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君の参区
二十八哩(海を飲みたい)
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ソはソドムのソ。
♂
瞼をあげると薄闇、薄卵色の間接照明。自分が誰なのか、ここがどこなのか、思いだすのにしばしかかる。あゝ、そうだ、横浜ベイシェラトンホテルに泊まったんだ。やわらかいベッド・裸の腰に絡んだ男の腕・芝賢治のいかめしい寝顔・鼻を突く精液のニオイ。ぼくはぼんやりと半身を起こして、ケツの痛みに息を飲んだ。ゆうべさんざん注ぎこまれたものが、どろりとあふれてシーツを汚す。
前の日がフラッシュバックする。紫色の父の顔・追ってくる不良たち・セカンドバッグの札束・ダイヤモンドピアスの光・有能なホテルコンシェルジュ・みなとみらいの夜景・でっかいチーズ・スエード手袋・押さえつけてきた手・痛みと熱・怯えた鋼色の三白眼――
右のベッド、マリーゴールド色のニットの矢嶋健も死んだように眠っていた。ワインレッドのストレートパンツが朝勃ちでめっちゃ盛りあがってた。ぼくは顔をしかめ、目を背けた。生理的なもんだとわかってても、なんか嫌。
シバケンが身じろぎして、目をこすった。眠たげに頬笑んで、ぼくに手を伸ばす。ぼくは真顔で払いのけた。あんなレイプみたいな抱きかたをしておいて、平然としてることが信じられなかった。シバケンは涙目。ぼくは無言で立ちあがって、バスルームへ向かった。
バスルームの鏡、ぼくの胸はキスの鬱血でいっぱいだった。ぼくは何も考えないようにして、指でケツの穴から精液を掻きだした。
髪をふきつつトランクス一丁で戻ると、シバケンは矢嶋の脇に佇んでいた。ぼくをふりかえって、困ったような顔で指差す。
「ねえ、なんでハゲなの。剃毛プレイ?」
矢嶋のパンツがずりおろされてて、長いチンコが丸だし。皮は剝けてる。でも、陰毛がまったくなかった。つるんつるん。ぼくも困った顔になったと思う。
「まだ生えてない、とか」
「まさか。おれ、小四で生えたぞ」
「おれは小五だった。もしかして脱毛症かな」
「チンポだけ? そりゃねえよ」
悩んでも埒が明かない。ぼくは矢嶋にブランケットをかけて、きのうの服を着た。べつに矢嶋の股間なんてどうだっていい。シバケンはにやにやと油性マジックを手にし、矢嶋に陰毛を描きたした。
♂
宿泊代金およびコンシェルジュ利用料はシバケンが支払った。三万円超。ぼくは忘れず、フロント係にいいそえる。
「別の部屋の友人が遊びに来て、ぼくらの部屋で寝ちゃったんです。まだ眠ってるので、しばらく起こさないであげてもらえますか」
「何号室の、なんというお客さまでしょうか」
「何号室かはわかんないけど、矢嶋ケンです」
「矢嶋さま。承知しました」
これで矢嶋はみっともない股間を見られずにすむはずだ。シバケンはいう。
「キタってやさしいのな」
「少なくとも、おまえよりゃな」
「だから、ごめん。もうしないって」
シバケンは肩に腕を回してくる。ぼくは不機嫌な顔を崩さなかった。
春の払暁の空のインディゴブルー。横浜駅前は、もうちらほらと人出があった。ぼくらは警戒しながら、四車線の道路を渡った。
中央改札口に追手の見張りらしき姿はなかった。シバケンはほっと息をつく。
「さすがに始発から張ってねえな」
「どこ行く気」
「横須賀って何線」
「横須賀は横須賀線じゃん」
料金表を兼ねた路線図を、ぼくは見あげる。そっか、とシバケン。こいつは賢いようで、おマヌケだ。ぼくらはそれぞれ切符を買った。あと五万五〇二〇円。
「〽ドは童貞のド、レはレイプのレ……って来たら、ミは何」
吊革に体重をかけて、シバケンがいった。ぼくは左イヤホンで、アナトール・ウゴルスキの弾く《さすらい人幻想曲》を流した(フランツ・シューベルトはピアノがへたくそなくせに難曲をつくるのだ)。朝一の電車は空いてるけど満席だ。ちょっと恥ずかしかった。
「ミ、ミ、ミ……ミルク?」
「ミルクはべつにエロくないだろ」
「えっと……じゃあ、未亡人」
「うーん、いまいち」
「じゃあ、ミミズ千匹」
「ミミズ千匹って何」
「その、女のあそこの感触が……」
「あゝ、なんとなくわかった。〽ミミズ千匹のミ……語呂がわりいな」
「あっ、あれがある。三擦り半!」
「三こすり半って?」
「ようするに、早漏」
「キタって、なにげにスケベな」シバケンはにやりとした。「〽ドは童貞のド、レはレイプのレ、ミは三こすり半のミ、ファはファックのファ」
「ソは?」
「〽ソは粗チンのソ」
