あの看守がさ……」
竹宮は眉をしかめて床ばかり見ている。ぼくは不安になった。
「なんか機嫌悪い?」
小さな声。「ちがうの。頭痛」
「偏頭痛? 薬……」
「症状が出てからじゃ効かない」
「どうする? 帰る? 送ろうか?」
竹宮はかぶりを振って立ちあがった。ぼくはあわてて肩を支えた。
休憩したい、と竹宮はいった。いつもの横浜西口店が混んでいたので、スターバックス北幸店をめざした。北幸の裏通り、空室表示の点灯したラブホの看板。
「ここで休む?」
冗談のつもりだった。でも、竹宮はうなずいた。急に心臓が存在を主張して、ポップコーンでいっぱいの胃袋がでんぐり返りそうな気がした。
部屋に入るなり、竹宮はベッドに座って上半身だけ横たわった。形のいい額に冷や汗。ぼくはカーペットに跪いた。
「どうしてほしい? 頭、押さえようか?」
夏のジョイナスのベンチでそうしたことを憶えていた。竹宮は小さく頷いた。掌に繊細な髪の毛。竹宮は無言でぼくの手の位置を調節した。
痛みはあの夏の日よりは激しくないようだった。竹宮はときどき呻いたけれど、歯を食いしばって耐えていた。ぼくはティッシュで竹宮の汗を押さえた。
「……なんでティッシュ?」
「ハンカチ忘れた」
紅い唇がかすかに笑って、竹宮は目を閉じた。
長い苦しい時間のあとで、竹宮はまどろんだ。ぼくは手をそっと離した。ミケランジェロの聖母のような寝顔。思えば、強い光を見ると発作が起きるといっていた。映画館のスクリーンなんて光そのものじゃないか。あんなところ誘うんじゃなかった。竹宮も、なんで断らなかったんだろう。
冷静になったら、恥ずかしくなってきた。ラブホで休憩する金があったら、タクシーを拾って家まで送ってやればよかった。下心があると勘ちがいさせたかもしれない。いや、下心がゼロとはいわない。いわないけど……。
「……何ぶつぶついってるの?」
眠っているとばかり思ってた竹宮が口をきいた。瞼を閉じたまま。無意識に考えが口にでていたらしい。
「どう、頭痛?」
「少し残ってるけど、山は越したかな」
「よかった。もうちょい休んだら、帰ろうか」
「しないの?」
「何を」
竹宮は瞼をあけた。濡れた鉱石のような瞳。ぼくは顔が熱くなって、そっぽを向いた。
「具合の悪い子にのしかかるほど、おれはゲスじゃないんで」
「怒った?」
ぼくは黙ってた。竹宮の弱よわしい声。
「ごめんね。こういうの初めてで、よくわからなくて」
「え、噓」
竹宮は眉間に皺を寄せた。「噓って何」
「だって、おれにエッチな電話かけてきたじゃん」
「いつよ」
「スキー教室のとき」
中一の自然教室の夜、この子はぼくの班の部屋に卑猥なイタズラ電話をしてきた。迫真の演技だったので、ぼくはてっきり竹宮は河合省磨と寝たんだと思っていたのだ。竹宮は赤らんだ。
「ショーとはキスしかしてないよ」
「ほんとに?」
「胸はさわってきたけど、服の上から。それだけ」
「……」
「ていうか、タツヤはこういうところ慣れてるみたいだね。まえは誰と行ったの。ユキオトコ? 矢嶋くん? それとも……」
「帰る」
ぼくは財布から札を抜いてサイドボードに置いた。服の裾をひっぱられた。
「やだ。ひとりにしないで」
竹宮が幼い迷子に見えた。ぼくは目を見て、髪を撫でて、キスした。体じゅうの管が痺れた。芝賢治に初めてされたときを思いだしていた。絶対にオトせるキスのしかた。
キスの途中で、竹宮はぼくの肩を押した。
「キスがくどい」
ごめん、とぼくは小声でいった。
♂
十一月三日。ぼくの誕生日は、文化の日で休みだ。誕生日プレゼントのリクエストに、いちご水と答えたのは、芝賢治のことを考えていたせいだった。ぼくんちの台所で、竹宮は大量の冷凍ラズベリーと砂糖を鍋にいれて、実を潰しつつ沸騰させないよう弱火でじっくりと煮た。ときどき灰汁をとる。ぼくはいう。
「いちご水って苺かと思ってた」
「江戸時代に西洋のオランダイチゴが入ってくるまでは、日本人は木苺を以知古って呼んでたんだよ。それで、いちご水って、《赤毛のアン》にでてくるんだけど、原文だとraspberry cordialっていうの」
「コーディアル?」
「真心のとか、心からのって意味だけど、なんでそういう名前なのかは、よくわかんない」
真心、か……。
果肉が原型をとどめなくなったら火を止めて、レモン汁を加えて混ぜる。果肉を笊でボウルに濾した。血のように滴る赤い液体。
「飲むときは、水で割ってね。あしたまでに飲みきるんだよ。果肉はジャムにもなるけど、種が気になったら捨てていいから」
「ありがとう」
「でも、なんでいちご水なの」
ん、いや、なんとなく、とぼくはもごもごいった。竹宮の足もとに黒い影。ルドルフは紺のタイツに身をすり寄せて、小型エンジンみたいにぐるぐると喉を鳴らした。竹宮はしゃがんでルドルフを撫でた。
「ルドちゃん、かわいい」
ルドルフは竹宮の手に尾っぽを絡ませた。ぼくもしゃがみこんで、竹宮を抱きしめた。清潔でやさしい匂い。容易に殺められそうな、花奢な体。ところどころの柔らかな皮下脂肪。ぼくらはキスした。デニムワンピースの肩ひもをずらすと、やんわりと戻された。
