【完結】地上で溺れる探偵は

春泥

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PART IV

06 メイド

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 奇与子は爺さんと共にエレベーターに乗り込んだ。
 運び屋には、待たなくてもよいと言ってあった。お爺ちゃんには一晩付き合う契約だし、帰りは送ってもらわずともよい、と。
 強い香が焚かれているので、マンションのエントランス・ホールに一歩踏み入れただけで、頭がくらくらする。だがそれも、エレベーターが停止し、エレベーターホールに降り立った時には既に慣れてしまっている。
 廊下の一番端にある老人の部屋のドアの前に立つと、管理人から連絡を受けていた看護師がドアを開け
「お帰りなさいませ」
 と頭を下げる。
 老人は無言である。看護師が上着や靴を脱がせ、せっせと世話をするに任せている。
 奇与子は慣れた様子で、ロングブーツを脱いで放り出すと、廊下の突き当りにあるリビングへと向かう。
 窓際に立って、カーテンの隙間から日が暮れかかった空を眺めていた男が振り向いた。
「ユキ」
 満面の笑みを浮かべて、男は言った。
「登」
 ユキも嬉しそうに、男に駆け寄り、抱きついた。小柄な彼女の頭は、男の胸の位置に丁度良く納まる。目を瞑り、彼の細い体からじわじわと染みてくる温もりにうっとりとなる。
「その格好で来たのかい?」
 からかうような調子で言われ、ユキは目を開けた。冥途カフェの制服を着たままだった。店を出るときに持ち出した鞄に入っていた黄色いジャージの上着を羽織っているが、まだ角の生えたカチューシャを付けたままだった。
「なんで。こういうコスチューム、好きでしょ?」
「有機が三途の川で客に石積みをさせる冥途カフェを開くというから、『だったらメイドは鬼の格好をしないと。虎柄パンツの』と冗談で言っただけだよ。まさか本気にするとは思わなかった」
 有機は、登が出資した冥途カフェの店長である。
 登は笑って、お茶を入れよう、とリビングの奥のキッチンに向かった。
 ユキは、登の笑顔が好きだった。彼のためだったら、何だってできる、いつもそう思っている。
「お店に、刑事が来たよ」
「そうかい」
 登は僅かに肩をすくめただけだった。
 看護師がリビングにやって来て、登がキッチンに居るのを見ると
「社長、私が」
 と手を差し出したが、登はそれを制して、
「お茶ぐらい自分で入れられるよ。夜までは私がいるから、君はここに居る必要はないよ。日付が変わるまでに戻ってくれればいい。ここは、息が詰まるだろう」
「ありがとうございます。それでは、いつものお薬をベッドサイドに置いて行きます」
 看護師が下がろうとすると、登は「やあ、これはおいしそうだなあ。僕たちの分まで手配してくれてありがとう」と笑った。
 老人の一人暮らしには広すぎるダイニング・キッチンのテーブルの上には、三人分の食事が用意してあった。このマンションでは、専用のシェフによる栄養管理の元、食事の配膳サービスが受けられるようになっている。
 お茶を入れたポットとカップを三つトレイに載せてリビングに戻った登は、ローテーブルの上にトレイを置いた。
「そんなところに立っていると、風邪をひくよ。こっちにおいで」
 ユキは窓際に立ったまま、俯いている。
「そんな顔をしないで。せっかく二人でいられるときに」
 登に促されると、ユキはソファのところまでやって来て、ノボルの隣に腰を下ろした。
「ねえ、愛してるって言って」
 ユキはノボルの肩に頭をもたれさせて言った。
「愛してるよ、この世でただ一人」
 それは嘘だ、とユキは思う。だが、それでもよかった。登のためなら、自分の持っているものはなんでも差し出そう。ユキがそう決心したのは、もう随分前のことだ。
 リビングの入口に立ち、まるで恋人同士のような二人を眺めていた老人は、静かに部屋の中心まで進むと、寄り添う二人の向かいの肘掛ソファにどっかり腰を下ろした。
