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PART IV
08 女
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探偵境は――いや、運び屋タカシは、冥途カフェやボクシングジムの雑用をこなしながら、メイド達を送り迎えする仕事に精を出していた。
タカシの目的は、配達先の高級マンションに潜入することである。高城刑事の話では、傍家山登の住居も同じマンション内にあるという。
「まさか、失踪中に自宅に潜伏する馬鹿はいないだろう。お宅ら、ここで何やってんだ」
とタカシが問うと、
「勘だよ」と要塞のようなマンション前で張り込み中の高城は言った。
傍家山登の評判は、養父母のそれと比べるとすこぶるよいのだという。
「自分が孤児だったせいか、子供への支援に特別力を入れていたそうだ。奨学金を提供して恵まれない子供の高校進学、大学進学を援助したり、DV被害の母子やストーカー被害者にシェルターを提供したり。そのシェルターの一つが、あの冥途カフェだ」
あ? と腑に落ちない顔をするタカシに
「だいたい三十代ぐらいまでの若い母親に職を提供しているんだとよ。あの白塗りだ。ホームページに写真を載せたところで、実の親でも気付くめえ。うまいこと考えたもんだぜ」
まるで聖人君子だな、とタカシが呟くと、
「有機ってカフェの店長の話を信じるのならな。だけど、信じられねえのよ。俺らみたいに、人を見たら疑えと教え込まれている人種にはな」
だから、お前が潜入して内情を探れ、高城はタカシにそう言った。
別に二つ返事で承諾したわけではないが、境――いや、タカシの方にも利点はあった。それは、この運び屋という仕事に大義名分を与えるからだ。タカシが運んだメイド達が、マンション内で何をしているかについては、「知らない」で押し通した。だが、高城が何を想像しているかは、タカシにもわかった。
マンション内への侵入に成功し、弱い立場の女性――奇与子のような未成年者も含む――を食い物にする犯罪の証拠を掴んだとして、自分は一体どうするつもりなのだろう、とタカシは自問する。依頼人の登の居場所を突き止めて、ぶん殴る? もはや警官ではない自分に、そこまでの正義感は持てない、と彼は思う。
*
「久し振り」
二三はタカシ――ではなく境を笑顔で部屋に迎え入れた。
1LDKだがすっきり片付いた、いかにも若い女性らしい色調の部屋に、境は居心地が悪そうにしている。
車を返しにきただけだからと玄関先で済ませようとする境を、二三は強引に引き入れる。長々と車を借りていたという負い目があるせいか、今日は割合素直に靴を脱いだ境に、二三は内心ほくそ笑む。
「もう、いいの? 別に車なくても平気だよ、私は」
二三はいそいそと電気ケトルのスイッチを入れながら言う。
「ありがたいんだが、やっぱり目立ち過ぎだ、あの車は」
寝室兼リビングには絶対に足を踏み入れようとしない境は、キッチン・テーブルの椅子に腰かけ、車のキーをキテーブルの上に置いた。
「礼をしないとな」
「じゃ、泊まってって」
「体は売らない主義だ」
境はむっつりした顔で答える。
もうかれこれ七年は口説き続けているのに、またフラれた。しかし、流石にもう慣れてしまい、二三もそれほど期待していたわけではない。
自分の年齢に見合った相手を見つけろ、と境には言われ続けていた。負い目がなければ、この場で押し倒してやるのに、と二三は思う。
「じゃあ、指輪買って」
「ああ?」
「結婚指輪みたいな、シンプルな奴。さすがにこの歳で夫どころか彼氏もいないって、肩身が狭くて。丁度今、ネットショッピングしてたとこなんだ」
二三はリビング兼寝室のデスクの上に置いてあったノートパソコンを取って来て、キッチン・テーブルの上に置いた。
「ほら、これ。値段も手頃だし、サイズもぴったり」