「あの、ごめんね、生理なの」
ぼくはいささか動揺した。「そ、そっか。おれこそごめんな、無理させて」
竹宮はかぶりを振って、おでこをぼくの肩に乗せた。
バス停まで竹宮を送った。つないだ手を離すと、霜月の夕べに手汗が冷えた。
アニー・ダルコの弾くメンデルスゾーン《無言歌集》をかけて、炭酸水でいちご水を割って飲んだ。すっぱくて、おいしくなかった。
『花言葉事典』を捲った。ラズベリーの花言葉は、嫉妬と、悔恨だった。
「ほ、骨は勘弁してくれ」
「先に戦争しかけてきたのは、そっちだろ。おれを殺しに来といて、てめえが殺されそうになったらガタガタぬかすのかよ」
ぼくは天野の顔をガラスに押しつけて、渾身の頭突きを肩に食らわせた。人体で一番折れやすいのは鎖骨だ。天野は声にならない悲鳴をあげて倒れこんだ。蛞蝓のように悶える四人。
ぼくは天を仰いだ。相変わらずの灰色。でも、雨はやんでいた。ぼくは鼻血をすすりつつ歩きだした。ティッシュは持っていなかった。部外者でも保健室って利用できるのかなと考えながら、ぼくは文化祭の人ごみへ戻った。
いきなり目の前に見知った顔が二つ。音羽カンナと竹宮朋代、近所の女子高のセーラー服だ。ぼくの鼻血を見て、ふたりは目を剝いた。
「きゃー、ちょっとやだ」
「あんた、大丈夫?」
「よお、久しぶりな」
ぼくは鼻をつまんでいった。
竹宮たちはぼくを救護テントへ連れてってくれた。ぼくはティッシュで鼻栓をして、パイプ椅子に座った。あたし飲みもの買ってくるね、と音羽はどこかへ行った。隣の椅子で竹宮はいう。
「あんた、天王高だっけ」
「いや、程工。先輩に呼ばれてきただけ」
「へえ、北浦はもっと頭良いとこ行くかと思ったのに」
意外そうにいわれて、ぼくは不思議に感じた。竹宮はぼくをバカにしているのだと思っていたから。
「もうオタウラっていわないんだ?」
「呼んであげてもいいけど?」
「北浦でお願いします。音羽と仲よくなったの?」
「河合省磨被害者の会を結成してね。しゃべったら悪い子じゃなかった」
竹宮は艶つやの黒髪を指先で梳いた。中学のころ腰まで届きそうだったそれは、花奢な肩の下で切りそろえてあった。セーラー服の胸もとの、きれいな丘陵。Cカップくらいかな。ぼくは髪を掻きあげた。竹宮の澄んだアーモンドアイが、ぼくの右耳へ向く。
「わあ。きれいだね。本物?」
芝賢治の形見のダイヤモンドピアス。ぼくは髪の毛で隠した。
「イミテーションだよ。キュービックジルコニア」
「へえ。でも、よく光るね」
竹宮の指先がぼくの右の毛を梳いた。男とちがう、繊細なふれかた。息が止まった。
かぐや姫オトせたら、おれに教えろよな。
いつかの芝賢治の声が甦った。ぼくはこの子と恋をできるだろうか? どこからか吹奏楽の軽快な合奏。デューク・エリントン《スイングしなけりゃ意味がない》。また小糠雨が降りだした。音羽はなかなか帰ってこなかった。
♂
華々しき鼻血のごとくあふれだすものを愛とは呼ばなくていい
♂
ファミレスの奢りは目黒秀気だった。目黒の手に入れたメールアドレスは、直後に変更されたのか通じなかったのだ。バーミヤン星川駅前店、白鳥雄飛とぼくはそれぞれ黒胡麻担々麺と五目天津飯を平らげた。デザートは愛玉子。ほくほく顔で雄飛がいう。
「右近中の後輩だったんだ。友達と一緒にききき来たら、はぐれちゃったんだってよ。でよ、名前きききいたら、くくく工藤蘭ってのね。お父さんが、きゃキャンディーズの蘭ちゃんがすきだったんですと」
「下の名前がカ行じゃなくてよかったっすね」
愛玉子のゼリーを頬ばって、ぼくはいった。雄飛はにやりとした。
「んで、兄貴の名前が斗南っていうんだと。《名探偵コナン》じゃんって笑ってさ」
ぼくは驚いた。「その工藤斗南と中二のときクラス一緒でした」
「マジで。世間はせめえな。でもな、おれからすっと、ちょっと若けえよな。十三歳」
目黒が苦笑いでいう。「犯罪じゃね?」
「おれのじいちゃんとばあちゃんは十七歳差でしたよ。光源氏みたいに、女になるまで成長を見守ったらいいんじゃないですかね」
「光GENJIって、昔のアイドルだっけ」
雄飛は素でボケてるらしかった。目黒がつっこむ。
「アホか、《源氏物語》のほうだよ。あのマザコンでロリコンのおっさんの話」
「メグ、読んだことあんだ?」
「マンガのやつな。光源氏が母親の面影があるからってガキンチョだった紫の上を誘拐して育てて、最終的に犯っちゃうんじゃなかったっけ」
「フツーに犯罪じゃね?」
「あんな不倫だの近親相姦だの昼ドラみたいにドロドロの話、何がおもしろいんだか」
ぼくはちゃんと読んだことがなく、なんともいえなかった。「でも、まあ、千年も生き残ってきたわけですからね。力のある物語なんでしょうね。こう、人間の普遍性というか」
「フヘンセーね」雄飛は愛玉子の枸杞の実を沈めた。「難しいこたわかんねえけど、ランちゃん、いい子みたいだし、つきあってみるわ。あの子、おれが吃っても笑わねえの」
目黒はじっと雄飛を見て、ため息をついた。雄飛はいう。
「メグ、さみしい?」
「おめえが誰とつきあおうが、おれには関係ねえよ」