ぼくらはまったくどうでもいい会話ばかりした。じゃないと、現実の重さにぺしゃんこになってしまいそうだったから。
♂
ドーナツは童貞レモンはドレミドミぼくは下品な替え歌がすき
♂
「横須賀駅ちっちゃ!」
シバケンは叫んだ。横須賀駅はプラットフォームが二面だけで、階段がなかった。自動改札を抜け、ぼくらは玩具めいた駅舎をでた。潮の香り。穏やかな入江が間近だ。あのヘリポートのある施設は米軍基地だろうか。それとも自衛隊基地? ぼくはつぶやく。
「横須賀って意外と田舎だな」
「いや、都会のトコもあるはずなんだよ。テレビで見たもん」シバケンはいった。「カレー食おうぜ、カレー。金曜に自衛隊が食うやつ」
そういえば金曜日か、と思った。清水俊太や菊池雪央は、新しいクラスでどうしているだろう。ぼくは物思いを振り払って、懐中時計のゼンマイをきりりと巻いた。まだ朝だ。
タクシー運転手に繁華街の場所を尋ねた。その運ちゃんはタバコを踏みにじった。
「観光するなら、京急の横須賀中央駅からがいいんだけどね。みんな知らないでこっち来ちゃうんだ。乗ってくかい」
「いくらで行けますか」
「千円にはならないね」
ぼくらは後部座席に乗りこんだ。かすかなタバコ臭。横須賀中央駅東口まで一〇分もかからなかった。一〇〇〇円オーヴァー。ぼったくりだ。シバケンと千円札をだしあって、お釣りを半分コした。あと五万四八七〇円。
こっちの駅前はまあ都会だった。看板と中低層ビル群。ぼくらは商店通りをうろついた。
「カレーのうまい店、きけばよかった」
シバケンが腹をさすった。ちがいない。
「駅に戻って、観光案内所にきこうか」
「ん、カレーの匂い」
あいつは犬みたいに鼻を鳴らした。たしかにスパイシーな香り。ぼくらは匂いを辿った。
海猫軒って店からだった。宮沢賢治の童話を思いだし、つかのま不安になったけど、空腹には勝てなかった。ぼくは引戸をあけた。年配ご夫婦の愛想のいい笑顔。
角煮の入った、具だくさんのカレーライスだった。むちゃくちゃコクがある。仕込みに一〇時間かけるんだ、と元シェフの旦那さんはいった。シバケンは五分で平らげ、ソフトクリームを舐めながら奥さんにきいた。
「米軍のグッズって、どこで売ってますか」
「そういうのは、どぶ板通りだよ。兄ちゃんたち、いくつ」
暗に学校へ行かなくていいのかといわれてる気がした。
「こないだ中学でて、卒業旅行に来たんですよ。おれら整備工場に内定もらってて。なっ」
シバケンはもっともらしい噓をついて、ぼくに同意を求めた。カレーを頬ばりつつ、ぼくはうなずいた。ぼくもシバケンも一六〇センチ台なかばだし、声変わりもしている。それほど幼くは見えないはずだ。あと五万三八五〇円。
「卒業旅行か」
店のおもてで、ぼくはつぶやいた。シバケンは頬笑む。
「キタのイイコちゃん卒業旅行だよ。どこ行きたい」
「着替えとカバンが欲しい」
「あんまデカいカバンにすんなよ。いかにも家出少年になるから」
シバケンの携帯電話が三和音で鳴った。Blankey Jet City《ロメオ》。サブウインドウの表示を読んで、あいつは顔をしかめた。
「非通知だ」
メロディは一巡し、まだ続く。七色のイルミネーション。シバケンは舌打ち。
「ぜってえ兄貴だ。くそ、充電ないのに」
二巡目のサビで、着メロは途切れた。
どぶ板通りはアルファベット表記の街角だった。年季の入ったアメカジ系の古着屋、ぼくは白のサーマルカットソーと迷彩のデイパックを買った。試着室で着替えた。いいじゃん、とシバケンはいった。あと四万八〇五〇円。
迷彩を着たバイトの兄ちゃんに、シバケンは認識票を求めた。二枚でワンセット、それぞれ別々の刻印も可能という。
「ねえ、ねえ、キタ、オソロで下げよーよ」
ぼくは無駄遣いしたくなかったけど、シバケンがごねるので折れた。へこみのある第二次世界大戦型を選んだ(このへこみを戦死者の歯に挟むのだ)。基本的な刻印は名字・名前・社会保障番号・血液型・宗教らしい。ぼくはフルネーム・生年月日・血液型・出身地だけ用紙に記入した。US NAVYとペイントされた打刻機で、五分で完成。ボールチェーンで首からさげる。
「芝は何打ったの」
シバケンはひっそりと笑って、タグを握りこんだ。「ナイショ」
あと四万七一五〇円。
♂
左耳にドビュッシー《海》第一楽章。波の通奏低音、横須賀の海は晴れて穏やかだった。広い海浜公園、ぼくとシバケンは東郷平八郎像にハイキックしたり、アーチ形のモニュメントで懸垂したりした。
シバケンはリヴァーシブルのスカジャンを表返した。鷹の青いスカジャンは、鈍色の海に映えた。日差しはまるで初夏だ。ぼくは汗ばんだ額をぬぐって、スカジャンを脱いだ。
「暑くないの」
