ヤジキタは四つめの街で

御厨 匙

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道の肆区

三十六哩(蛇は音楽を聴けない)

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 横向きのスチールデスクで、白衣の草薙為比古先生は深刻そうな顔だ。くさなぎクリニックの診察室。窓の幅広なブラインドごしに、タイル壁の白と電線の黒。ダイキンの空気清浄機の稼働音。ふたつの肘なしのオフィスチェアに、ぼくと父はいた。
「とにかく尋常じゃないんです。悪い夢を見るのか、夜中に叫んだり。死んだ友達が会いに来てるといって、ずっと独りごとをいうし。なんだか動きもおかしくて、蛇みたいで」
「だから、おれはおかしくないって」
 父はどうしてもぼくを狂人にしたいようだった。草薙先生はカルテにメモをとって、額を押さえた。
「竜之さん、いったんはずしてもらえませんか。お父さんがいると話しづらいこともあるでしょうから」
 蝶番の音がして、木のドアがしまった。先生は椅子の向きを変えて、ぼくと向きあった。
「竜也くん、夜は眠れてるかな」
「寝かしてもらえません」
「寝かしてもらえない」
「芝が話しかけたり、さわったりしてきます」
「それ以外の声はするかな」
「芝だけです」
 先生はメモをとった。「眠れないと、つらいでしょう。眠れるようになる薬をだしましょう。朝昼晩のめば、きっと悪いものも寄ってこなくなります」
「芝は悪いものじゃないです。芝が来ないのはいやです」
「でも、それはだんだん悪くなるんです。このままじゃ、きみが参ってしまう。ご飯は食べていますか」
「食欲がなくて。父は食べろっていうんですけど」
「食べないと、死んでしまいます」
「それなら、それでいいです。芝のところへ行ける。もうご免です」
 先生はカルテを置いた。
「ぼくにも、息子がいました。到は賢くて、とても優しい子でした。やさしすぎるくらいでした。いじめられた友達をかばって、自分が標的になってしまったんです。あの子は学校へ行けなくなって、うつのようになって、眠れないといいました。そのころ、ぼくはたくさんの患者さんをかかえていて、あの子の話なんてろくにきいてやらなかった。忙しさをいいわけにして、逃げたんです。ぼくは、ただ睡眠薬を処方して。でも、あの子はそれを飲まずに貯めておいたんですね。ある日、いっぺんに二〇〇錠を飲んで。いつまでも起きてこなくて。気づいて救急搬送してもらったけど、そのまま目が覚めませんでした。ぼくの罪です」
 先生は目を真っ赤にして、ぼくの手を握った。
「初めにきみが現れたとき、到が帰ってきたのかと思いました。死なないでください。ぼくのために、死なないでください」
 ぼくは手を振り払った。「おれは芝以外の誰かのために生きるなんて、もうご免だっていってんだよ。先生には恩を感じてる。とても感謝してる。尊敬もしてるよ。でも、所詮あなたは、もう向こう側の人だ。話すだけ時間の無駄だよね。おれは死ぬ気なんかない。殺されでもしないかぎり、死なない。でも、おれは誰にも殺されたりしないよ。おれのいってること、理解不能でしょ、あなたは?」
「……」
 先生はこわばった顔で黙ってた。ぼくは椅子を立ち、深ぶかと頭をさげた。
「ありがとう、草薙先生。いままでお世話になりました。さようなら」
 ぼくは木のドアをあけて、しめた。

     ♂

稲光まぶしからずや柔らかな瞼なくしし蛇の眠りは

     ♂

 いろいろ薬を処方されたけど、ぼくは飲まなかった。だって、ぼくはおかしくない。いつになく気分がいいんだ。
――キタ。
 芝賢治の声。いつだってあいつがそばにいてくれる。あいつの魂は、ぼくの心臓にいる。なかでころころ転がってる。ときどき腕に入って、ぼくの体をもてあそぶ。
――おれんだ。
「そうだよ、おまえんだよ」
 蛇のように動く手。ぼくはケツの穴にヴァイブレーターを挿して、チンコをしごいて恍惚とする。でも、やっぱり、ほんとうは芝賢治の腕にきちんと抱かれたい。
――キタも魂だけになる?
「死んだら、芝とずっと一緒にいられる?」
――結婚したんだよ、おれら。
「そうだったな、越水神社でな」
 ぼくは右耳をさわる。大粒のダイヤモンド。
――キタもおいで。
「おれ、死ぬのこわいよ」
――おれがいるのに。
「芝は、ほんとうに芝だよね?」
――おれだよ。
「なら、いいんだ。芝。もっと、やって」
 蛇の手がぼくを責める。ぼくは幸福だった。
 でも、眠れない。ぜんぜん眠れない。