目黒は愛玉子の残りをすくった。雄飛は表情の抜け落ちた目で相棒を見つめた。目黒が舐めた匙を向ける。
「それより、キ印、おめえの相手はよ?」
「中学でタメだった子で、竹宮ってんですけど……」
目黒がぐいっと身を乗りだした。テーブルが揺れて、食器が鳴った。
「竹宮って、竹宮トモヨか?」
そういえば、竹宮は中学で有名人だった。「はい、あの竹宮です」
「おめえじゃ釣りあわねえだろ」
そのとおりかもしれないが、はっきりいわれると腹が立った。
「べつに、釣りあうも釣りあわないも、メル友っすよ、メル友」
「おめえじゃ、ぜってえ無理だ」
目黒は意固地にいった。雄飛が笑う。
「メグは小坊のころ、トモヨちゃんすきだったもんな」
「そうだったんですか?」
目黒は仏頂づらでそっぽを向いた。雄飛はいう。
「初音の男子の三人に二人はトモヨちゃん派だったけど、メグが睨みききき利かせてるから、誰も近づけなくてよ。小六のとき、思い余ってホワイトデーにプレゼントあげてたよな。バレンタイン何ももらってないくせに」
「へえ、先輩にもかわいいときがあったんすね」
「うるせえっ。それ以上しゃべったら殺す」
「やってみ」
雄飛は不敵に手招きした。目黒は歯ぎしりして、雄飛の愛玉子を横どりし一気飲みした。雄飛は笑った。
♂
禁煙のファミレス恋に火をつけて燥いでる君たちが煙たい
♂
竹宮と文章で何を話せばいいのかわからなくて、うちのルドルフがフェルトの魚を抱っこし眠ってる写メールを送った。数分後、チープなファンファーレが鳴った。
超かわいい♡
ハートマーク……。ぼくは思いきることにした。
こんどの金曜日、カラオケ行かない?
どきどきしながら返信を待った。ルドルフの小さな背中を撫でると、そのたび皮が縮れておもしろかった。やつはぐるぐると喉を大きく鳴らした。チープなファンファーレ。
いいよ。カンナと一緒に行く。何時にどこ?
ぼくはじゃっかん気落ちした。二人きりじゃないのか。
3時半に天王町のアズールで。
チープなファンファーレ。返事は一行のみ。
了解(*・ω・*)ゝ
♂
十三日の金曜日、蒸し暑い秋曇りだった。天王町駅から徒歩二分のアズールの前、約束の十五分まえにぼくは佇んだ。すっぽかされたらどうしようかと思ってた。
約束の時刻からやや遅れて、竹宮と音羽はやってきた。女子高の夏のセーラー服がまぶしかった。
薄暗い個室で、タッチパネル式のリモコンを操作する竹宮。ぼくは目黒のことをきいてみた。
「ヒデキくん? おぼえてるよ。学年ちがうのに、よく声かけてきたから。バレンタイン何もしてないのに、ホワイトデーにキャンディくれて。告白されたけど、丁重にお断りしました」
「なんで」
「うーん、よく見ると顔はかっこよかったんだけどね。髪型がダサいからヤだったの。なんか襟足だけ長く伸ばして金髪にしてて」
「見た目の問題なの?」
「見た目って大事でしょ。その人の中身が反映されるわけだから」
「ちなみに、おれの髪型はどう?」
竹宮は小首をかしげる。「変だけど、ダサくはないかな。あ、そうだ。難波先生、結婚したんだって。海老原先生と」
「マジでっ」
音羽は何か遠慮があるようで、すすんでぼくと話そうとしなかった。ぼくはあまり気にしなかった。音羽のことはなんとも思ってなかった。
冷房が寒いのか、竹宮は膝かけを使った。見おぼえのあるペンギン柄。
「それ」
「あゝ、これ、あんたがくれたんだっけ。肌ざわりよくて気にいってるの」
竹宮は淡々といった。ぼくがあげたから大事にしてるわけじゃないとわかっても、うれしかった。
ぼくはスピッツばかり歌った。音羽は浜崎あゆみや中島美嘉を歌った。竹宮は磨きのかかった美声で《アメイジング・グレイス》を歌った。ぼくと音羽は拍手した。
「トモヨ、こんどの金曜日のことだけど」
ぼくが歌うあいだ、音羽と竹宮はパーティーの相談をしていた。次の金曜日が竹宮の誕生日らしかった。音羽が歌っているあいだ、ぼくは竹宮にきいた。
「竹宮って九月二十日なんだ」
「そう。予定日は十八日で、中秋の名月だったから、親は月のついた名前をいっぱい考えたんだって。でも、結局、二日も遅れたんだ」
竹宮は名前の字を指で空中に書いた。朋代。月代をもじったのかな。
「そのパーティー、おれも行っちゃだめ?」
「だめ。男子禁制なの」
竹宮はにべもない。男子禁制なんて、たんなる口実で、ぼくを招きたくないだけかもしれない。想像が悪いほうへ傾く。
「じゃあ、二十一日なら会える? プレゼントだけやるからさ」
「なーに、変なもんじゃないでしょうね」
「一週間かけて考えるよ。期待しないで待っててよ」
竹宮はイエスともノーともいわず、白い歯を見せた。そして、とびきりの美声で《スカボロー・フェア》を歌った。
『〽Ask him to find me an acre of land,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Between the salt water and the sea strand,
For then he'll be a true love of mine.