「横須賀っつったらスカジャンじゃん」
「だからって瘦せ我慢しなくても」
ぼくは自分のスカジャンを眺めた。桜と般若の面の刺繍。これは背負いたくないな。
「メグさん、なんで般若なんかにしたんだろ」
「あゝ、なんかね、ドラクエⅢだっていってた。意味わかる?」
「わかんない。うちはゲーム禁止だったから。子供らしいことは軒並みだめって母親にいわれて、大人っぽくできたときだけ褒めてもらえてさ。おれがオモチャで楽しそうにしてるだけで気に食わないらしくて、わざといやなこといってくるんだ」
「いやなこと」
「変な顔の子ね、気持ち悪い子ね、あんたなんか堕胎したらよかった、って。おれ、堕胎の意味もわかんなかったけど、悲しかったよ。だから、おれ、今も自分の顔すきじゃない」
シバケンは眉根を寄せた。奈良興福寺の阿修羅像みたいに。あいつは左手をだしかけて、ひっこめた。手が当たって腰の手錠が鳴った。改めて右手でぼくの頬をなぞった。
「キタのおかあさんはね、ゆがんだ鏡だったんだよ。ゆがんでるのは自分なのに、それをみんなキタのせいにしたんだ。おれの鏡にはキタがきれいに映るよ。だから、大丈夫」
胸の頑固な瘡蓋が、すぺりと剝がれ落ちたように感じた。泣きそうな目を見られたくなくて、ぼくはスカジャンを頭にかぶった。
「でもさ、じいちゃんが、ちゃんと甘やかしてくれたから。もし、じいちゃんがいなかったら、おれ、きっと、もっとひどい人間になってた」
Blankey Jet Cityが三和音で鳴った。サブウィンドウの表示をたしかめ、シバケンは繋いだ。
『よお、ケンジ。やらかしたんだって?』
髙梨与一のどら声が丸ぎこえだった。シバケンは苦笑い。
「ごめんな、兄貴が来たろ」
『大阪のUSJ行くっていってましたー、ってフカシこいといた。安心しろよ』
「じゃ、大阪以外に行くわ。サンキュ。充電ねえから、そんじゃあな」
『おう。おまえ修学旅行までには帰ってこいよな』
シバケンは携帯を仕舞った。短い会話だったけど、深く信頼しあってるのが伝わった。潮風に右耳のピアスの傷がじんとした。
「芝はさ、髙梨と仲いいじゃん」
「まあ、いいけど。何」
「名古屋への家出のときとかさ、けっこう長く一緒にいたろ。その、たとえば着替えのときとか、どうすんの」
「ヤキモチですか」
シバケンはくすぐったそうに笑った。ぼくはうつむいて、コンクリ片で地べたをひっ掻いた。そんなこと気にする自分が嫌だった。みっともない、かっこ悪い。あいつはぼくの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「ヨイチはドのんけストレートだからさ、フツーに仲いいダチのノリですごしてたよ。あいつ、ホモきらいだもん。気持ちわりいとか平気でゆうし」シバケンはさみしげに笑った。「おれがほんとのことゆえんのは、キタだけだよ」
この男を抱きしめて、キスしたかった。あたりには親子づれやカップル。あの人たちがおたがいを慈しむ気持ちと、ぼくらの気持ちは何もちがわないはずだった。なのに、どうしてぼくらだけが堂々と抱きあえないんだろう。ぼくは握手するようにシバケンの右手をとった。あいつはやわらかく握りかえした。
「あのさ、今さ」シバケンは口をぼくの耳もとに寄せた。「キタと、めっちゃやりたい」
♂
リラ冷えの季の曇天と海原は鈍い鏡のように向きあう
♂
海水を飲んでいるように、渇く。ぼくとシバケンは窓側のシングルベッドで服を脱ぎあった。ビジネスホテルのスタンダードツイン。ぼくらはキスして、おたがいにふれた。やつの腹筋と、勃ちあがった硬いやつ。シバケンは指をぼくのケツの穴に突き立てた。ぼくは顔をゆがめて、身をひいた。
「きょうはいやだ。きのう痛かった」
あいつは残念そうにぼくの尻を撫でたが、顔をあげた。左耳の石の光と、煙水晶の目の光。
「キタ、シックスナインわかる?」
ぼくはうなずいた。やっぱスケベだ、とあいつは笑って、シーツのうえで反転した。おたがいに側位で向きあう。6と9。やつのそっくり返ったチンコがてらてらと濡れてる。庚申薔薇色の亀頭。あいつはぼくの腿をかかえて、かぶりついた。しゃぶられる快感と興奮にまかせて、ぼくも咥えた。歯を立てないよう気をつけながら、先端をきつく吸う。うっすらと塩け。目の前にキンタマと蟻の門渡り。すげえ絵づらだな、と頭のどこか冷静な部分で思った。ぼくは目をとじて、感覚だけに集中した。
こうなってみるまでは、魔法の泉の水のように一度のめば満ち足りるのだと思ってた。でも、性は海水だった。のめば飲むほど渇くのだ。
ぼくが先にイった。あふれでるものに喪失感を覚えた。あいつはいつものように飲みほした。ぼくは丁寧に舌を這わせた。やがて、あいつもイった。苦い。ぼくは咳きこんだ。あいつがティッシュでふいてくれた。