     ♂

 父は幼児にするみたいにぼくに接した。うんうんと笑顔で話をきいて、朝昼晩の食事を用意して、身のまわりの世話を焼いた。子供あつかいされるのは嫌じゃなかった。いままで父はぼくを大人あつかいしすぎていたのだ。
「おまえは百人に一人だって先生がいってたぞ」
 洗面所の鏡の前、ぼくの髪にドライヤーを当てつつ父はいった。
「百人に一人って?」
「この病気の人は、普通はもっと被害妄想が強くて、まわりを攻撃しやすいんだそうだ。先生が訪問診療したら、相手がノコギリ持って待ってたことがあるらしい。おまえはかなり穏やかなほうだって」
「だって、おれ、病気じゃないよ。こういうのってスーパーフィールドっていうんだよ。矢嶋がいってた」
 そうかそうか、と鏡ごしに父はうなずいて、さみしげに笑った。

     ♂

 あるとき、芝賢治の声がしないことに気づいた。手もまえほど勝手に動かない。心臓に魂も感じられない。どうしたんだろう。あいつが成仏してしまったんだろうか。まだ四十九日はすぎてないのに。
「父さん。芝の声がしないんだ」
「それが普通なんだよ。よかったな、悪くなるまえにきこえなくなって」
「よくないよ! 芝に置いてかれちゃった。おれがぐずぐずしてるから」
 ぼくはめそめそ泣いた。父はぼくを撫でた。
「それはほんとうの声じゃないんだよ。きこえないほうがいいんだ。こんどから、ちゃんと自分で薬を飲むんだぞ」
 父は昼食のお盆に水薬を乗せて持ってきた。
「もしかして食事に混ぜてたの?」
 父は困った顔をした。「おまえのためなんだよ」
「おれ、もうメシ食わない。最低だ」
 ぼくは二階へ駆けあがった。

