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日記
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しおりを挟む七月二十九日(木)
良さんの遺言にあった住所を訪れたが、思った通り誰も住んでいなかった。
やはり、彼の言うマゾヒストの女は現実には存在していなかったようだ。
そのマゾヒストの女は、彼の頭の中だけに存在していたと思われる。一応、裏も取ったが、この家を借りていたのは彼で間違いなかった。
聞き込みで分かったことだが、良さんは男娼まがいのことをしていた。そこまでは考えていなかったので面食らったが、それも彼が受けた心の傷によって生み出された一面なのだと後に知った。もし僕が矛盾に気づかなければ、知ることの無い事実だったのだろう。
一昨日、初めて僕がこの日記を読んだとき、最初のページで違和を感じた。それは鉛筆を削る小刀についての一文だ。
良さんは先鋭恐怖症だが、鉛筆を削る小刀には恐怖心がないようだった。何故、その小刀だけが例外的に大丈夫なのか疑問に思い、現物を確認した。先端が丸くなっているなど特殊な形状であれば納得できたが、そんなこともなく、何の変哲もない小刀だった。
それで、一つの仮説を立てた。
良さんはその小刀の痛みを知っていたのではないか、と。
良さんは知らない物事への恐怖心が強かったので、そうなのではと思っただけなのだが、これが当たっていた。彼の遺体を調べてみたところ、背中に大量の創傷痕があった。おそらく、その傷は彼の愛用している小刀でつけられたものだろうという推測が立った。
確認のため、源一郎氏に話を伺ったところ、僕の予想を遥かに超えた事実が明らかになった。良さんは国民学校高等科二年生の頃、憲兵に扮した男に誘拐されて虐待を受けていた。度胸試しで英語を使って連れて行かれた奴というのは、彼自身のことだったのだ。
名前が幾つも思い浮かんだというのは、一緒に度胸試しをした友人たちのことだと思われる。良さんが憲兵に扮した男に連れて行かれたことを、本物の憲兵に知らせたのはこの友人たちだった。
僕は良さんに友人がいたことに驚いた。彼の日記には僕以外が友人として登場することがなかったからだ。彼は決して人当たりが悪い訳ではないし、むしろ気軽に付き合えるような好人物なのだが、かつての友人たちとの接点がまるで見えなかった。それを不審に思って調べてみたところ、やはり源一郎氏が関わっていた。
誘拐事件をきっかけに、源一郎氏は、良さんと友人たちが顔を合わせることを禁じていたらしい。理由は、彼の性格が元に戻らないようにするためだったそうだ。事件前の彼はガキ大将だったらしい。学校では度々問題を起こし、手を焼いていたという。僕の知る彼とは、あまりにかけ離れていたので想像もつかなかった。
良さんを誘拐した男は憲兵に拘束された。憲兵宅に忍び込んで制服を盗み、成りすまして悪さをしていたとのことだ。そのときの新聞も見せてもらったが、細かなものを含めれば、犯行は十数件に及んでいた。主に少年強姦と傷害だ。
良さんの日記の中の誤りもここで解消された。彼は勘違いしていたか、それとも忘れてしまったのか、誤った事実を書いていた。戦時中であっても英語の授業は行われていたし、軍でも使用されていた。
一部の過激な国民が、愛国心という言葉を使って、誤った風潮を広めたに過ぎない。
そもそも英語やその他の連合国の言語を使用してはいけないという法律も作られはしなかった。まして、憲兵ともなれば、それを知らない訳がない。子供が英語を使っただけで暴行を加えたとなれば、叱責どころでは済まないだろう。
源一郎氏は虐待の内容については深くは語らなかったので、僕も追及はせずに措いた。
故に、良さんが犯人に何をされたかについては書けない。想像を書く気もない。
とにかく、その際にマゾヒズムと同性愛に目覚めたということだ。
ただ、彼はそれを受け入れなかった。僕は良さんの昔の性格を知らないので、想像するしかないが、おそらく相当プライドが高かったのだろう。
自分の身に起きたこと、そして変化した性癖に耐えがたかったのではないだろうか。
結果、元の人格が破綻。一部が死んで分離し、別の人格が出来上がった。それが僕の知る良さんと、マゾヒストの女。
良さんがこの女に惚れていると書いていたのは、本来の自分の性的嗜好に対する憧れからだと思われる。女の体の傷が増え続けたのは、それを彼自身が望んでいたからだろう。
刃物で傷つくことを極度に怖れるようになったのも、刃物で傷つけられて喜ぶ自分から目を背けたかったからではないだろうか。
憧れているが受け入れられない。望みながらも目を背ける。
まるで、自制心と性的欲求が分裂したようだ。
良さんは、綺麗に壊れていた人だったということか。
だからこそ、愛おしく思ったのかもしれないと今は思う。
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