【完結】地上で溺れる探偵は

春泥

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PART IV

13 俺(2)

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 要塞のようなマンションの扉を通過すると、情字は「支度がある」と言って一旦自室へ戻った。
 俺はエレベーターホールの横の階段に通じるドアを開け、上り始めた。エレベーターにしては広々としているというのは、広いスペースの内に入らない。俺的には。
 二階はレクリエーションの場になっており、温水プール、天然温泉・サウナ、スポーツジムと案内表示があった。
 ミニシアターは三階だ。
観音開きの扉の片方だけ開いて、ドアストッパーで固定されていた。中は暗く、廊下の明かりが届かない正面のステージ側は、小ぶりな白いスクリーンがぼんやり浮かび上がっている以外は闇に沈んでいる。

 座席の横の通路をゆっくりと歩いていく。
 暗闇に目が慣れるにつれ、白いスクリーンの前に、黒い塊がうずくまっているのが見えた。
 それは人間、女だった。一段高くなったステージの中央にくずおれるようにして倒れている。
 地味なスーツに包まれた体にはメリハリがある。
「二三か」
 俺はステージ上に駆けあがり、ぐったりした体を抱き起した。
 かっと見開いた瞳は眼窩から零れ落ちそうだ。口元は巾着の口を絞ったようにすぼんで皺が寄り、頭髪はまばら、地肌が透けて見える。口を開いてパクパクと動かすが、総入れ歯を抜かれたせいで、発音が不明瞭だ。
 白いシャツのボタンがいくつか千切れ飛んでいた。
 鬼畜の家から保護されたばかりの二三の姿が浮かぶ。入れ歯の件は知っていたが(保護した際には何本か残っていたが、その後全て抜けてしまったと聞いている)、まだ若いのだから、頭髪は、時間が経てばまた生えてくるのだろうと思っていたのに。
 その時、シアター内の照明が点いた。
 二三は悲鳴を上げると、頭を抱えるようにしてうずくまった。俺はコートを脱いで彼女の頭から被せた。
 シアターの入口に男が二人立っていた。一人は、アパートの非常階段で見かけたチンピラ、寅蔵だった。もう一人の若い男は運転手のゴローだろう。
 俺はステージから降りると、大股に二人組のところまで歩いて行った。
「よう探偵。やっとお出ましか。お前の女は――」
 寅蔵のにやけた顔が歪んで、後ろ向きに廊下まで吹っ飛んだ。豆鉄砲を食らったみたいに立ち尽くしている若い方は、顔面を掴んで頭をドアに打ち付けた。鈍い音がして床に倒れた体は動かない。俺は素早く廊下に出た。
「いきなり、何しやが」
 俺の靴が当たった腹の辺りを押さえてえづきながら、起き上がろうともがく体を横から蹴り上げて俯せにし、後頭部を右足で踏みつけた。
「ぐふう!」
 毛足の長い絨毯に顔を押し付けられているため、声がくぐもって聞こえる。
「なにをしているの」
 抑揚のない声に振り向くと、廊下の先に傍家山会長が立っていた。今日は和服でなく、婦人会の会長然とした上品なスーツだ。相変わらず、グレーの髪はきれいにまとめられている。
「屑に落とし前をつけさせている」
 俺は暴れる男の背骨に踵を落としてから、また後頭部を踏みつけた。
「会長、助けてくれ」
 寅蔵は泣いていた。
「ボディーガードにすらなりゃしない」
 会長は眉間に皺を寄せて、吐き捨てるように言った。
「助けてくれ」
 寅蔵の手が奴の頭を踏みつけている俺の足首を掴んだ。俺は屈んで奴の親指をねじりあげ、悲鳴を上げて足首から離れた手を思い切り踏みつけたので、寅蔵は更に甲高い悲鳴をあげた。
「やめてくれ、お願いだ」
 その顔は鼻が折れて、歯も折れたのだろう、鼻と口両方から血を流していた。
「お前は、『やめて』と懇願してきた相手を許してやったことがあるのか?」
 俺は四つん這いで逃げようとする寅蔵の後を追った。
「あなた、まるでヤクザね」
 会長が冷ややかに言う。
「こいつには貸しがある。命令したあんたにも後でたっぷり返してもらうがな」
 たまたま事務所に居合わせた大家の婆さんに手をあげたことが、俺には許し難かった。あんな老婆でも、どん底に居る俺に手を差し伸べてくれた人だ。
「私は、手帳を探せと言っただけよ」
 ふん、と俺は鼻で笑った。
「そんなもの、存在しやしねえ。登に一杯食わされたんだよ」
 恐らく、寅蔵をけしかけて、否が応でも俺が関与せざるを得ないようにするために、全ての悪事を書き綴った手帳の存在云々、仄めかしたのだろう。今時、そんなアナログな記録手段をとる奴が居るか。ほんとに馬鹿だな。
「何でも喋るから助けてくれ。若社長を殺したのはあの女だ。あいつが息子を殺したんだ。裁判でいくらでも証言してやる。だから助けてくれ!」
「殺したのは俺だ」
 俺は寅蔵の頭を踵で踏みつけた。チンピラの体はぐったりとして動かなくなった。
 俺は珍しい物でも見るように目を細めている会長に目を向けた。
「躊躇うあいつの背を押した、って意味だ。そんなに喜んでもらっちゃ困る」
 会長の口元から笑みが消えた。
「あいつは、俺に許可を求めに来たんだ」
 登が事務所にやって来た日、酒を酌み交わしながら、あいつは言った。