見ればそれは、個人が気楽に物の売買ができるサイトであった。「未使用」の「結婚指輪。女性用のみ」で「内側にイニシャルと日付の刻印あり、それが気にならない方向け」の商品だった。値段は、三万円。
「明らかに曰く付きだし、刻印入りだぞ」
「気にしない」
「しろよ。Tは偶然一致しているが、Yって誰だ」
「いいよ、そのぐらい。指輪の内側なんて人に見せないから。これが欲しい。プラチナに、小さなダイヤがはめ込まれてるんだよ。上品でいい感じ」
と二三は言い張る。
「わかった、わかった。金は払うから、好きにしろ」
大家の婆さんからもらった三万円が懐にあることを思い出し、境は渋々頷く。
「じゃ決定」
二三は境の右手を掴むと、ノートパソコンのタッチパッドの左下部分に境の指先を押し付け、力を込めた。商品の購入ボタンを指していた矢印が反応し、件の指輪が購入された。
「やった! 二人の初めての共同作業でーす」
「なんだよ、おい」
苦虫を噛み潰したような顔で二三の入れた紅茶を飲み干すと、やけに細かい折り目のついた札を三枚置いて境は帰って行った。勿論、二三の体には指一本触れずに。
「ねえ。私がナイフで刺したから? あれは若気の至りだったし、改心したから二度と暴力行為には及んでないんだけど」
「お前が事件の被害者で、俺が担当刑事だったからだ。十六だったんだぞ、お前は。弱ってる若い女につけ入る中年は、キモい変態だ。ろくなもんじゃねえ」
出会った当時は十六歳だった二三は、もう二十九歳、立派な大人であるし、境はもう刑事ではない。それでも、境は頑として聞き入れない。そういうところが好きなのだが、これではいつまでたっても二人の関係が進展しない。
十一歳の二三を誘拐し五年間監禁していた男を、境が撃ち殺した。それが二人の出会いだ。当時の二三は男に毒され、洗脳されていたから、境のことを救世主と思えず、咄嗟に、刺した。
胸に深々と突き刺さったナイフを少し驚いた目で見たが、境は一切抵抗することなく、膝から崩れ落ちた。ナイフは肺を貫通しており、文字通り、九死に一生を得たのだと、そのお陰で二三は人殺しにならずに済んだのだと、後から聞いた。
その後、警察を辞めた境と二三は偶然再会した。事件から五年後のことだ。記憶にあるよりも随分老け、荒廃した感じは否めなかったが、境元刑事は二三が何者かわかると
「随分健康そうになったな」
と笑った。
骸骨みたいに痩せさらばえて、髪はバサバサ、黄色い歯をして、最もみっともない姿を見られた男であった。その男は、彼女が両親の元でどうにか人生を立て直し、大学生活を送っていると知って、嬉しそうに笑ったのだ。
「俺のことは気にするな」
と彼は言った。昔を思い出すから、俺とはもう会わないほうがいいだろう、と。
それ以降、二三のいかなるアプローチも功を奏さない。監禁期間中は栄養状態が悪く、男に度々暴力を振るわれたこともあり、若くして総入れ歯になった、これでは他に貰い手がない、と入れ歯を外して老婆の如く皺くちゃになった口で泣き落としにかかっても駄目だった。
彼は言った。養護施設時代に、施設の職員から激しい虐待を受け、他の子供達が虐待されるところも散々見た。二三の存在は、境に自らの悲惨な子供時代の記憶を呼び覚ます。だから駄目なのだと。
「ねえ、指輪が届いたら、指にはめてね」
境は露骨に嫌そうな顔をした。「仕事が忙しいんだ」と言うので、
「いいよ。待ってるから。私、暇だし」
と二三は笑顔で送り出した。
自分も同じだ、と二三は思う。必死に勉強して遅れを取り戻した。友達ができず孤独だったので、勉強ぐらいしかすることがなかった。お陰でいい大学に入り、それなりの会社に就職したが、未だに人間が怖いと感じる。
だから、あの男を撃ち殺した刑事でなければならない。
もしかしたら、精神鑑定で死刑を免れたかもしれない鬼畜に向かって引き金を引いた銃を構え、口から血を吐いた死骸を無表情に見下ろす境の口の端が、引きつったように僅かに引き上げられるのを、二三は確かに見た。
笑っている――そう確信した。