Ask him to plough it with a sheep's horn,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And sow it all over with one peppercorn,
For then he'll be a true love of mine.
Ask him to reap it with a sickle of leather,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And gather it up with a rope made of heather,
For then he'll be a true love of mine.』
ぼくと音羽は拍手した。
♂
月を見て月のてまえの空を見て空のてまえの君を見ていた
♂
九月の誕生石はサファイアらしい。ダイヤモンド地下街の宝石店をひととおり覗いて、ぼくはため息をついた。矢嶋健みたいに真珠でもプレゼントできればかっこいいけれど、ぼくの財力では難しかった。だいたい、竹宮にとって、ぼくは友達枠のはずだった。いや、知人枠の可能性もあった。あまりにも高価なものを贈るのはおかしい。
東口のLOFTそごう横浜店をひやかしていると、チープなファンファーレ。メールは竹宮から。
今すぐ保土ヶ谷駅に来て。
啞然とした。なんでぼくの都合は一切無視なんだろう。ここでいうことをきいてしまうと、ずっとわがままを通される気もした。
でも、ぼくは保土ヶ谷行きの電車に飛び乗った。あの子はかぐや姫なのだから、無理難題を叶えてあげなければ、ぼくのような男はお近づきにさえなれないのだ。そう割りきることにした。
駅唯一の改札口で、竹宮は待っていた。白のカットソーシャツに菫色のマーメイドスカート。竹宮はぼくの腕をひっぱった。
「黙ってそばにいてね。余計なこといったりやったりしないでね」
途惑ったけど、竹宮が必死な感じがしたから、ぼくは素直に従った。恋人同士みたいに腕を絡めて、西口の階段をおりた。
宿場通りの商店街、マンション一階の喫茶店アルキバ。着いた席には先客が一人。十九か二十歳くらいだろうか。イケメンなのだけど、まるで特徴のない顔だった。いくら見ても、顔立ちが頭に入らない感じ。ぼくはとても嫌な予感がしながら、隣の竹宮を見やった。戦闘的な横顔。イケメンがいう。
「友達?」
「彼氏です」
ぼくはグラスのなかに水を噴きそうになった。竹宮はいう。
「何度いわれても、お話は受けられません。わたしは今の髪型が気に入ってるし、染めたくないんです」
話が見えなくて、ぼくはイケメンを観察した。セットしたてみたいな茶髪のツーブロック。こぎれいな格好なのに、手がひどく荒れていた。ぼくはJamais Vuの井深みちるさんの手を思いだす。もしかして美容師か。
「カット代はいらないし、なんならメシだって奢るよ。ブリティッシュカットにして、アッシュベージュに染めれば、トモヨちゃんの魅力をひきだしてあげられると思うな」
「ですから、染めたくないんです。それに、わたし充分魅力的ですから」
この子やっぱりナルシストなんだな、と思った。イケメンはぼくに目をとめる。
「へえ、彼氏もきれいな髪だね。きみもカットモデルやらない?」
「いえ、まにあってます」
反射的に、ぼくははたき落とすようにいった。イケメンはいう。
「とにかくモデルが必要なんだ。トモヨちゃんが来てくれるか、彼氏が来てくれるか、二つにひとつだよ」
話がおかしなことになってきた。余計なことをいうなと釘を刺されたが、ぼくは口をひらく。
「さっきからきいてると、ずいぶん勧誘のしかたが強引じゃないですか。あなた、どこの美容師さん?」
「デリラだよ」線路沿いの裏路地の店の名をあげた。「ノルマがあってさ。頼むよ。時間はとらせないから」
「あなたが強引な勧誘を続けるなら、ぼくは消費者庁に電話します。店が営業できなくなったら、あなた、まずいことになるんじゃないの」
男は顔をゆがめて、舌打ちした。素がでたようだった。
「小賢しいガキがよ」
テーブルを蹴って、ドアベルを鳴らしてでていった。ぼくは緊張が切れて、机に突っぷした。いまさら心臓がばくばくする。
「よかったぁ、あっさりひきさがってくれて」
「ありがとう。助かっちゃった」
「あいつ、なんなの」
「うちの近所の専門学生。美容師見習いやってて。でも、あいつ、小学生のときから知ってるけど、評判よくないんだ。家に暴走族が入りびたってたり」
竹宮は顔をしかめた。きれいな七宝焼きのピルケースから錠剤を一つだして、水で飲む。ぼくは心配になった。
「もしかして、偏頭痛?」
「予兆があるから、予防しとくの」
「また膝枕してやろうか」
中二の夏、行きがかりで、偏頭痛で倒れた竹宮を介抱した。竹宮は苦笑い。
「大丈夫、倒れないから」
おなかすいちゃった、と竹宮はモンブランと秋摘みダージリンを注文した。ぼくもデカフェを頼んだ。竹宮がいう。