『あの女を殺したい』
『おいおい、俺は探偵だぞ。殺し屋じゃない』
『あんたの許可が欲しいんだ』
『なんで』
『あの女は、あんたの母親でもあるから』

「お陰で、蓋をしていた諸々が飛び出しちまった」俺は吐き気をこらえながら言う。
「なにを言っているのか、わからない」と会長は言った。
「お前が俺の生みの親だからだ」
 会長は目を見開いた。演技のようには見えなかった。
「タカシ? タカシなの?」
「やっと思い出したか。だけどな」
 俺は丈志たけしだ。高志たかしじゃない。

『うわっ、何だこりゃ』
 蠅の大群が群がるそれを見て、男が言った。
『こっちの子はまだ息があるぞ!』
 俺は意識を失った。

「弟の高志は死んだ。あんたが食料を置かずに、ゴミ屋敷みたいなアパートに、俺と弟を置き去りにしたからだ」
 一人生き残った俺は、養護施設に入れられた。
 俺の母親だった女、境栄子は、一体どうやったのか、別人の身分を手に入れ、総合病院を経営する資産家・傍家山剣と結婚した。それが傍家山十和子と現在は名乗り、ハタケヤマ・グループの会長に納まっているこの女だ。
 それを探り当てたのは登だった。境栄子には違法薬物や売春などの前科があったし、十和子(旧姓山本)の方も似たような境遇の女だった。養母の指紋の付着した何かと、警察に協力者がいれば、すぐに調べられることだ。それで、単に名前を改名したのではなく、栄子が十和子という女に成りすましていることが判明した。記録上は、境栄子という名前の女の方は、二児を遺棄して以来、行方が分からなくなっていた。
「あんたが奇与子――いや、ユキという少女に何をしたか、聞いたよ」
「ユキ? ああ、登を誘惑したあの淫売。子供のくせに男に色目を使うから――」
「『向こうが誘ってきた』子供に手を出すような変態の常套句だ。子供から誘われたら断るだろう、まっとうな大人なら」

『俺は、傍家山の養父の性癖を露見させないために養子に貰われたんですよ』
 自嘲気味に登はそう語った。
『家庭内の出来事であれば、発覚し辛いですからね。特に、妻が協力的であれば』

「あんたのアイデアだったのか? 子供を虐待するのは、お手の物だよな、あんたは。養子にだったら、何をしても構わない。そう思ったのか?」
 俺は呻き声をあげ起き上がろうとする寅蔵の頭を踵で何度か踏みつけた。チンピラは再び大人しくなった。
「あんたの旦那が登に殺されかけたのは、あいつが十七の時だってなあ。それ以来寝たきりになったのを幸いに、現在のハタケヤマ・グループを築き上げたんだから、大したもんだ。だが、登が贖罪のために始めた慈善事業に、あんたは横から手を出して、滅茶苦茶にした」

『恵まれない家庭の優秀な子供達に奨学金を与えれば、立派な医者や弁護士、社会人になると思った。彼等もまた、恵まれない人々を助けるような人間になると。それなのに、あの養母が、見込みのありそうな者に金を与え堕落させて、ハタケヤマ総合病院やグループ企業に勤務させ、自分の意のままになる駒にしてしまった。シェルターに逃げてきた母子には身売りを強要し、子供達を養父と同じ獣の餌食にさせた。俺が施設で出会って養子にしたいと願った少女は、母が雇ったチンピラに襲われた。あの子は、俺のせいではないと言ったが、俺は自分を許さない。あの女を今まで生かしておいた自分を』

「親父をボコボコにした時に、あんたもやってやればよかったって後悔してたぜ、あいつ」

『俺がとどめを刺し損ねた養父は、階段から落ちたことにされてしまった。俺は、暴行事件が発覚すれば、養父母が自分に何をしたか、すべて明るみに出ると思っていたのに』

 一旦は反抗する気力を失った登でも、我が子にしたいと願った少女が、自分と同じ目に遭わされたと知り、最後の抵抗を試みることにしたのだ。自らの命を懸けて。

「殺人事件となれば、検死解剖は免れない。体に残された数々の傷跡、骨折の跡、治療にかかわった医者も調べられることになる。どうして虐待の疑いありだと通報しなかったのかってな。俺は任意の取り調べに全面的に協力して、証言してやったよ。登の体は、施設に居た時には五体満足だったってな。一緒に風呂に入っていたんだから、確かだ。体の一部が切除されていたとしたら、それは明らかに養子に貰われてからの話だってな。だけど、そんな記録はないっていうんだ。おかしな話だろう。ナニを切除されるなんて、子供でも大人でも、一大事じゃないか?」
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