人生を好きな時点からやり直せるなら、あの場面に戻って、ナイフを胸に突き立てるかわりに、「ありがとう」と泣き縋りたいと思う。
タカシの目的は、配達先の高級マンションに潜入することである。高城刑事の話では、傍家山登の住居も同じマンション内にあるという。
「まさか、失踪中に自宅に潜伏する馬鹿はいないだろう。お宅ら、ここで何やってんだ」
とタカシが問うと、
「勘だよ」と要塞のようなマンション前で張り込み中の高城は言った。
傍家山登の評判は、養父母のそれと比べるとすこぶるよいのだという。
「自分が孤児だったせいか、子供への支援に特別力を入れていたそうだ。奨学金を提供して恵まれない子供の高校進学、大学進学を援助したり、DV被害の母子やストーカー被害者にシェルターを提供したり。そのシェルターの一つが、あの冥途カフェだ」
あ? と腑に落ちない顔をするタカシに
「だいたい三十代ぐらいまでの若い母親に職を提供しているんだとよ。あの白塗りだ。ホームページに写真を載せたところで、実の親でも気付くめえ。うまいこと考えたもんだぜ」
まるで聖人君子だな、とタカシが呟くと、
「有機ってカフェの店長の話を信じるのならな。だけど、信じられねえのよ。俺らみたいに、人を見たら疑えと教え込まれている人種にはな」
だから、お前が潜入して内情を探れ、高城はタカシにそう言った。
別に二つ返事で承諾したわけではないが、境――いや、タカシの方にも利点はあった。それは、この運び屋という仕事に大義名分を与えるからだ。タカシが運んだメイド達が、マンション内で何をしているかについては、「知らない」で押し通した。だが、高城が何を想像しているかは、タカシにもわかった。
マンション内への侵入に成功し、弱い立場の女性――奇与子のような未成年者も含む――を食い物にする犯罪の証拠を掴んだとして、自分は一体どうするつもりなのだろう、とタカシは自問する。依頼人の登の居場所を突き止めて、ぶん殴る? もはや警官ではない自分に、そこまでの正義感は持てない、と彼は思う。
*
「久し振り」
二三はタカシ――ではなく境を笑顔で部屋に迎え入れた。
1LDKだがすっきり片付いた、いかにも若い女性らしい色調の部屋に、境は居心地が悪そうにしている。
車を返しにきただけだからと玄関先で済ませようとする境を、二三は強引に引き入れる。長々と車を借りていたという負い目があるせいか、今日は割合素直に靴を脱いだ境に、二三は内心ほくそ笑む。
「もう、いいの? 別に車なくても平気だよ、私は」
二三はいそいそと電気ケトルのスイッチを入れながら言う。
「ありがたいんだが、やっぱり目立ち過ぎだ、あの車は」
寝室兼リビングには絶対に足を踏み入れようとしない境は、キッチン・テーブルの椅子に腰かけ、車のキーをキテーブルの上に置いた。
「礼をしないとな」
「じゃ、泊まってって」
「体は売らない主義だ」
境はむっつりした顔で答える。
もうかれこれ七年は口説き続けているのに、またフラれた。しかし、流石にもう慣れてしまい、二三もそれほど期待していたわけではない。
自分の年齢に見合った相手を見つけろ、と境には言われ続けていた。負い目がなければ、この場で押し倒してやるのに、と二三は思う。
「じゃあ、指輪買って」
「ああ?」
「結婚指輪みたいな、シンプルな奴。さすがにこの歳で夫どころか彼氏もいないって、肩身が狭くて。丁度今、ネットショッピングしてたとこなんだ」
二三はリビング兼寝室のデスクの上に置いてあったノートパソコンを取って来て、キッチン・テーブルの上に置いた。
「ほら、これ。値段も手頃だし、サイズもぴったり」
見ればそれは、個人が気楽に物の売買ができるサイトであった。「未使用」の「結婚指輪。女性用のみ」で「内側にイニシャルと日付の刻印あり、それが気にならない方向け」の商品だった。値段は、三万円。
「明らかに曰く付きだし、刻印入りだぞ」
「気にしない」
「しろよ。Tは偶然一致しているが、Yって誰だ」