射精しても、やつのチンコは萎まなかった。そこを押さえて、シバケンは苦しげにいう。
「……あのさ、やっぱハメちゃだめ?」
ぼくは迷ったけど、切実な表情に押されて尻を向けた。あいつはピアスの消毒用ジェルをそこに塗りたくって、押しいった。三度目となると、ぼくも受けいれかたがわかってきて、まえよりは痛くなかった。シバケンがささやく。
「おれのチンコ、でかくはないけど、反ってっからバックですると前立腺にモロなんだよ」
ゼンリツセンが何かわかんなかったけど、尻のなかを擦られるとマゾヒスティックで女々しい気分になった。ぐちゃぐちゃと鳴る粘膜、下腹が尻に当たる音。ぼくは小さな声で喘いだ。
果てたあとで、シバケンはどろどろのシーツを剝がして床へ投げた。ぼくは精液まみれで、ぐったりと横たわった。あいつを睨む。
「子犬だと思って拾ったのに、猛獣だったみたいだ」
シバケンは苦笑した。「おまえのチンポ壊れてる、って兄貴たちにいわれた。捨てる?」
「捨てない」
「おれんこと、すき? こんなエロいこと許してくれるくらい、すき?」
返事の代わりに、ぼくは裸の肩にすがった。あいつは壁側の手つかずのベッドを見やる。
「つうかさ、ツインとる意味あんの?」
「ダブルとったら、ホモなのバレるじゃん」
「どっちにしろバレるだろ。この乱れっぷりじゃ。それに二度と来ねえし。こんどはダブルにしねえ?」
「まあ、値段はそんな変わんないけどさ」
いちゃいちゃしてるうちに、シバケンは目をつむって静かになった。
枕のせいか、ぼくは眠れなくて、左耳にイヤホンを嵌めた。ラヴェル《夜のガスパール》より《絞首台》。父は、どうなっただろう。目を覚ましただろうか、それとも……。
「あしたは、もっと遠くへ行こうな」
眠っていると思ってたシバケンがいった。
♂
止め処なき喉の渇きよ寄る辺なき君は思春の森の喜多ゆえ
♂
「明け方さ、キタ、めっちゃ楽しそうに笑ってたよ。何の夢みてた」
ホテルのラウンジチェアで、シバケンがいった。ぼくは箸と茶碗を手に首をかしげた。
「何もおぼえてない」
「そっか。そんでさ、そんとき思いついたんだけどさ。桜前線、追わねえ?」
「北上するってこと?」
「イーハトーブへ行きてえんだよ」
「岩手?」
「まあ、とりあえずは仙台に行かない? こっからタクシーだと、いくらかかるかな」
見当もつかなかった。「東京駅から新幹線に乗ったほうが安いよ、きっと」
シバケンはお麩の味噌汁をすすった。「そっか、キタはくわしいな」
「ピアノのコンクールで、何度か上京したから」
ぼくは鮭の身をくずしながら、だんだんと憂鬱になった。
横須賀駅から横須賀線に乗った。遠ざかっていく海のきらめき。シバケンが口ずさむ。
「〽ラはラブホのラ」
「シは?」
「〽シは……なんだろな」
「屍姦のシ?」
「歯間?」
「死体を犯すことだよ」
「キタって変なこと知ってんな」シバケンは首をひねった。「でも、シカンって歯の間って気がする。却下」
シの単語が浮かばないまま、東京駅に到着した。新幹線のきっぷうりばへ近づくほど、ぼくの足どりは重くなった。シバケンがふりかえる。
「どうした」
「その、あんまりカネがないんだ」
あと四万三五五〇円しかなかった。仙台までの自由席のチケットは一万円以上するだろう。四万円を割ってしまう。あいつはとりなすようにいう。
「おれがだすよ」
「盗んだカネだろ」
シバケンはすっと真顔になった。「どうせ、あいつらだってカツアゲやアンパンで稼いだんだ。まともなカネじゃない。いいじゃん、ぱーっと使っちまおうぜ」
江戸っ子みたいにぱーっと使いきって、そのあとどうするのだろう。考えたくなかった。
三和音のBlankey Jet City。シバケンはサブウインドウを読んで、そのままポケットに仕舞った。きっと、非通知だ。鳴りつづける着メロ。シバケンは喧嘩するような目をした。
「帰ったらおれは殺されるし、キタは輪姦されちゃうよ。行くっきゃねえよ」
♂
一〇時発の東北新幹線やまびこの自由席、ぼくは窓側の席を譲ってもらった。残像めく春の車窓。シバケンは急に思いついたらしい。
「〽シは潮吹きのシ……なあ、潮吹きってマヂですんのかな?」
「芝が知らないもの、おれにきかれても知らないよ」
「そうだよな。キタはおれしか知んねえもんな。〽ドは童貞のド、レはレイプのレ、ミは三こすり半のミ、ファはファックのファ、ソは粗チンのソ、ラはラブホのラ、シは潮吹きのシ、さあやりましょおー」
「いや、すでにやりまくってんじゃん」
