【完結】地上で溺れる探偵は

春泥

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PART I

02 XXX(トリプルエックス)

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 しょぼくれた雑居ビルにXXX(トリプルエックス)などという大仰な名前を付けた奴の神経を疑う。
 日が暮れかかった路地裏、飲食店は既に店を開けているが、大半はもう少し遅い時間にならないと営業を始めないタイプの店だ。

 この界隈では「バッサン」とより身の丈に合ったあだ名で呼ばれるXXXは貧相な六階建てのビルディングで、一階が駐車場、二階は会計事務所、三階はミニシアター、四階と五階は住居になっている。住居はワンフロアに五戸、合計十戸に俺と大差ない胡散臭い連中が住んでいる。アパートやマンションでは縁起が悪いと四のつく部屋番号を抜かしたりする場合もあるというのに、そもそも四階だからなのか、そのような配慮を放棄した投げやりな部屋番号配布メソッドにより割り振られた俺の部屋は四〇四号室、大当たりだ。

 俺は縁起を担ぐ方ではないし、何しろ家賃が破格の安値だったので、この雑居ビルにもう二十年も住んでいた。といっても、最近はその安い家賃をも滞納し、大家と顔を合わせ辛いために事務所の方に寝泊まりしているのだが。
 一応はまだ俺の駐車スペースであるはずの場所に見慣れない車が停まっているのは明らかに悪い兆候だ。遂に大家が俺の家財道具を売り払い、別の奴に部屋を貸したのかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、腹のなかに重いものを抱えたまま俺はエレベーターの脇にある階段を上った。

 普段エレベーターを使わないのは、探偵の心得というよりは、後ろ暗いところがあるせいだ。例えば大家と鉢合わせしてしまった場合、狭い箱の中よりは階段の方が逃げやすいというものだ。だいたい、デブが二人乗ったら満員御礼の狭い箱は、閉所恐怖症でなくとも不安を感じずにはいられない。

 四階に到達すると、四〇四は反対側の端、非常階段がある方に近い。速足で四〇四号室の前に到達した時は汗だくだった。俺はズボンのポケットから鍵の束を取り出したが、ふと思いついて、ドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。

 俺は上着の内ポケットからピストルを取り出した。といってもここは日本である。その道のプロなら一目でニセモノとわかるちゃちなオモチャだが、俺が通常対応するようなケチな連中にはこれで十分。中身は濃縮ペッパー液だ。射程距離は約三メートル、三回発射できる。相手に最大のダメージを負わせたいなら、狙うのは顔面だが、相手の体のどこかに命中させればそれなりの効果は得られるので、甘く見てはいけない。ただし屋内や近距離での使用は俺自身も少なからずダメージを受ける危険があるため、本物と同様、気楽に発砲してよいものではない。

 俺は深呼吸してから、できるだけ静かに、しかし素早くドアを引き開けた。

 ウナギの寝床状の狭苦しいワンルームである。靴を履いたままキッチンを通過し、衝立の向こう側に回り込んだ。
 とりあえず、家財道具はそのまま残されており、しばらく前に俺が出て行ったままの状態で保たれているように見えた。
 ベッド、ハンガーラックにかけっぱなしの衣類。いくつかの段ボール箱。閑散として見えるが普段からこうだ。ミニマリストを気取っているわけではないが、慢性的な金欠で無駄を排除した生活だったし、いつでも移動できるように荷物を増やさないよう心掛けていたのだ。それで結局、二十年この部屋に居ついているわけだが。
 狭い風呂場とトイレも確認し、誰も隠れていないことがわかったので、俺はピストルを元のポケットに収めた。

 誰もいないといっても、ベッドの傍らに倒れている男は勘定に入れてない。うつぶせに倒れた男は、腐臭は発していなかったが、手指が青黒く変色しており、とても生きているとは思えなかった。気は進まなかったが、念のため男の首や手首に触れてみた。案の定、温もりも脈拍も失われていた。万歳する形で投げ出された右手に何か握りしめている。

「うわあ、死んでるんですか」
 間延びした声に驚いて振り向くと、衝立の端からこのビルの大家が顔だけ覗かせていた。
「困るなあ、家賃半年分も未払いなのに」
 俺は溜息をついた。二十年の付き合いなのに、大家が気にするのは金のことだけなのだ。まあ滞納する方が悪いのだが。
「あーあ、また事故物件になっちゃった」
 大家はこちらの気持ちにはお構いなしで、そろそろと衝立の裏から出てきて、床の遺体に近づいた。
「またってどういうことだ」俺は自分の立場も忘れて尋ねた。
「この部屋の前の住人も自殺でね」
「そんなこと聞いてないぞ」
「その分家賃を安くしたよ。呪われてるのかなあ、この部屋」

