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PART I
03 容疑者
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頬に傷のある男なんて今時ベタ過ぎないか、と呑気に眺めていたのがよくなかった。俺の視線を感じたかのようにこちらを向いた男は、目が合うと踵を返して走り出した。逃げられれば追いかけたくなるのが人情だ。俺は頬に傷のある男の後を追った。
長年の不摂生が祟って、俺と男の距離はどんどん広がっていった。この辺は細い路地が無数に走り入り組んでいる上に、繁華街だ。夜にならないと開店しない類の店もぼちぼち営業を始めている。そういう店の一つにでも紛れ込まれたら、追跡のしようがない。
幸いなことに、相手の男の方も体力面においては俺と大差ないようで、俺が呼吸困難に陥り片腹を押さえ足を止めたのとほぼ同時に向こうも足を止め、こちらを振り返った。
「なんだ、あんたは」
男が苦しい息の下で俺を指さしながら言った。そして男は、目を細めながら俺に近づいてきた。
「サカイさん、サカイさんだろ? 俺だよ。ノボル」
その名前は俺にとって何の意味もなさなかった。俺は身構えて上着の内ポケットに手を入れたまま、男の顔を凝視した。
男は俺が警戒を解かない様を見て立ち止まると、両手を広げた。
「酷いなあ。同じ施設にいたのに。俺、そんなに変わったかな」
俺の頭の中でかちりと音がした。
「わかるわけないだろう。お前はまだ八つかそこらで、髪はもっとふさふさしていた」
それを聞いてノボルはにやっと笑った。笑い顔には、子供の頃の面影が見て取れた。
「それはお互い様だよ、サカイさん」
俺達はすぐ近くの飲み屋に入った。ノボルと酒を飲むのは初めてだった。飲酒が合法的に許される年齢になるはるか昔に別れたきりだったからだ。カウンターだけの細長い店内の客は俺達だけだった。壁に貼り出された茶色く変色した紙に手書きされた酒もつまみの値段も信じられないほど安い、そういう類の店だ。くたびれた感じの厚化粧のママは、瓶ビールと枝豆を俺達の前に置くと、カウンターの奥に設置されたテレビを見始めた。
「元気そうだな」
俺は全く逆のことを考えながらそう言った。ノボルは確か金持ちの夫婦に気に入られて施設をいち抜けしたはずだった。その割に現在の風貌は、かなりみすぼらしい感じがしたが、真の金持ちはそれをひけらかさないと聞いたことがある。俺はノボルが幸せな第二の人生を送っていると信じたかった。
「今は何をやってるんだ?」
「何も。体を壊しちゃって。休業中ですよ」
ノボルは穏やかな笑みを浮かべ、そう言った。俺が更なる質問を繰り出す前に、ノボルは素早く話題を切り替えた。
「サカイさんは、何してるの? こう言っちゃなんだけど、堅気には見えないね」
「堅気の探偵だよ。浮気調査が専門の、至って真面目な探偵だ」
「探偵? すごいな。映画みたいだ」
人懐っこい笑顔を見るうちに、記憶が甦って来た。養護施設で、ノボルは俺の弟分だった。俺より二つ年下で、すぐにべそをかき、「ママ、ママ」と駄々をこねるガキ。泣いたって誰も迎えになど来ないということが、入所当時五歳ほどだったノボルにはなかなか理解できなかったらしい。ろくでもない親ならむしろいない方がマシだということも。俺は腕っぷしが強く、喧嘩では年上の子供にも負けなかった。ノボルの世話をあれこれ焼いてやるようになった理由は覚えていない。身内のない俺にとっては、本物の弟のような存在だった。
一時間ほど飲んでから、二軒目、三軒目と回り、酒には自信のある俺の足取りがおぼつかなくなったにもかかわらず、ノボルは顔がほんのり赤くなっているものの、しゃきっとしていた。
「もう一軒行こう。今日は羽振りのいい上客が来たからな」
呂律もかなり怪しくなった俺に、ノボルは言う。
「駄目ですよ、サカイさん。もう一人じゃ家に帰れないでしょう」
その冷静さに腹が立ち、
「馬鹿にするなよ。ほら、こんなにしっかりと」と俺の体を支えるノボルの腕を振り切って大股に歩きだし、電柱の前に積み上げられていた可燃ごみの袋の山に突っ込んだ。
けらけら笑いながら、ノボルはすぐ近くに自分の部屋があるからそこで休んでいけばいいと提案してきた。一人暮らしだから別に泊まってもらってもいいし、と。
俺はすっかり抵抗する気をなくして、ノボルの肩に片腕をまわし体を支えられたまま、大人しく彼の誘導に従った。
「そういえば、なんで俺を追いかけたんですか」
とノボルが何気なく聞いたので、アルコールの影響もあり、俺もつい無防備に口を滑らせてしまった。
