【完結】地上で溺れる探偵は

春泥

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PART II

01 依頼人

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 事務所のソファの寝心地は最悪とまではいわないが、相当悪かった。ゴミ捨て場で発見した時は、なぜこんな上物、一見どこも破れたり汚れたりしていない代物が捨てられているのか我が目を疑ったが、苦労して事務所まで運んできて実際に使ってみると、その理由がなんとなくわかった。色が、なんとも形容し難いその黒ずんで赤みがかった中にオレンジや緑やブルーが混ざっていという病的に繊細な印象主義者の筆を思わせるその色使いが、どうにも落ちつけない不穏な気持ちにさせるのだ。座り心地は悪くない。やはり高級品だ。しかし、寝心地は。
 俺は呻き声と共に固まった四肢を伸ばし、上体を起こした。二日酔いとは違う鈍い痛みがこめかみの辺りに疼いていた。頬や額に真新しい擦り傷と、靴跡のように見えなくもない跡が残されていたし、他にも少々古い傷が多数顔に残っているのを鏡で確認し、顔をしかめた。

 俺はこんなハードボイルドの世界に生きる探偵ではないはずだ。

 狭い給湯室で顔を洗い、冷蔵庫を開けてみた。ほぼ空っぽの中に残っていたオレンジジュースの紙パックから喉を鳴らして直に飲んだ。純喫茶歩留果のモーニング・サービスが頭に浮かんだが、いやあんなには食えないと即座に否定した。

 意識が戻ると同時に消え去ったと思った夢の残滓が唐突に甦った。

 ユミだかルミだかわからない女に俺は覆い被さっている。二人とも裸だ。俺は暴力的かつ機械的に動いており、女は歓喜の声を上げているのだが、冷静な脳の一部で、こんな独りよがりの行為で女が喜ぶわけがないと考えていると、いつの間にか上下が逆になり、俺の上に乗っかっているのはユキだった。俺は叫び声を上げ、その衝撃で目が

 遠慮がちなノックの音。

 デスクの正面に位置するドアのすりガラスに――裏向きのサカイ探偵事務所の文字の隙間から見える――人影があった。女だ。そういえば今日だったかと思い出しながら
「入れよ」と声をかけると、一呼吸おいてドアが勢いよく開いた。
 ユミは――いやルミか――はカツカツとハイヒールの音を響かせて俺の目の前まで来た。
「一体どうなっているの」
 不安と怒りの入り混じった表情の彼女に、俺は依頼人にそうするようにソファに座るよう勧めたが、ユミだかルミだかは無視した。
「それを今から報告しようっていうんだ。あんたはそれを聞きにきたんだろう」
 俺は自分のデスクの椅子に座って、両肘を机について顔の前で指先を合わせた。
「それじゃあ、見つけたっていうの」
 ユミだかルミだかはデスクの前に立って俺を見下ろす。
 俺は口ごもった。
 
 俺の情婦ユミが、ルミと名乗って俺に捜索を依頼してきた男は、ルミが提供した写真を見る限り俺で、ルミは俺の住む雑居ビルXXX(トリプルエックス)の部屋を調査するように俺に指示した。一体何の冗談かと思いつつ、のこのこと出かけて行った俺が俺の部屋四〇四号室で見つけたのは、俺にしか見えない刺殺死体だった。
 野次馬に紛れてXXXの大家が警察にしょっ引かれるところを目撃したものの、その後のことは不明だった。俺が依頼されたのは男の行方を捜すことだから、「死んでいました」と報告したらそれで任務完了と言えなくもない。
 しかし、四〇四号室に転がっていた死体は、胸にナイフが突き刺さっており、明らかに他殺だった。だがそれも、正直に伝えるしかあるまい。俺がそんなことを考えていると、女はハンドバッグの中からぶ厚い封筒を取り出して、デスクの上に叩きつけた。デスクの端には、前回の訪問時に女が人差し指で×を三つ書いた跡がまだ残っていた。