シバケンはにやにやと、ぼくの右耳に口を寄せた。「キタと、やりまくりてえな。キタがケツ振ってよがり狂って、もっとっていうまで」
ぞくぞくした。ぼくは耳を覆って、逃げた。「いわない」
「ぜってえ、いわしてやる」
あと三万二九〇〇円。
♂
星空の空隙ばかり見てぼくらイーハトーブへ亡命できず
♂
瞼をあげると薄闇、薄卵色の間接照明。自分が誰なのか、ここがどこなのか、思いだすのにしばしかかる。あゝ、そうだ、横浜ベイシェラトンホテルに泊まったんだ。やわらかいベッド・裸の腰に絡んだ男の腕・芝賢治のいかめしい寝顔・鼻を突く精液のニオイ。ぼくはぼんやりと半身を起こして、ケツの痛みに息を飲んだ。ゆうべさんざん注ぎこまれたものが、どろりとあふれてシーツを汚す。
前の日がフラッシュバックする。紫色の父の顔・追ってくる不良たち・セカンドバッグの札束・ダイヤモンドピアスの光・有能なホテルコンシェルジュ・みなとみらいの夜景・でっかいチーズ・スエード手袋・押さえつけてきた手・痛みと熱・怯えた鋼色の三白眼――
右のベッド、マリーゴールド色のニットの矢嶋健も死んだように眠っていた。ワインレッドのストレートパンツが朝勃ちでめっちゃ盛りあがってた。ぼくは顔をしかめ、目を背けた。生理的なもんだとわかってても、なんか嫌。
シバケンが身じろぎして、目をこすった。眠たげに頬笑んで、ぼくに手を伸ばす。ぼくは真顔で払いのけた。あんなレイプみたいな抱きかたをしておいて、平然としてることが信じられなかった。シバケンは涙目。ぼくは無言で立ちあがって、バスルームへ向かった。
バスルームの鏡、ぼくの胸はキスの鬱血でいっぱいだった。ぼくは何も考えないようにして、指でケツの穴から精液を掻きだした。
髪をふきつつトランクス一丁で戻ると、シバケンは矢嶋の脇に佇んでいた。ぼくをふりかえって、困ったような顔で指差す。
「ねえ、なんでハゲなの。剃毛プレイ?」
矢嶋のパンツがずりおろされてて、長いチンコが丸だし。皮は剝けてる。でも、陰毛がまったくなかった。つるんつるん。ぼくも困った顔になったと思う。
「まだ生えてない、とか」
「まさか。おれ、小四で生えたぞ」
「おれは小五だった。もしかして脱毛症かな」
「チンポだけ? そりゃねえよ」
悩んでも埒が明かない。ぼくは矢嶋にブランケットをかけて、きのうの服を着た。べつに矢嶋の股間なんてどうだっていい。シバケンはにやにやと油性マジックを手にし、矢嶋に陰毛を描きたした。
♂
宿泊代金およびコンシェルジュ利用料はシバケンが支払った。三万円超。ぼくは忘れず、フロント係にいいそえる。
「別の部屋の友人が遊びに来て、ぼくらの部屋で寝ちゃったんです。まだ眠ってるので、しばらく起こさないであげてもらえますか」
「何号室の、なんというお客さまでしょうか」
「何号室かはわかんないけど、矢嶋ケンです」
「矢嶋さま。承知しました」
これで矢嶋はみっともない股間を見られずにすむはずだ。シバケンはいう。
「キタってやさしいのな」
「少なくとも、おまえよりゃな」
「だから、ごめん。もうしないって」
シバケンは肩に腕を回してくる。ぼくは不機嫌な顔を崩さなかった。
春の払暁の空のインディゴブルー。横浜駅前は、もうちらほらと人出があった。ぼくらは警戒しながら、四車線の道路を渡った。
中央改札口に追手の見張りらしき姿はなかった。シバケンはほっと息をつく。
「さすがに始発から張ってねえな」
「どこ行く気」
「横須賀って何線」
「横須賀は横須賀線じゃん」
料金表を兼ねた路線図を、ぼくは見あげる。そっか、とシバケン。こいつは賢いようで、おマヌケだ。ぼくらはそれぞれ切符を買った。あと五万五〇二〇円。
「〽ドは童貞のド、レはレイプのレ……って来たら、ミは何」
吊革に体重をかけて、シバケンがいった。ぼくは左イヤホンで、アナトール・ウゴルスキの弾く《さすらい人幻想曲》を流した(フランツ・シューベルトはピアノがへたくそなくせに難曲をつくるのだ)。朝一の電車は空いてるけど満席だ。ちょっと恥ずかしかった。
「ミ、ミ、ミ……ミルク?」
「ミルクはべつにエロくないだろ」
「えっと……じゃあ、未亡人」
「うーん、いまいち」
「じゃあ、ミミズ千匹」
「ミミズ千匹って何」
「その、女のあそこの感触が……」
「あゝ、なんとなくわかった。〽ミミズ千匹のミ……語呂がわりいな」
「あっ、あれがある。三擦り半!」
「三こすり半って?」
「ようするに、早漏」
「キタって、なにげにスケベな」シバケンはにやりとした。「〽ドは童貞のド、レはレイプのレ、ミは三こすり半のミ、ファはファックのファ」
「ソは?」
「〽ソは粗チンのソ」
ぼくらはまったくどうでもいい会話ばかりした。じゃないと、現実の重さにぺしゃんこになってしまいそうだったから。