 大家はうつぶせの死体をひっくり返した。警察が来るまで手を触れない方がいいと忠告する間もなかった。

「あれっ」
 大家が頓狂な声を上げたのも無理はなかった。死んだ男の胸からはナイフの柄が突き出していた。
「床が汚れてる。勘弁してよぉ、サカイさんさあ、死んでも迷惑かけるのぉ」

 俺は喉の奥で唸った。

 ナイフを抜かずにそのままにしてあったせいか、傷口からの出血は少なく、フローリングの床に流れ出た分も、大半は被害者自身のシャツに吸収されていた。

 大家の目にも俺のように映っているんだな、と俺は思った。うつぶせで顔が向こう側を向いていた時から俺にはわかっていた。服装、髪型、体形、どう見てもこれは、俺自身だった。それでも、他人の空似かもしれないと一縷の望みは抱いていたが、大家に仰向けにされたその顔をまじまじ観察した今、もはや否定のしようがなかった。

「この人、女癖が悪かったんだよねえ。それでぐさりとやられたのかなあ」
 俺はムッとして言い返した。
「後腐れはなかった。わざわざ殺したがるような女の知り合いはない」
 大家は俺の方をちらりと見て
「男の方に逆恨みされたのかもね。いい歳して見境なくやりまくるから」
「この、男の所に最近訪ねて来た者はいるかい」
「あたしはここに住んでるわけじゃないからね。そんな都合よく目撃証言なんて。でも家賃を払ってもらおうと昨日来た時は、部屋の前で派手な若い女に会ったね」
「若い女?」

 俺ははっとした。脳裏に浮かんだのは、ユミだかルミだかの顔だ。俺ならあいつを「若い」とは呼ばないが、大家のような爺さんから見れば若い部類に入るのかもしれない。
 しかし、大家は続けて言った。

「中学生ぐらいの」
「それは女じゃない。子供だ」
「サカイさんは見境がなかったから」
「俺はロリコンじゃない」
 思わず憤慨して怒鳴ってしまい、大家が目を見開いて俺の顔をまじまじと見つめた。
 まずい。俺は脇から大量の汗が流れ落ちるのを感じた。
「あんた――サカイさんのお知り合い?」
 口を開けたものの返答に困っていると、大家は
「やっぱりさあ、事故物件にしたくないからさあ、知り合いに処理してもらおうかなあ」とポケットから携帯を取り出した。
「知り合いって」
「六階の精肉店」

 俺は電話の相手と熱心に話し始めた大家に気付かれないように、じりじりと後ずさり、できるだけ静かにドアを開けた。

「うーん、新鮮ではないね。色が変わっちゃってるから。でもさあ、煮込み料理とかなら大丈夫でしょ。頼むよ。オタクが密輸入した女の子、うちで匿ってあげたことがあったじゃない。助け合いの精神よ」

 大家は電話で話しながら、死体の胸からナイフを引き抜いて床に放り投げた。死んでいるから血が噴き出すことはなかったが、俺は喉元にせりあがってくるものを必死で呑み込んだ。
 そっと玄関から抜け出す時に、狭い三和土の上に何か落ちているのを見つけ、反射的に拾い上げた。

「だったらさあ、せめて処分しやすいように解体してよ。ちょっとずつあちこちに捨てればわかんないでしょ。一生恩に着るからさあ」

 物騒な会話に眉をひそめながら、俺はドアから滑り出た。非常階段を転がるように駆け下りると、一階の駐車場に出る。俺のパーキングスペースに無断駐車していた車は姿を消していた。

 俺が駐車場を出るのとほぼ入れ替わりで、けたたましいサイレンとともにパトカーが到着した。俺は素早く野次馬に紛れ込んで、パトカーから降り立った警官二名がXXXの中に入っていくのを見物した。

 しばらくすると、警官二人に両腕を掴まれて大家が出てきた。

「あたしじゃない! 人相の悪い男がいた。そいつがやったんだ。いかにも女にだらしなさそうな、不景気そうな顔した男だった。きっとサカイの知り合いだ。金のもつれだよ。家賃を半年も滞納してたからね。あたしはやってないってば」

 大家は必死に抵抗していたが、パトカーの後部座席に無理やり押し込まれた。

「そうだ、その男、頬に傷があった。きっとサカイをやる時に抵抗されたんだ」

 この言葉を最後に大家の乗ったパトカーのドアは閉じられ、走り去った。その後に更にパトカーと救急車が到着した。俺は自分の遺体が運び出されるところを見たくなくて、その場を去ろうとした。
 野次馬の中に立っている男が目に止まった。横顔をこちらに向けている男の頬には、傷があった。
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