「さっき、パトカーが停まってたビルの前にいただろう。俺はあの事件を調べているんだ。どうも、顔に傷のある男が何か知っているらしいんだが、お前、その頬の傷は一体どこでつけたんだ?」
ノボルは足を止め、俺の顔を覗き込んできた。その顔からは笑いが消えていた。俺は空いている左手でジャケットの内ポケットからピストルを取り出そうともがいたが、うまくいかなかった。
「サカイさん」
ノボルの口調は落ち着いていた。
「俺の頬には傷なんかありませんよ」
ノボルは俺をケバケバしいライトに照らし出された店の前まで連れて行って立たせると、正面に立って顔を前に突き出した。
「ほら、よく見てください」と右、左と交互に向け、更に額にかかる前髪をかきあげて見せた。
ノボルの言う通り、奴の顔には傷などなかった。無精髭の生えたくたびれた皮膚を撫でまわしてさえみたが、なかった。一体どういうことだ。俺は唸った。
「俺と会う前に、もう飲んでたんじゃないの、サカイさん」
ノボルは陽気な調子を取り戻すと、再び俺の右腕を自分の肩にまわして歩き出した。
「ここですよ」
十分ほど歩いて到着したのは、相当値が張りそうな高層マンションだったので、俺はほっと息をついた。ノボルはやはり、俺が期待した通りの人生を歩んでいるのだ。
ピカピカのホールを横切り、エレベーターで十二階まで上った。ノボルの部屋は廊下の端だった。眠気に襲われていた俺は、鍵の回る音、ドアの開く音を夢うつつで聞いていた。パッと明かりが(恐らく自動で)つき、俺は目をぱちくりさせた。
廊下の突き当りにドアの開いた部屋があった。
「まっすぐ行くとリビング。一人で歩ける?」
「ああ、大丈夫だ」
「キッチンで水を汲んで来るから」
俺は壁に手をついて体を支えながら、のろのろと進んで行った。
失業中――いや休業中ということだったが、こんな豪勢な暮らしをしているのなら、俺が驕ってやる必要はなかったなどというせこい考えが頭をよぎり、自分が嫌になった。ノボルは俺の弟だぞ。いや、弟分だったことがある、だ。今のこいつには、俺なんか必要ないし、かえって迷惑だろう。
リビングの入口に立ち、俺は感嘆の息を漏らした。正面の壁一面がガラス張りで、素晴らしい夜景の広がる豪華な部屋だった。広さといい調度品といい、俺の部屋とは比べ物にならない。これが羽振りのいい親に引き取られた孤児と、十八まで施設で過ごして追い出された孤児の違いか。
俺はふらつきながら進み、ソファに倒れ込もうとした。それはソファの陰に隠れるように横たわっていた。見覚えのある、うつぶせに倒れた男。
こんなことって、あるのか。
酒のせいだ、と俺は自分に言い聞かせた。ソファにへたり込み、強く目を閉じて、開いた。男の死体は、まだそこにあった。
長年の不摂生が祟って、俺と男の距離はどんどん広がっていった。この辺は細い路地が無数に走り入り組んでいる上に、繁華街だ。夜にならないと開店しない類の店もぼちぼち営業を始めている。そういう店の一つにでも紛れ込まれたら、追跡のしようがない。
幸いなことに、相手の男の方も体力面においては俺と大差ないようで、俺が呼吸困難に陥り片腹を押さえ足を止めたのとほぼ同時に向こうも足を止め、こちらを振り返った。
「なんだ、あんたは」
男が苦しい息の下で俺を指さしながら言った。そして男は、目を細めながら俺に近づいてきた。
「サカイさん、サカイさんだろ? 俺だよ。ノボル」
その名前は俺にとって何の意味もなさなかった。俺は身構えて上着の内ポケットに手を入れたまま、男の顔を凝視した。
男は俺が警戒を解かない様を見て立ち止まると、両手を広げた。
「酷いなあ。同じ施設にいたのに。俺、そんなに変わったかな」
俺の頭の中でかちりと音がした。
「わかるわけないだろう。お前はまだ八つかそこらで、髪はもっとふさふさしていた」
それを聞いてノボルはにやっと笑った。笑い顔には、子供の頃の面影が見て取れた。
「それはお互い様だよ、サカイさん」
俺達はすぐ近くの飲み屋に入った。ノボルと酒を飲むのは初めてだった。飲酒が合法的に許される年齢になるはるか昔に別れたきりだったからだ。カウンターだけの細長い店内の客は俺達だけだった。壁に貼り出された茶色く変色した紙に手書きされた酒もつまみの値段も信じられないほど安い、そういう類の店だ。くたびれた感じの厚化粧のママは、瓶ビールと枝豆を俺達の前に置くと、カウンターの奥に設置されたテレビを見始めた。
「元気そうだな」
俺は全く逆のことを考えながらそう言った。ノボルは確か金持ちの夫婦に気に入られて施設をいち抜けしたはずだった。その割に現在の風貌は、かなりみすぼらしい感じがしたが、真の金持ちはそれをひけらかさないと聞いたことがある。俺はノボルが幸せな第二の人生を送っていると信じたかった。
「今は何をやってるんだ?」
「何も。体を壊しちゃって。休業中ですよ」