♂
ドーナツは童貞レモンはドレミドミぼくは下品な替え歌がすき
♂
「横須賀駅ちっちゃ!」
シバケンは叫んだ。横須賀駅はプラットフォームが二面だけで、階段がなかった。自動改札を抜け、ぼくらは玩具めいた駅舎をでた。潮の香り。穏やかな入江が間近だ。あのヘリポートのある施設は米軍基地だろうか。それとも自衛隊基地? ぼくはつぶやく。
「横須賀って意外と田舎だな」
「いや、都会のトコもあるはずなんだよ。テレビで見たもん」シバケンはいった。「カレー食おうぜ、カレー。金曜に自衛隊が食うやつ」
そういえば金曜日か、と思った。清水俊太や菊池雪央は、新しいクラスでどうしているだろう。ぼくは物思いを振り払って、懐中時計のゼンマイをきりりと巻いた。まだ朝だ。
タクシー運転手に繁華街の場所を尋ねた。その運ちゃんはタバコを踏みにじった。
「観光するなら、京急の横須賀中央駅からがいいんだけどね。みんな知らないでこっち来ちゃうんだ。乗ってくかい」
「いくらで行けますか」
「千円にはならないね」
ぼくらは後部座席に乗りこんだ。かすかなタバコ臭。横須賀中央駅東口まで一〇分もかからなかった。一〇〇〇円オーヴァー。ぼったくりだ。シバケンと千円札をだしあって、お釣りを半分コした。あと五万四八七〇円。
こっちの駅前はまあ都会だった。看板と中低層ビル群。ぼくらは商店通りをうろついた。
「カレーのうまい店、きけばよかった」
シバケンが腹をさすった。ちがいない。
「駅に戻って、観光案内所にきこうか」
「ん、カレーの匂い」
あいつは犬みたいに鼻を鳴らした。たしかにスパイシーな香り。ぼくらは匂いを辿った。
海猫軒って店からだった。宮沢賢治の童話を思いだし、つかのま不安になったけど、空腹には勝てなかった。ぼくは引戸をあけた。年配ご夫婦の愛想のいい笑顔。
角煮の入った、具だくさんのカレーライスだった。むちゃくちゃコクがある。仕込みに一〇時間かけるんだ、と元シェフの旦那さんはいった。シバケンは五分で平らげ、ソフトクリームを舐めながら奥さんにきいた。
「米軍のグッズって、どこで売ってますか」
「そういうのは、どぶ板通りだよ。兄ちゃんたち、いくつ」
暗に学校へ行かなくていいのかといわれてる気がした。
「こないだ中学でて、卒業旅行に来たんですよ。おれら整備工場に内定もらってて。なっ」
シバケンはもっともらしい噓をついて、ぼくに同意を求めた。カレーを頬ばりつつ、ぼくはうなずいた。ぼくもシバケンも一六〇センチ台なかばだし、声変わりもしている。それほど幼くは見えないはずだ。あと五万三八五〇円。
「卒業旅行か」
店のおもてで、ぼくはつぶやいた。シバケンは頬笑む。
「キタのイイコちゃん卒業旅行だよ。どこ行きたい」
「着替えとカバンが欲しい」
「あんまデカいカバンにすんなよ。いかにも家出少年になるから」
シバケンの携帯電話が三和音で鳴った。Blankey Jet City《ロメオ》。サブウインドウの表示を読んで、あいつは顔をしかめた。
「非通知だ」
メロディは一巡し、まだ続く。七色のイルミネーション。シバケンは舌打ち。
「ぜってえ兄貴だ。くそ、充電ないのに」
二巡目のサビで、着メロは途切れた。
どぶ板通りはアルファベット表記の街角だった。年季の入ったアメカジ系の古着屋、ぼくは白のサーマルカットソーと迷彩のデイパックを買った。試着室で着替えた。いいじゃん、とシバケンはいった。あと四万八〇五〇円。
迷彩を着たバイトの兄ちゃんに、シバケンは認識票を求めた。二枚でワンセット、それぞれ別々の刻印も可能という。
「ねえ、ねえ、キタ、オソロで下げよーよ」
ぼくは無駄遣いしたくなかったけど、シバケンがごねるので折れた。へこみのある第二次世界大戦型を選んだ(このへこみを戦死者の歯に挟むのだ)。基本的な刻印は名字・名前・社会保障番号・血液型・宗教らしい。ぼくはフルネーム・生年月日・血液型・出身地だけ用紙に記入した。US NAVYとペイントされた打刻機で、五分で完成。ボールチェーンで首からさげる。
「芝は何打ったの」
シバケンはひっそりと笑って、タグを握りこんだ。「ナイショ」
あと四万七一五〇円。
♂
左耳にドビュッシー《海》第一楽章。波の通奏低音、横須賀の海は晴れて穏やかだった。広い海浜公園、ぼくとシバケンは東郷平八郎像にハイキックしたり、アーチ形のモニュメントで懸垂したりした。
シバケンはリヴァーシブルのスカジャンを表返した。鷹の青いスカジャンは、鈍色の海に映えた。日差しはまるで初夏だ。ぼくは汗ばんだ額をぬぐって、スカジャンを脱いだ。
「暑くないの」
「横須賀っつったらスカジャンじゃん」
