【完結】地上で溺れる探偵は

春泥

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PART IV

11 探偵

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 境の掌に載せられたリングをまじまじと眺めてから、二三はまっすぐに彼の目を見た。
「最低」
「俺に何を期待してるんだ。前から何度も言ってる」
 二三は踵を返し、歩き出した。
「おい」
「寝室を見たいんでしょう」
 境は溜息をついて、指輪をコートのポケットに戻した。
 やはり、隙を見て相手のポケットに突っ込んでおくのだった。
「お前が受け取らないなら、これは大家の婆さんのものになる。イニシャルが丁度Yだからな」
 二三は境を無視して、廊下の右側、手前のドアを開けた。
「ここが寝室。隣は書斎よ」
 境は寝室のドアを開けて腕組みして立っている二三の傍らを通り過ぎた。ちらりと見た寝室は、きちんとベッドメイキングされていて、まるでチェックイン直後のホテルのようだった。
「ここは、掃除の人間が入るのか? それとも、お前が泣く泣く雑用までやらされているのか」
「清掃は、社長が自ら出張で留守になる時なんかに依頼するのよ。このマンションのサービスの内。社長が姿を消したのが二週間前。それ以降に清掃員は入っていないはず」
「へえ。流石に詳しいな」
 境は書斎のドアを開け、入った。
 侵入者を感知して、電灯が点いた。天井に届く書架に囲まれた、落ち着いた雰囲気の部屋だった。大きなデスクの上には、他の部屋には一切見られなかった、乱れがあった。
「これは、なんだ」
 シンプルな便箋に手書きされた――恐らく、机上に転がっている万年筆で書かれた――青い文字。手を触れずに屈みこんだ境の肩越しに覗き込んだ二三は
「社長の筆跡だわ」
 と呟いた。
 それほど長いものではない文面は、自分が孤児であること、首尾よく傍家山夫妻の養子に納まったものの、自分はその恩に報いることができなかった、というようなことが淡々と綴られていた。最後は、自分は傍家山の家に相応しい人間ではなかった、と締めくくっている。
 いや、署名がない。まだ続きがあるのかもしれない。
 そう思ってデスクの上や引き出しを探してみたが、見当たらない。
「これはまさか、遺書?」
「自殺しそうな雰囲気だったのか、あんたのご主人様は」
 だから会長は警察に極秘で捜索を依頼したり、私立探偵を雇ったりしたのか。血の繋がらない息子の亡骸を見つけるために。
 だが、探偵事務所を訪れた会長は、養子の身を案じているようには思えなかった。無論それは、下層階級に属しているという自覚のある境の偏見によって歪められた評価かもしれないが。
 便箋には、誰かが掴んでついたような皺と、染みがついていた。
「俺なら、この染みが何か調べさせるがね。茶色く変色しているが、この小さいスポットは、恐らく血だ」
「でも、ここで自殺を図ったのなら、社長の死体は?」
「これが遺書かどうかはまだわからない。見たところ、脅されて無理やり書かされたようにも見えないが」
 そんな、と二三は頭を抱えた。
「会長に連絡しろ。俺からのアドバイスは、警察に正式に捜索を依頼しろ、だ」
 
