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第三話
名もなき少年(1)
しおりを挟む不意の閃光に目を細め、瞼が落ちた先の闇。
その一片も光のない世界は、たった一度の瞬きで跡形もなく消え去った。
有って無いような途切れだった。
だが少年は光に目が眩んだことも、闇の中にいることも覚えていた。
少なくとも、それが自らに起きた異変のきっかけであると感じ取れるくらいには。
少年には名前がなかった。出生も年齢も、言葉すらもわからない。
あるのは物心ついてからの数年の記憶だけのはずだった。
ひゅっと喉が鳴る。微かに揺れる視界。
ひび割れた壁と横倒れになる犬。潰れた頭から血と脳漿が流れていく。
緩々と広がる黒と死にゆく犬を、少年はじっと見つめていた。
自分に起きたことを探りながら。
数分前。少年がゴミ漁りを行っている路地の先に、ふらりと犬が姿を現した。
犬は危険。そう認識していた少年は突然のことに慌てふためきながらも、どうにか物陰に身を隠すことができた。
後は気配を消してやりすごすだけ。そのつもりが、湧いて出た欲に塗り替えられた。気づいた様子もなく近づいてくる犬を目にしたことが原因だった。
殺せる──。
少年は薄く笑った。今なら、命を刈り取れると感覚が告げていた。
浮足立つことはなかった。犬が気づかないふりをしているだけかもしれないという考えがしっかりと頭にあった。仕損じた先を想像し、むしろ慎重であろうと努めた。
犬との距離が詰まると、緊張と恐怖で高鳴る鼓動を抑え、手近にあった石を握った。そして仕留められる距離に来た瞬間、一息に犬の頭に振り下ろした。
そのときの感触が、今も小さな手と体にしっかりと残っている。
少年はその勝利の余韻に浸るはずだった。だがそこには、とんでもない過ちを犯したような気分が混ざっていた。
それも、これまで一度として感じたことのない程の。
薄暗さの中を見回せば、大人が二人も並べば通れなくなるような隘路が目に映る。ゴミ溜めや壁向こうに抜けられる穴があり、少年にとっては日課のゴミ漁りを行う見慣れた場所。にも拘らず、迷子になったような気がして不安になる。
頭の中に『知っている』と『知らない』が混在している。
言葉を話せず、四肢を使って駆け回る。生きる為に盗みを働き、敵対者には唸り声を上げて威嚇する。自分は、そういう存在だったはず。なのに、揺らぐ。
少年は恐慌に陥った。まるで大量の記憶を追加されたような感覚に戸惑いながら、擦り切れほつれた着衣の袖で何度も顔を拭う。
寒さを凌ぐ為に死体から奪ったボロ布の貫頭衣に、ねっとりとした粘りと生暖かさが染み込む。顔を濡らした飛沫は、拭いきれずに延びていた。
獣と鉄錆の臭いがした。生ゴミの腐敗集も。
不快だった。初めて嗅いだわけでもないのに。
それが当たり前の中で生きてきたというのに。
少年は溢れて広がる血溜まりにへたり込み頭を抱えた。
物心ついてから一度も切ったことのない黒髪が指に絡む。
その感触にも違和感を覚える。
こんな髪型だっただろうか。いやこれで合っている。ゲシュタルト崩壊という言葉が脳裏を過ぎる。だがそれとは違う。髪質も毛量も記憶が重なっている。そもそも、そんな難しい言葉を知らない。意味などもっての外だ。
(何が……)
息絶えた犬は、つい今しがた得た狩りの成果なのだと理解している。なのに受け入れ難い。腑に落ちない。飢えているのに、嘔吐くほどの吐き気が起こる。頭の芯が焼かれるように熱くなり、急激に冷めていく。
生存本能の赴くままに、ただがむしゃらに生き延びてきた過去の自分。その確かな経験に基づいた記憶に、現実味がないと否定する何かが割り込んでいる。
それは、ある日本人の記憶だった。
独身で、孤独を好み、退屈しのぎにあれこれと趣味に生きる中年の男の記憶。断片的な映像と多大な知識が、始めから有ったかのように存在している。
言葉も字も知らない少年が、心で思いを形にして呟けていることに気づく。こちらの言葉ではなく日本語だが、耳慣れていたからか、こちらの言葉も理解が進む。単語と文法がパズルを解くように繋がり、いくらか話せるかもしれないと自覚する。もっとも、それは幼児が口に出す程度のものでしかないが。
当たり前とあり得ないを同時に感じて眩暈がする。まるで別人になったような不気味さを抱えながらも、少年は突如として植え付けられた記憶を辿った。
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