【完結】地上で溺れる探偵は

春泥

文字の大きさ
上 下
25 / 53
PART II

13 堕天使

しおりを挟む
「待ってろ、今出してやるから」
 俺はそう叫んで、ユキが豚の頭部とともにぐるぐる回り続ける大型乾燥機を停止させようと駆け寄った。
「やめて! 触らないで!」
 ガタガタ揺れながら回転するマシンの中から、ユキの厳しい声が飛んだ。
 俺は絶望的な気持で乾燥機の窓を見つめた。幸い、乾燥の残り時間は二分、えらく長く感じられるその時間を、ボクシングジムの会長が戻って来ないか表通りを監視しつつ、嬉しそうに乾燥機の中のユキに突進しようとする、全裸の上に俺のコートを羽織った老人を押しとどめなだめすかしながら待った。
 ようやく機械が停止した。ゆっくりと回転が止まり、ユキの体がくるりと最後の一回転をして、円形ドラムの底部に背中から落ちて停止した。
 ぐったりしたユキの体(ほかほかだ)を引きずり出すと、豚の頭がいくつか一緒に転げ落ちてきた。彼女を抱き抱え、肉付きのよい上気した頬をぺしぺしと叩きながら「一体、誰がこんなことを」と問うと、ユキは薄目を開けた。
「食いついて離れないから、離れさせようと思って」
 そう言うなりユキは顔を背けて、嘔吐した。
「自分で入ったのか?」
 俺は呆れてポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して渡した。さっき涙と鼻水を拭いたものだし諸々の染みがついていたが、贅沢を言っていられる状況ではないだろう。
「あの女のひとは、何」
 ユキはどうにか自分の足で立ち、口元や顔中に噴き出した汗を拭ったハンカチを差し戻してきたので片手で拒否しながら、
「そんな呑気な話をしている場合じゃない。この爺さんを家まで送らなきゃならないんだ」
 俺は爺さんの腕を掴んで、歩き出した。
「姉ちゃん、一緒に来るんだろ? なあ? 久しぶりに、頼むよ。他の子じゃ、やっぱり駄目だんだよ」
 爺さんは首を曲げてユキに懇願する。
「知り合いか?」と尋ねる俺に
「知らない」とユキはそっけなく答えたが、俺と爺さんの後をついて来る。
 コインランドリーを出て、周囲を確認し、素早く通りを横切った。車を停めたパーキングまで歩く間に、幸いボクシングジムの会長には出くわさなかった。
「爺さんが逃げないか後ろで見張っててくれ」
 爺さんを後部座席に押し込みシートベルトを装着させ、自分は運転席に乗り込みながらユキにそう伝えると、彼女は素直に反対側のドアから後部座席に乗り込んだ。
 姉ちゃん、姉ちゃんと嬉しそうに破顔しながらユキに抱きつこうとする老人の姿は、正直正視に堪えない醜悪さだった。
「爺さん、お楽しみは家に帰ってからだ。いつもそう言ってるだろう?」
 試しにそう言ってみると、老人は大人しくなった。
 車を発進させると、ユキが口を開いた。
「このお爺ちゃんがどこに住んでるか、知ってるの?」
 バックミラー越しに見える彼女は、爺さんとは反対方向を向き、窓の景色を眺めている。
「ああ。お前が素っ裸でサンドバッグの中から出てきた時に着せた服、あれな、この爺さんから拝借したんだ。そのシャツの裏にマジックで連絡先が書いてあった。俺は記憶力がよくってね。ポノレカ鷹羽だ。鷹羽ってことは、ここからそう遠くないよな。俺はそこに行くのは初めてなんだ。道案内をしてもらえると助かる」
 ユキは返事をせず押し黙っていた。まあいい。そういえば、あの服はどこへやったんだっけ、と考えていると、ユキがぽつりと言った。
「行っちゃだめ」
「ああ?」
「あんなところに、健全なおじさんは行っちゃだめ」
「馬鹿にするなよ。浮気調査が専門だってことはな、人間のありとあらゆる恥部を目撃することになるんだ。血が流れるのも珍しくない。乱痴気騒ぎや修羅場には慣れてる」
 ユキは暗い顔で窓の外を眺めている。俺は溜息をついた。
「なあ、お前は別について来なくていいんだ。お前みたいな子供がサンドバッグに詰め込まれたり、豚の頭に食い殺されそうになったりするようなヤバい世界に、お前が居る必要はない。俺は依頼人から金をもらっているから仕方なく動いているだけだ。お前がさっき言ってた『あの女のひと』だ。あの女がどんな事情でこんな世界にかかわるようになったのか、俺は知らないし、知りたいとも思わない。お互い大人だからな。だか、お前はまだ十年ちょっとしか生きていないガキンチョだ。どこでもいい。帰れるところがあるうちに帰るんだ。あの冥途カフェの店長の家でもいい。今居る糞みたいな世界より少しでもマシなら、そっちに戻れ」
 喋りながら俺は、涙を流していた。ユキも、爺さんまでもが鼻をすすりあげ、泣いていた。
「糞っ」
 俺は毒づいた。とめどなく涙が溢れてくる。
「薬局に寄って行こう。目薬と、水がほしい」と言いながら、俺は四つの窓を全開にした。
 ペッパースプレーの残滓の付着したピストルを上着の内ポケットに入れているだけでこのざまだ。さりとて、残弾は二発、俺の唯一の武器だ。捨てるわけにもいかない。
 俺は夜間も営業している薬局を求め、車を走らせた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

The Last Night

泉 沙羅
ホラー
モントリオールの夜に生きる孤独な少女と、美しい吸血鬼の物語。 15歳の少女・サマンサは、家庭にも学校にも居場所を持てず、ただひとり孤独を抱えて生きていた。 そんな彼女が出会ったのは、金髪碧眼の美少年・ネル。 彼はどこか時代錯誤な振る舞いをしながらも、サマンサに優しく接し、二人は次第に心を通わせていく。 交換日記を交わしながら、ネルはサマンサの苦しみを知り、サマンサはネルの秘密に気づいていく。 しかし、ネルには決して覆せない宿命があった。 吸血鬼は、恋をすると、その者の血でしか生きられなくなる――。 この恋は、救いか、それとも破滅か。 美しくも切ない、吸血鬼と少女のラブストーリー。 ※以前"Let Me In"として公開した作品を大幅リニューアルしたものです。 ※「吸血鬼は恋をするとその者の血液でしか生きられなくなる」という設定はX(旧Twitter)アカウント、「創作のネタ提供(雑学多め)さん@sousakubott」からお借りしました。 ※AI(chatgpt)アシストあり

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

兄になった姉

廣瀬純一
大衆娯楽
催眠術で自分の事を男だと思っている姉の話

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...