 マンションを後にした境は、自宅のアパートへと向かった。車は、車検を受けてまた運転することが可能になった、地味でありふれているため誰の記憶にも残り辛い軽自動車だ。
 登からもらった手付金(と思しき金)は樹海のような大家の庭のどこかに埋められてしまっている。大家自身、埋めた場所をきちんと覚えているのかどうか甚だ心もとないので、あの金はあてにしないでおこうと境は決めた。
 登の養母から受け取った金は、懐に入れていた。現金が手元にあるうちに、滞納している家賃や水道光熱費の清算をしておきたかった。
 途中銀行に寄ってアパートの大家の口座に滞納分の家賃を振り込んだあと、当座の調査費用を抜き取り、残りを貯金した。更にアパートに行き、水道光熱費の督促状を回収、支払いを済ませなければならない。
 登の部屋で二三が会長に電話をかけている間、境は残りの部屋を見て回った。バスルーム、トイレ、それから、鍵がかかっている部屋。二三は、その部屋の鍵は持っていないということだった。
 境はポケットから取り出した道具で、鍵を開けた。二三はまだ寝室におり、電話機を耳に当て、ようやく電話が繋がった会長の言葉に耳を傾けている。そっと部屋の中に滑り込むと、灯りが点いた。
 他の部屋が「金に糸目をつけずに集めた上品な高級品」というテーマに沿って家具や調度品がしつらえられているのに比べ、随分と殺風景な部屋だった。床はフローリングで、粗末な机が一つ。壁一面には、新聞や雑誌からの切り抜き、写真などが、ところ狭しと貼りつけられていた。
 電話を終えて境を探していた二三が
「ちょっと、鍵はどうしたの」
 と怒りながら室内に足を踏み入れ、「あっ」と声をあげた。
 壁には二三の顔写真もあった。
 といっても、誘拐される前、十一歳の二三だ。警察に保護された時の無残な姿は、とてもじゃないが一般に公開できるものではなかったから、事件が公になった際にニュースで用いられたのが、この小学生の頃の写真だった。
「これは、あの事件の――なぜ」
 事件はセンセーショナルに長きにわたって報道されたので、その種の切り抜きは大量にあったが、全体を見回した二三は、否が応でも気が付いた。登が興味を持っていたのは、自分ではなく、境丈志であると。そこには、どうやって集めたのか、境の小中高の卒業アルバムの写真や、境がかかわった他の事件の記事などで埋め尽くされていた。二三がかかわった事件は、単にその中の一つに過ぎない。
「あいつ、俺に惚れてたのかもな」
「なに馬鹿なことを」
「で、警察に通報したのか?」
 二三ははっとした。
「か、会長は、まだ警察に通報する時期ではない。そのまま調査を続けてほしい、と」
「なんだと?」
 探偵としては、依頼人の意に反した行動はとれない。現状では、確実に登の身になにかあったと断定することはできないのだし。
 そこで境は、早々に登の部屋の調査を切り上げて出てきたのだが――
 境のアパート……といっても四階・五階がレジデントになっていて、それ以外にはテナントが入って細々と営業を続けている雑居ビルである。
 一階駐車場の自分のスペースに別の車が停まっているのを見て、境はむかっ腹を立てたが、こちらの大家は、境が滞納していた六ヶ月分の家賃をしれっと振り込んだことをまだ知らないだろう。しばらくこちらには戻らず事務所で寝起きしていたから、家財道具を放り出されているかもしれなかった。暗澹たる気持ちで境は隣の空きスペースに軽自動車を停めた。昼間の駐車場には、無断駐車の車と境の車、二台しかない。
 ビルの入り口に設置された入居者用の郵便受けを開けると、中身は空だった。
 おかしい。てっきり、督促状の類で溢れかえっていると思ったのに、と首を捻りながら境は四階まで階段を上っていく。狭苦しいエレベーターはいつ停止するかもしれず、乗ったことがない。
 四階に到達すると、自分の部屋の前に女が立っているのが見えた。四〇四号室は、非常階段に近い端の方だ。首を傾げながらゆっくり近づいていくと、女が境の方を向き、驚いた顔をした。派手に化粧を塗りたくった顔に見覚えはなかった。しかし――
「おい」
 穏やかに声をかけたつもりだったが、女は弾かれたように反対側に逃げ出し、非常階段を勢いよく下りていく音が響いた。
「なんなんだ」
 ドアノブに手を延ばして、扉が薄く開いていることに気付いた。コートの内ポケットからピストルを取り出して構え、できるだけ静かにドアを開けた。
 その途端、中から飛び出して来た誰かに境は突き飛ばされた。
 目つきの悪いチンピラが、倒れた境に一瞥をくれて、非常階段に消えた。体勢を立て直した境は、踊り場から身を乗り出し、階段を一目散に下りていくチンピラに狙いを定めて、叫んだ。
「おい」
 男は顔を上に向け、銃口が自分に向けられているのを見た。
 男の悲鳴と、階段を落ちる音。
 間抜けだな。本物の銃だったら頭を撃ち抜かれてるところだぞ。境は後を追って階段をおり始めたが、
「トラゾウ兄さん、どうした」
「うるせえ、ゴロー、早く車を出せ」
 下からそんな声が届いた。相棒がいたのか、と境は舌打ちをした。
 車が急発進する音。
 溜息をついて、境はピストルをコートの内ポケットに仕舞った。
 一発お見舞いしてやってもよかったのだが、濃縮液の威力は凄まじく、必ずしも的に当てなくともそれなりの効果を発揮する代わりに、撃った当人もそれなりのダメージを受けるのが難点だ。屋外であれば、当然その効果はやや薄れるのだが。境の記憶が正しければ、残弾数は、一だ。
 追跡は諦めて、チンピラ達が今度は何をしでかしたのか確かめることにした。
 ガラスの破片でも散乱しているかと思い靴を履いたまま踏み入った四〇四号室の部屋の中は、思ったほどは荒らされていなかった。元々、最小限の荷物しか置いていない。だが、狭いキッチンを通過した先にある、衝立で遮られた寝室兼居間には、男が一人倒れていた。
 うつ伏せだったが、それが誰かはすぐにわかった。そして、既にこと切れていることも。
 淀んだ空気には微かだが腐敗臭が漂っている。
 境は玄関に引き返し、狭い三和土の隅に落ちていた四角い紙片をつまみあげ、ポケットに入れた。
 外に出て、携帯電話を取り出した。大声で話すのは憚られるが、室内にいると気分が悪くなりそうだった。今更、死体を見てゲロを吐く姿など、他人に見せられない。
 特に、現役刑事の奴らには
 境は高城に貰った名刺に書いてあった携帯番号を思い出しながら、ボタンを押した。昔から、この種の記憶力はいい方だ。
 最初の呼び出し音が鳴り終わる前に「どうした、境」とでかい声が響いた。
 電話器を少し耳から離しながら、境は声を低くして、言った。
「傍家山登を発見した。残念ながら、手遅れだった」
 そう言いながら境は、これであの養母は満足するのだろうか、と考えた。
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