ヤジキタは四つめの街で

御厨 匙

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道の肆区

三十九哩(魔女の証言)

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 霧雨に萌葱色もえぎいろの傘をかかげ、ぼくは半年ぶりに新桜ヶ丘の住宅街を歩いた。土曜日になってた。矢嶋邸の呼び鈴を、ぼくは緊張しながら押した。電子の鐘の。スピーカーごしの女の人の声。
『Oh、キタウラくん。あがってちょうだい』
 一〇〇坪の庭の片すみで、ぼくはサー公の眠る土饅頭どまんじゅうに手を合わせた。ハナミズキの苗は、ぼくの顔くらいの丈に育っていた。
 玄関ホールに吠え声。子犬の……子犬だったジャイロは、ほぼ成犬の体格だった。シバイヌよりは大きく、ジャーマンシェパードよりは小さい。ぼくをおぼえててくれたようで、舌をだして尾っぽを振った。やつの顎を撫でてやった。
 ヘレンさんの表情を見たとき、ぼくは矢嶋健の無事を確信した。ヘレンさんの顔には息子の安否を気遣う焦燥感も、息子の死を悲しむ悲壮感もなかった。
「矢嶋は……、リトルタケシくんは無事だったんですね」
「ええ。あの子からEメィルが来たわ。まだ声はきけてないけど、パァクレェンホテルにいるから心配するなって」
「なら、いいんです。あいつに連絡はいりません。ぼくが来たことも話さないでください」
「なぜ」
「おれはあいつに怒ってる」
 帷子かたびら姿のヘレンさんのおなかは、大きく膨らんでいた。妊娠何ヶ月なんだろう。
「ケネス・キングスレイという名前に、ききおぼえは?」
 ヘレンさんのモザイクガラスめいた虹彩、それが問いかけるようにまばたきした。
「キングスレイはわからない。ケネスは、あの子の友達だった」
「あいつは、ほんとはケネス・キングスレイって名前で、ヘレンさんが……その、妊娠しにくい体だから、自分は養子でもらわれたんだっていってました。自分はフォードのトランクから生まれたんだって。あいつ、あんまりヘレンさんたちに似てないし。ぼくはてっきり……。でも、噓でした。あいつ、すごく酒に弱いんです。洋酒菓子で酔っぱらって。ビッグタケシさんに似たからですよね?」
 ヘレンさんはやさしい目をして、月のようなおなかを撫でた。
「そうよ。あの子は、わたしの天使エンジェルなの。あの子は、わたしのダッド似なのよ。あの子を産んだあと、わたしは盲腸になってね。手術をしたのだけど、盲腸に右の卵巣が癒着していたの。重い卵巣嚢腫のうしゅ。でも、あの子がおなかのなかで押さえててくれたから、茎捻転けいねんてんが起きなくて、ちっとも痛みがなかったのよ」
 ぼくは首を振った。「なんで養子なんて噓をつくのか……。あいつと一年くらい一緒にいたけど、あいつが何を考えてるのかよくわからなかった。いつも一人で勝手に決めて、肝心なことは何も話してくれないで」
「理由があるのよ。長い話になるわ。ハァブティを入れてあげる。座って待っていて」