「いいよ、そのぐらい。指輪の内側なんて人に見せないから。これが欲しい。プラチナに、小さなダイヤがはめ込まれてるんだよ。上品でいい感じ」
と二三は言い張る。
「わかった、わかった。金は払うから、好きにしろ」
大家の婆さんからもらった三万円が懐にあることを思い出し、境は渋々頷く。
「じゃ決定」
二三は境の右手を掴むと、ノートパソコンのタッチパッドの左下部分に境の指先を押し付け、力を込めた。商品の購入ボタンを指していた矢印が反応し、件の指輪が購入された。
「やった! 二人の初めての共同作業でーす」
「なんだよ、おい」
苦虫を噛み潰したような顔で二三の入れた紅茶を飲み干すと、やけに細かい折り目のついた札を三枚置いて境は帰って行った。勿論、二三の体には指一本触れずに。
「ねえ。私がナイフで刺したから? あれは若気の至りだったし、改心したから二度と暴力行為には及んでないんだけど」
「お前が事件の被害者で、俺が担当刑事だったからだ。十六だったんだぞ、お前は。弱ってる若い女につけ入る中年は、キモい変態だ。ろくなもんじゃねえ」
出会った当時は十六歳だった二三は、もう二十九歳、立派な大人であるし、境はもう刑事ではない。それでも、境は頑として聞き入れない。そういうところが好きなのだが、これではいつまでたっても二人の関係が進展しない。
十一歳の二三を誘拐し五年間監禁していた男を、境が撃ち殺した。それが二人の出会いだ。当時の二三は男に毒され、洗脳されていたから、境のことを救世主と思えず、咄嗟に、刺した。
胸に深々と突き刺さったナイフを少し驚いた目で見たが、境は一切抵抗することなく、膝から崩れ落ちた。ナイフは肺を貫通しており、文字通り、九死に一生を得たのだと、そのお陰で二三は人殺しにならずに済んだのだと、後から聞いた。
その後、警察を辞めた境と二三は偶然再会した。事件から五年後のことだ。記憶にあるよりも随分老け、荒廃した感じは否めなかったが、境元刑事は二三が何者かわかると
「随分健康そうになったな」
と笑った。
骸骨みたいに痩せさらばえて、髪はバサバサ、黄色い歯をして、最もみっともない姿を見られた男であった。その男は、彼女が両親の元でどうにか人生を立て直し、大学生活を送っていると知って、嬉しそうに笑ったのだ。
「俺のことは気にするな」
と彼は言った。昔を思い出すから、俺とはもう会わないほうがいいだろう、と。
それ以降、二三のいかなるアプローチも功を奏さない。監禁期間中は栄養状態が悪く、男に度々暴力を振るわれたこともあり、若くして総入れ歯になった、これでは他に貰い手がない、と入れ歯を外して老婆の如く皺くちゃになった口で泣き落としにかかっても駄目だった。
彼は言った。養護施設時代に、施設の職員から激しい虐待を受け、他の子供達が虐待されるところも散々見た。二三の存在は、境に自らの悲惨な子供時代の記憶を呼び覚ます。だから駄目なのだと。
「ねえ、指輪が届いたら、指にはめてね」
境は露骨に嫌そうな顔をした。「仕事が忙しいんだ」と言うので、
「いいよ。待ってるから。私、暇だし」
と二三は笑顔で送り出した。
自分も同じだ、と二三は思う。必死に勉強して遅れを取り戻した。友達ができず孤独だったので、勉強ぐらいしかすることがなかった。お陰でいい大学に入り、それなりの会社に就職したが、未だに人間が怖いと感じる。
だから、あの男を撃ち殺した刑事でなければならない。
もしかしたら、精神鑑定で死刑を免れたかもしれない鬼畜に向かって引き金を引いた銃を構え、口から血を吐いた死骸を無表情に見下ろす境の口の端が、引きつったように僅かに引き上げられるのを、二三は確かに見た。
笑っている――そう確信した。
人生を好きな時点からやり直せるなら、あの場面に戻って、ナイフを胸に突き立てるかわりに、「ありがとう」と泣き縋りたいと思う。
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