「寒いの?」
「え?」
「手ぇ震えてるから」
ぼくはカップを置いて、指先を握りこんだ。「いや、薬の副作用でこうなるの」
「病気なの?」
「ちょっと病名はいいづらいけど、頭の病気だよ。一生、薬飲むんだ」
「そうなんだ」
竹宮はべつに哀れむふうでもなかった。竹宮も同じだからかもしれない。ぼくは尋ねる。
「竹宮は、いつから偏頭痛になったの」
「中二の全国大会、横須賀の予選会場でクラリネット吹いてたの。《ラプソディ・イン・ブルー》の、ド頭のグリッサンド。一番最初の大事なとこだから、めちゃくちゃ練習したんだ。
夏のよく晴れた日で、駐車場の車がまぶしかった。視界のすみに、銀色の光が見えはじめて。なんだかわからなくて。頭がちくちくして。でも、本番も迫ってたし、そのままステージにあがったの。椅子に座って、照明器具を見あげたら、もう銀色の光が目の前に乱れ飛んで、なんにも見えなくなった。何これって思ったけど、何がなんでも吹かなきゃって。横浜市立右近中学校吹奏楽部です、ってアナウンスがあって。でも、アッコ先生の指揮もよく見えないし。もう勘だよ。ド頭のグリッサンドは完璧だったよ。みんなが鳴らしはじめて、そのころにはもうはっきり頭痛がしてた。左側が万力で締められてるみたいで、もう演奏どころじゃなくて、クラリネットかかえて丸くなって。でも、みんなだって全てをかけてここに来てるわけだから、わたし一人のために無駄にはできないでしょ。演奏は続いて。頭痛してるときって、大きな音がつらいんだ。座ってられなくなって、床に伸びちゃった。それでも、演奏は続いて。《ラプソディ・イン・ブルー》きくたびに、そのときをまざまざと思いだすよ。
パパの恩師がいる大学病院で検査したけど、原因不明。母方のおばあちゃんや、叔母さんも偏頭痛だったから、家系的なものでしょうっていわれたよ。基本的には、予防と対症療法しかない。いろいろ試しみてて、わかったの。辛いものはだめ。ブドウもだめ。チョコレートもだめ。タバコの煙もだめ。それで、スポットライトみたいに、強い光を見るのが一番だめ」
竹宮はポシェットから何かをとりだした。十数枚の名刺の束、それを扇のように広げる。
「こんなにスカウトが来るんだよ。でも、だめなの。スポットライトを浴びたら、また発作が起きちゃう。モグラみたいに、死ぬまで暗いところにいるしかないの」
竹宮は目を潤ませて、名刺をほうりだした。芥川龍之介《歯車》を思いだす。ぼくはこの子に何をしてやれるだろう。
「ドミトリー・ショスタコーヴィチって知ってる?」
「音楽家だっけ」
「ロシアのね。第一次世界大戦に従事して、頭を撃たれて、弾丸の破片が脳に残ったんだ。左脳の側頭葉のあたり。ここは記憶と音の知覚にかかわる部位で。頭蓋骨をひらいて、ここに電気刺激を与えると、懐かしい記憶とともに音楽がきこえることがある。てんかん患者でも、痙攣発作を起こすまえに同じ経験をする人がいる。本人は秘密にしてたけど、ショスタコーヴィチは頭をかしげると、金属片が動いて、音楽がきこえたんだって。記憶とかかわりなく、そのたびに新しい音楽が。それを創作の源にしていたから、摘出手術を拒否した。そのせいか知らないけど、晩年は右手が動かなくなって、ピアノが弾けなくなった」
「つまり、何がいいたいの」
「だから、つまり、おれや竹宮の病気もさ、ショスタコーヴィチの金属片みたいなもので、もしかしたら何か意味があるのかもしれないって思うんだ。おれたちには、きっと特別な音楽がきこえるんだよ」
ふーん、と竹宮はいった。がっくりした。ふーん、かよ。ぼくは冷めたコーヒーをすすった。
秋のインディゴブルーの黄昏。光りだした丸い街灯の下、竹宮がいう。「ねえ」
「うん?」
「ショスタコーヴィチのおすすめ教えてよ」
♂
甘さなきデカフェを服し少年はその頬骨に陰翳を持つ
♂
ショスタコーヴィチ《二十四の前奏曲とフーガ》は、J.S.バッハ《平均律クラヴィーア曲集》を意識した大作だ。すべての調性を網羅する二十四曲ずつの前奏曲とフーガ、全四十八曲。二時間超。ショスタコらしい複雑でコンテクストに満ちた音楽、それをピアノひとつで演る。最難関の二十四番以外なら、ぼくはどうにか弾けると思う。ムーザ・ルバツキーテの弾くDISC1(第十三番のフーガまで)をかけながら、ぼくは日課のスクワットをした。
ベッドに転がって、竹宮を思った。ふと気づくとベッドの下、ルドルフがぼくの靴下を咥えて、ちょこんと行儀よく待っていた。これで遊べというのだ。ぼくは靴下をとって、投げた。やつはよろこんで追った。また咥えて持ってくる。それを数回くりかえした。荒い鼻息、きらきらした金緑石色の目。
「ルド。おまえ、前世は犬だろ」
撫でてやると、ぐるぐるぐると喉を大きく鳴らしてすり寄る。小型エンジンみたいだった。
チープなファンアーレ。メールは竹宮から。
カンナが北浦に話したいことがあるんだって。相談に乗ってあげてもらえますか?