     ♂

摩天楼の空を映した水色の瞳あるいは小さき泉

     ♂

 三十帖のリビング。ロングソファーでぼくはジャイロを撫でた。もっと撫でろ、というようにやつは前足をぼくの腿に乗せた。
 ガラスカップを二つガラステーブルに置いて、ヘレンさんは慎重に腰かけた。古いアルバムを一冊、ひらいてぼくに渡す。
「わたしのダッドよ。そっくりでしょう」
 軍帽と軍服の日系人男性、1971Ken Hibari。たしかに切れ長の三白眼や四角い顎が孫息子に瓜二つだ。
「タケシを産んだのはわたしだけど、あの子が車のトランクルゥムに入ってたのはほんとうよ。あの子が四つになる少しまえ。休みのたびに、ビッグタケシはあの子をコンサァトへつれだしてたわ。あの子の友達はね、ケネス・ブレナンといったの。ケネスの家族と、わたしたち家族は仲がよかった。その日はケネスと、彼のマムと一緒に、カァネイギィホォㇽへ行ったの。終演後、タケシとケネスはミュゥジィアームのピアーノで遊んでいて。わたしたちが目を離したのは、ほんの十何秒よ。あの子たちがいなくなった。そして、電話がかかってきた。五十万ダラァ用意しろ、警察には知らせるな、さもないと……って。ビッグタケシはヴァイオリンショップの運転資金を、身代金に回した。指定どおり、ボストンバッグに詰めて、ウォラァタクシィの席に置き去りにした。でも、あの子たちは帰らなくて。三日後に、ケネスの遺体がハドソンリヴァに浮いていたわ。タケシがどんなひどい目に遭ったのかは、想像するしかない。警察犬が廃車のトランクルゥムからあの子を見つけたとき、右目は網膜剝離を起こしてて、タケシはそれまでの記憶を失ってた。家に戻ってからも、毎晩あの子は狂乱状態だった。I'll die, I'll dieって。落ちついて眠れるようになるまで二年かかった」
 しんじゃう、死んじゃう、と泣いた四歳のあいつを思った。ヘレンさんはハーブティーをすすった。ぼくもカップをとった。枯草みたいな味がした。
「犯人はすぐ捕まったわ。実行犯はね。終身刑よ。ただ、主犯は……」
「捕まってないんですか」
「確かな証拠がなかったの。でも、まちがいない。わたしたちの親戚の、ある男よ。伯父のオゥグスト・シュナァベルの遺産を当てにして、将来の相続人を減らそうとしたのね。ビッグタケシのヴァイオリンショップも、彼が乗っとった。正直、あの子をマンハトゥンにはやりたくなかった。けれど、あの子は行くって。あの子の夢だから」
 ジャイロがぼくの腿を掻いた。ぼくはやつの顎をさすった。舌をだした笑顔。
「あの子は、ずっと友達をつくろうとはしなかった。ケネスの記憶はなくても、自分のそばで友達が死んでしまったことが、無意識にあの子の重荷になっていたのかもしれない。でも、あの子、あなたのことは、とても気にいってるように見えた」ヘレンさんはいたずらっぽく笑った。「あなたに恋してるんじゃないかと思ったくらい。ヴァレンタインズデイにケィクを手づくりしたり」
「あれ、あいつがつくったんですか?」
 後輩がくれたといったカップケーキ。けっこうおいしかった。
「あなたが来てくれなくなって、そうとう落ちこんでいたの。キターラにきらわれた、って。地下室に、あなたの写真が飾ってあるわ。ほんとうのことを、そのまま話すのはつらいけど、それでも、あの子はあなたに話したかったんだと思うの。だから少し脚色したのよ、きっと」

     ♂

どのように匙をいれても溢れだすメロンみたいに泣き虫だった

     ♂

 地下室の袖机に銀製の写真立て。文化祭のときの女装のぼくと、ラジカセをかかえた矢嶋。あいつ、他にもっといい写真あったろうに。
 スタインウェイで、ぼくらはラヴェル《マ・メール・ロワ》を連弾した。ヘレンさんがファースト/ぼくがセカンド。第四曲の題名は、ヘレンさんとぼくにぴったりだ。音楽に合わせてジャイロはぐるぐる回って、吠え声で合いの手をいれた。ぼくらは笑い声を立てた。
「赤ちゃん、いつごろ生まれそうですか」
「二十六週目なの。きっと冬生まれになるわね。もし妹だったら、サラってつけるんだってタケシは独り決めしてる」
「男の子だったら?」
「どうしましょうね。でも、わたしも女の子だって気がするの」
 こんにちは、サラ、とぼくは大きなおなかに呼びかけた。ヘレンさんは腹帯にぼくの両手を置いた。妊婦のおなかはバスケットボールのように硬い。
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