     ♂

持主が死んでしまえば本棚はバベルの塔として聳えたつ

     ♂

 ぼくは部屋のドアを本棚で塞いだ(本を抜かずに、よく動かせたと自分で思った)。ハンガーストライキだ。芝賢治の声がききたかった。あいつの声がきけるなら死んでもよかった。あいつの声がきけないなら死んだほうがましだった。ここで即身成仏できるだろうか。どうせ死体は燃やされるけど。死んだあとの体なんて、べつにどうでもいい。脱け殻だ。
 魂だけになって、芝賢治と遊びたい。魂だけでもセックスってできるのかな。それとも必要なくなるのかな。ねえ、どうなの?
 返事はきこえなかった。父が変な薬を飲ませたせいだ。ぼくが芝といるのが、そんなに気に食わないのか。同性愛ってそんなに悪いことなのか。ただ人間を好きになっただけなのに。ドアの外で父が何かいってたけど、ぼくはきかなかった。
 二日、三日とぼくは籠った。トイレはゴミ箱でした。ニオイなんてすぐに麻痺する。何もかも、どうでもいい。芝賢治がいないなら、意味がない。
 四日目だった。わけのわからない途轍もない不安感で、ぼくは目を覚ました。窓の外は薄暗かった。夕方なのか、朝方なのか、判然としなかった。
 唐突に声はした。河合省磨の声・清水俊太の声・菊池雪央の声・五十嵐楓の声・髙梨与一の声・香西博文の声・榊言美の声・天野克浪の声・工藤斗南の声・竹宮朋代の声・杉俣孝作の声・樋口未空の声・萩山大輔の声・海老原晋の声・葛城力の声。誰だかわからない声もきこえた。あらゆる声が虻の大群のように襲ってくる。
 ぼくはCDラックにすがった。使い勝手の悪い回転ラックから、CDがごっそり抜け落ち、フローリングに散らばった。ぼくは一枚をシステムコンポにセットした。大好きなモニク・アースのドビュッシー。でも、数秒でつらくなって消してしまった。不特定多数の揶揄からかい・あざけり・そしり・ののしり・あげつらい。ぼくの一挙一動、一瞬の思考も全て否定される。脳味噌が虻に刺されてるみたいに痛い。ぼくはCDをあさった。こんなに音楽はあるのに、音楽がききたいのに、ききたい音楽がなかった。
 ぼくはまた別のCDをかけた。暗いチェンバロ、端正なフーガ。この感じは、J.S.バッハだ。ぼくは音楽のヴォリュームをあげた。一二〇デシベルの音楽。でも、嘲笑も罵声も消えない。脳味噌が痛い。ぼくは音楽だけをきこうとした。
 流麗なフーガが、途絶えた。バッハの未完のフーガ。バッハは死んでしまった。芝賢治は死んでしまった。おまえのせいだ! 誰かの声がいった。ぼくは絶叫した。
 あのとき、越水神社で、芝賢治に殺してもらえばよかった。そうすれば、あいつは死ななかったかもしれないし、ぼくだってこんな思いをしないですんだ。こんな命、あいつにくれてやればよかった。
――いらねえよ。
 あいつの声だった。CDの山に突っ伏して、ぼくは泣いた。
 木の裂ける音。本棚が倒れて、数百の本が雪崩れた。金槌を持って、父が踏みこんできた。
「父さん、芝が……」
 わあわあ泣くぼくを抱擁して、父も泣いた。

     ♂

「わかったでしょう。幻聴は初めはいいことをいってても、だんだん悪くなるんです」父の和室で草薙先生はいった。「ぼくが気に食わないなら、転院してもいい。紹介状を書きましょう。でも、薬とは、さよならできないんですよ。一生、飲みつづけなければいけないんです。きみやお父さんが普通の暮らしを送るためには、必要なんです。わかってください」
 父にかかえられて、ぼくは震えてた。そこらじゅうから罵声がしていた。先生はいう。
「幸い、竜也くんは、薬が効きやすい体質らしい。薬さえ毎日きちんと飲めば、きみは普通の人と変わらない生活ができるかもしれない」
「飲めば、これ、きこえなくなるんですね?」
「ええ。ですから、当座は朝昼晩、忘れずに飲んでください。状態さえ安定すれば、薬の量も減らしていけますから」

     ♂

まぼろしをころしたいならおのれごと殺せばいいと錠剤を飲む

     ♂

 幻聴は数日でやんだ。こんどは気分の落ちこみがひどくなった。なんの楽しみもよろこびも感じなかった。死んでしまいたい、と思った。うつ病って、こんな感じなのかもしれない。首を括りたくなった父の気持ちが、やっとわかった。
――いらねえよ。
 あれがただの幻聴だったのか、ほんとうに芝賢治の霊の声だったのか、ぼくは判断がつかなかった。ほんとうにあいつの声だったとしたら、つらかった。
 生きているとき、最後にあいつはいった。いちご水! と。いちご水って、なんなんだろう。それとも、ぼくがききまちがえて、じつはぜんぜんちがう言葉だったのかもしれない。芝賢治の最後の言葉を、ぼくは取り戻したかった。

     ♂

 五月の大型連休明け、二週間ぶりの教室、ぼくは数分でギブアップした。みんなの声をきいているだけで、不安感が膨らんで動悸がした。幻聴のPTSDだろうか。
「しんどいなら、保健室登校でも大丈夫だぞ。無理はするなよ。おまえの気持ちが楽になることが大事だからな」
 海老原晋先生はいった。いい担任に当たってよかった。それだけが不幸中の幸いだ。
 ぼくはバッグを肩に、廊下へでた。別の組の矢嶋健と菊池雪央。菊池のポニーテールを、矢嶋はひっぱった。なにするの、と菊池の口の動きがいった。矢嶋は歯列矯正器を光らせて笑った。ぼくは固まった。廊下の先のぼくに気づいて、ふたりとも凍った。何かいわれるまえに、ぼくはダッシュで逃げた。
 どうして、と思った。菊池は、ぼくがふったのだ。矢嶋だって、ぼくから絶交を突きつけたのだ。ふたりが仲よくしたって、ぼくがとやかくいう資格はなかった。でも、だけど……。
 誰もいない外の非常階段で、ぼくはしゃがんだ。どうして、こんなに惨めな気持ちになるんだろう。しばらく、ぼくはぐすぐすと泣いた。