音羽が?
♂
秋曇りの空。保土ヶ谷駅付近の線路沿いの児童公園。音羽は肩あきブラウス・ショートジーンズ・グラディエーターサンダルという気ばった格好。ゆるく巻いたショートボブ。ぱっちりした二重瞼。どっちかっていったら、かわいい子だ。ぼくにいいたいことってなんだろう。まさか、愛の告白じゃないよな。好かれるようなこと、何もしてないぞ? 中学のときは、ぼくのこと嫌ってるみたいな雰囲気だったし。ぼくは悶々と悩んだ。音羽はいう。
「あのさ、中学のとき」
「うん?」
「ブラジャー入れたの、あたしなんだ」
「えっ、ブラ……」
ぼくは顔が熱くなった。音羽も赤面する。
「あたしのブラジャー、机に入ってたでしょ」
「うん、はい、入ってましたね」
「省磨にいわれて、ついやっちゃったんだけど、あのときはごめんなさい」
音羽は勢いよく頭をさげた。ぼくはいう。
「気にしてたんだ?」
「うん、さすがに悪いなって思ってた。ごめんね」
「いや、うん、たしかに、あのときはどうなるかと思ったけど。でも、いいよ。きちんと謝ってくれたから」
「よかった」
音羽はキバナコスモスが咲くように笑った。根は悪い子じゃないんだな、と思った。
「じゃあ、それだけだから。またね」
「もう帰っちゃうの」
「このあと、好きな人とデートなの」
ぼくは気が抜けて、頬笑んだ。「そっか、うまくいくといいな」
♂
みおくった出発いくつ沿線にみどりきみどりさみどりゆれて
♂
竹宮の誕生日翌日、きょうも曇りだった。ルバツキーテの弾く《二十四の前奏曲とフーガ》DISC2を片耳でききながら、ぼくは選りすぐりのプレゼントを小脇に約束の場所へ行った。このあいだ音羽と会った児童公園。横須賀線沿線、フェンスごしに往来するアルミの車体を眺めて、ぼくは恋人候補枠の女の子を待っていた。
約束の時刻より遅れてやってきた。アースカラーのサマーニットにロングスカート。もう秋のコーディネイトだ。ベンチに座って、竹宮は期待する目。
「それで、どうだったの」
「どうって」
「だから、カンナに告られたんでしょ。返事はどうしたの」
ぼくは片手をぶんぶん振った。「告られてません! 音羽が怒るよ。中学のころ行きちがいがあって、それを謝ってもらっただけ」
「なーんだ、つまんない」
竹宮は本気で落胆していた。この子にとって、ぼくは完全に恋愛対象外なのだな。つい、ため息をつく。ぼくはLOFTの紙袋を差しだした。
「一日遅れですけど、誕生日おめでとう。気持ちばかりですが」
「わー、ありがと。見ていい?」
ぼくはうなずいた。あの子は丁寧にラッピングを解いた。十センチ四方ほどの箱をあける。曇った水の入った林檎型のガラス体。竹宮は不思議そう。
「これ、何」
「ストームグラスっていって、樟脳の結晶が入ってるんだ。その日の天気によって結晶のかたちが変わって、予報ができるんだよ。頭痛って天気に影響されたりするんだろ? おれも低気圧来るとテンションだださがりになって、だめなんだ。台風の時期は正直きつくて。でも、これって低気圧のせいなんだって自覚できると、多少気持ちが楽になんのね。だから、竹宮の頭痛が少しでも楽になればいいなって思って……」
竹宮はじっと林檎を見おろして黙っていた。あんまり気に入らなかったのかなと思った。
竹宮のアーモンドアイが泣きそうなことに気づいた。あの子は目もとの化粧が崩れないよう、そっと指先でぬぐった。
「ありがとう。考えてくれたんだね」
プレゼントなんてされ慣れてるだろうに。ぼくの行いはこの子の心の水面に一石を投じたのだろうか。ぼくはいう。
「このあと予定ある?」
「ううん」
「カラオケ行かね?」
「すきだね、カラオケ」
「だって竹宮の声、きれいじゃん」
竹宮は目を丸くしてから、くすぐったそうに笑いだした。
「おれ、変なこといった?」
「べつに。行こっか。北浦の奢りね」
「ええー、今月ピンチなのに」
ぼくは立ちあがりざまに尻をはたいた。竹宮は艶つやの髪を揺らして、先に歩きだした。二十四番のフーガが果てた。何かが始まるときの、肯定的な予感がしていた。曇り空を吹く秋の風は、水のようにさらさらと流れていった。
♂
音羽は例の好きな人とうまくいったようで、とんと顔を見せなくなった。ぼくは竹宮と二人で遊んだ。
「彼氏できたとたん、なんにも連絡よこさないんだよ。けっこう薄情だよね」