「だからって瘦せ我慢しなくても」
ぼくは自分のスカジャンを眺めた。桜と般若の面の刺繍。これは背負いたくないな。
「メグさん、なんで般若なんかにしたんだろ」
「あゝ、なんかね、ドラクエⅢだっていってた。意味わかる?」
「わかんない。うちはゲーム禁止だったから。子供らしいことは軒並みだめって母親にいわれて、大人っぽくできたときだけ褒めてもらえてさ。おれがオモチャで楽しそうにしてるだけで気に食わないらしくて、わざといやなこといってくるんだ」
「いやなこと」
「変な顔の子ね、気持ち悪い子ね、あんたなんか堕胎したらよかった、って。おれ、堕胎の意味もわかんなかったけど、悲しかったよ。だから、おれ、今も自分の顔すきじゃない」
シバケンは眉根を寄せた。奈良興福寺の阿修羅像みたいに。あいつは左手をだしかけて、ひっこめた。手が当たって腰の手錠が鳴った。改めて右手でぼくの頬をなぞった。
「キタのおかあさんはね、ゆがんだ鏡だったんだよ。ゆがんでるのは自分なのに、それをみんなキタのせいにしたんだ。おれの鏡にはキタがきれいに映るよ。だから、大丈夫」
胸の頑固な瘡蓋が、すぺりと剝がれ落ちたように感じた。泣きそうな目を見られたくなくて、ぼくはスカジャンを頭にかぶった。
「でもさ、じいちゃんが、ちゃんと甘やかしてくれたから。もし、じいちゃんがいなかったら、おれ、きっと、もっとひどい人間になってた」
Blankey Jet Cityが三和音で鳴った。サブウィンドウの表示をたしかめ、シバケンは繋いだ。
『よお、ケンジ。やらかしたんだって?』
髙梨与一のどら声が丸ぎこえだった。シバケンは苦笑い。
「ごめんな、兄貴が来たろ」
『大阪のUSJ行くっていってましたー、ってフカシこいといた。安心しろよ』
「じゃ、大阪以外に行くわ。サンキュ。充電ねえから、そんじゃあな」
『おう。おまえ修学旅行までには帰ってこいよな』
シバケンは携帯を仕舞った。短い会話だったけど、深く信頼しあってるのが伝わった。潮風に右耳のピアスの傷がじんとした。
「芝はさ、髙梨と仲いいじゃん」
「まあ、いいけど。何」
「名古屋への家出のときとかさ、けっこう長く一緒にいたろ。その、たとえば着替えのときとか、どうすんの」
「ヤキモチですか」
シバケンはくすぐったそうに笑った。ぼくはうつむいて、コンクリ片で地べたをひっ掻いた。そんなこと気にする自分が嫌だった。みっともない、かっこ悪い。あいつはぼくの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「ヨイチはドのんけストレートだからさ、フツーに仲いいダチのノリですごしてたよ。あいつ、ホモきらいだもん。気持ちわりいとか平気でゆうし」シバケンはさみしげに笑った。「おれがほんとのことゆえんのは、キタだけだよ」
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♂
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♂
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「きょうはいやだ。きのう痛かった」
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「キタ、シックスナインわかる?」
ぼくはうなずいた。やっぱスケベだ、とあいつは笑って、シーツのうえで反転した。おたがいに側位で向きあう。6と9。やつのそっくり返ったチンコがてらてらと濡れてる。庚申薔薇色の亀頭。あいつはぼくの腿をかかえて、かぶりついた。しゃぶられる快感と興奮にまかせて、ぼくも咥えた。歯を立てないよう気をつけながら、先端をきつく吸う。うっすらと塩け。目の前にキンタマと蟻の門渡り。すげえ絵づらだな、と頭のどこか冷静な部分で思った。ぼくは目をとじて、感覚だけに集中した。
こうなってみるまでは、魔法の泉の水のように一度のめば満ち足りるのだと思ってた。でも、性は海水だった。のめば飲むほど渇くのだ。
ぼくが先にイった。あふれでるものに喪失感を覚えた。あいつはいつものように飲みほした。ぼくは丁寧に舌を這わせた。やがて、あいつもイった。苦い。ぼくは咳きこんだ。あいつがティッシュでふいてくれた。
射精しても、やつのチンコは萎まなかった。そこを押さえて、シバケンは苦しげにいう。
「……あのさ、やっぱハメちゃだめ?」
ぼくは迷ったけど、切実な表情に押されて尻を向けた。あいつはピアスの消毒用ジェルをそこに塗りたくって、押しいった。三度目となると、ぼくも受けいれかたがわかってきて、まえよりは痛くなかった。シバケンがささやく。