     ♂

魂極たまきわる四季の螺旋をさかやのぼりくだけるまえのぼくにあいたい

     ♂

 占い師の小早川瑞乃は、校舎二階の三年F組になってた。ぼくが訪ねていくと、用心棒の髙梨与一がガンを飛ばした。ぼくは黙って瑞乃に夏目漱石を差しだした。瑞乃は千円ぶんにっこりして、髙梨にカネを渡した。
「ヨイチ。それでハロハロ食べてきていいよ」
 髙梨はうれしそうな顔でガッツポーズして、廊下へ駆けてった。瑞乃はいう。
「ケンジのことかな」
 ぼくはお客の席についた。「まえに占ってもらったとき、死神のカードがでたじゃない。ただの同情ならやめろって、きみは忠告した。あれって芝が死ぬって意味だったの?」
「そういうつもりじゃなかった。補助カードにがでたから、きみが愛欲に溺れてしまうんじゃないかと思ったの。のカードがでる確率は他のカードと変わらなくて、でたからって人が死ぬなんてことは滅多にないの。わたしは一度しか経験がなかった。ヨイチのお父さんのときだけ。わたしは超能力者でも霊能者でもない。ただの占い師だから、読みちがえることもある」
 瑞乃の目は悲しく澄んでいた。ぼくは右手で左手をきつく握った。
「こうなるってわかってたら、芝を選ばなかったよ。全部おれが悪い。ねえ、芝は自殺したのかな。芝が死ぬまえ、あいつと喧嘩んなって、最後にいわれたんだ。いちご水! って。意味がわからなくて。あいつが最後に、どういう気持ちでいたのか、それが知りたいんだ」
「それは、わたしも知りたい。ワンオラクルでいいよね」
 ちっちゃな七十八枚のカードを、ぼくはばらばらに混ぜた。瑞乃がカードをまとめてそろえた。上半分の束をとって、下半分と入れ替える。そして、手品師のように一発でカードを一列に等間隔に並べた。相変わらず、お見事。
「いちばん心惹かれるカードをひいてね。上下はそのままね」
 ぼくは手をかざして、一番光って感じられるカードをとった。棒を右手に握った女の人が玉座にいた。左手に大輪の向日葵、足元に黒猫。
の正位置」
「どういう意味」
「人生への愛、かな」瑞乃は頬笑んだ。「あいつは最後まで楽しかったし、自分自身にも満足してた。きっと、自殺じゃない。いちご水の意味はわかんないけど、決して意地悪でいったんじゃないと思う」
 ぼくは泣きそうになって、瞼を片手で押さえた。「……よかった」
「まだ千円ぶんにならないね。きみのことも占うよ」瑞乃はカードをまとめて切って、もういっぺんきれいに並べなおした。「はい、どうぞ」
 ぼくは迷わず一枚とった。いつかマクドナルドでもひいた、棒をいっぱい抱えこんだ人の絵。でも、逆さまだ。
の逆位置。きみは責任を手放したんだ。それでいいんだよ。きみはちょっと背負いこみすぎだったの。いい? その棒は、もう拾わない。ほら、カードを見て。背景が明るい青でしょう。きれいな緑もある。今のきみには、景色を楽しむ余裕があるはず。きみの人生は、これからひらけるの」
 ぼくの病気のことなんて瑞乃は知らないはずだけど、なんだかとても励ましてくれる。のカードを手に、ぼくは五月の明るい窓の外を眺めた。

     ♂

きのうから魚のいない水槽に虹の射しこむ角度があって
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