ノボルは穏やかな笑みを浮かべ、そう言った。俺が更なる質問を繰り出す前に、ノボルは素早く話題を切り替えた。
「サカイさんは、何してるの? こう言っちゃなんだけど、堅気には見えないね」
「堅気の探偵だよ。浮気調査が専門の、至って真面目な探偵だ」
「探偵? すごいな。映画みたいだ」
人懐っこい笑顔を見るうちに、記憶が甦って来た。養護施設で、ノボルは俺の弟分だった。俺より二つ年下で、すぐにべそをかき、「ママ、ママ」と駄々をこねるガキ。泣いたって誰も迎えになど来ないということが、入所当時五歳ほどだったノボルにはなかなか理解できなかったらしい。ろくでもない親ならむしろいない方がマシだということも。俺は腕っぷしが強く、喧嘩では年上の子供にも負けなかった。ノボルの世話をあれこれ焼いてやるようになった理由は覚えていない。身内のない俺にとっては、本物の弟のような存在だった。
一時間ほど飲んでから、二軒目、三軒目と回り、酒には自信のある俺の足取りがおぼつかなくなったにもかかわらず、ノボルは顔がほんのり赤くなっているものの、しゃきっとしていた。
「もう一軒行こう。今日は羽振りのいい上客が来たからな」
呂律もかなり怪しくなった俺に、ノボルは言う。
「駄目ですよ、サカイさん。もう一人じゃ家に帰れないでしょう」
その冷静さに腹が立ち、
「馬鹿にするなよ。ほら、こんなにしっかりと」と俺の体を支えるノボルの腕を振り切って大股に歩きだし、電柱の前に積み上げられていた可燃ごみの袋の山に突っ込んだ。
けらけら笑いながら、ノボルはすぐ近くに自分の部屋があるからそこで休んでいけばいいと提案してきた。一人暮らしだから別に泊まってもらってもいいし、と。
俺はすっかり抵抗する気をなくして、ノボルの肩に片腕をまわし体を支えられたまま、大人しく彼の誘導に従った。
「そういえば、なんで俺を追いかけたんですか」
とノボルが何気なく聞いたので、アルコールの影響もあり、俺もつい無防備に口を滑らせてしまった。
「さっき、パトカーが停まってたビルの前にいただろう。俺はあの事件を調べているんだ。どうも、顔に傷のある男が何か知っているらしいんだが、お前、その頬の傷は一体どこでつけたんだ?」
ノボルは足を止め、俺の顔を覗き込んできた。その顔からは笑いが消えていた。俺は空いている左手でジャケットの内ポケットからピストルを取り出そうともがいたが、うまくいかなかった。
「サカイさん」
ノボルの口調は落ち着いていた。
「俺の頬には傷なんかありませんよ」
ノボルは俺をケバケバしいライトに照らし出された店の前まで連れて行って立たせると、正面に立って顔を前に突き出した。
「ほら、よく見てください」と右、左と交互に向け、更に額にかかる前髪をかきあげて見せた。
ノボルの言う通り、奴の顔には傷などなかった。無精髭の生えたくたびれた皮膚を撫でまわしてさえみたが、なかった。一体どういうことだ。俺は唸った。
「俺と会う前に、もう飲んでたんじゃないの、サカイさん」
ノボルは陽気な調子を取り戻すと、再び俺の右腕を自分の肩にまわして歩き出した。
「ここですよ」
十分ほど歩いて到着したのは、相当値が張りそうな高層マンションだったので、俺はほっと息をついた。ノボルはやはり、俺が期待した通りの人生を歩んでいるのだ。
ピカピカのホールを横切り、エレベーターで十二階まで上った。ノボルの部屋は廊下の端だった。眠気に襲われていた俺は、鍵の回る音、ドアの開く音を夢うつつで聞いていた。パッと明かりが(恐らく自動で)つき、俺は目をぱちくりさせた。
廊下の突き当りにドアの開いた部屋があった。
「まっすぐ行くとリビング。一人で歩ける?」
「ああ、大丈夫だ」
「キッチンで水を汲んで来るから」
俺は壁に手をついて体を支えながら、のろのろと進んで行った。
失業中――いや休業中ということだったが、こんな豪勢な暮らしをしているのなら、俺が驕ってやる必要はなかったなどというせこい考えが頭をよぎり、自分が嫌になった。ノボルは俺の弟だぞ。いや、弟分だったことがある、だ。今のこいつには、俺なんか必要ないし、かえって迷惑だろう。
リビングの入口に立ち、俺は感嘆の息を漏らした。正面の壁一面がガラス張りで、素晴らしい夜景の広がる豪華な部屋だった。広さといい調度品といい、俺の部屋とは比べ物にならない。これが羽振りのいい親に引き取られた孤児と、十八まで施設で過ごして追い出された孤児の違いか。
俺はふらつきながら進み、ソファに倒れ込もうとした。それはソファの陰に隠れるように横たわっていた。見覚えのある、うつぶせに倒れた男。
こんなことって、あるのか。
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