 登は静かに目を開いたが、ユキは固く目を閉じたままだった。
「あの男、大丈夫なのか」
 早くもパジャマに着替え――正確には、看護師に問答無用で着替えさせられ――ゆったりしたローブを羽織っている老人は、ローテーブルの上のカップを一つ取り上げ、一口飲んだが
「なんだこの黄色いの。しょんべんか」
 と悪態をついて元に戻した。
「ハーブティーですよ。ノンカフェイン。夜、よく眠れるように」
 登が笑みを浮かべながら説明する。
「まあ、味はともかく、色がきれいでしょう」
 鼻を鳴らして、老人は両手を広げて頭をソファの背もたれに預けた。
「俺が誰だか、気付いてねえみたいだった。酒のせいで頭がいかれちまってるんじゃねえのか」
「それだけあなたの佯狂が真に迫っていたということでしょう」
「普通忘れるか。あいつの同僚をぶっ殺してやったこともあるのに。と言っても、直接手を下しちゃいねえが」
「ひとは、変わるものですよ」
「変わらねえ奴もいる、てのが問題なんだと思ったんだがな」
 老人はもう一口お茶を啜って、「不味い」と呟いてまたカップを置く。
「ユキ。食事の前にシャワーを浴びておいで。私は、親分と話がある」
 と登は隣で眠そうにしているユキに言った。
 親分なんて厭味ったらしい呼び方するんじゃねえよ、と野堀別情字のぼりべつじょうじは苦々しく呟いた。引退して久しく、かつての宿敵に認識されないぐらい老いぼれている。
 最近は、仕事部屋の大人のオモチャをいじっていても、自分が何をしているのかわからなくなる時がある。何十回、何百回と、分解し、オイルを塗り、組み立て、装填、また分解と繰り返してきたというのに。
「境丈志は、正義の味方ですよ。私は、そう信じている」
 と笑顔で言う登を横目で見ながら、ユキはのろのろとリビングを出た。
 リビングを出て、まっすぐ伸びる廊下の左側がバスルームだ。
「なにしろ、丸腰の犯人を射殺したんですから。死んで当然の屑だったが、普通の警官はそんなことはしない。してくれないんだ。そして、裁判になれば、死刑反対派の弁護士が、責任能力だとか情状酌量だとか言い始める」
 登の声が廊下まで聞こえてきた。
 あの運び屋は、人が好さそうなだけで、全く頼りにならなさそうだ、とユキはよれよれのコートを着た中年男を思い出す。そんなバイトは、危険度に見合わない、割に合わない仕事だ、とここに来るまでに散々説教された。
 では他にどんな生き方があると言うのか。代替案もなしに、無責任なことを言わないでほしい。
 バスルームの扉を開けようとして、その隣のドアが薄く開いていることに気が付いた。そこは、老人の仕事部屋だという話で、ユキは入ったことがない。引退したヤクザにどんな仕事があるのか、と思わないでもないが、きっと書斎のようなものだろう。
 ユキは仕事部屋のドアの前まで行くと、そっと押してドアを閉めた。
 登は今夜、泊まって行かないつもりだろうか。
 ユキは登に一晩中を側に居てほしい、と思う。だが、頭を撫でたりキスしたり、最近はあまりしてくれないようになった。以前は、誰も見ていないところでなら、ハグだって頻繁にしてくれたのに。
 私が歳をとったから?
 他の男達と同じように、女は若ければ若いほどいいと、登も思っているのだろうか。

 登は食事が済んでしばらくすると帰って行った。いや、行方をくらましていることになっているので、自宅に戻ったわけではない。どこか別の場所へ、行ってしまった。
「それじゃあ、いい子にしてるんだよ」とユキの頭を撫でて、出て行った。
 爺さんの骨ばった手が、バスローブに包まれたユキの肩に触れた。
「そろそろ寝ようか」と老人は言った。
 ユキは促されるがままに、老人が差し出したカプセルを飲み下した。
 これで朝まで何も知らすに眠っていられるのなら、むしろ歓迎するべきだと思いながら。
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