「おれのチンコ、でかくはないけど、反ってっからバックですると前立腺にモロなんだよ」
ゼンリツセンが何かわかんなかったけど、尻のなかを擦られるとマゾヒスティックで女々しい気分になった。ぐちゃぐちゃと鳴る粘膜、下腹が尻に当たる音。ぼくは小さな声で喘いだ。
果てたあとで、シバケンはどろどろのシーツを剝がして床へ投げた。ぼくは精液まみれで、ぐったりと横たわった。あいつを睨む。
「子犬だと思って拾ったのに、猛獣だったみたいだ」
シバケンは苦笑した。「おまえのチンポ壊れてる、って兄貴たちにいわれた。捨てる?」
「捨てない」
「おれんこと、すき? こんなエロいこと許してくれるくらい、すき?」
返事の代わりに、ぼくは裸の肩にすがった。あいつは壁側の手つかずのベッドを見やる。
「つうかさ、ツインとる意味あんの?」
「ダブルとったら、ホモなのバレるじゃん」
「どっちにしろバレるだろ。この乱れっぷりじゃ。それに二度と来ねえし。こんどはダブルにしねえ?」
「まあ、値段はそんな変わんないけどさ」
いちゃいちゃしてるうちに、シバケンは目をつむって静かになった。
枕のせいか、ぼくは眠れなくて、左耳にイヤホンを嵌めた。ラヴェル《夜のガスパール》より《絞首台》。父は、どうなっただろう。目を覚ましただろうか、それとも……。
「あしたは、もっと遠くへ行こうな」
眠っていると思ってたシバケンがいった。
♂
止め処なき喉の渇きよ寄る辺なき君は思春の森の喜多ゆえ
♂
「明け方さ、キタ、めっちゃ楽しそうに笑ってたよ。何の夢みてた」
ホテルのラウンジチェアで、シバケンがいった。ぼくは箸と茶碗を手に首をかしげた。
「何もおぼえてない」
「そっか。そんでさ、そんとき思いついたんだけどさ。桜前線、追わねえ?」
「北上するってこと?」
「イーハトーブへ行きてえんだよ」
「岩手?」
「まあ、とりあえずは仙台に行かない? こっからタクシーだと、いくらかかるかな」
見当もつかなかった。「東京駅から新幹線に乗ったほうが安いよ、きっと」
シバケンはお麩の味噌汁をすすった。「そっか、キタはくわしいな」
「ピアノのコンクールで、何度か上京したから」
ぼくは鮭の身をくずしながら、だんだんと憂鬱になった。
横須賀駅から横須賀線に乗った。遠ざかっていく海のきらめき。シバケンが口ずさむ。
「〽ラはラブホのラ」
「シは?」
「〽シは……なんだろな」
「屍姦のシ?」
「歯間?」
「死体を犯すことだよ」
「キタって変なこと知ってんな」シバケンは首をひねった。「でも、シカンって歯の間って気がする。却下」
シの単語が浮かばないまま、東京駅に到着した。新幹線のきっぷうりばへ近づくほど、ぼくの足どりは重くなった。シバケンがふりかえる。
「どうした」
「その、あんまりカネがないんだ」
あと四万三五五〇円しかなかった。仙台までの自由席のチケットは一万円以上するだろう。四万円を割ってしまう。あいつはとりなすようにいう。
「おれがだすよ」
「盗んだカネだろ」
シバケンはすっと真顔になった。「どうせ、あいつらだってカツアゲやアンパンで稼いだんだ。まともなカネじゃない。いいじゃん、ぱーっと使っちまおうぜ」
江戸っ子みたいにぱーっと使いきって、そのあとどうするのだろう。考えたくなかった。
三和音のBlankey Jet City。シバケンはサブウインドウを読んで、そのままポケットに仕舞った。きっと、非通知だ。鳴りつづける着メロ。シバケンは喧嘩するような目をした。
「帰ったらおれは殺されるし、キタは輪姦されちゃうよ。行くっきゃねえよ」
♂
一〇時発の東北新幹線やまびこの自由席、ぼくは窓側の席を譲ってもらった。残像めく春の車窓。シバケンは急に思いついたらしい。
「〽シは潮吹きのシ……なあ、潮吹きってマヂですんのかな?」
「芝が知らないもの、おれにきかれても知らないよ」
「そうだよな。キタはおれしか知んねえもんな。〽ドは童貞のド、レはレイプのレ、ミは三こすり半のミ、ファはファックのファ、ソは粗チンのソ、ラはラブホのラ、シは潮吹きのシ、さあやりましょおー」
「いや、すでにやりまくってんじゃん」
シバケンはにやにやと、ぼくの右耳に口を寄せた。「キタと、やりまくりてえな。キタがケツ振ってよがり狂って、もっとっていうまで」
ぞくぞくした。ぼくは耳を覆って、逃げた。「いわない」
「ぜってえ、いわしてやる」
あと三万二九〇〇円。
♂
星空の空隙ばかり見てぼくらイーハトーブへ亡命できず
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