「報酬が足りないのね。ここに百万あるわ。何としても捜してほしいのよ」
 ルミは切実な顔で言う。
「見つかったところで、生きていないかもしれないぞ」
 俺は依頼人の様子を観察しながらそう言った。ルミはびくっと体を震わせたが「そんなことは、覚悟の上よ」と手に持っていた新聞紙をデスクの封筒の上に放り出した。

 それは昨日の日付の新聞だった。開いてみると、小さな記事に雑居ビルXXXの一室から住人が行方不明となっており警察が捜索しているというニュースが載っていた。

「警察に任せておけば、追加費用はかからないんだぜ」
「やくざ者が一人行方不明になったぐらいで、警察が本気で捜すと思うの」

 やくざ者と言われ、俺は少なからず傷ついた。しがない浮気調査が専門とはいえ、俺はゆすりたかりとは縁のないクリーンな貧乏探偵なのだ。

「だけど、床に血痕が残ってたって書いてあるぜ。『何らかの事件に巻き込まれたとみられる』とさ。あんたは、なんでこの男を見つけたいんだ?」
「お金よ」とルミは険しい顔で言った。

 嘘をつけ、と俺は内心思う。何度でも言うが、しがない浮気調査が専門の探偵とはいえ、俺は女に金をせびったり巻き上げたりするような男ではない。そもそも、そんな魅力を発揮できる盛りはとうに過ぎている。俺をとっ捕まえて逆さにして振ったところで、金なんか出て来ない。依頼人ルミが初日に置いて行った必要経費五十万の残りと、今デスクの上に載っている追加の百万以外には。

「あんなしみったれた男に大金を貸したっていうのか? あんた、リッチなのか貧乏なのかどっちだい」
「金額の問題じゃないのよ」
「XXXの部屋以外に男が出入りしそうな場所はないのか」
 女は少し考えて、デスクの上の横並びのバッテン三つに更に人差し指でバツを一つ描き加えXXXXにした。
「こういう名前のビル、知ってるかしら」
「噂には聞いたことがあるが、住所は知らん。だいたい、なんと読むんだ、これは」
「エンジェル」
「はあ?」

 女は俺が渡したメモ用紙に雑居ビルXXXXエンジェルの住所を書き記すると、とにかく一刻も早く彼の居所を掴んでほしいと言い残し、事務所を出て行った。
 俺はデスクの一番下の引き出しからウイスキーの瓶を取り出し、ボトルの底に数センチ残る琥珀色の液体を一気に飲み干したが、酒の味はしなかった。空き瓶をゴミ箱に放り込み、メモ用紙の住所を見つめた。

 何がエンジェルだ。

 なぜXXXXでエンジェルなのか尋ねなかったのは、訊くのが腹立たしかったのと、それが本件に関係があるとは思えなかったからだ。少し強めの地震であっけなく崩壊しそうなしょぼいビルディングの癖に、名前はエンジェルときたもんだ。
 男は時々そこで仕事をしていたようだ、と女は言った。俺は気持ちが暗くなるのを隠し、一体何の仕事かと尋ねた。それはわからない。人には言えないようなことなんでしょうよ、と女は冷たく吐き捨てた。
 一体、君は男を愛しているのか憎んでいるのか、どっちなんだろうな。俺はその質問も胸の内に留めておいた。そんなことは、知りたくなかった。
 気を取り直してコートを着込みポケットに手を突っ込んだ俺は、指先に触れた小さい金属の感触で、それが何だか思い出した。

 これはあんたのものか、と訊くべきだった。

 しかし女が事務所を出ていってしばらく経つ。次に会った時は忘れずに聞くことにしようと思いながら、事務所のドアに鍵をかけ、ノブからぶら下がっている『CLOSED』の札を眺めて苦笑した。もうずっと、まともに商売などしていないのだ。

 俺はまっすぐビルのすぐ近くに停めてある車に向かった。XXXXは、歩いていくには少々距離があった。
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