スターバックス横浜西口店のテラス席で、ケータイをいじりつつ竹宮はぼやいた。竹宮はキャラメルマキアート/ぼくはチャイティー。ぼくは冗談めかしていう。
「おれらもつきあっちゃう?」
「あんた、意外とチャラいよね」
「チャラいって何、チャラいって」
渾身の口説き文句をかわされ、ぼくは肩を落としてチャイをすすった。
十月だった。日差しはあんがい鋭く、けれど風は冷たい。どこからか吹きだまった枯葉が、足もとでかさこそと鳴る。人肌恋しい季節だ。竹宮はいう。
「つまんない。なんかおもしろい話しなさいよ」
また無茶ぶりが始まった。ぼくは数秒考えた。
「若いまま百歳になる方法なーんだ?」
「は?」
「謎なぞだよ」
「オチはあるの?」
「一応はね」
「わたしは百歳です、っていいはる」
「残念。答えは……ヴィヴァルディ《四季》を百回きけばいい、でした」
「たいしたことないオチね」
「《四季》って四十分くらいあるから、百回だと六十六時間半だ。おれは八日かかった」
「きいたの?」
「小三のときな」
「なんでそんなことしたの?」
「うんと年寄りになりたかったんだよ、心だけ」
「あんた、変ね」
「褒め言葉だと思っとく。退屈はまぎれましたか」
「少しね」
竹宮は人差指と親指で三センチの幅をつくった。ぼくは頬笑んで、チャイをすする。
「ぶっちゃけるけどさ、おれにとっておまえって恋人候補枠なのね」
「枠?」
「おれには他人枠と知人枠と友達枠と、恋人候補枠と恋人枠があるの。でも、たぶん、竹宮にとっては、おれって友達枠なんでしょ」
「一応ね」
「一応?」
「うそ。友達だと思ってるよ」
竹宮は真摯な顔でいった。ぼくは畳みかける。
「ずばり、おれが恋人枠に昇格する可能性って何%?」
「五十%、かな」
「あら、意外と高い」
「あんたはきらいじゃないけど、今の友達枠も楽しいんだよね」
竹宮はマキアートをすすった。それはぼくも同感だった。
「竹宮としゃべってんの、楽しいよ。でも、できたら手ぇつないで歩いたりしたい。だめですか?」
「手ぇつなぐだけ?」
「そりゃ、キスもしたいし」
「キスだけ?」
「そりゃ……口にだすのは自主規制します」
竹宮は笑った。「ちなみに、恋人枠になれなかった場合は、どうするの」
「そしたら、ずっと友達枠のままだよ」
竹宮は頬笑んで、うちの黒猫のように小首をかしげた。
「じゃあ、いいよ。つきあってみようか」
心臓のあたりがくわっと熱くなって、ぼくはぐっと拳を握った。なんの奇跡か気まぐれか、かぐや姫がふりむいた。万歳三唱したいくらいだったけど、ぼくはクールなふりで次のデートを提案した。
やったぜ、シバケン。
♂
とりたてていうべきほどの屈折もなくみなとみらい線は東へ
♂
十月最後の雨の土曜日、横浜の相鉄ムービルに行った。映画は竹宮が選んだ。米英合作の、刑務所を舞台にしたヒューマンドラマだった。劇場の外で、ぼくらはポップコーンの残りを消費しながら話した。
「展開は読めちゃうけど、悪くなかったな。あの看守がさ……」
竹宮は眉をしかめて床ばかり見ている。ぼくは不安になった。
「なんか機嫌悪い?」
小さな声。「ちがうの。頭痛」
「偏頭痛? 薬……」
「症状が出てからじゃ効かない」
「どうする? 帰る? 送ろうか?」
竹宮はかぶりを振って立ちあがった。ぼくはあわてて肩を支えた。
休憩したい、と竹宮はいった。いつもの横浜西口店が混んでいたので、スターバックス北幸店をめざした。北幸の裏通り、空室表示の点灯したラブホの看板。
「ここで休む?」
冗談のつもりだった。でも、竹宮はうなずいた。急に心臓が存在を主張して、ポップコーンでいっぱいの胃袋がでんぐり返りそうな気がした。
部屋に入るなり、竹宮はベッドに座って上半身だけ横たわった。形のいい額に冷や汗。ぼくはカーペットに跪いた。
「どうしてほしい? 頭、押さえようか?」
夏のジョイナスのベンチでそうしたことを憶えていた。竹宮は小さく頷いた。掌に繊細な髪の毛。竹宮は無言でぼくの手の位置を調節した。
痛みはあの夏の日よりは激しくないようだった。竹宮はときどき呻いたけれど、歯を食いしばって耐えていた。ぼくはティッシュで竹宮の汗を押さえた。
「……なんでティッシュ?」
「ハンカチ忘れた」
紅い唇がかすかに笑って、竹宮は目を閉じた。
長い苦しい時間のあとで、竹宮はまどろんだ。ぼくは手をそっと離した。ミケランジェロの聖母のような寝顔。思えば、強い光を見ると発作が起きるといっていた。映画館のスクリーンなんて光そのものじゃないか。あんなところ誘うんじゃなかった。竹宮も、なんで断らなかったんだろう。
冷静になったら、恥ずかしくなってきた。ラブホで休憩する金があったら、タクシーを拾って家まで送ってやればよかった。下心があると勘ちがいさせたかもしれない。いや、下心がゼロとはいわない。いわないけど……。
「……何ぶつぶついってるの?」
眠っているとばかり思ってた竹宮が口をきいた。瞼を閉じたまま。無意識に考えが口にでていたらしい。
「どう、頭痛?」
「少し残ってるけど、山は越したかな」
「よかった。もうちょい休んだら、帰ろうか」
「しないの?」
「何を」
竹宮は瞼をあけた。濡れた鉱石のような瞳。ぼくは顔が熱くなって、そっぽを向いた。
「具合の悪い子にのしかかるほど、おれはゲスじゃないんで」
「怒った?」
ぼくは黙ってた。竹宮の弱よわしい声。
「ごめんね。こういうの初めてで、よくわからなくて」
「え、噓」
竹宮は眉間に皺を寄せた。「噓って何」
「だって、おれにエッチな電話かけてきたじゃん」
「いつよ」
「スキー教室のとき」
中一の自然教室の夜、この子はぼくの班の部屋に卑猥なイタズラ電話をしてきた。迫真の演技だったので、ぼくはてっきり竹宮は河合省磨と寝たんだと思っていたのだ。竹宮は赤らんだ。
「ショーとはキスしかしてないよ」
「ほんとに?」
「胸はさわってきたけど、服の上から。それだけ」
「……」
「ていうか、タツヤはこういうところ慣れてるみたいだね。まえは誰と行ったの。ユキオトコ? 矢嶋くん? それとも……」
「帰る」
ぼくは財布から札を抜いてサイドボードに置いた。服の裾をひっぱられた。
「やだ。ひとりにしないで」
竹宮が幼い迷子に見えた。ぼくは目を見て、髪を撫でて、キスした。体じゅうの管が痺れた。芝賢治に初めてされたときを思いだしていた。絶対にオトせるキスのしかた。
キスの途中で、竹宮はぼくの肩を押した。
「キスがくどい」
ごめん、とぼくは小声でいった。
♂
十一月三日。ぼくの誕生日は、文化の日で休みだ。誕生日プレゼントのリクエストに、いちご水と答えたのは、芝賢治のことを考えていたせいだった。ぼくんちの台所で、竹宮は大量の冷凍ラズベリーと砂糖を鍋にいれて、実を潰しつつ沸騰させないよう弱火でじっくりと煮た。ときどき灰汁をとる。ぼくはいう。
「いちご水って苺かと思ってた」
「江戸時代に西洋のオランダイチゴが入ってくるまでは、日本人は木苺を以知古って呼んでたんだよ。それで、いちご水って、《赤毛のアン》にでてくるんだけど、原文だとraspberry cordialっていうの」
「コーディアル?」
「真心のとか、心からのって意味だけど、なんでそういう名前なのかは、よくわかんない」
真心、か……。
果肉が原型をとどめなくなったら火を止めて、レモン汁を加えて混ぜる。果肉を笊でボウルに濾した。血のように滴る赤い液体。
「飲むときは、水で割ってね。あしたまでに飲みきるんだよ。果肉はジャムにもなるけど、種が気になったら捨てていいから」
「ありがとう」
「でも、なんでいちご水なの」
ん、いや、なんとなく、とぼくはもごもごいった。竹宮の足もとに黒い影。ルドルフは紺のタイツに身をすり寄せて、小型エンジンみたいにぐるぐると喉を鳴らした。竹宮はしゃがんでルドルフを撫でた。
「ルドちゃん、かわいい」
ルドルフは竹宮の手に尾っぽを絡ませた。ぼくもしゃがみこんで、竹宮を抱きしめた。清潔でやさしい匂い。容易に殺められそうな、花奢な体。ところどころの柔らかな皮下脂肪。ぼくらはキスした。デニムワンピースの肩ひもをずらすと、やんわりと戻された。
「あの、ごめんね、生理なの」
ぼくはいささか動揺した。「そ、そっか。おれこそごめんな、無理させて」
竹宮はかぶりを振って、おでこをぼくの肩に乗せた。
バス停まで竹宮を送った。つないだ手を離すと、霜月の夕べに手汗が冷えた。
アニー・ダルコの弾くメンデルスゾーン《無言歌集》をかけて、炭酸水でいちご水を割って飲んだ。すっぱくて、おいしくなかった。
『花言葉事典』を捲った。ラズベリーの花言葉は、嫉妬と、悔恨だった。
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